2019年1月12日土曜日

国語改革四十年――2 国語改革とは何だったのか①

2 国語改革とは何だったのか


昭和二十年の敗戦は、文部省と国語審議会とに、文字通り千載一遇の機会を提供した。

敗戦後の日本の一般的精神情況は、明治初年のそれにはなはだよく似ていた。あるいは、もっと徹底的であった。明治初年の日本人は、これまでの日本は無価値である、と考えたのだが、昭和の敗戦後の日本人は、これまでの日本はいっさいが邪悪でありまちがっていた、と思った。
〔引用者註〕何度も繰り返すが、著者の言ふ「日本人」「日本」とは当時の「エリート」のことであり、庶民とは何の関係もないのである。
ふたたび「新日本」ということばがしきりにとなえられた。「日本はすっかり白紙から出なおすのだ」という論調が全国をおおった。
〔引用者註〕「論調が全国をおおった」のではなくて、マスコミが一斉にさういふ論調を書き散らかしたので、一見さう見えるといふに過ぎないのである。
戦争にやぶれたのは、軍事力、経済力の敗北であったのみでなく、文化の敗北なのだ、と識者たちは言った。さらにせんじつめれば言語と文字がおとっていたというのである。

敗戦の三か月後、昭和二十年十一月十二日の読売新聞(当時の紙名は「讀賣報知」)社説が「漢字を廢止せよ」と題して左のごとく論じたのは当時の気分を代表するものである。
漢字を廢止するとき、われわれの腦中に存する封建意識の掃蕩が促進され、あのてきぱきしたアメリカ式能率にはじめて追隨しうるのである。文化國家の建設も民主政治の確立も漢字の廢止と簡單な音標文字(ローマ字)の採用に基く國民知的水準の昂揚によつて促進されねばならぬ。
当時の読売新聞が極端な進歩主義の立場をとっていたことは『読売新聞百年史』に「左傾紙面」と題してくわしく記述してある。いま読売新聞の題号が横書きであるのはその時のなごりである。「横書き題字は独創的だったが、これは、当時、日本語のローマ字化論まででていたころで、多分にこうした風潮に影響されたものだった。題号にとどまらず本文まで横組みにしてみよう、との案もあったが、これは実現しなかった。横書き題字は、GHQも推奨し、いわば日本語改革の一端を示す意味があった」とある。
〔引用者註〕「多分にこうした風潮に影響されたものだった」。言ひ訳と責任転嫁、そしてマッチポンプは新聞社の得意技なのである。では同時期にあの有名な工作機関はどう書いてゐたのだらうか?
《……我々は、あくまで良き国語の設定とその普及とを切望する。……日常用語における漢字漢語の制限、仮名交り口語文の馴致その他、技術的、専門的には研究を重ねた上で選定せられるべきことも要請せられるであらう。口に称へて滑らかに、耳に聞いて快く、その上、読み書きするに不便不自由のないやうな新時代にふさはしい新国語の普及がこの際、特に望ましい。偏狭固陋な国語万能論の正反対な動機からこのことを提唱したいのである。》(朝日新聞、昭和20年10月4日社説「良き国語の普及を計れ」)(安田敏朗『国語審議会 迷走の60年』、講談社現代新書、平成19年)
日附を見れば朝日の方が先なのである。讀賣のと較べると一見抑制的で良識がありさうに見えるのである。讀賣の社説が出された後の11月16日の「天声人語」では
《気の早い人々の中には平和日本、世界的日本の建設のため一足飛びに、ローマ字の普及を計るべしと主張するものもないとは限るまい▼然しせいては事を仕損じるのであつて》(安田敏朗『国語審議会 迷走の60年』、講談社現代新書、平成19年)
などと逆に讀賣を戒めてゐたさうだ。さすが経験豊富な工作員なのである。「急激な変革は却て強い反撥を惹起するから、気づかれないやうに徐々にやるべきだ」(サラミスライス論)といふ訳である。
昭和二十一年四月、志賀直哉が『改造』に「國語問題」を発表してフランス語を国語にしてはどうかと提唱したことはよく知られる。志賀は、日本の国語ほど不完全で不便なものはない、これを解決せねば日本はほんとうの文化国にはなれない、とのべてこう書いている。
私は六十年前、森有禮が英語を國語に採用しようとした事を此戰爭中、度々想起した。若しそれが實現してゐたら、どうであつたらうと考へた。日本の文化が今よりも遙かに進んでゐたであらう事は想像出來る。そして、恐らく今度のやうな戰爭は起つてゐなかつたらうと思つた。吾々の學業も、もつと樂に進んでゐたらうし、學校生活も樂しいものに憶ひ返す事が出來たらうと、そんな事まで思つた。
そこで私は此際、日本は思ひ切つて世界中で一番いい言語、一番美しい言語をとつて、その儘、國語に採用してはどうかと考へてゐる。それにはフランス語が最もいいのではないかと思ふ。六十年前に森有禮が考へた事を今こそ實現してはどんなものであらう。不徹底な改革よりもこれは間違ひのない事である。森有禮の時代には實現は困難であつたらうが、今ならば、實現出來ない事ではない。
意見としてはばかばかしい、あるいはたわいないものだが、これも当時の日本の一般的な気分を知るにはよい材料である。
〔引用者註〕何度でも繰り返すが、「当時の日本の一般的な気分」ではなくて、気の動顚した一小説家の妄言に過ぎないのである。
昭和二十一年三月にアメリカから教育使節団が来て日本政府に、漢字を廃止してローマ字を採用せよ、と勧告した。もっとも使節団は最初からそういう勧告をたずさえて来日したのではなく、彼らに接触した文部省の国語官僚や新聞の代表が使節団にうったえてそういう勧告を出してもらったのであるらしい。
〔引用者註〕《GHQは、日本の教育に関する問題について日本の教育者に助言および協議するためにアメリカの教育者グループを派遣するよう、米国陸軍省に要請した。この要請にしたがってアメリカ教育使節団二十七名が一九四六年三月いっぱい日本に派遣され、『アメリカ教育使節団報告書』を同年に刊行した。/この報告書にしたがい、日本政府内に教育刷新委員会が設置され、文部省およびGHQとともに、報告書の勧告の方向のうえに、戦後教育改革がおこなわれた。そのなかで教育基本法(一九四七年)や六三制、教育委員会制度などが実施されていく。》(安田敏朗『国語審議会 迷走の60年』、講談社現代新書、平成19年)
《ここで気にかかるのは、教育使節団の団員がどれほど日本語が出来たか、われわれの言語生活についてどの程度知つてゐたのかといふことだが、齋藤襄治の談話によれば、二十七名の団員中、日本語を解したのは国務省東洋課長ゴードン・T・ボウルズ(文化人類学者)ただ一人であつた。どうやら彼らは、占領軍情報教育局のロバート・キング・ホール大尉(のちに中佐)なるローマ字論者の意見を鵜呑みにして報告書を作成したものらしい。》(丸谷才一編著『国語改革を批判する』、丸谷才一「言葉と文字と精神と」、中公文庫、平成11年)
このホール大尉は終戦前、カリフォルニア州モントレイにあつた軍政要員準備機関において日本占領企画本部の教育部長であつたといふ。昭和20年6月23日附で「公式表記文字をカタカナに改定」と題する秘密覚書を執筆し、占領後に日本の国語から漢字を無くし全てカタカナ書きに改めるべきだと主張してゐた。その覚書の中で
《ローマ字化の利点は明瞭であるが、実用的ではない。その理由は、日本で一般的に読まれていないからである。それ故、性急なローマ字化は日本を事実上、無能国家にしてしまう。それは軍事占領政府にとり、敵性宣伝に曝されるよりも一層危険である。文書による意思疎通ができない近代国家は混乱に陥る。》(西鋭夫『國敗れてマッカーサー』、中央公論社、平成10年)
と、わざわざローマ字化の危険性まで訴へてゐた。それがどういふ訳か、昭和20年11月20日には既に、文部省教科書局の面々をCIE(民間情報教育局)に呼びつけて、教科書をローマ字にしろと高圧的に命令してゐたことが、『昭和戦後史 教育のあゆみ』(讀賣新聞社刊)に載つてゐるといふ。因みにこのCIEは、かの悪名高きWGIP(War Guilt Infomation Prgam=日本国民に戦争贖罪意識を植ゑつける計画)を主に担当した機関でもある。
《(ホール少佐は)、いやがる日本人にローマ字を強制することが親切になると信じている単純な男で、反対側にとっては迷惑千万だが、ローマ字論者にとっては頼もしい男ということになったらしい。》
《結局、教科書のローマ字化ということは、ホール少佐の個人的意見にすぎなかったようである。彼はハーバード大学、コロンビア大学などで教育学やアジア問題を学び、自分なりの意見を持っていたので、ローマ字化についても自信をもって主張したのだが、周囲の同意を得るに至らず、まもなく教科書の担当からはずされて、他の部署へ移された。》(丸谷才一編著『国語改革を批判する』、杉森久英「国語改革の歴史(戦後)」、中公文庫、平成11年)
しかし彼は、終戦前は性急なローマ字化は良くないと言つてゐたのである。GHQでの彼の上司達は「国語のローマ字化など考へてもゐない」と否定してゐたことを、当時の日本側関係者が証言してゐるが本当にさうなのだらうか。「ローマ字ではなくカタカナにすべき」と言つてゐた男が、日本にやつて来て間もなくローマ字強行論者に転身してゐるのである。軍隊は命令服従が絶対である。上司の意向と違ふことをホール大尉が独断で行なつてゐたとは到底考へにくいのである。或いは彼の覚書にある《性急なローマ字化は日本を事実上、無能国家にしてしまう》の部分がGHQの気に入る所となつたのかも知れない。何れにしても当時のGHQ担当者の中で、彼一人だけ熱心にローマ字化を推進したことを示す数々の証拠や証言が残されてゐるのは如何にも不自然なことなのである。しかし真相がどうだつたにせよ、この男の影響は教育使節団の『報告書』の随所に見られるのである。
《日本の子供達に對して我々が責任を感じさへしなければ、これに觸れずにゐた方が愼み深くもあり、氣樂でもあつていゝと思ふ問題に、こゝに當面するのである。言語は國民生活に極めて密接な關係をもつた一つの有機體であるから、外部からそれに近よることは危險なのである。……何事にも中間の行き方があるが、この場合それは立派な中庸の道になるであらう。國語の改良はどんな方面から刺戟を受けて着手してもいゝが、その完成は國內でするより外にないことを、我々は知つてゐる。我々が與へる義務があると感ずるのは、この好意の刺戟であつて、それと共に、未來のあらゆる世代の人々が感謝するにちがひないと思はれるこの改良に、直ちに着手するやう現代の人々に大いに勸める次第である。深い義務の觀念から、そしてだゞそれだけの理由で、我々は日本の國字の徹底的改良を勸めるのである。》(『聯合國軍最高司令部に提出されたる米國敎育使節團報吿書』、東京都教育局、昭和21年)
要するに「外国人が他国の国語に介入するのは危険なことであり、本来これを慎むべきであるものの、その国語改良の早急な実行の為、我々にはそれに敢て勧告をする義務がある、それは必ずや将来の世代から感謝されるに違ひない」と言つてゐるのである。まるで宣教師のやうな口ぶりである。読んでゐるこちらが恥づかしいのである。
《國語改良問題は明かに根本的な、急を要するものである。それは小學校から大學に至るまで、敎育計畫のほとんどあらゆる部門に、その影を投げかける。この問題を滿足に解決できなければ、意見の一致を見た多くの敎育目的の達成は、極めて困難になるであらう。例へば、他の諸國民の理解の促進や、自國における民主主義の助成がさまたげられるであらう。》(『聯合國軍最高司令部に提出されたる米國敎育使節團報吿書』、東京都教育局、昭和21年)
「国語を改良しなければ今後の教育行政は立ち行かなくなるぞ、民主主義の発展も阻害されるぞ、さうなつたら困るのは誰だ」と結局は恫喝してゐるのである。
《日本の國字は學習の恐るべき障害になつてゐる。廣く日本語を書くに用ひる漢字の暗記が、生徒に加重の負擔をかけてゐることは、ほとんどすべての有識者の意見の一致するところである。……漢字の讀み書きに過大の時間をかけて達成された成績には失望する。小學校を卒業しても、生徒は民主的公民としての資格に不可缺の語學能力を持つてゐないかも知れない。彼等は日刊新聞や雜誌のやうなありふれたものさへなかなか讀めないのである。槪して、彼等は現代の問題や思想を取扱つた書物の意味をつかむことができない。殊に、彼等は卒業後讀書を以て知能啓發の樂な手段となし得る程度の修得さへでき兼ねるのを常とする。》(『聯合國軍最高司令部に提出されたる米國敎育使節團報吿書』、東京都教育局、昭和21年)
デタラメもいいとこであるが、これもホール大尉の影響と思はれるのである。
《進駐軍のある士官が、日曜日にジープを駆って、いなかに出かけて行った。そして、畑で働いている農民に新聞を出して読ませてみた。第一面はほとんど読めない。社説はなおさらである。社会面はどうやらわかる者と、それさえ読めない者もあった。この事実をまのあたりに見たその士官は、日本では国民をめくらにしておくつもりかと言ったという。(山本有三『もじと国民』、昭和21年)

