日 時 | 合 戦 | 対 勢 | 戦 果 |
---|---|---|---|
二十七日 午 後 | 第一合戦 | 彼我主力艦隊の大決戦 | 敵艦七隻撃沈 内仮装巡洋艦三隻 |
同 日 夜 | 第二合戦 | 我全駆逐隊水雷艇隊の敵の敗残艦隊に対する強襲 | 敵艦四隻撃沈 我水雷艇三隻沈没 |
二十八日 朝 | 第三合戦 | 我軍艦千歳の敵駆逐艦に対する追撃 | 敵駆逐艦一隻撃沈 |
同 日 午 前 | 第四合戦 | 我主力艦隊の敵敗残艦隊に対する包囲攻撃 | 敵艦四隻捕獲 |
同 日 午 前 | 第五合戦 | 我軍艦「音羽」「新高」の敵艦「スピエトラーチ」に対する追撃 | 敵艦一隻撃沈 |
同 日 午 前 | 第六合戦 | 我軍艦「新高」「叢雲」の敵駆逐艦に対する追撃 | 敵駆逐艦一隻撃沈 |
同 日 午 前 | 第七合戦 | 我駆逐「不知火」及「第三十六号」艇の敵駆逐艦に対する追撃 | 敵駆逐艦一隻撃沈 |
同 日 午 前 | 第八合戦 | 我軍艦「磐手」「八雲」の敵艦「ウレヤコツフ」に対する追撃 | 敵駆逐艦一隻撃沈 |
同 日 午 後 | 第九合戦 | 我駆逐艦「漣」「陽炎」の敵駆逐艦に対する追撃 | 敵駆逐艦一隻捕獲 敵将生擒 |
同 日 夕 | 第十合戦 | 我第四戦隊及第二駆逐艦隊の敵艦「ドンスコイ」に対する追撃 | 敵一隻撃沈 |
此一大海戦を組成せる十合戦の要領は、先づ斯 んなものであるが、尚ほ各合戦を比較して、其の対勢と戦果を計査して見ると、頗る興味あると考へる。此の海戦、大は大なりと雖も、彼我対等の決 戦 とも認むべき合戦は、唯だ単に二十七日午後の第 一 合 戦 のみで、第二合戦より第十合戦迄の九合戦は、何れも我が優勢を以て、敵の劣勢に当り、大抵其勝敗も、瞬く間に決して居る。而も其戦果に就て見ると、第一合戦では、僅に敵艦七隻(内 仮装巡洋艦三隻を含む)を撃沈し得たのみで、残餘の敵艦十隻撃沈、五隻捕獲の大仕事は、皆第二合戦以後に於ける敗残の敵艦隊に対する追撃戦を以て仕遂げられたのである。之を以て見ると、戦勝の正味の結果は、花々しき決戦の時よりは、決戦終りたる後の追撃戦にて獲得せらるゝことが分ると同時に、矢張り数字上の優勢を以て敵に対すれば、容易 く敵を圧倒することが出来るといふことも、証明せらるゝかと思ふ。然しながら、此当初の第一合戦に於ける対等の大決戦に、当日の勝敗を決し得たことが、此海戦の大眼目とも謂ふべきもので、若し此肝腎なる決戦に勝を制することが出来なかつたならば、第二合戦以後の大戦果も挙らぬのみか、却つて苦戦悪闘を続行して、我が損失を増大するの悪果を生じたのである。故に海戦に於ては、初めより優勢を以て敵に対するか、或は当初の決戦に勝を制すると云ふことが至極肝要である。
日本海の大海戦に於ける、我が軍の大捷 は前述の如く、実に其第一合戦の決勝より生み出されたものである。然らば此第一合戦其物 は、如何に戦はれて、如何に勝敗が決したかを討究するのも、亦趣味あることゝ思はれる。此第一戦は、五月二十七日午後一時五十五分、我が聯合艦隊司令長官東郷大将が、彼 の紀念すべき『皇 国 の 興 廃 此 の 一 戦 に 在 り 各 員 一 層 奮 励 努 力 せ よ 』の訓令信号を掲げ、我が主力たる第一及第二戦隊を率ゐて、敵前に邁進された時に初まり、夫 より連続攻撃を続行し、日没に至りて息 みたる約五時間の合戦で、其戦場は対馬海峡沖の島の北方である。去りながら此第一合戦も、亦其過半は追撃戦で、其決戦の決戦たりし正味の部分は、僅かに当初の約三 十 分 間 に過ぎない。日本海々戦の勝敗が、僅々三十分間で沈着したと云へば、或は驚く人があるかも知れぬが、夫れが真正の事実に相違ないので、東郷大将の海戦々報にも、明白に其事が記載してある。今此戦報を取出して、其の初めの方を見ると、左の一節がある。
