2015年5月17日日曜日

日英同盟――(2)三国干渉と英国

三国干渉と英国


日本全国民は有利な講和条件に歓喜抃舞べんぶして、万歳の声はとゞろきて山河にこだますると云ふ真つ只中へ、青天霹靂的に三国干渉の巨弾に見舞はれ、歓楽の天国から悲観の奈落へ突落された如く、暗然涙を吞む非運に沈んでしまつた。抑も日本が遼東半島を領有することは、露国に宿昔しゆくせき懐抱する南進策を封鎖するもので、到底彼の承認し得る所でない。同盟国たる仏国を誘ひ、豫て山東省に野心を持つ独逸を引入れ、三国干渉と出掛けたわけである。露国は英国も誘つたが、英国は此手に乗らなかつた。

露国が南岸に不凍港を獲得せんとするのは、ピーター帝以来の大策であつた。露国が先づ手を伸べたのは手近の土耳其トルコで、黒海よりダーダネルス海峡を経、地中海へ出づる線の領有である。ニコラス一世は土耳其に対し、其の領内の希臘教徒保護権を要求し、土耳其の拒絶するや直ちに砲火を以て向つた。英仏聯合軍は土耳其を援けて、クリミヤ半島セバストポールの要塞を抜くに及び、露国遂に屈して和を請ひ、一八五六年(安政三年)巴里パリ条約を締結して講和した。是れ有名なクリミヤ戦争である。

クリミヤ戦後土耳其は国政乱れ、耶蘇教徒が迫害を受けたので、一八七七年(明治十年)露国は土耳其国内の教徒保護を名として兵を進め開戦するに至つた。露軍は次第に土軍を圧し、アドリヤノープルを占領して、まさに首都コンスタンチノープルに迫る勢を示したので、土耳其は遂に屈服し、一八七八年(明治十一年)講和成立した。之より先、露軍のコンスタンチノープルに迫らんとするや、英国は大に驚き艦隊を黒海に入れて示威した。墺国も亦露国の南下を怖るゝものである。独逸の宰相ビスマークの調停により、伯林ベルリンで列国会議を開き、露国の土耳其から得た利益を削減してしまつた。

露国は当年の恨みを忘るゝことは出来ない。此手を其のまゝ持つて来て三国干渉を試みたのである。江戸の仇を長崎を伐つどころでない。欧洲の仇を極東で伐つたのだ。

露国は南の出口を二度とも英国の為めに抑へられた。更に東に廻つて小亜細亜のバグダッドから波斯ペルシヤ湾へ出ようとすると、此処でも英国が大手を挙げて押出さうとする。其東は印度、安南の鉄壁である。遂に大転回して極東に向はんと機会を狙つてゐる矢先、日本が遼東半島を領有するに於ては、露国積年の希望はもう絶望だ。

日本が折角取つた遼東半島を清国へ還附するのは、大陸へ伸びんとする意慾を粉砕され、戦勝の威厳を損する屈辱であるが、今我が艦隊は台湾占領の為め南遣中であり、且つ既に戦に疲れて、欧洲の三強国を向ふに廻し戦ふ気力はない。芝罘に三国艦隊が集中し、スワといはば何時でも発動する用意は整つてゐる。こゝに至つて血涙を吞んで干渉に応ずる外策なきも、一応英、米、伊諸国の後援を求めることにした。加藤駐英公使は我が政府の訓令により、英国外相を訪問して縷々苦境に立つ現状を説き、英国を動かさんとした。外相即ち曰く、
『此事件につき英国政府は一切干渉せざることに決定してゐる。日本に協力することは、是れ亦一種の干渉に外ならない。英国に取つては露、独、仏も、日本同様友国のことなれば、英国は此際彼是かれこれ酌量して、其の威厳上自己の決断と責任を以て行動すべきである。但し露、独、仏は果して何処まで其の主張を固持するか明かでないが、形勢頗る容易ならざるものあるに依り、日本は之に対して十二分の覚悟を要す』
と、英国の立場よりすれば公平な態度であらう。日本は英国の援助を得ることは出来なかつたが、英国の干渉に加はらざりしを寧ろ徳とした。三国干渉に先立ち駐支英国公使オコンナーは、露国公使の賛成を得て日本の大陸進出を阻む為め海軍威嚇政策を進言したが、英国政府は之を許さなかつた。蓋し英国は東洋の権益確守の為め、日本を利用せんと考へたのであらう。米国亦動かず、一旦伊太利は乗出さんとしたが、英米の静観せるを見て手を引き、日本は孤立無援の窮地に陥つた。

清国全権李鴻章は講和成立するや即日帰途に就き、船上から日本に向ひ赤い舌をペロリと吐き出し、皮肉な微少を面上に浮べたといふ伝説がある。真偽の程は保証の限りでないが、芝罘に於ける批准交換に先んじ、三国干渉の虎威を借り、其の延期を提言した事実がある。

日本は遼東半島還附の条件として、第三国に不割譲不租借を交渉したが、清国は之を拒絶して日本をへこました積りでゐたが、後日、露国に占領せられた。のみならず独、仏は素より、英国までが便乗して土地を租借し、尚ほ且つ鉄道敷設権、土地不割譲などの形式を以て、列国瓜分の形成を成し、其の桎梏に苦しまねばならなかつたのは、自業自得といふべきである。

柴田俊三『日英外交裏面史』(昭和16年、 秀文閣)より

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