この将校はおそらくホール大尉だらうが、日本人全体の国語力のテストとして果して適当なものかどうか、かなり疑問がある。アメリカ軍の将校に畑でとつぜん新聞をつきつけられては、占領下の庶民はきつとドギマギしたらうし、あのころの新聞は漢字を使ひすぎてゐたし(しかし、だからと言つて漢字そのものがいけないことにはならない)、社説といふのはどこの国でもむづかしいものだし(アメリカだつてこれは同じはず)、それに、テストされる者が片よつてゐて、数もあまり多くなささうである。》
(丸谷才一編著『国語改革を批判する』、丸谷才一「言葉と文字と精神と」、中公文庫、平成11年)
こんなずさんな調査や偏見に基いて『報告書』は起草され、次のやうな勧告を出したのである。
《必然的に幾多の困難が伴ふことを認めながら、多くの日本人側のためらひ勝ちな自然の感情に氣付きながら、また提案する變革の重大性を十分承知しながら、しかもなほ我々は敢て以下のことを提案する。
一、ある形のローマ字を是非とも一般に採用すること。
二、選ぶべき特殊の形のローマ字は、日本の學者、敎育權威者、及び政治家より成る委員會がこれを決定すること。
三、その委員會は過渡期中、國語改良計畫案を調整する責任を持つこと。
四、その委員會は新聞、定期刊行物、書籍その他の文書を通じて、學校や社會生活や國民生活にローマ字を採り入れる計畫と案を立てること。
五、その委員會はまた、一層民主主義的な形の口語を完成する方途を講ずること。
六、國字が兒童の學習時間を缺乏させる不斷の原因であることを考へて、委員會を速かに組織すべきこと。餘り遲くならぬ中に、完全な報吿と廣範圍の計畫が發表されることを望む。》(『聯合國軍最高司令部に提出されたる米國敎育使節團報吿書』、東京都教育局、昭和21年)
有無を言はさぬ命令なのである。しかもその重大なる「変革」は全て日本側の責任においてやれと言ふのである。憲法典を押しつけたのと同じやり口なのである。抑もGHQが日本政府に無理矢理やらせた諸改革のことを想起してほしい。彼等は日本人から軍隊を奪ひ、宗教を奪ひ、憲法を奪つたのである。それら改革と称する略奪行為は、日本の弱体化が目的だつたことは周知の事実なのである。それと同時期に行はれた国語改革が日本人の学習力を向上する為のものなどと、どうして言へるだらうか。著者も引用者もたびたび触れてきた如く、日本の近代化、即ち日本の富国強兵に多大な貢献を為してきたのは漢字である。仮名書きにしろローマ字化にしろ、どちらにしても漢字が廃止されるのであるから、GHQの意図する所は自づと明らかであらう。
《今は國語改良のこの重要處置を講ずる好機である。恐らくこれ程好都合な機會は、今後幾世代の間またとないであらう。日本國民の眼は將來に向けられてゐる。日本人は國內生活においても、國際的關係においても、新しい方向に動きつゝある。そしてこの新しい方向は文書通信の簡單にして效果的な方法を必要とするであらう。また同時に、戰爭が多くの外國人を刺戟し、日本の國語と文化を硏究せしめてゐる。この感興を持續せしめ、育くまうとすれば、新しい書記法を見出さなくてはならぬ。國語は廣い公道たるべきもので、障壁であつてはならない。世界に永き平和をもたらさんとする各國の思慮ある男女は、國民的な孤立と排他の精神を支持する言語的支柱は、できる限り打ちこわす必要のあることを知つてゐる。ローマ字採用は、國境をこえて知識や觀念を傳達する上に偉大なる寄與をなすであらう。》
これが『報告書』の「国語改革」の章の締めくくりなのである。これを読んで戦慄を覚えない人があるだらうか。国内生活や国際関係における「新しい方向」とは何であらうか。「文書通信の簡單にして效果的な方法を必要とする」とはどういふ意味であらうか。
《階級的な敬語その他の封建的伝習の色濃い日本の国語が大いに民主化されねばならぬのはいふまでもない》(安田敏朗『国語審議会 迷走の60年』、講談社現代新書、平成19年)
先に紹介された讀賣報知の昭和20年11月12日附の社説「漢字を廃止せよ」には上のやうなくだりもあつたのである。安田敏朗氏によると、この社説は《社会の変化にともなって言語のありかたも変化するという論である。これは、言語は上部構造に属し、下部構造が変化すればそれにともなって上部構造も変化する、という議論とおなじである。ソ連の言語学者ニコライ・ヤコヴレヴィチ・マール(一八六四~一九三四)が中心となって「ヤフェート言語学」(セム・ハム・ヤペテのヤペテからくる)として唱えたこの議論は、日本では一九三〇年代からソビエト言語学として受容されたものであり、社会の発展段階論と国際共通語としてのエスペラントの達成という文脈で論じたプロレタリア・エスペラント論として一時期流行した》(安田敏朗『国語審議会 迷走の60年』、講談社現代新書、平成19年)
のださうだ。その我が国では昭和14年6月、国語ローマ字化を訴へたプロレタリア・エスペランティストや一部ローマ字論者が、治安維持法違反容疑で検挙されたのであつた(左翼ローマ字運動事件)。彼等の目指すところが共産主義社会であるので当然である。エスペラント理論では、社会は「封建社会→資本主義社会→共産主義社会」と進み、これに伴ひ言語も「民族語→民族語+国際補助語→世界語」と発展するといふ。従つて民族語と国際補助語(エスペラント)とが併用されるべき資本主義社会にあつては、ローマ字表記であるエスペラントに合せて民族語もローマ字表記でなければならない、といふのがその主張である。そして当然、前時代の「敬語」も消滅すべきだとするのである。『報告書』にある「新しい方向」と「文書通信の簡單にして效果的な方法」とが何を意味するのか、なにゆゑにローマ字化にここまで固執するのか、これで明らかであらう。しかも報告書は更に「國語は障壁であつてはならない」とも言ひ、「精神を支持する言語的支柱は、できる限り打ちこわす」とも言つてゐる。そして、その絶好の機会が訪れたと言つてゐるのである。GHQ内の赤い勢力は日本の国力を削ぐ為に国語を貧困化しようとしたのみならず、国語こそ日本人一人一人が自らの精神や国柄を護る為の楯であると看做して、きたるべき革命に向けてこれを徹底的に破壊しようとしてゐたのである。
《コミンテルンは、世界各国に共産党を設立するだけでなく、その別動隊を構築することで、大衆の組織化を図ったのだ。…(中略)…もう一つの別動隊が、エドキンテルン(Educational Workers International, 略称EducIntern:教育労働者インターナショナル)であり、こちらは、教職員を対象とした教職員労働組合の世界組織である。…(中略)…日本でも戦前、エドキンテルン日本支部がひそかに結成されており、その中核メンバーが戦後、GHQのニューディーラーと称する社会主義者と組んで設立したのが、日教組(日本教職員組合)である。》(江崎道朗『アメリカ側から見た東京裁判史観の虚妄』、祥伝社新書、平成28年)
教育使節団とは、日本の弱体化と赤化の一貫たる教育改革を権威づけ正当化する為のダシであつたのと同時に、その有力な協力者でもあつたのである。主要なメンバーはその目的を充分に理解した上でこれに協力したのである。その他のメンバーは単なるお飾りとして利用されただけだつたのである。
《私は、一九七八年(昭和五十三)年三月八日、アメリカ教育使節団の団長だったジョージ・ストッダード博士と、彼のニューヨークはマンハッタンの自宅で対談した。
 使節団の来日から、ちょうど三十二年後の三月八日だ。
 「誰が教育使節団の報告書を書いたのですか」
 「殆ど私が書いた。国語改革の部分を書いたのは私ではない」
 その三カ月前、一九七七年十一月二十一日、同使節団の団員であり、スタンフォード大学の教育心理学教授アーネスト・R・ヒルガードに同じ質問をした。
 「報告書の執筆者はジョージ・D・ストッダードと私、それに今、名前を思い出せないがもう一人の三人だった」
 「それでは、教育使節団の他の二十四人の団員は何をしていたのですか」
 「あちこち観光旅行に行ったり、夜の街に遊びに出かけていた。ストッダード氏の団長ぶりは独裁的ともいえた。誹謗の意味で独裁的といっているのではない。彼は、まず自分で物事を決定し、その後で、団員の同意を取り付けるという具合に処理していたからである」》
《一九七八年(昭和五十三)、ストッダード元団長は、私と対談中に、「報告書」は自分が執筆したと言ったが、「国語改革の部分を書いたのは、自分ではなく、ジョージ・カウンツだった」と付け加えるのを忘れなかった。》(西鋭夫『國敗れてマッカーサー』、中央公論社、平成10年)
アレクサンダー・J・ストッダードの当時の肩書はフィラデルフィア市教育長、ジョージ・S・カウンツはコロンビア大学教育学教授にしてアメリカ教職員連盟副会長であつた。何をか言はんやである。更に西鋭夫氏が同書で挙げてをられるもう一人の国語改革担当は、コロンビア大学比較教育学教授のアイザック・カンデルである。そして「大活躍」したホール大尉は、グゲンハイム奨学研究員として帰国後、昭和24年には「新しい日本のための教育」といふ日本語ローマ字化の利点を論つた書籍をエール大学出版会から刊行し、その後、カウンツとカンデルが教鞭を執つてゐたコロンビア大学教育学部に比較教育学の助教授として迎えられてゐるのである。
戦後の国語改革は、単に日本の改革論者が虎の威を借りて行なつたと言ふだけでは充分ではないのである。占領軍の側にも、積極的に日本人の国語を破壊しようと企んだ者がゐたのである。その最終的な目的は日本国民を丸裸の奴隷にすることだつた、と言つても言ひ過ぎではないだらうと思ふ。引用者はこれを「国語の敗戦革命」と呼びたいと思ふのである。
日本の主要な都市はすべて焼かれて、かつて文部省に反対した知識人たちの多くはそれぞれ地方にのがれて孤立していた。いまや文部省に反対するまとまった勢力はどこにもなかった。
〔引用者註〕謂はゆる火事場泥棒なのである。しかもそれは、上で見たやうに、日本人をその伝統から切り離して魂を奪ひ、言語を単純化して管理し易くすることが期待されてゐたのである。まるで奴隷の作り方のレシピを見るかのやうである。抑も戦争に負けたからといつて、どうして国語を変へなければならないのか、生れた時から「当用漢字」「新仮名遣」を当り前と思つてきた戦後世代は、もつと考へてみる必要があるのである。GHQが憲法典を押しつけた事実は、改憲論議が活撥化するのに伴つて段々と浸透してきてゐるが、国語改革の罪悪については未だ広く認知されてゐるとは言ひ難い。無理矢理に憲法典を改変させられたことと、無理矢理に国語を壊されたこと、一つの民族にとつて一体どちらがより深刻な問題なのだらうか。
以下、漢字にかかわることのみを略述する。

