2015年5月24日日曜日

日本海海戦――(3)二十七日の戦闘

3 二十七日の戦闘


明治三十八年五月二十七日午前二時四十五分、わが哨艦信濃丸は、五島白瀬の西方約四十かいりの地点で、東航する一汽船の燈火を発見した。これは敵の病院船アリヨールで、どうしたものか消燈してゐなかつたのである。これが敵艦隊発見の端緒であつた。この燈火を発見した信濃丸は、必ず他にも艦船がゐる筈だと、引続き厳重な見張りをしてゐたが、濃霧のため何ものも見えず、艦長はこの汽船を臨検するつもりで近寄らうとした瞬間、前方眼前に堂々たる大艦隊を発見し、しかも我はその艦列中にはいりこんでゐたのであつた。そこで直ちに「敵艦見ユ」の無電を発した。時に午前四時四十五分であつた。この無電に接した巡洋艦和泉は、勇敢に敵と接触しつつ刻々その陣形や速力方向を東郷司令長官に無電で報告した。この際和泉が触接を保ちつつ無電を発してゐるのを知りながら、敵艦隊が妨害しなかつたことは不思議といふ他はない。この日、東郷司令長官は旗艦三笠に坐乗して鎮海湾にあり、敵艦隊出現の報に接したのは午前五時五分頃であつた。直ちに全軍に出動を命じ、同時に大本営に向つて「敵艦見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直ニ出動之ヲ撃滅セントス、本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」といふ有名な第一報を打電した。普通ならば「邀撃」とでもいふところを「撃滅」といつたところに、東郷司令長官の並々ならぬ決意と自信とがうかがはれる。

5月27日早朝、日本海戦場へ向ふ聯合艦隊
『日露戰役海軍寫眞朝日の光』(關重忠、明治38年、博文館)

わが主力艦隊は、正午、沖ノ島北方十二浬に達し、片岡第三艦隊司令長官の報告により、敵は壱岐国若宮島の北方十二浬にあつて北東微東に航行しつつあるのを知り、適宜針路を向け、午後一時十三分、先づわが第三戦隊を見、つづいて第五第六戦隊を望み、つひに同三十九分はるかに敵艦隊の姿を認めた。この時敵の陣形は二列縦陣で、右翼列の先頭にボロヂノ級戦艦四隻よりなる一隊を置き、オスラビヤ、シソイ・ウェリキー、ナワリン、アドミラル・ナヒーモフの四隻よりなる一隊を左翼列の先頭に位せしめ、イムペラートル・ニコライ一世及び海防艦三隻よりなる一隊これに続き、ジェムチウグ、イズムルードの二巡洋艦前路を警戒し、なほ後方に巡洋艦、特務艦が続航してゐた。東郷司令長官は直ちに戦闘開始を命じた。旗艦三笠の檣頭には、あの歴史的な「皇国ノ興廃此ノ一戦ニアリ各員一層奮励努力セヨ」との信号旗が掲げられた。時まさに午後一時五十五分、わが砲火を開く十五分前であつた。

旗艦「三笠」艦橋上の東郷平八郎聯合艦隊司令長官
左上に信号旗(Z旗)が翻る

この時、彼我の針路は反航の姿勢にあつた。このまま進めば、砲戦の時間が短く、再び反転して敵を追ふには時間を要し、八月十日の黄海海戦の轍を踏むであらう。東郷司令長官の戦法や如何にと全軍固唾をのむうち、二時五分、果然三笠は、世界海戦史上有名な敵前十六点転針の大冒険を敢行したのであつた。まさに大英断である。転針中は、われより精確なる照準が出来ないばかりでなく、後続各艦は同一点で転針するから、その地点を照準されれば、敵から正確な砲火を浴びせられる危険があるわけである。

これを見た敵艦隊は好機乗ずべしとばかり、まづ旗艦スウォーロフ火蓋を切り、つづいて各艦砲火を開いた。距離八千米。しかし、われは未だこれに応ぜず、二時十分、射距離六千米となるや、旗艦三笠はじめて応戦し、後続の諸艦これにならひ、まづ敵の左右両列の先頭艦スウォーロフ、オスラビアに猛砲火をあびせた。しかもなほ距離四千六百米にまで肉迫猛撃したので、オスラビア、スウォーロフ、アレクサンドル三世等、相ついで火災を起し、黒煙あたりを覆うて屢〻照準に困難を感ずるほどであつた。この間、わが方も多少の損害をうけ、第二艦隊の浅間は敵弾を受けて舵機に故障を起し、一時列外に出るのやむなきに至つた。やがて敵の旗艦スウォーロフは大損害を被つて列外に出で、オスラビヤは午後三時過ぎ沈没し、敵陣やうやく混乱の色が深くなつた。かくて戦闘の大勢は最初の一時間で決した。以後わが主力艦隊は、敵主力の運動に応じ、集合離散戦術の妙を尽し、敗残の敵を攻撃しつつ遂に日没に及んだ。この戦闘で、旗艦スウォーロフ、オスラビヤ、ボロヂノ、アレクサンドル三世等は、悉く撃沈された。

この間、第三、第四、第五、第六戦隊は敵の後尾を襲ひ、主として巡洋艦、運送船を攻撃し、敵を非常な混乱に陥らしめた。かくて東郷司令長官は、午後七時半、戦闘を中止し、鬱陵島うつりようとうに全艦の集結を命じ、明日の戦闘に備へた。

佐藤市郎『海軍五十年史』(昭和18年、鱒書房)より

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