2015年5月17日日曜日

日英同盟――(2)三国干渉と英国

三国干渉と英国


日本全国民は有利な講和条件に歓喜抃舞べんぶして、万歳の声はとゞろきて山河にこだますると云ふ真つ只中へ、青天霹靂的に三国干渉の巨弾に見舞はれ、歓楽の天国から悲観の奈落へ突落された如く、暗然涙を吞む非運に沈んでしまつた。抑も日本が遼東半島を領有することは、露国に宿昔しゆくせき懐抱する南進策を封鎖するもので、到底彼の承認し得る所でない。同盟国たる仏国を誘ひ、豫て山東省に野心を持つ独逸を引入れ、三国干渉と出掛けたわけである。露国は英国も誘つたが、英国は此手に乗らなかつた。

露国が南岸に不凍港を獲得せんとするのは、ピーター帝以来の大策であつた。露国が先づ手を伸べたのは手近の土耳其トルコで、黒海よりダーダネルス海峡を経、地中海へ出づる線の領有である。ニコラス一世は土耳其に対し、其の領内の希臘教徒保護権を要求し、土耳其の拒絶するや直ちに砲火を以て向つた。英仏聯合軍は土耳其を援けて、クリミヤ半島セバストポールの要塞を抜くに及び、露国遂に屈して和を請ひ、一八五六年(安政三年)巴里パリ条約を締結して講和した。是れ有名なクリミヤ戦争である。

クリミヤ戦後土耳其は国政乱れ、耶蘇教徒が迫害を受けたので、一八七七年(明治十年)露国は土耳其国内の教徒保護を名として兵を進め開戦するに至つた。露軍は次第に土軍を圧し、アドリヤノープルを占領して、まさに首都コンスタンチノープルに迫る勢を示したので、土耳其は遂に屈服し、一八七八年(明治十一年)講和成立した。之より先、露軍のコンスタンチノープルに迫らんとするや、英国は大に驚き艦隊を黒海に入れて示威した。墺国も亦露国の南下を怖るゝものである。独逸の宰相ビスマークの調停により、伯林ベルリンで列国会議を開き、露国の土耳其から得た利益を削減してしまつた。

露国は当年の恨みを忘るゝことは出来ない。此手を其のまゝ持つて来て三国干渉を試みたのである。江戸の仇を長崎を伐つどころでない。欧洲の仇を極東で伐つたのだ。

露国は南の出口を二度とも英国の為めに抑へられた。更に東に廻つて小亜細亜のバグダッドから波斯ペルシヤ湾へ出ようとすると、此処でも英国が大手を挙げて押出さうとする。其東は印度、安南の鉄壁である。遂に大転回して極東に向はんと機会を狙つてゐる矢先、日本が遼東半島を領有するに於ては、露国積年の希望はもう絶望だ。

日本が折角取つた遼東半島を清国へ還附するのは、大陸へ伸びんとする意慾を粉砕され、戦勝の威厳を損する屈辱であるが、今我が艦隊は台湾占領の為め南遣中であり、且つ既に戦に疲れて、欧洲の三強国を向ふに廻し戦ふ気力はない。芝罘に三国艦隊が集中し、スワといはば何時でも発動する用意は整つてゐる。こゝに至つて血涙を吞んで干渉に応ずる外策なきも、一応英、米、伊諸国の後援を求めることにした。加藤駐英公使は我が政府の訓令により、英国外相を訪問して縷々苦境に立つ現状を説き、英国を動かさんとした。外相即ち曰く、
『此事件につき英国政府は一切干渉せざることに決定してゐる。日本に協力することは、是れ亦一種の干渉に外ならない。英国に取つては露、独、仏も、日本同様友国のことなれば、英国は此際彼是かれこれ酌量して、其の威厳上自己の決断と責任を以て行動すべきである。但し露、独、仏は果して何処まで其の主張を固持するか明かでないが、形勢頗る容易ならざるものあるに依り、日本は之に対して十二分の覚悟を要す』
と、英国の立場よりすれば公平な態度であらう。日本は英国の援助を得ることは出来なかつたが、英国の干渉に加はらざりしを寧ろ徳とした。三国干渉に先立ち駐支英国公使オコンナーは、露国公使の賛成を得て日本の大陸進出を阻む為め海軍威嚇政策を進言したが、英国政府は之を許さなかつた。蓋し英国は東洋の権益確守の為め、日本を利用せんと考へたのであらう。米国亦動かず、一旦伊太利は乗出さんとしたが、英米の静観せるを見て手を引き、日本は孤立無援の窮地に陥つた。

清国全権李鴻章は講和成立するや即日帰途に就き、船上から日本に向ひ赤い舌をペロリと吐き出し、皮肉な微少を面上に浮べたといふ伝説がある。真偽の程は保証の限りでないが、芝罘に於ける批准交換に先んじ、三国干渉の虎威を借り、其の延期を提言した事実がある。