敗戦直後の昭和二十年十一月、文部大臣が国語審議会に対して「標準漢字表」の再検討に関し諮問し、漢字主査委員会が設置された。

昭和十七年に国語審議会が文部大臣に答申した「標準漢字表」というものがある「常用漢字」千百三十四字、「準常用漢字」千三百二十字、「特別漢字」七十四字、計二千五百二十八字よりなる(「特別漢字」というのは、「朕惟フニ」の朕、「天佑ヲ保有シ」の佑、綏靖天皇の綏、嵯峨天皇の嵯と峨など、天皇、皇室にかかわる字で「常用漢字」「準常用漢字」にはいってないもの)。この「常用漢字」をもとにして、公文書、教科書等で使用してよい漢字の範囲を定めようというのである。

いったい敗戦直後の大混乱の時期、何十万何百万の国民が家を焼かれて住むところなく、そこへまた戦地や外地から何十万何百万の人たちが引きあげてくる、食糧が決定的に不足して来年は百万をこえる餓死者が出るのではないかと言われている時に、なんでまた漢字を制限しようかなづかいを変えようというような、文化の根幹にかかわる、本来慎重の上にも慎重を期せねばならぬ問題を大あわてでとりあげねばならぬのか、と思うところだが、それが当時の風潮であった。上にも言ったように、とにかくいままでの日本は何もかも全部わるかった、まちがっていた、いっさいを変えて新しくして再出発だ、という気分がおおっていたから、ことばや文字だけでなく、学校制度などもただちに手がつけられたのであった。
〔引用者註〕シツコイやうだが繰り返す。「それが当時の風潮であった」「…という気分がおおっていた」といふのはウソである。日々の食糧に事缺いてゐる庶民に、「いままでの日本は何もかも全部わるかった、まちがっていた、いっさいを変えて新しくして再出発だ」などと感傷に浸つてゐる暇はないのである。
占領軍もそれを支持した。アメリカは、日本人の毅力、精神的な底力やねばりづよさをまったく見あやまっていた。実際には日本人は、敗戦の一週間後には、廃墟となった銀座でガリ版ずりの粗末な英会話テキストが飛ぶように売れていた(これから日本に大挙上陸してくる米軍兵士と仲良くしようというのである)という、いたって尻の軽い国民なのだが、戦争の時に日本の兵士たちが頑強に戦ったものだから、これをおそろしくしぶとい人種と誤認し、二度と欧米列強に対して刃向わぬよう、その経済力も知力も伝統の力も、極力削いでおとなしい無力な国にしてしまおうとした。つまり、第一次大戦でボロボロにまけて、その二十年後にははやくも欧州第一の強国として復活し、またまた周辺の諸国に戦争をしかけたドイツみたいなことになっては困る、と考えたわけだ。何もそんなに力を削がないでも、ドイツ人とちがって日本人は、臥薪嘗胆力をたくわえてもう一ぺんアメリカにしかえしの戦争をふっかけるような、そんな根性のある国民ではないのに――。
〔引用者註〕申し訳ないが繰り返す。さういふ尻軽の根性無しは、エリートたちのことなのである。また、あれだけ物理的に破壊された挙句に、占領期には日本国民の精神まで破壊しようと工作員たちが色々頑張つたといふのに、その後の我が国の復興と繁栄は文字通り驚異的なものであつた。やはり日本人は聯合国が当初恐れた通り「おそろしくしぶとい人種」だつたのである。
そういう日本全体の気分、占領軍の支持、それに、従来答申を出してはそのたびにつぶされるという屈辱をなめてきた文部省国語官僚と、保科、松坂ら国語審議会の急進実力者たちの執念、それらがあいまって、敗戦直後のドサクサのなかで「こんどこそ」という国語改革のうごきがはじまったわけだ。
〔引用者註〕やはり繰り返す。「そういう日本全体の気分」とは新聞紙面上の話であり、庶民とは何の関係もないのである。

