2 わが聯合艦隊の準備
明治三十七年四月バルチック艦隊東洋派遣が決定し、十月十五日にはリバウ軍港を進発したとの情報は、いちはやくわが大本営にはいつた。その勢力は戦艦七隻、巡洋艦六隻、駆逐艦若干といふのであるから、これのみならば、敢て恐るるに足らない。しかし、これがもし旅順にある第一太平洋艦隊と合同することになると敵兵力はわれに倍する優勢となる。要するに、バルチック艦隊の来航が早いか、旅順艦隊全滅が早いかといふことが重大問題であつた。幸ひにして第三軍の猛攻により、三十八年一月、敵遠征艦隊の来航に先立つて旅順口が陥落したので、わが聯合艦隊の作戦は一段落を告げた。そこで諸艦は損傷箇所を急遽修理し、完成次第逐次朝鮮海峡方面に集合し、艦隊運動、艦砲射撃の猛訓練を励行した。ことに艦砲射撃訓練は猛烈を極めた。開戦以来これまでの海戦は常に欧露にあるバルチック艦隊の来航を考慮にいれておかなければならなかつたので、東郷司令長官の苦心は一通りでなかつたが、今度こそは互ひに後詰めなしの国運を賭した決戦である。要するに勝てばいいのである。乾坤一擲、敵艦隊を全滅させ得れば、味方の半分、
相次いで大本営に入る情報により、敵は第三艦隊と合して、五月十四日カムラン湾を出発したことまではわかつたが、その後の消息は
これを
以上、戦艦四隻、装甲巡洋艦八隻、巡洋艦十二隻、装甲海防艦二隻、海防艦三隻、通報艦三隻、砲艦五隻、駆逐艦二十一隻、水雷艇四十一隻、合計九十九隻(戦闘に不参加の仮装巡洋艦を除く)、総排水量二十一万七千八百餘
聯合艦隊旗艦・三笠 『日露戰役紀念帝國海軍寫眞帖』(市岡太次郎等、明治38年、富山房) |
佐藤市郎『海軍五十年史』(昭和18年、鱒書房)より
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