日英同盟の締結
日清戦争頃陸奥外務大臣は、今にして欧洲の一勢力と充分結ぶ所なければ、将来東洋の平和を保持し、我が権益を維持し難しと唱へてゐた。其の一勢力とは英国か露国の外はないが、陸奥は『英国は人の憂ひを憂へて之を援けんとするドン・キホーテではない。日英同盟論の如きは夢想である。虚栄である。画餅である』と排斥してゐたが、之に反して林次官は日英同盟論者で、其の意見を時事新報に載せ、また福沢諭吉も共鳴して社説を書いた程であつた。日清戦後伊藤、山県、井上など元老大官の多くは日露協約論者であつた。
一九〇〇年(明治三十三年)支那に於ける保守的排外思想の権化、義和団事件に於ける列国会議で、日英両国の感情は互に相融和して膠漆の如く、列国をして日英密約を思はしむる程になつてゐた。事変後露国は三国干渉により、日本に還附せしめた旅大を租借し、満洲に駐兵して攘奪の形勢を現はして来たので、日本たるもの無関心たるを得ない。臥薪嘗胆一戦を覚悟せしむるに至つた。
英国の宝庫印度に於ける一八五七年の叛乱は漸く鎮定したが、北方の白熊が爛々と目を光らして
併し極東に於ても英露両国は衝突すべき宿縁を持つてゐた。露国は満洲より朝鮮半島へかけて、着々と魔手を伸ばして来たのみならず、更に支那本土までも入道雲の如く這ひかゝつて来たのである。英国は多年の精力を傾けて
英国は
英国に於て日英同盟論のやゝ表面化したのは、一八九八年(明治三十一年)植民大臣ジョセフ・チェンバレンが、我が駐英加藤公使に打明けた時である。英国は此時南阿に戦争の危険をひかへ、露国とは素より、仏国とはスーダンのファショダ事件で
然るに一方日本には日露協約論を唱ふる者あり、こゝに対立状態を呈するに至つた。日英同盟論者は山県、桂の一派で、英国を背景とする日露戦争主義である。日露協約論者は伊藤、井上の一派で、露国の満洲における既成勢力を認め、朝鮮を保全すると云ふ協調主義である。既にして日英同盟は具体的に議熟し談判進行中、伊藤は正式委任状を携へて出発、米国を経て態と英国を敬遠し直路露都に入り、日露協約を締結せんとしたが、露国は伊藤を大に歓迎したが協約には乗つて来なかつたので、引返して
同盟条約は清、韓の独立を保全すると共に、其の権益を尊重し、同盟国と他の別国と戦争の場合は厳正中立を守り、若し交戦別国に他の一国又は数国が加はる時は、同盟国は直ちに来つて戦争に参加すると云ふ規約である。此同盟成立後二年、明治三十七年(一九〇四年)日露開戦し、其の終期三十八年(一九〇五年)八月改訂して攻守同盟となり、更に鞏固なるものとなつた。
然るに日英同盟に一抹の陰翳が漂ふに至つた。それは米国
然るに英米仲裁々判条約は、皮肉にも米国上院で否決され、改訂条約第四条仲裁々判条約の文字を無効に帰せしめてしまつた。
この日英同盟は最初露国の南侵防禦の為めであつたが、日露戦争により、東洋に於ける露国の勢力が一掃されて、露国の脅威は殆んど消滅に帰したるを以て、第二次に於て印度の保全に及んで来た。是に於て英国は欧洲に事ある時、印度の保全を日本に托し、後顧の憂ひなくして戦争に従事し得るのだ。英国は近年独逸の擡頭、海軍拡張に鑑み、他日此事あるを豫期してゐたのである。
柴田俊三『日英外交裏面史』(昭和16年、 秀文閣)より
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