(高島俊男『漢字と日本人』、文春新書、平成13年)

2019年1月11日金曜日

国語改革四十年――1 漢字をやめようという運動⑥廃止を前提に

廃止を前提に


明治三十五年に国語調査委員会の官制ができた。

上田萬年の経歴をのべたところで言ったとおり、その前明治三十三年に、文部省に国語調査委員というのがおかれている。いったいこの明治三十三年というのは、それまで二十年余の国語改革論議をうけて文部省が動き出した年である。この年に小学校令を改定して、教科書で「字音棒引き」を実施している。漢字の音おんをかなで書く際――中学校以上や一般社会では字音語は当然漢字で書くが、小学校ではかなで書くことがあるわけだ――長音を長音符(いわゆる棒)であらわすことにした。たとえば小学校は「ショーガㇰコー」、一年生は「イチネンセー」、教科書は「キョーカショ」というふうに書く。もっともこれは評判がわるくて、八年間やっただけで明治四十一年に廃止になった。それに、小学生にとってもこれはむずかしかった。何が字音で何が日本語(和語)であるか、小学生にはわからないから。たとえば相談は「そーだん」だが、「そーだよ」はだめで「さうだよ」。東京は「とーきょー」だが今日を「きょー」はだめで「けふ」である。
〔引用者註〕《明治三十年代は日清戦争の勝利によって日本の民族的自覚が高まった時期である。敗戦国製の漢字を戦勝国が使用しているのはよくないというような幼稚な意見が広く通用した。そこで字音の仮名遣をどうするかを決めるのが先決だという意見も出た。よってまず字音仮名遣を発音通りに改定することが認められた。しかし、棒引き案は安易に発音主義を目指したわけではない。明治二十六年に時の文部大臣井上毅は、漢字音の仮名遣は字音の専攻者でなければできないことであるから歴史的仮名遣による必要はないと述べ、字音仮名遣を発音式に改定することの可否を、栗田寛・黒川真頼・外山正一・物集高見・落合直文・高津鍬三郎らの諸学者に諮問している。》(丸谷才一編著『国語改革を批判する』、大野晋「国語改革の歴史(戦前)」、中公文庫、平成11年)
この「字音棒引き」は現代仮名遣しか知らない現代人にとつては理解しにくいと思ふ。抑も一般に「歴史的仮名遣」「旧仮名遣」と呼ばれてゐるものには、「国語仮名遣」と「字音仮名遣」とがある。「国語仮名遣」とは「やまとことば」の古典的仮名遣であり、「字音仮名遣」とは漢字の音読みの古典的仮名遣のことである。「字音棒引き」とは、この「字音仮名遣」の方だけを「現代仮名遣」風のものに改めませう、といふものである。
《明治政府がはじめて大規模な漢字政策をおこなったのは、一九〇〇年の小学校令改正のときであった。ここでは、かな字体の統一、教育漢字数を千二百字に制限、そして字音かなづかい(漢字の音おんの表記)の表音表記がうたわれた(棒引かなづかいとよばれた)。ただし国語かなづかい(和語や訓)は従来の歴史的かなづかいなので、漢字の音だけ別の表記原理を適用することになり、生徒側に混乱をもたらした。》(安田敏朗『国語審議会 迷走の60年』、講談社現代新書、平成19年)
混乱するのは当り前なのである。かういふ所にも、実社会の便不便を殆ど考慮せずに成果ばかりを急いで政策を推し進めようとするエリートたちの悪い癖が表れてゐるのである。因みに、この時の「かな字体の統一」によつて所謂「変体仮名」と呼ばれる多様な仮名文字が一音一字に統一された。現代人が古文書を読まうと思つたら、この変体仮名を改めて勉強し直さなくてはならなくなつたのである。
その明治三十三年に、国語調査委員をおいて正式に委員会をもうける準備にとりかかり、いよいよ三十五年に本格的に官制をしいて国語調査委員会が発足したのである。

国語調査委員会の委員長は加藤弘之で主事が上田萬年である。ほかに委員が十一人と補助委員が五人いる。実質的に委員会をリードしたのは加藤と上田である。加藤は、日本の国語改革のために秀才を一人選んでヨーロッパに派遣し博言学を研究させるよう政府に建議した人で、上田はその選ばれてヨーロッパへ行った秀才である。この両人につぐ領導的位置にあったのが大槻文彦と芳賀矢一である。これらは大物だ。対して補助委員は若手の俊秀で、たとえば新村出(当時二十七歳)がはいっており、新村が京都へ行ったあとは山田孝雄がくわわった。

国語調査委員会は、最初に委員会の根本方針四箇条と調査事項六箇条とをさだめた。その根本方針第一条に、
文字ハ音韻文字(「フォノグラム」)ヲ採用スルコトヽシ假名羅馬字等ノ得失ヲ調査スルコト
とある。すなわち漢字を廃止して音標文字にすることは最初から前提になっており、かながいいかローマ字がいいかを研究するのが委員会の役目ということになっているのである。

新村出がのちにこう書いている。
當時末輩に列してゐた自分ながら、根本の第一方針に對して大不滿であつたが、これは設立當初の主旨が旣に動かす可らざるものとなつてゐたので、何とも致し方なかつた。(「國語問題と國語敎育」)
根本方針は既定であって、討議の対象とはならなかったことがわかる。
〔引用者註〕《明治三十七、八年の日露戦争後、新しい社会情勢に即応するために国定教科書を修正しようとしていた文部省は、修正に先立って仮名遣問題を解決しようと「国語仮名遣改定案」をまとめた。それは字音も国語も表音的仮名遣に改定し、用言の語尾と助動詞の長音に「う」を用いる他には長音符号を用いる、助詞「は」「へ」→「わ」「え」とし、同音の連呼によって生じる「ぢ」「づ」以外は「じ」「ず」に統一しようという本案と、用言の語尾と助詞の仮名遣に変化を及ぼさないことを特徴とする別案とから成っており、国語調査委員会や高等教育会議に諮問された。》
《しかしその仮名遣案は貴族院を中心とする保守的傾向の人々によって反対を受けた。国語の尊厳を守ろうと「国語会」「国語擁護会」というような会も生まれた。そこで文部大臣は、小学校教科書の修正を見合わせるとともに善後策を講じることとし、明治四十一年五月には「臨時仮名遣調査委員会」を設置し、仮名遣改定案を教科書に許容する可否について諮問した。これについて、大槻文彦・矢野文雄・芳賀矢一らは、発音が変れば綴りも変えるのが当然である。仮名遣は手段であるから便利なように変えるべきだ。現今社会に行われていないものを学校教育で教えるのはおかしいのであり、これは学術問題ではなく通俗問題だ。これらの主旨で賛成論を唱えた。一方、森林太郎(鷗外)・伊沢修二らは、綴りは元来保守的なものでみだりに変えてはならない。歴史的仮名遣こそ国語本来の姿であるから永遠に守るべきだ、として反対を唱えた。この時の森林太郎の反対論は、極めて整然たる論理をもつもので、言語についての保守的立場を極めて明確に述べている。》(丸谷才一編著『国語改革を批判する』、大野晋「国語改革の歴史(戦前)」、中公文庫、平成11年)
結果、諮問案は撤回され、四十一年九月には棒引き仮名遣も撤回されることとなつた。ここで注意してほしいのは、「棒引き仮名遣」にしろ「国語仮名遣改定案」にしろ、戦争と前後して議題に上つてゐることである。後述されるが、昭和に入つてからは大東亜戦争中に「標準漢字表」なるものが提出され、終戦後の占領期に至つて「当用漢字」「現代仮名遣」が出てくる訳である。我が国の官僚どもは、常に戦争を契機として良からぬ改革案を提起し、「非常時」を口実にしてゴリ押ししようとしてきたことが判るのである。
この国語調査委員会は十二年後の大正三年にいったん廃止され、その後臨時国語調査会と名をかえて再建され、昭和九年さらに国語審議会と名をかえた。性格は一貫してかわっていない。この国語審議会が戦後の国語改革を実行した。