日本は遼東半島還附の条件として、第三国に不割譲不租借を交渉したが、清国は之を拒絶して日本をへこました積りでゐたが、後日、露国に占領せられた。のみならず独、仏は素より、英国までが便乗して土地を租借し、尚ほ且つ鉄道敷設権、土地不割譲などの形式を以て、列国瓜分の形成を成し、其の桎梏に苦しまねばならなかつたのは、自業自得といふべきである。

柴田俊三『日英外交裏面史』(昭和16年、 秀文閣)より

2015年5月16日土曜日

日英同盟――(1)日清戦争と英国

日清戦争と英国


日英条約改正談判中であつた。日清間に於ける朝鮮問題は益々緊迫して風雲たゞならず、何時火蓋は切つて放たるゝか計り知るべからざるに至り、談判は此問題に推進せられ、俄かに活気を加へて来た。而して日清問題の本体につき、冷然と白眼を以て視てゐたのは英国と露国であつた。

日清戦争の結果若し日本が勝利を得たならば、多年南下政策を行ひ、不凍港を獲得せんとの機会を失ふであらう、是れ露国の憂ふる所である。南京条約以来孜々しゝ汲々支那に扶植した優越権に、何等かの脅威を与へらるゝであらう、是れ英国のおそれる所である。日清国交の危機を告ぐるや、露国から三回、英国から二回の干渉あり、米、仏、独からも微弱な干渉があつた。最初英国の仲裁案を持出した時、支那側の不誠意により画餅に帰し、第二回目に至つては、最早時局が切迫して、外国の仲裁を容るゝ餘地なき迄になつてゐた。何れにしても露国と英国とは、日本の勢力が大陸に拡延せんことを怖れたのは同一で、日本の進出を阻止しようと試みたのだが、共に能く最後の目的を達成することは出来なかつた。そこで英国は経済的本拠たる上海けなりとも、戦争の惨禍より免れしめんと、上海の中立案を提議して来た。陸奥外相は再三英国の仲裁案を退け、尚ほ此上にも英国の感情を害せんことを慮り同意した。所が戦時に入ると支那は中立地帯を利用して策源地としたのである。何の事はない。支那の為め不可侵の安全地帯を提供した様な結果となつたので、英国へ抗議を申込むと、中立地帯を承諾しながらと反撃し来るので、日本も断乎たる決意を示すに至つたが、其のうちに戦争は日本の有利に発展したので、英国も大に覚醒する所があつた。

宣戦布告前即ち七月二十五日朝鮮豊島沖で、日清軍艦始て砲火相見えた。我が軍艦は英国旗を掲げた運送船高陞号を撃沈したので、日英間の国際問題となつたが、清国の将兵は英国人船長の自由を拘束し、且つ日清開戦に至らば直ちに清国に帰属すと云ふ条件になつてゐたので、幸ひ無事解決したが、一時英国に於ける輿論は日本に対し非常に激烈なるものであつた。

二名の米国人が桑港サンフランシスコから英船ゲーリック号に搭乗して出帆した。此二米人は清国の軍事幇助の嫌疑者たりとの報告があつたので、十一月五日同号が横濱入港の際、我が海軍武官が臨検すると、既に彼等は其の前日仏船シドニー号に転乗して神戸に向ひ出帆してゐた。然るに此臨検が問題になり、英国公使から臨検した理由の辯明を求めて来た。日本政府は彼等は日本に敵対する行為を目的として清国に赴くもので、交戦国の権利なりと主張したが、英国公使は容易に認諾せず、尚ほ数回交渉を続けられ、結局有耶無耶のうちに立消えになつてしまつた。是れ治外法権と戦時国際法との相剋である。然るに仏船の神戸へ入港するやまた臨検を受け、一転して日仏間の問題となつたが、之も戦時国際法を破ることは出来なかつた。兎角彼等は治外法権に重きを置き、何事でも之により処理せんと云ふ錯覚に出でたのである。

英国東洋艦隊司令長官フリーマントルの率ゆる艦隊が洋上に於て我が艦隊に邂逅した時、彼はわざと轟々祝砲を放つて、清国側に我が艦隊の所在を知らしめたり、また我が伊東司令長官に書を送つて、英国の商船は我が保護の下にあるを以て、若し日本軍艦の臨検捜査ある時は、不測の変を招くことあるべしなどと、日本の交戦権に拘束を加へんと謀るなど、其の言動不穏なるを以て、我が国は英国政府に交渉すると、是はフリーマントルの誤解なりと、彼に訓戒する所あり、日清戦争の初期に於て、英人の対日感情は面白くなかつた。

戦局が進むと清国は漸々悲観に陥り、列国に愁訴して干渉を求むるのだ。英国政府は動かされたのか、十月八日駐日公使トレンチは、本国政府の訓令なりと称し、戦争終熄に関する調停案を持出したが、政府は未だ其の時期にあらずと拒絶した。

斯くて清国の敗北は愈々確実となり、首都北京のまもりも危くなつて来たので、清国は遂に屈して講和を求め、明治二十八年三月二十日我が全権伊藤博文、陸奥宗光、清国全権李鴻章との間に初会見となり、四月十七日に至り講和条約成立調印ををはつて、日清間はこゝに全く平和克復した。

