其三 媾和と列国の態度
北京の陥落後列国軍は討匪して治安の恢復を図ると共に政情の安定を待つたが、十月十一日漸く李鴻章の北京帰着を待ちて媾和の交渉に入つた。十月十五日始めて正式の交渉が開かれたが、元兇の処分問題、償金問題等で交渉容易に進展せず、加ふるにこの間露清密約問題の起るあり、その交渉は遂にその年中に纏らず、翌三十四年に持ち越された。
『北淸事變寫眞帖』(第五師團司令部、小川一眞、明治35年)より |
抑〻露国の企図する所は満洲の完全占領であり、日清戦役の後我が国に干渉して遼東半島を還附せしめて程なく、明治三十一年三月、旅順、大連を租借し、且つこの二港に通ずる鉄道敷設の権利を獲得して鋭意その野望達成に努めつつあつた時、本事変勃発し、好機逸すべからずとして本事変への出兵を名として全満洲に兵備し、殊に三十三年七月、北清の騒乱が満洲にも波及し、露国の経営する鉄道の一部破壊せらるるや、これを機として数十万の大兵を満洲に入れ、その要地を占領せしめ、又媾和交渉に移つては上海より北上の途にある李鴻章を天津に抑留して交渉開始の遷延を策し、この間清朝を威嚇して満洲独占の密約、即ち露清密約に調印を迫るの行為に出たことが判り我が国を始め列国の酷しい抗議を受け、その密約も有耶無耶とはなつたが、かかる露国の陰謀で、交渉は遷延に遷延を重ね、漸く明治三十四年九月七日に至り、年餘に亘るこの事変も、清国と列国との間に、要旨次の如き媾和条約に調印を了した。
『北淸事變寫眞帖』(第五師團司令部、小川一眞、明治35年)より |
条約の要旨は、清国に兵器弾薬の輸入を禁止すること。清国は償金として四億五千万海関両を支払ふこと。各国公使館所在の区域を各国公使館警察権の下に置き、尚各国公使館護衛の為め常に護衛兵を置くの権を認むること。太沽並びに北京、太沽間の諸砲台を廃棄すること。各国の黄村、郎房、楊村、天津、軍糧城、塘沽、蘆台、唐山、濼州、昌黎、秦皇島及び山海関を占領する権利を認むる事。列国は九月二十二日を以て占領地及び公使館に置くべきものの外全部の軍隊を直隷省より撤退すべきこと。といふのであつた。
『北淸事變寫眞帖』(第五師團司令部、小川一眞、明治35年)より |
右条約に基き我が国は明治三十四年五月下旬、歩兵四大隊を基幹とする混成部隊を以て北清駐屯軍を編成して出征軍と交代せしめたので、出征軍は六月下旬以降逐次撤兵帰還した。
かくして亜欧米の三洲八個国の陸海軍が、確乎たる統一した指揮もなく、然も外交関係の機微複雑を極めた作戦を遂行して明治三十三年事変は終了したが、本作戦に於て我が国軍がその真価を列強軍の眼前に展開して日清戦役に於ける名声を挙証し、以て帝国の国際的地位を向上すると共に、軍紀厳正、態度公明、秋毫も犯す所なく、常に能く列国の野望を抑制して東亜平和の確立と、支那の領土保全に努め、皇軍雄飛の姿を列国軍の前に顕現したのである。
『北淸事變寫眞帖』(第五師團司令部、小川一眞、明治35年)より |
本事変を通じて見る列国の態度は、専ら政策上の打算に依つて動き、其の出兵目的の真意には支那に対する独自の野望を持して居り、従つてその行動も亦区々であり、殊に露国に至つては最も露骨に然も大胆にもその爪牙を露はし、露清密約の一件によつてもその大体を窺知し得らるるのである。独逸も亦膠州湾占領以来、支那侵略の歩を進めんとする機を
『北淸事變寫眞帖』(第五師團司令部、小川一眞、明治35年)より |
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