其一 義和団と北清の情勢
支那に古くから存在した義和団なるものは、宗教的政治的の祕密結社で、義和拳といふ拳闘のやうな術を行ふ所から、一名
所が清朝が十九世紀の後半以来、欧洲勢力の東漸に依つてその威信を失し、国内は守旧、進歩の二派に分れてその軋轢が甚だしかつた時、日清戦争の結果殊更にその弱点を中外に暴露し、列強侵略の魔手は時を逐うて甚だしくなるや、排外思想は
明治三十三年四月二十七日、直隷省保定に先づ烽火を挙げた義和団は、外国の教会堂を焼き、宣教師を殺す等の暴行を敢てした。この情報を伝へ聞いた各地の団匪は、一斉に蜂起し、北京、天津は更なり直隷省一帯に亘つて暴虐を逞うした。
この情況に直面した各国公使は、排外暴動の容易ならざるを慮り、五月二十日列国公使会議を開いて、これが鎮定を清国政府に申入れた。然るに清国政府は更に要領を得ず、第二回の勧告を行ふと同時に、自衛上公使館護衛兵を、各国より招致することとした。
我が国は公使のこの請求により、即日塘沽碇泊中の軍艦愛宕より士官二名、水兵二十二名を派遣し、五月二十九日天津に到着し、当時列国兵の派遣されたる兵と合した三百四十一人を同日午後北京に派遣した。
次で六月十日、北京天津間の電信不通となつたので、その日更に列強八ヶ国の水兵約二千餘(我が国は五十二名)を第二次分遣隊とし、鉄道電信の工事材料及び工夫を伴ひ、北京公使館護衛の補充とし、英国東洋艦隊司令官セーモアー総指揮の下に天津を出発した。
先きに派遣した第一次分遣隊は、五月三十一日天津を発し、六月三日北京に着して公使館区域の防備に就いたが、第二次分遣隊は、天津を発し六月十二日郎房に達するや、北京方面より来た支那官兵及び団匪の為め、鉄道は破壊せられ、その前進を続行することが出来ず、然も補給の途は絶えて如何ともなし能はず、十八日後退して二十六日天津に帰還し、北京は茲に孤立の状態に陥つた。
この間、六月十七日午前零時半頃、太沽の砲台備砲大小百七十七門が、一斉に砲門を開いて列国艦隊を砲撃したので、列国軍艦これに応戦すること約四時間、太沽砲台をして沈黙せしむるに至つた。この攻撃に当り我が軍艦は吃水の関係上、これに参加しなかつた。一方塘沽にあつた列国の陸戦隊は、砲台占領に向ひ、列国軍合計八百五十名(我が陸戦隊三百名)が進撃に移つたが、敵前五百米の地点で列国軍は頓挫を来した。我が陸戦隊は勇躍して攻撃を敢行し一気に西北砲台を占領して列国軍を驚かしめ、次で他の三砲台も逐次占領し、交戦僅か五時間以内にて太沽砲台を完全に占領した。
『北淸事變寫眞帖』(第五師團司令部、小川一眞、明治35年)より |
六月十七日早暁、太沽が列国軍に占領せられたとの報に、清国官兵は団匪と合し、十七日午後天津城外水師営砲台より各国居留地の砲撃を始めた。この時天津には露国の陸兵及び列国の海兵若干あるに過ぎずして、その兵力合して僅か三千なるに対し、これを囲む清国側は実に一万八千六百の官兵と、匪徒約三万の多数であり、情況は刻一刻と不安の度を増して来た。
『陸軍五十年史』(桑木崇明、昭和18年、鱒書房)より
『北淸事變寫眞帖』(柴田常吉/深谷駒吉、吉澤商店、明治34年)より |
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