元来欧米諸国は日本が欧洲流の軍事施設を模倣し得るも、文明的規律節制の下に運用し得るか否かを危ぶんでゐた。然るに日本軍隊の規律厳粛なること、戦争に関する総ての行動が敏活整備せること、衛生救護の行届けること、公法を厳守して中立国の権益を尊重すること等、欧米文明国と伍して少しも遜色なきを知るに及び、日清開戦の当初日本の態度を疑懼ぎくし、冷眼視してゐた英国も、平壌及び黄海に於て我が軍の大勝するや、漸次認識を改めて来た。倫敦ロンドン駐剳内田臨時公使の報告に曰く、『本官は英国上流社会の人々より、我が国の戦勝に対し祝辞を受けたり、当国の各新聞は大概日本の戦勝を祝し、又之に満足の意を表してゐる』と、其の論調を引用してゐる。
日本の軍功は勝者たるの賞誉を受くるに足る、吾曹ごさうは爾後日本国を以て東方一個の活勢力と認めざるを得ず、苟も英国人にあつては彼此の利害大に同じく、且つ早晩相密接すべき此新に勃興せる島国人民に対し、毫も嫉妬の心を挟むべからず。(タイムス) 
甞て英国人は日本を教導したが、今は日本は英国を教導すべき時期到来せり。(ガゼット)
由来西人は日本を支那の属国くらゐに考へ、日清戦争も内乱程度に思つてゐたのだが、こゝに至つて日本なるものゝ実体を見直したのである。

柴田俊三『日英外交裏面史』(昭和16年、 秀文閣)より

拳匪の乱と北京議定書(石井菊次郎)

明治三十三年早春支那の山東省に義和団の騒動が起つたと聞いた時我輩は北京に在つて別に注意もしなかつたが、爾後拳匪は倍々ますます猖獗となり、而も北京を指して進軍するとの注進が続々来たから、北京外交団では各公使館から故参こさん通訳官を出して会議せしめた。其会議では満場一致で義和団の乱とは名が大に過ぎる、古来支那には祕密結社が幾つもあつて時に蠢動することはあるが固より大事を起し得るものではない、地方宣教師から悲観的報告が来るのは彼等の恐怖心に出でたので歯牙にかくるに足らないと云ふ結論に達した。外交団は此の会議の復命に接してから至極暢気に日を送つて居た。然るに加特力カトリックの牧師から仏国公使館に到達した内報に依ると事態はどうも重大性を帯ぶるの観ありて牧師の恐怖心より出でたる想像としては餘りに実情を穿つて居つたから、今度は公使会議が開かれた。其所で仏国公使ピシヨン氏だけはひとり悲観説を述べたが他の公使はさきの通訳官会議の報告が先入主となつて居るため相変らず重きを置かなかつた。斯くていよいよ事態の重大さを正解した時は、拳匪が業已すでに山東省境を越えて直隷に深く侵入し、其一部は北京の直近まで進むだ頃であつた。支那に長居したものは自然支那化せられて支那の事は却つて分らなくなると謂ふが支那通の訳官等はまさに其新証拠を提供したのであつた。手後れの外交団は今更に狼狽して太沽タークー碇泊の軍艦から陸戦隊を招致する事に決したが、各国軍艦は何れも千トン足らずの警備艦の事とて多数の陸戦隊を送ることあたはず、日英米露独仏墺伊八個国の士官下士以下合せて四百二十名に過ぎなかつた。北京に於ける外交団及在留外国人を数万に上る拳匪の重囲より救ひ出すはかゝる貧弱なる陸戦隊の企及し能はざること勿論であるから、列国は別に救援軍を急派することとなり、就中なかんづく我国は地理上の関係から逸早く有力なる軍隊を派遣した。北京籠城者をさに陥落せんとする間際に救助し得たのは主として我第五師団の活躍に帰すべきであつた。

斯くて聯合軍は在北京外交団及在留外国人救援の目的を首尾よく達したので、舞台は再び外交に戻つた。第一に起つた問題は支那政府の責任であつたが、それには異論がなかつた。北支那に在留したる外国人を攻撃しあまつさへ各国公使館を包囲していはゆる洋鬼を屠らんとしたのは単り義和団迷信の乱民ばかりでなく、董福祥の正兵は公然之に加はり、端郡王までが西太后を擁して采配を振つた証拠は歴然争ふべくもなかつた。然ればこそ西太后は朝廷を率いて西安に蒙塵した訳であれ。次の問題は清国政府に強要すべき各国政府及居留民の賠償であつた。これ亦列国の権利と支那の義務とは論点とはならずして問題は賠償金額であつた。茲に至つて会議は暫く停頓状態に陥つた。列国代表は相互に他の顔を見合はして誰も口を開くものはなかつた。政府の賠償として救援軍派遣の軍費実額、被害在留民の賠償としては直接損害に限るとの原則は立所に決定せられたるものの政府の軍費実額と云ひ、個人の直接損害と云ひ之を検査し取捨するものは各自国政府のみであるから、中に過分の申出を敢てする国があつても誰とて制限する者はなかつた。対手は抵抗力を失ひたる支那政府のみで、つまり賠償金額の餘りに不当なる膨脹を押へるものとては列国政府及代表の良心だけであつた。而も此時代の列国会議の代表に良心の発揮を望むは六ヶ敷むつかしき所であつた。