当初の国語調査委員会の補助委員の一人に上田萬年の弟子の保科孝一がいる。いったい大学で言語学ないし国語学を学んだ人は学者であって、運動家になった人はないのだが、この保科孝一は例外で、国語改革の運動家あるいは実践家となり、明治、大正、昭和と実に四十数年にわたってこの文部省の機関――名称は上述のとおり国語調査委員会、臨時国語調査会、国語審議会とかわった。以下一々列挙するのはわずらわしいので「政府国語機関」と言う――に座をしめて、民間出身のマツサカ・タダノリ(松坂忠則)らと協力してついに悲願の国語改革をなしとげた。つまり師上田萬年の意図をつらぬいたわけだ。もっとも当の上田萬年は、その晩年のころには、かつての自分の考えはまちがっていた、と言っていたそうである。山田孝雄がそう書いている(文藝春秋昭和十七年十月号。日本國語會編『國語の尊嚴』昭和十八年國民評論社のなかで大西雅雄が引用している)。
〔引用者註〕大体エリートは現役を引退し棺桶に片足を突つ込んで、何の責任も問はれない境遇に身を置いてから本音を吐露することが多いのである。上田萬年も、本当はもつと早い時期から国語改革のをかしさに気づいてゐたのではなからうか。こういふ無責任な態度は、もちろん現代のエリートもこれを忠実に踏襲してゐるのである。だから引用者は、現役を引退してから活撥に発言するやうな人の話は真面目に聴く気が起らないのである。言ふなら現役の時に言はないと意味がないのである。
政府国語機関は、明治三十五年に発足してから昭和二十年敗戦まで四十数年間に、いくたびも内閣に対して国語改革案を建議した。ただしその建議が、政令となって実施にうつされたことは一度もない。案が公表されるたびにはげしい反対論がおこったからである。具体的にどういう人のどういう反論があったかについては、福田恒存『國語問題論爭史』(昭和三十七年新潮社)を見るとよい。現在全文をかんたんに見られるのは、森鷗外の「假名遣意見」(明治四十一年)、芥川龍之介の「文部省の假名遣改定案について」(大正十四年)など。いずれも全集にはいっている。言語学者、国語学者では、山田孝雄、橋本進吉、新村出などがしばしば反対論をのべた。それらの論はそれぞれの著作集におさめられている。
〔引用者註〕正に言ふべき時に言ふ人こそ本物なのである。そして戦前の改革案が悉く却下されたのは、言ふべき時に言ふ人が大勢ゐたからである。社会が健全であれば、権力がどんなにをかしな事をやらうとしても成功しない。人の体に譬へて言ふと、体が健康であれば、少々の病気なら跳ね返すことができる、といふことなのである。然るに敗戦の混乱といふのは、社会が満身創痍の状態だつたのであり、「当用漢字」と「現代仮名遣」の押しつけとは、抵抗できない病人に薬と偽つて毒を飲ませるが如き非道だつた訳である。
建議はつねに二つの柱から成っていた。一つは表音的かなづかい、一つは漢字制限である。

本書は漢字についての本であるから、かなづかいのことは省略し、漢字についてのべよう。

政府の目標は一貫して音標文字の採用であるが、一挙にやるのではなく、漢字を制限し、一部漢字の使用をみとめる「渡りの時期」をおき、ついで漢字を全廃する二段階方式をとった。よって建議のたびに許容漢字案を出した。

政府国語機関の委員は、当初は学者ないし識者ばかりであったが、大正期から新聞社の代表がくわわるようになり、やがてこれが多数をしめた。新聞はつねに大急ぎでつくらねばならぬものである。現在はコンピューターを使って組版するから漢字がいくらあっても平気らしいが、戦前は植字工が一つ一つ活字を拾った。文字数(文字の種類)がすくないほどすばやく新聞をつくることができる。新聞は使用漢字の範囲をせまく限定することをつねに要求した。
〔引用者註〕悪事の陰には常に新聞社が居るのである。

(高島俊男『漢字と日本人』、文春新書、平成13年)

2019年1月10日木曜日

国語改革四十年――1 漢字をやめようという運動⑤上田萬年と国語政策

上田萬年と国語政策


国語改革論議が最もさかんであったのは、上述のごとく、明治の最初の二十年間であった。

では音標文字化は進んだかと言えば、すこしも進まなかった。それどころか、さきに言ったように、似たりよったりの音を持った数千数万の漢字語がつくられた。それらは、確実に西洋化しつつある日本人の生活の全局面において、それなしにはすまないものになった。それらの新語はどれをとってみても、漢字のうらづけなしには用をなさない。漢字の使用は江戸時代にくらべて飛躍的に増加した。

政治も産業も学術も教育も、何もかもが、漢字がなければ――正確に言えば漢字に訳された西洋語や西洋の概念がなければ――動かなかった。漢字の廃止は、江戸時代のうちならば、よほどの無理をすればあるいはできたかもしれぬが、もはや不可能であることはあきらかであった。しかしそのことが、当時の人たちには見えなかったらしい。日本は音標文字化をめざしていた。
〔引用者註〕近代教育で育つたエリートには、現実が見えない、現実に即して方針を臨機応変に改めることができない、といふ缺点があるのである。繰り返すが、さういふカチカチ頭は「当時の人たち」ではなくて「当時のエリートたち」なのであり、「今のエリートたち」も全くこれと同じなのである。庶民がいくら「そんなバカな事はするな」と言つても、「俺はエリートなんだ、俺が間違ふ筈はないのだ」と内心思つてゐるのかゐないのか、どつちみち聴く耳を持たないのである。
明治の国語政策(音標文字化)を指導したのが上田萬年である。慶応三年生れ、帝国大学和文学科卒、明治二十三年博言学研究のためドイツに留学、同二十七年帰朝、帝国大学博言学科教授。三十一年国語学研究室創設とともに教授。三十三年文部省国語調査委員。三十五年同国語調査委員会委員、同主事。昭和十二年歿、七十一歳。
名の萬年はカズトシとよむらしいが一般にマンネンと言う。こういう名乗系の名にしいてふりがなをつけるのはおろかしいことである。
こんにちの言語学のことを明治の二十年代には博言学と言った。明治三十三年言語学と改称。
上田萬年は、日本語をどうするか、という問題を研究するため、日本政府よりヨーロッパに派遣されたのである。これはかなりばかばかしいことであった。日本語をどうするかの答がヨーロッパにあるはずがない。

ヨーロッパの言語学は――と言っても言語学という学問はヨーロッパの学問なのだからつまり言語学という学問は――現に存在する、もしくはかつて存在した諸言語について、そのしくみやはたらきを、あるいはその類縁関係や系統、変遷の道筋を研究する学問である。特に当時は、印欧語族(インドヨーロッパ語族)という、東はインドから西はイギリスにいたる広大な範囲で話されているあまたの言語がみな共通の祖語から出発した一大家族であるらしいことがわかって、その系統関係の研究がさかんにおこなわれている時であった。

ところが上田萬年の任務は言語学の研究ではなくて国語政策である。国語政策というのは一つの国の政府がこれからの国語をどうするかという政治の問題であって、言語学の研究とはまったく別のことである。国語政策の指針を言語学にもとめたのは、「解剖學者や細菌學者を招いて病氣の診斷を乞うたやうなものであつた」と時枝誠記博士は皮肉っていらっしゃる。

