表音的假名遣は、音を基準とし、音を寫すを原則とするものであるとすれば、一種の表音記號と見てよいものである。(中略)さうして、表音記號を制定するについては、實際耳に聞える現實の音(音聲)を忠實に寫すものや、正しい音の觀念(音韻)を代表するものなど、種々の主義があり、又、ローマ字假名など旣成の文字を基礎とするものや、全然新しい符號を工夫するものなど種々の方法があるが、その中、假名に基いて國語の音韻を寫す表音記號は、その主義に於ても方法に於ても、表音的假名遣と全然合致するものである。それ故表音的假名遣はその實質に於ては一種の表音記號による國語の寫し方と見得るものであり、又それ以外にその特質は無いものである。松坂氏は「音声そのものを写すべきだ」といふかなづかひ論だけを表音主義としてゐるやうですが、橋本博士の言ふやうに、それは「實際耳に聞える現實の音(音聲)を忠實に寫すもの」に限らず、「正しい音の觀念(音韻)を代表するもの」をも含みます。しかも橋本博士は表音記號について述べてゐるので、正書法としてのかなづかひについてはなほさらのことであります。ここに讀者の注意を喚起しておきますが、博士は「正しい音の觀念(音韻)を代表するもの」をも表音符號の一つと考へてをります。すなはち、金田一、松坂、兩氏が音韻に據ると規定した「現代かなづかい」も、その原則論に關する限り、博士の眼には表音符號と映じてゐたので、表音的どころの話ではなく、そもそも「假名遣」とは認められなかつたものなのです。私が「より極端な表音化を目ざす」ものと言つたのはまだ手ぬるいはうでせう。
しかし、私が今とくに强調したいのは、表音主義、表音的といふことについての橋本博士や私の考へが正しいといふことそのことよりも、戰前においてもそれはつねにさういふふうに解釋されてきたといふ事實であります。そして原則はもちろん內容まで現行の「現代かなづかい」とさうは違はぬものを、戰前は「表音的かなづかい」と臆せずに呼んでゐたのです。決して音韻などを持ちだしはしませんでした。たとへば、今の國語審議會の前身である臨時國語調査會が大正十三年に提出した假名遣改定案においても、音韻主義者の松坂氏が不滿とする助詞「は」「へ」は現行の「現代かなづかい」そのままに過去の習慣が溫存されてをります。くどいやうですが、當時はそれを「表音的かなづかい」と呼んでゐたのです。ところで「現代かなづかい」では、戰前のそれとの細部の異同を楯に、なぜ表音的といふ言葉を使はないのか。表音主義といふ言葉が國語改良論者の間でタブーのごとくに恐れられてゐるのはなぜか。そこに彼等の二重三重のごまかしがあるのです。おそらく彼等はかならずしもそれをごまかしとは意識してゐないのでせう。私がかうして詰將棋のやうな手續でその
彼等は表音主義といふ言葉をタブーのやうに恐れる。それは橋本博士の警吿に追ひたてられたためといふこともありませうが、同時に、彼等自身、それをさういふものに仕立てあげてしまつたといふこと、しかもそのはうが好都合だといふ事實も看過できますまい。彼等みづから表音主義を敵役、憎まれ役に仕立てあげてしまつたのです。どういふふうにさうしたか。それは松坂氏の「音声そのものを写すべき」といふ言葉でも解ります。もつとあらはには廣田氏の說明に現れてをります。それには「かなを発音符号として、物理的な音声そのままを写すものではなく」とあります。ここで松坂氏の「音声そのもの」が一層嚴密に「物理的な音声そのまま」と規定されてゐる。しかし、誰が「物理的な音声そのまま」の表記を期待しませうか。どんな文字がそんなことを可能としませうか。かな文字の代りにローマ字を使つたにしても、文字はおろか記號をもつてしても、いかに嚴密な發音符號をもつてしても、それは不可能です。百パーセントの表音文字も表音記號もこの世には存在しえない。なぜ存在しえないかは、第四章、第五章でおのづと納得していただけませうが、戰後の國語改良論者は申合せて、その存在しえないものに表音主義といふ名を與へたのです。いはば、表音主義を二階へ追ひあげて
では、どうしてそんなことをしたのか。少くとも、さうすることにより、結果としてどんな利益が生じたか。それは「現代かなづかい」の內容をして矛盾に滿ちた中途半端なものにとどまらせておくことが出來るといふ利益、また今の程度の矛盾にふみとどまつてゐるかぎり、その中途半端なままでどうやら原則らしいものが造れるといふ利益であります。具體的にいふと、かうなります。現行の「現代かなづかい」にたいして、一方にはそれが充分に表音的でないと非難する急進派があり、他方、それが旣に表音的でありすぎると非難する保守派がある。この兩面からの攻擊を避けるのに、當事者たちはあらかじめ極度に頭を痛めたのに相違ありません。先に引用した金田一博士の說明の初めに、「これほどの大事を思い立つ当局の人でそんなことぐらいわからないはずが無いではないか」とある、「待つてゐました」と言はんばかりの、その得〻とした調子にも、そのことがありありと透けて見えます。かうして、急進派にたいしては、きみたちは表音主義の恐しさを知らないのだ、きみたちの考へてゐるのは表音主義なんてものではない、本當の表音主義といふのは、それ、見ろ、とここで二階を指さし、あそこへ上つたら、二度と降りては來られぬぞ、いや、梯子が無いから昇ることも出來ないものなのだとおどかす。つまり、現狀のままでいいといふことになります。また、保守派にたいしても、二階を指さし、憎むべき表音主義はあそこにゐる、われわれのは表音主義なんてものではなく、ただ音韻準據に過ぎぬとうそぶけるのです。
うまいことを考へたものだ。もちろん油斷はできません。憎まれ役といつても、それはみづからさう仕立てあげただけのことですから、裏で話はついてゐるのです。賴んでなつてもらつた憎まれ役となれば、すなはち身代り役です。古式兵法の
しかし、音韻なるものにそれだけの大役を演じおほせる力があるかどうか。本尊の「表音的かなづかい」を首尾よく迎へいれられるほど、靈驗あらたかなものかどうか。私には疑問に思はれます。まづ解せないのは、金田一博士自身、普通は「表音文字」「表音符號」と言ふべきところを、「音韻文字」「音韻符號」と書いてゐることです。これでは音韻などと耳なれぬ學術用語を用ゐても、結局は音韻=表音ではないかと合點せざるをえません。しかし、それよりも大きな問題は、「現代かなづかい」の原則として表音主義を
(福田恆存『私の國語敎室』、文春文庫、平成14年)
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