此時進むで良心を発揮したものは日本代表小村寿太郎氏であつた。彼は本国政府より受領せる調書に依つて日本の要求額を五千万円と切り出した。是より米英仏露独以下の諸国相次で掌中の骨牌こつぱいを示した。斯くて列国の対清要求額は
露国(日本貨換算)一八〇、〇〇〇、〇〇〇
独逸   〃 一三〇、〇〇〇、〇〇〇
仏国   〃 一〇〇、〇〇〇、〇〇〇
英国   〃 七〇、〇〇〇、〇〇〇
日本   〃 五〇、〇〇〇、〇〇〇
米国   〃 四五、〇〇〇、〇〇〇
伊国   〃 三八、〇〇〇、〇〇〇
白国   〃 一二、〇〇〇、〇〇〇
以下墺、蘭、西、瑞典スウェーデンポルトガル等合せて四億五千万両即ち六億三千万餘円の額に上つた。前述の始末だから此額は其まま清国政府に提出し、先方の承諾を取り付けたのであつた。転じて救援聯合軍の組織如何と言ふに我輩の記憶に依れば
日本一〇、〇〇〇五十四門
露国四、〇〇〇十六門
英国三、〇〇〇十二門
米国二、〇〇〇六門
仏国八〇〇十二門
独国二〇〇
墺国
伊国一〇〇
総計二万一百一百門
以上列国の対清賠償要求額と列国が提供したる救援軍隊の人数砲数とを対照すれば其所に顕著なる矛盾が見える。日本に次で比較的穏当に見ゆるは米英両国の要求額である。英米両国は其軍人に対する実際支給額が他国に比し遥かに多額なるがためヴェルサイユ条約に因る萊因ライン占領軍費に於ても独逸は少数の英米軍隊に対し、多数の仏白軍よりも却つて多額の支払を為さしめられたる位である。其事情を斟酌すれば上掲英米両国の要求額は無謀に多過ぎるとは思はれない。其他は日本に比し不当に多額であつたことは一見して分る。露国は満洲各要所に多数の軍隊を配置したが救援隊としては我国の半数にも達しない。而して満洲の配兵は露国の野心に基く行動に属すべきものだから其軍費は清国に要求すべからざるは勿論であつた。独逸は北京救援の目的が達せられたる後に至り無用の軍隊にヴァルデルズィイ元帥までも附けて送派し、北京着後餘りの無事に苦むで保定遠征と称して軍隊の遠足旅行を敢てしたる外、真に正当防衛の行動としては籠城前に送つた三四十名の陸戦隊と青島よりの追送を併せて二百人であつた。仏国は印度支那より千人足らずの安南兵を派遣したに過ぎない。斯る連中が救援事業の五割以上を負担したる日本に数倍するの賠償金額を受くることとなりたる結果は獅子の分け前と謂はん奇怪千万であつた。要するに無抵抗に陥つた支那を相手とする此賠償要求問題に於て支那に対し十二分の好意を表し謙抑心を発揮したのは日本一国で、米英之にぎ、其他は全然論外であつた。但し我輩は一概に如上他国要求額を不当過多と謂ふのではない。支那政府を懲罰する意味に於てならば其の要求額は不当に非ずとも謂へよう。而も北京公使会議が対清国政府要求を支那の支払能力を斟酌して軍費及損害の実際額に止むべきことを自制的に決定したる以上他国の要求は支那に対しては兎も角右決定に対して過多なりと謂はざるを得ない。

はじめ帝国政府は我要求最少限を五千万円と概算して之を小村公使の参考までに電示したのであつたが、北京会議は前述の如く誰とて口を開く者がなかつたから、小村公使は其裁量を以て正義及対支友情の模範を示したのであつた。然るに事は志と違ひ、他国の代表中米英の外には我誠実を感賞するものもなくて遠慮なく膨大なる巨額を申出でた。支那人は乞ふくわいより始めよと謂ふが斯る場合に列強に先んじて口を開くは考へ物である。日本には「物言へば唇寒し秋の風」といふ誡がある、外交には此誡の方が大事である様だ。欧洲列強は弱国に対する強要事件に幾度か経験をつて居たからんな始末となつたのである。若し一九一九年の仏蘭西が明治三十三年の日本であつたとすれば彼はヴェルサイユ条約に於けるが如くに対支要求全額の五割強即ち四億円位を申立てたでもあらう。何と言つても列国は古狸で単り当時の日本は未だ経験に乏かつた。政治問題に関し列国会議に加はつたのは之が初回であつた。此初舞台に於て日本の代表が五千万円の実費賠償を受けた上に我外交の正義一点張を発揮したことは満足と視られないこともない。