ところが明治政府は、学問という以上はかならず政治に指針をあたえてくれるものと思って若き秀才上田萬年をヨーロッパへ送り出したわけだ。

帰ってきた上田萬年はこう言っている(明治二十八年五月大学通俗講話における講話)。
今日の私はどこまでも支那文字の樣な意字に反對であるのみか、日本の假名の樣な一(ひとつ)の綴音を本とする「シラビック、システム」の文字にも大不贊成なのであります。それで敢て羅馬字とは申しませぬが、その羅馬字的の母音子音を充分に精しく書きわけることのできる「フォネチック、システム」の文字といふものを、最も珍重するものであります。
まあこれくらいのことなら、何も四年間もヨーロッパへ行かなくたって、二万人もいる日本のローマ字論者がはじめから言っている。
〔引用者註〕上田の存在意義は、その学識にあるのではなくて、公権力主導の国語改革の体制を整へたことにあるのである。
《言語学(当時は博言学といった)研究のためにドイツに留学した上田万年が学んできたのは、アルファベットという表音文字の上に築かれた言語学であった。上田は、文字が「言語を写す手段にすぎない」とする観念をそのまま日本へ導入し、表意文字である漢字は理に合わない。従って廃止しなければならないと考え、弟子を養成し、後に行政府に働きかけて多くの委員会を作り、日本の文字改革の基本方針を確立し、それを断行するために、政府の力を使うことを考え(民間の力で改革を進めようとせず)、実際に活動した。西欧言語学を後楯に、行政府に強く働きかけた上田万年の仕事は、その後の国字問題の方向に大きな影響を与え、以後、国語改革の主導権を政府がとるという道をつけた。》(丸谷才一編著『国語改革を批判する』、大野晋「国語改革の歴史(戦前)」、中公文庫、平成11年)
ちょっと説明をくわえるなら、「支那文字」というのは漢字のことである。戦前の学者には支那文字と言う人が多くあった。この呼びかたのほうがよい。漢字と呼んでもおなじことなのだが、どうも「漢字」と言うと、日本語をあらわす文字であるように思う人が多い。「支那文字」と言うと、支那でできた支那語のための文字であることがだれにもあきらかであり、性格のことなる日本語を書きあらわすには不適当かつ不便な文字であることがわかりやすい。
〔引用者註〕著者は、漢字は外来の文字であり、日本語を書き表すのに不向きであるので、成るべくこれを使はないやうにすべきとの立場である。しかし、国語に漢字が採り込まれた時点で、既に国字となつたのである。
《文字をもたなかったわが国では、国語を表記するのに漢字を用いた。漢字を国語の語義に合せてよむことを和訓といい、その訓を字訓という。「山やま」「川かは」「高たかし」「淸きよし」などがその例である。字訓は漢字を国語としてよむ方法であるのみでなく、また国語を漢字で表記する方法であった。字訓が国語表記の方法として一般に認められ、定着するとき、その字を常訓の字という。常訓の字は、いわば国語化された漢字である。そして、このような訓義の定着によって、さらに字音の使用が可能となる。「山川さんせん」「山河さんが」のようにいい、また「高大こうだい」「淸明せいめい」という語が、字音のままで国語化され、語彙化される。漢字を国字として使用するのには、まずその訓義によって字義を理解すること、すなわち字訓の成立が不可欠の条件であった。》(白川静『字訓』、「字訓の編集について」、平凡社、平成19年)
要するに、音読みだけの熟語(=字音語)が国語の語彙として成立する為には、先づそれらの漢字と大和言葉との結びつき(=常訓)が確立されてゐなければならないといふ意味である。即ち、国語で字音語が用ゐられてゐるといふ事実そのものが、漢字が既に国字であることの何よりの証拠なのである。従つて敢てこれを「支那文字」などと呼んで国語から排斥しようとするのは、国語そのものを破壊する行為にほかならないのである。
「意字」は表語文字。

「綴音」。テイオンまたはテツオン。通俗講話(一般の人むけの学術講話)だから多分テツオンと言ったのだろう。スペリングのことだがここでは音標字の意でもちいている。

「シラビック、システム」。音節すなわち人の口から出る最小単位の音を一字に書く方式。日本語のばあいかながそうである。漢語のばあいは漢字がそうである。

「フォネチック、システム」。音節をさらにその音を構成している要素に分解して書きあらわす方式。日本語のばあいローマ字がそうである。漢語のばあいは注音字母および拼音ローマ字がそうである。

たとえば日本語の「カキクケコ」(「かきくけこ」と書いてももちろんおなじ。以下カタカナで書く)の五音は共通の子音を持っている。そのことはむかしの日本人にもわかっていたからカキクケコを一行にならべたのである。しかし文字の上ではその共通子音はすこしもあらわれていない。これを子音と母音に分解してka ki ku ke koと書くとkという共通子音を持つことが一目瞭然である。同様に日本語のアカサタナハマヤラワは共通の母音を持つがそれは文字の上にはあらわれていない。これをa ka sa ta na ha ma ya ra waと書けば共通母音を持つことがだれでもわかる。上田萬年はこの分解方式のほうがよいと言っているのである。

漢語のばあい漢字はすべて一音節一字で、日本語のかなとおなじく、その字を見ただけではその音節の構成要素はわからない。詩、殺、社、誰、手、山……とならべてもこれが共通の子音を持つことはわからないが、ㄕ、ㄕㄚ、ㄕㄜ、ㄕㄟ、ㄕㄡ、ㄕㄢ……(声調符号は略す)もしくはshi, sha, she, shei, shou, shan……と書けば共通子音を持つことが一目でわかるわけだ。漢字は「シラビック、システム」、注音字母および拼音ローマ字は「フォネチック、システム」にあたるわけである。

(高島俊男『漢字と日本人』、文春新書、平成13年)

2019年1月9日水曜日

国語改革四十年――1 漢字をやめようという運動④かな派とローマ字派

かな派とローマ字派


どういう音標文字をもちいるかについては意見がわかれた。大きくは「かな派」と「ローマ字派」とにわかれる。前者は漢字を廃止してかなのみで日本語を表記しようとする人たち、後者は漢字もかなも廃してローマ字で日本語を表記しようという人たちである。

「かなのくわい」は明治十六年結成、総裁は皇族で、会員は約一万人、「羅馬字會」は翌十七年結成、朝野の貴顕紳士をつらねて会員約二万人、といずれも一時は非常に隆盛であったが、内部闘争に力を消耗して漢字を相手に戦闘するに至らず、前者は明治二十三年に、後者は二十五年につぶれた。ただし、漢字を廃止してかなに、或はローマ字に、という思想がつぶれたのではない。同一趣旨の組織はつぎつぎに生れて昭和におよび、特に「カナモジカイ」のマツサカ・タダノリ(松坂忠則)は、戦後の国語改革をリードした。

かな論者は、幕末の前島密、明治初期の大槻文彦、物集もづめ高見たかみなど大物が多い。ローマ字論者は、物理学者田中館たなかだて愛橘あいきつ、田丸卓郎など理科系の学者が多い。帝国大学総長外山とやま正一まさかずは「かなのくわい」と「羅馬字會」の両方の会員であった。外山は言う。「我々の敵は漢字である。その漢字がまだ倒れていないのに、倒したあかつきには天下はオレのものだ、いやオレのものだ、と、まったく敵と戦わないでもっぱら味方同士で戦争しているのはばかばかしい。だから自分は両方にはいって、まず漢字を廃止するために戦え、と説いているのである」と。まことに正論である。
〔引用者註〕《我が国社会学の創始者外山正一は、言語文字は知識を伝え、思想を交換するのに便利でなければならない、従って海外諸国と競争するためには漢字を廃止すべきであると「漢字を廃し英語を熾に興すは今日の急務なり」(『東洋学芸雑誌』第三十三号明治十七年六月・『新体漢字破』同十一月)と主張した。外山によれば、すでに中国から文化的に学ぶ知識はない、今や欧米諸国の知識をまる取りしなければならない時である。それゆえ欧米の語を学び用いることが必要であり、その方がチンプン漢語で訳翻するより分りやすいはずであると主張した。》(丸谷才一編著『国語改革を批判する』、大野晋「国語改革の歴史(戦前)」、中公文庫、平成11年)
日本の音標化論、およびかなとローマ字との得失等については、田丸卓郎の『ローマ字國字論』(岩波書店)をおすすめする。この本は、最初大正三年(一九一四)に刊行され、大正十一年に改訂版、昭和五年に再改訂版が出て(翌々七年著者歿)、それが平成十三年(二〇〇一)のいまもなお現役で刊行中という、おそらく現在、日本で最も長寿をたもっている本である。ごくわかりやすく書かれていて、これをよめば、明治から昭和にかけての雰囲気や、各派の論点、主張などがよくわかる。一方またたとえば、文化遺産の継承、つまり過去の日本人とこれからの日本人とのつながりをどうたもってゆくか、というだいじな問題について、著者の説くところがいかにおざなりであるかを見ると、これほど聰明な、まじめな、良心的な人であってもこうであったのだなあと、感慨にとらえられるのである。当時の多くの日本人は、ひたすら「坂の上の雲」を見つめ、自分たちの根っこのこと――いかにまずしいものであろうと、この根っこを切りはなしてしまっては、われわれ日本人はその立つ地面をうしない、世界にただよう浮草になってしまうのだ、というようなことを考えなかったのだ。無論それは戦後の日本人もまたそうなのであるが――。
なお田丸卓郎は、夏目漱石とともに、寺田寅彦の熊本五高時代の先生である。その人柄については寅彦の「田丸先生の追憶」がおもしろい。
音標文字を採用するとすれば、事実上かなとローマ字しかない。「かな派」と「ローマ字派」とが生じたのは当然である。しからば両派が、どちらをとるかについて争ったかといえば、それはほとんどなかった。「かな派」はその内部で、カタカナをもちいるかひらかなをもちいるか、またどういう書きかたをするかでいくつかの分派にわかれ、また「ローマ字派」は、英米式にするか日本式にするかで二つにわかれ、それぞれ分派同士の主導権争いで力を消耗したからである(英米式とは富士山をFujiと書く方式、日本式はHuziと書く方式)。
〔引用者註〕とかく運動家は内紛が好きなのである。内紛が好きなのは権力が大好きだからなのである。権力争ひに明け暮れてゐると、いつの間にやら個々の小勢力に分裂し力を失つてしまふのである。
音標文字化すれば、以後の日本人は、それまでの日本人が書きのこしてきたものをよめなくなるが、明治のなかばごろまでは、そのことを考慮した者はほとんどなかった。明治初めごろの日本人は、それまでの日本のいっさいを、何の価値もないものと思っていた。かえって日本へ来た西洋人のほうが、そんなにかんたんにいっさいの過去を捨ててしまっていいのかと心配したくらいである。