二 時 八 分 で、我が第一戦隊が、暫く之に耐 えて、応戦したのが三四分後 れて、二 時 十 一 分 頃であつたと記憶して居る。此の三四分に飛んで来た敵弾の数は、少くとも三百発以上で、夫れが皆我が先頭の旗艦『三笠』に集中されたから、『三笠』は未だ一弾をも打出さぬ内に、多少の損害も死傷もあつたのだが、幸に距離が遠かつた為め、大怪我はなかつたのである。是より後の戦況は、口筆 を弄するよりも、左に掲げたる第一合戦の二対勢図を見るのが、最も早く分かる。即ち一は午後二時十二分、戦艦隊が砲撃を開始して、敵の先頭二艦に集弾したる刹那で、又他の一つは午後二時四十五分、敵の戦列全く乱れて、勝敗の分れた時の対勢である。其の間実に三 十 五 分 で、正味の処 は三 十 分 に過ぎない。然し未だ此の時には、敵艦隊一隻も沈没して居らぬのだ。(第二図、第三図参照)此の対戦に於ける彼我主力の艦数は、双方共に十二隻であつて、我は戦艦四隻、装甲巡洋艦八隻。彼は戦艦八隻、装甲巡洋艦一隻と、装甲海防艦三より成り、其勢力は、略 ぼ対等であつたが、唯較 や我軍の戦術と砲術が優れて居つた為めに、此決勝を贏 ち得たので、皇 国 の 興 廃 は、実に此三十分間の決戦に由つて定まつたのである。然し、戦術とか、砲術とか、或は勇気とか、胆力とか云ふものゝ、矢張り形而下の数字的勢力は争はれぬもので、若し此対戦に於て、我海軍が十二隻の主力戦隊を戦線に出すことが出来なかつたなれば、此の勝敗は未だ孰 れとも云へないのである。実に此戦線に参加したる我が装甲巡洋艦『日進』『春日』の如きは、海戦間際に伊太利より購入せられ、開戦後に我が国に到着したのであるが、若し此二艦が無かつたなればと想ふと、吾人は今日も尚ほ戦慄せざるを得ない。独り『日進』『春日』のみならず、『三笠』にあれ、『敷島』『朝日』『富士』にあれ、我は『出雲』『磐手』『浅間』『常磐』の如き、何れも我海軍の当局が、多年の惨憺たる経営に依りて製艦 されたもので、而も之を用ふるは、主として僅々三十分の決戦であつた。吾人が十年一日の如く、武術を攻究練磨しつゝあるものは、亦此三十分間の御用に立つ為めである。さればこそ、決戦は僅かに三十分であるが、之に至らしむるには、十年の戦備を要するので、即ち取りも直さず、連綿十年の戦争である。吾人は素より至尊 の御威徳が、直接間接に戦勝の大主因を成し、皇軍には常に天祐神助あるを確信するものであるが、さりとて、吾々臣民が、人事を尽さずして、神霊の加護を仰ぎ得らるべきではないと考へる。
日本海の大海戦に於ける、我が軍の
敵の先頭部隊は我第一戦隊の圧迫を受けて此の戦報の通りに、敵の艦隊が、初めて火蓋を切つて砲撃したのが、午後稍々 其の右舷に転舵 し、午後二時八分彼より砲火を開始せしかば、我は暫く之れに耐 えて、射距離六千米突 に入 るに及び、猛烈に敵の両先頭艦に集弾せり。敵は之れが為め、益々東南に撃圧せらるゝものゝ如く、其の左右両列共に漸次東方に変針し、自然に不規則なる単縦陣を形成して、我と併航 の姿勢を執り、其の左翼列の先頭艦たる『オスラービヤ』の如きは、須臾 にして撃破せられ、大火災を起して戦列より脱せり。此の時に当り、第二戦隊も既に尽 く第一戦隊の後方に列し、我が全線の掩撃砲火は射距離の短縮と共に益々顕著なる効果を呈し、敵の旗艦『クニヤージ、スウオーロフ』二番艦『アレクサンドル』三世も、大火災に罹 りて戦列を離れ、敵の陣形愈々乱れ、後続の諸艦亦火災に罹れるもの多く、其の騰煙 西風に靉 きて、忽ち海上一面を蔽ひ、濛気 と共に全く敵影を包み、第一戦隊の如きは、為めに一時射撃を中止せるの状況なりし。又我軍に於ても各艦多少の損害を被り、『浅間』の如きは後部水線に近く三弾を受けて舵機 を損じ、且つ浸水甚しく、一時止むを得ず列外に落伍せしが、幾 くもなく応急修理して、再び戦列に入 れり。之れ午 後 二 時 四 十 分 に於ける彼我主力の戦況にして、勝 敗 は 既 に 此 の 間 に 決 せ り 。
過去の大海戦は、斯くして皇軍の大捷に帰したが、未来の海戦は、如何なる結果を呈するであらうか。今や『三笠』『敷島』の如き当時の戦艦は、既に全盛を過ぎて、旧式と化し去り、所謂『ドレツドノート』級、若しくは超弩級ならざれば、軍艦にあらずと謂ふ時代となり、我が海軍には、現在『ド』型として、『河内』『摂津』の二隻、準『ド』型とも
(大正二年五月)
秋山眞之『軍談』(大正6年、実業之日本社)より
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