石井菊次郎『外交餘録』(昭和5年、岩波書店)より

北清事変――(3)媾和と列国の態度

其三 媾和と列国の態度


北京の陥落後列国軍は討匪して治安の恢復を図ると共に政情の安定を待つたが、十月十一日漸く李鴻章の北京帰着を待ちて媾和の交渉に入つた。十月十五日始めて正式の交渉が開かれたが、元兇の処分問題、償金問題等で交渉容易に進展せず、加ふるにこの間露清密約問題の起るあり、その交渉は遂にその年中に纏らず、翌三十四年に持ち越された。

『北淸事變寫眞帖』(第五師團司令部、小川一眞、明治35年)より

抑〻露国の企図する所は満洲の完全占領であり、日清戦役の後我が国に干渉して遼東半島を還附せしめて程なく、明治三十一年三月、旅順、大連を租借し、且つこの二港に通ずる鉄道敷設の権利を獲得して鋭意その野望達成に努めつつあつた時、本事変勃発し、好機逸すべからずとして本事変への出兵を名として全満洲に兵備し、殊に三十三年七月、北清の騒乱が満洲にも波及し、露国の経営する鉄道の一部破壊せらるるや、これを機として数十万の大兵を満洲に入れ、その要地を占領せしめ、又媾和交渉に移つては上海より北上の途にある李鴻章を天津に抑留して交渉開始の遷延を策し、この間清朝を威嚇して満洲独占の密約、即ち露清密約に調印を迫るの行為に出たことが判り我が国を始め列国の酷しい抗議を受け、その密約も有耶無耶とはなつたが、かかる露国の陰謀で、交渉は遷延に遷延を重ね、漸く明治三十四年九月七日に至り、年餘に亘るこの事変も、清国と列国との間に、要旨次の如き媾和条約に調印を了した。

『北淸事變寫眞帖』(第五師團司令部、小川一眞、明治35年)より

条約の要旨は、清国に兵器弾薬の輸入を禁止すること。清国は償金として四億五千万海関両を支払ふこと。各国公使館所在の区域を各国公使館警察権の下に置き、尚各国公使館護衛の為め常に護衛兵を置くの権を認むること。太沽並びに北京、太沽間の諸砲台を廃棄すること。各国の黄村、郎房、楊村、天津、軍糧城、塘沽、蘆台、唐山、濼州、昌黎、秦皇島及び山海関を占領する権利を認むる事。列国は九月二十二日を以て占領地及び公使館に置くべきものの外全部の軍隊を直隷省より撤退すべきこと。といふのであつた。

『北淸事變寫眞帖』(第五師團司令部、小川一眞、明治35年)より


右条約に基き我が国は明治三十四年五月下旬、歩兵四大隊を基幹とする混成部隊を以て北清駐屯軍を編成して出征軍と交代せしめたので、出征軍は六月下旬以降逐次撤兵帰還した。

かくして亜欧米の三洲八個国の陸海軍が、確乎たる統一した指揮もなく、然も外交関係の機微複雑を極めた作戦を遂行して明治三十三年事変は終了したが、本作戦に於て我が国軍がその真価を列強軍の眼前に展開して日清戦役に於ける名声を挙証し、以て帝国の国際的地位を向上すると共に、軍紀厳正、態度公明、秋毫も犯す所なく、常に能く列国の野望を抑制して東亜平和の確立と、支那の領土保全に努め、皇軍雄飛の姿を列国軍の前に顕現したのである。

『北淸事變寫眞帖』(第五師團司令部、小川一眞、明治35年)より

本事変を通じて見る列国の態度は、専ら政策上の打算に依つて動き、其の出兵目的の真意には支那に対する独自の野望を持して居り、従つてその行動も亦区々であり、殊に露国に至つては最も露骨に然も大胆にもその爪牙を露はし、露清密約の一件によつてもその大体を窺知し得らるるのである。独逸も亦膠州湾占領以来、支那侵略の歩を進めんとする機をうかがつてゐた際とて、北京救援成つた後、ワルデルゼー元帥は東亜軍司令部と約一旅団を率ゐて来り、列国会議の結果、列国軍総指揮官と決定したが、元帥自身は北京に落着かず、地方土匪の討伐を名として北部支那の各地に独軍を派し、以て政略出兵の目的遂行に遺憾なきを期し、仏国も亦機あらば広東、広西の利権拡大を冀ひ、比較的英、米、伊、墺はその野心を露骨ならしめず、事変の速かなる落着を希望してゐたやうであつた。

『北淸事變寫眞帖』(第五師團司令部、小川一眞、明治35年)より


『陸軍五十年史』(桑木崇明、昭和18年、鱒書房)より


ところで、下の写真も北清事変で派遣された日本軍を撮影したものです。

さて、これは何をしてゐる場面でせう?