たとえば『ベルツの日記』明治九年十月二十五日の条にはこうある。
ところが――なんと不思議なことには――現代の日本人は自分自身の過去については、もう何も知りたくないのです。それどころか、教養ある人たちはそれを恥じてさえいます。「いや、何もかもすっかり野蛮なものでした(言葉そのまま!)」とわたしに言明したものがあるかと思うと、またあるものは、わたしが日本の歴史について質問したとき、きっぱりと「われわれには歴史はありません、われわれの歴史は今からやっと始まるのです」と断言しました。(……)これら新日本の人々にとっては常に、自己の古い文化の真に合理的なものよりも、どんなに不合理でも新しい制度をほめてもらう方が、はるかに大きい関心事なのです。(菅沼竜太郎訳)
「新日本」ということばがしばしばとなえられた。日本は白紙状態で新しく建国にのりだすのだ、というのが多くの人の考えであった。したがって、これまでの日本人の書きのこしたものを、これからの日本人がよめなくなっても、それはさしつかえないのである。どっちにしてももう用はないのであるから。

言語は新日本建設の道具であり、したがってこれをわかりやすく能率的なものにするのがよいのである。日本の言語は、これからの日本人が、過去の日本人と語りあうための道具でもあるのだ、とはだれも考えなかった。

そう、右とおなじことが、約八十年後、昭和敗戦後の日本でもう一度おこるのである。淡泊で、腰が軽く、変り身のはやい点において、日本人は、世界の諸種族のなかでもおそらく最右翼にあると言ってよいと思われる。
〔引用者註〕本書では漢字廃止論者の論ばかりが紹介されてゐるので、宛もそれのみが当時の知識人全般を覆つてゐたかのやうに錯覚するが、漢字尊重の論も既に早くから発表されてゐたのである。
《明治時代に、教育の普及ためには漢字は害悪であるといわれ、漢字廃止が声高に叫ばれていたが、明治九年六月二十日、海内果は『東京日日新聞』の社説で「文字論」を発表し、自由の思想を発露するために、今日我が国において最も効用ある文章を選ぶべきと主張した。その最も効用ある文章とは日本で用いられて久しく、今日の気運に適応している漢字交りの文章を選ぶべきだという。これが漢字尊重論の第一である。
〔……中略……〕
井上円了の『漢字不可廃論』が刊行されたのは、…明治三十三年である。これは国字改良論に反対したもののうち、最も明確な論といえよう。井上の国字改良反対の主張は次のようなものである。

  •  国字改良の困難とか平易は習慣の有無に関係している。
  •  漢字は字数として千~二千字もあれば幾十倍する単語を組み立てることができる。
  •  漢字を用いながら、言文一致の実行は可能である。
  •  漢字の字形・字体は多少の変更は免れまい。
  •  漢字を廃止したら同音の文字を区別することができないので、言語文章の錯雑は今より五倍も十倍もふえる。
  •  言語文字は精神思想を表示する第一の器械である。
  •  文字の上に事物の分類が現われているのは漢字のみである。
  •  文字の形と語声で脳中に印象付ける漢字は、世道人心の根本である。
西欧の言語学に依っている人々との決定的な違いは、文字を単に言語を写すための道具ではないとし、「精神思想を表示する」ものと考えていることである。》(丸谷才一編著『国語改革を批判する』、大野晋「国語改革の歴史(戦前)」、中公文庫、平成11年)

(高島俊男『漢字と日本人』、文春新書、平成13年)

2019年1月8日火曜日

国語改革四十年――1 漢字をやめようという運動③中国の音標化

中国の音標化


中国も、日本よりややおくれて、音標文字化を国の方針とした。一九一二年に成立した中華民国も一九四九年に成立した中華人民共和国も音標文字化をめざした点ではおなじだが、採用した文字がちがう。

中華民国は、「注音字母」という日本のカタカナのような文字を新たに作った(声母がㄅ、ㄆ、ㄇ、ㄈなど二十一、韻母がㄚ、ㄛ、ㄜ、ㄝなど十五、合計三十六字、声調は別につける。縦にも横にも書ける。たとえば「革命」を横書きするとㄍㄜˊ ㄇㄧㄥˋ)。

中華人民共和国は拼音ピンイン羅馬字ローマツーというアルファベットをもちいる方式を作った(「革命」はgémìng、横にしか書けない)。

注音字母はきわめて合理的にできている。ただ、見なれぬ字をおぼえないといけないのでやっかいである。拼音羅馬字は、アルファベットを知っている者には新たな字をおぼえる必要がなく、したしみやすい。そのかわりあまり合理的にはできていない。
ここで、中華人民共和国の「簡体字」について説明せよと注文がついた。日本も中国もそうだが、国家の方針として音標文字化(つまり漢字廃止)をきめた。しかし一挙にやるのではなく「渡りの期間」をおくことにした。日本のばあい、漢字の数をへらし、字体を簡略化して当分の間使用をみとめることとしたのはごぞんじのとおり。中国のばあい、中華民国は、音標文字化をかかげ注音字母の普及にのり出したが漢字に手をつけぬうちに大陸でほろんだ。台湾に移ってからは共産党との対抗上むしろ漢字保存の傾向が強くなった。中華人民共和国は漢字を簡略化して当分の間使用をみとめ、その間にローマ字を普及して遠からぬ将来完全に廃止することとした。その後、日本も中国も、音標文字化の方針を正式にとりけしたわけではないのだが、事実上漢字廃止にすすまず、廃止までの「渡りの期間」用だったはずの簡略字体があたかも正式字体になったような中途半端な状態のまま停止している。中華人民共和国の簡体字は、几(幾)、个(個)、广(廣)、义(義)、干(乾、幹)、丰(豐)、开(開)、无(無)、书(書)、币(幣)、习(習)、乡(鄕)、认(認)、云(雲)、儿(兒)のごときものである。日本人はしばしばこれらの字を見て「けったいな字」と笑うが、日本略字も似たようなもので、目クソ鼻クソを笑うのたぐいである。藝を芸とし、缺を欠とし、假を仮としたのなどは中国簡体字よりわるい。
〔引用者註〕実は、中華人民共和国では現行の「簡体字」よりも更に簡略化を進めた簡体字のバージョン2を1977年に公布したことがある。しかし餘りにも簡略化しすぎて、誰も読むことができずに撤回された。あんな独裁国家でも、多くの人の反対によつて、政府が一度出したものを撤回するやうなことがあり得るほど、文字といふものは大事なものなのである。
ほんとうは、さきにも言ったように、漢語には漢字が一番あっているのである。当然のことだ。漢字は漢語を表記するためにうまれたものなのだから――。しかし中国人は「人類の文字は象形文字から音標文字へと進む。それが文字の進歩である」と思った(いまもそう思っているらしい)。なぜそう思ったのかというと、西洋で音標文字を使っているからである。

本家本元すら漢字を捨てようというのだから、日本人が捨てようとしたのはふしぎでない。もともと日本人にとって漢字は借りものであり、日本語とあわなくて苦労しているのである。実際、「かつてわれわれは支那に学んだ。このたび支那よりも西洋のほうが優秀であることがわかった。ゆえに西洋に乗りかえるのに何の不都合があろう」というのが、英語採用論たると音標文字論たるとを問わず、論者たちの一致した見解であった。
〔引用者註〕かつて江戸時代に、賀茂真淵や本居宣長等の国学者があれほど「漢意からごゝろ」(外国崇拝)を戒めたにも拘らず、いざ近代に乗り出すに際してこの有様なのである。本当に我が国のエリートと呼ばれる人達にはつける薬がないのである。仮に漢字を借り物と呼ぶならば、新たに乗り換へる西洋も同じ理屈で借り物に過ぎないではないか。
明治二年に出た福沢諭吉の『世界せかい國盡くにづくし』。これは文明にむかう世界の諸国諸種族を、七五調で調子よく紹介したものである。中国についてはこう言っている。
……抑そもそも支那からの物語、往古むかし陶虞たうぐの時代より、年を經ること四千歲しせんざい、仁義五常を重おもんじて、人情厚き風(ふう)なりと、其名(そのな)も高く聞えしが、文明開化後(あと)ずさり、風俗次第に衰へて、德を修めず知を硏(みが)かず、……(以下阿片戦争に大敗したことをのべて)……猶なほも懲こりざる無智の民、理もなき事に兵端へいたんを、妄みだりに開く弱兵は、負(まけ)て戰ひ又負(まけ)て、今の姿に成なり行ゆきし、其有樣ぞ憐(あは)れなり。
歴史の大道を進むどころかずるずる後退している。現在では日本よりも後方に位置している、という見かたである。ずいぶんバカにしているようだが、中国の進歩的な知識人(たとえば魯迅のような)の見かたもこれとおなじであった。
〔引用者註〕《中国の近代文学の元祖ともいわれ、国民精神の改造を課題とした作家、魯迅(一八八一~一九三六)は、「漢字が滅びなければ、中国は必ず亡びる」と断言して、次のように述べている。
この四角い字〔漢字〕の弊害を伴った遺産のお蔭で、我々の最大多数の人々は、すでに幾千年も文盲として殉難し、中国もこんなザマとなって、ほかの国ではすでに人口雨さえ作っているという時代に、我々はまだ雨乞いのため蛇を拝んだり、神迎えをしたりしている。もし我々がまだ生きて行くつもりならば、私は、漢字に我々の犠牲となって貰う外はないと思う。(「漢字とラテン化」松枝茂夫訳による)》(大島正二『漢字と中国人 ―文化史をよみとく―』、岩波新書、平成15年)
したがって、文字についても、軽快で能率的な音標文字アルファベット、対して、おくれた鈍重な象形文字漢字、というのが当時の見かただった。魯迅が「漢字がほろびなければ中国がほろびる」と言ったように、漢字は進歩の足かせと見られた。