さうです、日本軍工兵が現地で道路を修築してゐるのです。

よく見ると、道端には現地人も一緒に何やら作業をしてをり、側溝も綺麗に造られつゝあります。

かういふ光景、最近も何処かで見たことがあるやうな……。

PKO(平和維持活動)なんてごく現代的な事のやうですが、実は我が日本軍は昔からやつて来たんですね。

これが115年経つても変らぬ“我が軍”の姿なのです。

南スーダンPKO派遣自衛隊
(防衛省HPより拝借)

北清事変――(2)列国陸軍の出動

其二 列国陸軍の出動


一、天津作戦

述べ来つた如く、六月中旬に於て、天津城外に清国軍は、聶士成の約八千、馬玉崑の約六千、羅栄光の約三千、何永盛の約千六百、計一万八千六百の官兵と、団匪約三万を集めてこれを包囲し、然も清国政府は六月二十一日宣戦的な布告を出し、義和団を賞揚し、四億の民すべて外敵と干戈を交へて仇陣を陥れ、との上諭を発するあり、清国側の軍おほいに気勢を添へて、愈〻その攻撃は猛烈となり、列国軍は辛うじて僅少なる兵力を擁して、専ら防守に努むるの状態であつた。

かかる情勢に当面して、我が国は六月十五日の閣議に於て混成約一聯隊の臨時派遣隊を編成して派遣するに決し、第五、第十一師団の各一部を以て編成した部隊を、福島安正少将の指揮を以て現地に急派した。

これより先き六月十日天津を発した第二次分遣隊が、北京に赴く途中、三万に餘る匪徒に包囲され進退両難に陥つた時、それとは知らず我が日本公使館員杉山書記生が、分遣隊出迎の為め、十一日公使館を出た、然るに途中清国官兵董福祥部下の騎兵に捕へられて殺され、更に同二十日独逸公使ケットレル男爵が、清国政府と単独交渉に赴いた途中、同じく董部下の官兵の為に殺され、十五日以後は北京、天津間の通信は杜絶し、墺、米、伊、蘭諸国の公使館は焼払はれ、露国公使館も亦その一部は焼かれ、二十日以後、端郡王、荘親王、董福祥等の王族を始め諸将自ら団匪と合して各国の公使館を攻撃し、一方聶、馬等の諸将をして天津攻略、太沽奪還に向はしめたのであつた。

『北淸事變寫眞帖』柴田常吉/深谷駒吉、吉澤商店、明治34年)より

六月十八日我が国は、臨時派遣隊全部を急遽現地に向はしめ、その第一次輸送部隊は六月二十三日、第二次のものは同二十五日太沽に到着し、七月四日その上陸を完了した。

この派遣隊の出動後も、現地の情勢は悪化の一路を辿るのみであつたので、更にその兵力増派の要を認め、列国よりの要請、殊に英国は、南清方面の防護に兵力を要する関係上、地理的関係よりも北清方面に我が国より相当の兵力増派を要望し、財政的援助もなさんとの申入れがあつたが、その前既に六月二十六日、第五師団の動員を命じ、七月七日その出動は命ぜられた。(長山口素臣中将)同師団は九日以降逐次宇品を出帆して七月十四日より八月十六日の間に太沽に到着した。

『北淸事變寫眞帖』柴田常吉/深谷駒吉、吉澤商店、明治34年)より

敵の重囲にある天津居留地は、六月十七日、二十九日の両度清国軍の攻撃を受けた。然るにこの時には二十三日、英、独、露の陸軍約二千二百が到着し、二十六日には第二次派遣隊の天津に復帰するあり、その兵員総数約七千三百に達し、更に二十九日我が臨時派遣隊の一部約九百の到着するあつて、清国軍の攻撃を撃退するを得たが、七月四日頃より更に第二回の猛攻を蒙つた。然し列国軍は単に専守防禦に専念し敢て攻勢的な企図には出でなかつた。

この頃天津に集まつた列国陸軍は、日本の約三千八百、英国の約二千二百、米国の約千六百、露国の約六千九百、仏国の約千九百、独逸の約五百、墺、伊の約二百五十、総計一万七千餘であつた。茲に於て我が福島少将は、徒らに専守防禦をなすの不利を説き、攻勢的作戦に出づべき旨を述べ、列国軍の同意を得て、七月十三日より天津城攻撃を実施し、白河右岸より日、英、米、仏、伊の軍を以て天津城に向ふ事とし、露、独、墺軍は白河左岸より天津東北地区を攻撃し、翌十四日払暁、我が軍の天津城南門の爆破が動機となり列国軍も亦城内に進み、午前九時天津城は列国軍の占領する所となつた。

この戦闘は本事変中に於ける最大なるものであつたと共に我が国軍の行動は列強軍の斉しく賞讃措かざる所であつた。

『北淸事變寫眞帖』柴田常吉/深谷駒吉、吉澤商店、明治34年)より

二、北京の救援

天津城の攻略なるや、その敗報を得た清国政府に於ては、温和派が再びその勢力を恢復し、七月上旬特に猛烈を極めた公使館攻撃も十七日以来は一時休戦の状態となり、爾後主として外交期に入つた。

『北淸事變寫眞帖』(第五師團司令部、小川一眞、明治35年)より

一方天津に於ける敗兵は、近く北倉附近に陣地を占領し、直隷総督裕禄之、これを指揮してその兵力二万に達し、天津西南に蟠居する団匪亦これに呼応し、加之のみならず北京の状勢はその救援一日の遅延を許さぬ情況にあつた。

即ち北京に在つては、六月十三日清国兵及び団匪の北京包囲よりこのかた、七月十七日の休戦状態に入る迄、全く孤立無援、漸く第一次派遣隊四百四十二名と、各国義勇兵とに依つて辛うじて守備して居り、多大の苦難を嘗めて救援の一日もはやからんをねがひ、弾薬は缺乏し、食糧又尽き、遂に馬を屠つて食するといふ惨憺たる情況であつた。七月十八日に福島少将の密使が日本公使館に到り、漸く天津の落城を知り、列国軍は程なく北京救援に向ふ旨を承知し、唯その日の速かに来らんことを鶴首してゐた。

情況此の如きにも拘はらず、最も大なる兵力を有する露軍は、敢て北京救援の前進を喜ばず、寧ろ却つて事変の拡大を望むの傾向があつた。茲に於て我が第五師団長山口中将は師団主力の逐次天津に到着しつつあるを以て、列国軍指揮官会議を慫慂しようようして、八月三日これを天津に開催し、急速前進を開始して北京を救援すべきを主張し、列国軍をして遂にこれを決せしめた。我が第五師団主力の来着により、列国軍の兵力は、日本一万三千、英国五千八百、米国四千、露国八千、仏国二千、独逸四百五十(海兵のみ)、伊国百、墺国百五十、合計三万三千五百となり、八月五日列国軍は行動を開始するに決し、日、英、米軍は白河右岸の地区より、露、仏、独、墺、伊の軍は同河左岸の地区より前進して、先づ北倉の敵を攻撃してこれを撃破し、六日楊村、七日南蔡村、十二日通州、十三日北京城外近くに達し、十四日を期して列国軍は北京城に拠る敵を攻撃し、同日午後始めて公使館と連絡するを得、列国公使館は籠城以来七十日にして重囲を脱するを得、北京の救援はここになつたのである。

『北淸事變寫眞帖』(第五師團司令部、小川一眞、明治35年)より

清国皇帝は十五日倉皇さうくわうとして北京を脱し、陝西省の西安府に蒙塵した。

北京占領後列国軍は、北京の秩序恢復、並に附近の敗兵や団匪の討伐に従事したが、その後増派さるる列国軍の新鋭を加ふるに従ひ、その占領地区を拡張し、九月二十日、露、独、仏、墺の軍は北塘砲台を占領し、露軍は更に蘆台をも占領した。又列国艦隊及び陸兵は十月二日山海関を占領した。

『北淸事變寫眞帖』(第五師團司令部、小川一眞、明治35年)より

次で独逸元帥ワルデルゼーが聯合軍指揮官として約一旅団の兵を以て十月十七日北京に入り、爾後直隷省各地に討伐を行ひ、敗兵及び団匪を一掃した。

『陸軍五十年史』(桑木崇明、昭和18年、鱒書房)より

2015年5月15日金曜日

北清事変――(1)義和団と北清の情勢

其一 義和団と北清の情勢


支那に古くから存在した義和団なるものは、宗教的政治的の祕密結社で、義和拳といふ拳闘のやうな術を行ふ所から、一名拳匪けんぴともいひ、団匪だんぴともいはれた。元朝以来数百年の存在で、もともと白蓮教と称したものだが、元、明時代を経て清朝となり、これ等教徒の団体が清朝覆滅の政治的陰謀を企てた事が暴露し、清朝のこの教徒に対する圧迫が酷烈であつた為め、教名を改めると共に、天理、八卦の二派に分れ、それが更に分れて多くの部門をもち、専ら山東、直隷の地に広く散在してをつたのである。

所が清朝が十九世紀の後半以来、欧洲勢力の東漸に依つてその威信を失し、国内は守旧、進歩の二派に分れてその軋轢が甚だしかつた時、日清戦争の結果殊更にその弱点を中外に暴露し、列強侵略の魔手は時を逐うて甚だしくなるや、排外思想はとみに激発し、進歩党である康有為一派が、変法自彊じきやう策を立案したが、実権は西太后一派の守旧派の壟断する所であり、加ふるに内に清廷継嗣問題で紛糾するあり、結局守旧派が政権を弄することとなつた。その結果、清廷内の大小策士はその間に策動して或は愚民を煽動し、果ては仇教滅洋を標識とする義和団と一脈相通じ、遂に排外暴動の勃発を見るに至つた。

明治三十三年四月二十七日、直隷省保定に先づ烽火を挙げた義和団は、外国の教会堂を焼き、宣教師を殺す等の暴行を敢てした。この情報を伝へ聞いた各地の団匪は、一斉に蜂起し、北京、天津は更なり直隷省一帯に亘つて暴虐を逞うした。

この情況に直面した各国公使は、排外暴動の容易ならざるを慮り、五月二十日列国公使会議を開いて、これが鎮定を清国政府に申入れた。然るに清国政府は更に要領を得ず、第二回の勧告を行ふと同時に、自衛上公使館護衛兵を、各国より招致することとした。

我が国は公使のこの請求により、即日塘沽碇泊中の軍艦愛宕より士官二名、水兵二十二名を派遣し、五月二十九日天津に到着し、当時列国兵の派遣されたる兵と合した三百四十一人を同日午後北京に派遣した。

次で六月十日、北京天津間の電信不通となつたので、その日更に列強八ヶ国の水兵約二千餘(我が国は五十二名)を第二次分遣隊とし、鉄道電信の工事材料及び工夫を伴ひ、北京公使館護衛の補充とし、英国東洋艦隊司令官セーモアー総指揮の下に天津を出発した。

先きに派遣した第一次分遣隊は、五月三十一日天津を発し、六月三日北京に着して公使館区域の防備に就いたが、第二次分遣隊は、天津を発し六月十二日郎房に達するや、北京方面より来た支那官兵及び団匪の為め、鉄道は破壊せられ、その前進を続行することが出来ず、然も補給の途は絶えて如何ともなし能はず、十八日後退して二十六日天津に帰還し、北京は茲に孤立の状態に陥つた。

この間、六月十七日午前零時半頃、太沽の砲台備砲大小百七十七門が、一斉に砲門を開いて列国艦隊を砲撃したので、列国軍艦これに応戦すること約四時間、太沽砲台をして沈黙せしむるに至つた。この攻撃に当り我が軍艦は吃水の関係上、これに参加しなかつた。一方塘沽にあつた列国の陸戦隊は、砲台占領に向ひ、列国軍合計八百五十名(我が陸戦隊三百名)が進撃に移つたが、敵前五百米の地点で列国軍は頓挫を来した。我が陸戦隊は勇躍して攻撃を敢行し一気に西北砲台を占領して列国軍を驚かしめ、次で他の三砲台も逐次占領し、交戦僅か五時間以内にて太沽砲台を完全に占領した。

『北淸事變寫眞帖』(第五師團司令部、小川一眞、明治35年)より


六月十七日早暁、太沽が列国軍に占領せられたとの報に、清国官兵は団匪と合し、十七日午後天津城外水師営砲台より各国居留地の砲撃を始めた。この時天津には露国の陸兵及び列国の海兵若干あるに過ぎずして、その兵力合して僅か三千なるに対し、これを囲む清国側は実に一万八千六百の官兵と、匪徒約三万の多数であり、情況は刻一刻と不安の度を増して来た。

『陸軍五十年史』(桑木崇明、昭和18年、鱒書房)より

『北淸事變寫眞帖』柴田常吉/深谷駒吉、吉澤商店、明治34年)より

2015年2月10日火曜日

2月11日は紀元節

ウィキペディアに拠ると、2月11日を紀元節に設定したのは、明治6年のことださうです。
そもそも神武天皇は正月朔日ついたちを以て御即位されたので、我が国が太陰暦のまゝであれば、元旦が即ち紀元節とされてゐた筈です。

ところが明治5年の太陽暦への移行決定に際して、翌6年の太陰暦正月元旦、即ち太陽暦の当年1月29日が神武天皇の御即位日と定められました。

併し当時の国民の間で、紀元節は「旧正月」を祝ふ為のものとの誤解が拡まり、神武天皇御即位の日を祝ふものであるとの理解が拡まらないのではと心配した政府が、翌6年10月に、改めて紀元前660年の御即位日の新暦に該当する日(即ち新暦2月11日)を算出して定め直したのださうです。(そのほか孝明天皇の御命日が新暦の1月30日であつたのも、1月29日が忌避された理由ださうだ)
辛酉年春正月庚辰朔、天皇橿原宮かしはらのみや即帝位あまつひつぎしろしめす是歳ことしを天皇の元年はじめのとしと為す。

太陰暦の月日と太陽暦の月日とには、規則的な対応関係はないので、神武天皇御即位の日(即ち正月元旦)が新暦の2月11日に当たる年は、上の「辛酉」と明記された干支の条件、並びに御歴代天皇の御在位記録からして、紀元前660年以外にはあり得ません。(勿論、御歴代の記録が全て正しいと前提した上でのこと)

従つて、現在「建国記念の日」と称してゐる紀元節の日附が、明治6年に定められて以来変はらず2月11日であるといふことは詰まり、我が国は建国の年を戦前・戦後とも一貫して西暦紀元前660年に置いてゐるといふ事になります。

紀元節と呼ばうが、建国記念の日と呼ばうが、それが2月11日である、といふ事実は如何にも重要なことだと思ひます。