ゆえに当然、中国も日本も漢字を捨てようとしたのであった。
〔引用者註〕支那では当時、魯迅の言つた如く確かに人口の大部分が文盲であつた。それは今から考へると、単に教育が行き渡つてゐないが故の識字率の低さだつたに過ぎないのであるが、実際に数が膨大で憶えるのが大変な漢字こそが文盲が多い原因であると誤解してしまつたのも致し方ないことなのであつた。然るに日本の場合はこれとは事情が異つたのである。
《日本では一七〇〇年代に、すでに寺子屋なる教育設備があった。少年少女の二五パーセントがそこで読みと書きと初歩の計算とを学習していた。》(丸谷才一編著『国語改革を批判する』、大野晋「国語改革の歴史(戦前)」、中公文庫、平成11年)
当時の識者が「アルファベットを使つてゐるからこそ進んでゐるのだ」と考へたその西洋列強諸国の国民は、その何パーセントが文字を読めたのだらうか?若し当時の日本人がこの事に気づいてゐれば、近代化の後れを漢字に帰するやうなバカな議論は起らなかつたのではなからうか。
当時の人たちは、日本人にせよ中国人にせよ、言語というものを甘く見ていた。各々の言語というのは、日本語で「そら」と言うものを英語ではskyと言う、「ねこ」と言うものをcatと言う、あるくのをwalkと言い、わらうのをlaughと言う、という単なるおきかえと思っていた。

実は言語というのは、その言語を話す種族の、世界の切りとりかたの体系である。だから話すことばによって世界のありようがことなる。言語は思想そのものなのだ。たとえば、brother, sisterにあたることばは日本語にはない。――そう言うとみなさん、「兄弟」「姉妹」ということばがあるじゃないか、と言うかもしれない。でもね、英米人はたとえばI have two sisters.というふうに言うけれど、日本人が「わたし姉妹が二人あります」と言うことは決してないでしょう?「姉が二人あります」とか「姉が一人、妹が一人あります」とか言う。つまり、brotherとかsisterとかいうのは、自分のきょうだいについて、男女の別ははっきり区別するけれども、自分より上か下かは区別せず、ひっくるめてとらえるとらえかただ。対して日本語は、「上か下か」をわけてとらえる。そういうとらえかたしかない。ところが英語には、日本語の「にいさん」「ねえさん」「兄」「姉」「弟」「妹」にあたる単語はない(辞書にはelder brotherとかyounger sisterとかの語が出ているけれども、それは複合語であるし、実際に英米人がI have an elder brother and two younger brothers.なんて言いはしない)。つまり、日本語と英語では「世界のとらえかた」がちがうわけなのだ。

ところが当時の人たちには、言語がそういう、それぞれの種族のものの考えかた、世界のとらえかたにかかわる重いものだということがわからなかった。それを知るための条件がなかった。世界の種々の言語をよく知ればおのずとわかってくるのだが、自分たちの言語だけしか知らず、そこへ急に規模雄大できらびやかな西洋文明を見て、目がくらんだ。だからかんたんに、言語改革、というようなことを言い出すことができたのである。

(高島俊男『漢字と日本人』、文春新書、平成13年)

2019年1月7日月曜日

国語改革四十年――1 漢字をやめようという運動②音標文字論

音標文字論


もう一つの主張が、音標文字論である。

西洋の言語と日本の言語との最も大きなちがいは、西洋では音標文字をもちいているのに対して日本では漢字をもちいていることである。すなわち進んだ言語は音標文字をもちいるのである。であるから日本も音標文字を採用して、進んだ言語に脱化しなければならない――とこれら論者は主張した。

西洋の言語と日本の言語、と言いながら文字のことばかり気にするのは甚だ奇妙だが、従来日本の知識人は、書物をつうじて異文化をとり入れてきたので、文字がことばであると思っていたのである。

音標文字(Phonogram)というのは、意味にかかわりなく、音のみをしるす文字である。アルファベットは音標文字である。catは、c、a、tの各文字は何らの意味を持たず、catという三字のくみあわせによって〔kæt〕という音をあらわし、〔kæt〕とよばれる動物を示す。日本語のかな表記「ねこ」「ネコ」も同様である。「表音文字」と言ってもおなじことだが、明治時代にはphonogramのことを「音標文字」と言ったし、いまもおおむねそうであるので――みなさんが英語の辞書でphonogramをひいたら「音標文字」と出ていると思う。あんまり小さな辞書だとそもそもphonogramという単語そのものが出てないかもしれませんけどね――「音標文字」と言うことにしておきます。

アルファベットやかなのような音だけをあらわす文字に対して、漢字は、一字一字が一つ一つのことば(単語)をあらわしている。これを「表語文字」とよぶ。「猫」という字は猫ということばをあらわす。

漢字を「表意文字」と言う人があるがそれは不適当である。漢字は「意」のみをあらわしているのではなく、これまで再々言ったように「語」をあらわしている。

典型的な表意文字は算用数字ですね。1を日本人はイチと言い英米人はoneと言いドイツ人はeinsと言い、その他各言語によってみなちがう。1、2、3……は「意」のみをあらわしている。特定の音を持たない。すなわち特定の「語」を表記したものではない。その他、天気予報のお天気マークや傘マークなどもそうで、「意」のみを持っている。道路入口の「🚫」は「自動車はここから先へはいってはいけませんよ」の意味をあらわし、塀の「⛩」は「ここでおしっこをしてはいけません」の意味をあらわす。まあああいうのが「表意文字」でしょうね。

音標文字を採用するというのは、すなわち漢字を廃止することである。したがって「音標文字論」と「漢字廃止論」とはおなじものである。

日本政府は明治三十年代にいたって、音標文字化を国の方針とした。
〔引用者註〕《……国語学者上田万年かずとし(一八六七~一九三七)を主事として一九〇二年に発足した文部省国語調査委員会が、調査方針を同年七月に以下のように定めた…
 一 文字ハ音韻文字(「フォノグラム」)ヲ採用スルコトヽシ仮名羅馬字ローマじ等ノ得失ヲ調査スルコト
 二 文章ハ言文一致体ヲ採用スルコトヽシ是ニ関スル調査ヲ為スコト
 三 国語ノ音韻組織ヲ調査スルコト
 四 方言ヲ調査シテ標準語ヲ選定スルコト
 こうして、適宜臨時委員や補助委員を任命しながら活動を開始した。
 明治初期においては一部知識人が主張するだけだったが、一九〇〇年前後に、官主導によって「国語」をつくりあげることが具体的に始まったのである。
 この方針「一」は裏返せば漢字廃止の宣言である。この宣言の基礎には、「二」とも関連するが、それまでの書きことばの中心であった漢文訓読体からの離脱のための漢字の排除という志向があった。さらに上田などが学んできた近代西洋言語学では文字よりも音声に分析の重点がおかれていたことの影響もある。》(安田敏朗『国語審議会 迷走の60年』、講談社現代新書、平成19年)

(高島俊男『漢字と日本人』、文春新書、平成13年)

2019年1月6日日曜日

国語改革四十年――1 漢字をやめようという運動①

1 漢字をやめようという運動


前の章では、――人類の歴史は一本道である。この道の上を各国各種族があゆんでいる。さきをあゆんでいるのは「進んでいる」のであり、うしろのほうでマゴマゴしているのは「おくれている」のである――という、そういうものの見かたを日本人は西洋人から教わったというお話をしました。日本人が西洋人から教わったことのうち、これが根本である。
〔引用者註〕進化論に基づく所謂「進歩史観」である。後にマルクスの思想が入つて来た時に、我が国のエリートの多くがそれに染まつてしまつたのは、それをすんなり受容してしまふ素地が初めから用意されてゐたことが判るのである。
そこで話は明治のはじめだ。日本は西洋よりはるかにおくれている。なにもかもがおくれている。急速に進まねばならぬ。その方法はかんたんである。なにもかも西洋人のやっているとおりにやればよいのである。――というわけで、政治、経済、産業、交通はもとより、学問も芸術も教育も、あらゆる事物を西洋に学びはじめたのである。

そのあらゆる事物にふかくかかわる最重要の事物は、ことば、すなわち言語である。いかなる法律も制度も学問も技術も、われわれは言語を媒介にして学ぶのであるから。

しかるに、日本の言語と西洋の言語とは大いにことなる。大いにことなるというのは、日本の言語が大いにおくれているということである(当時の日本人は当然のごとくそう思った)。追いつかねばならない。日本の言語を西洋の言語のようなものにしなければならない。
〔引用者註〕著者の言ふ「当時の日本人は…」とはエリートの人々のことであつて、市井の日本人がそんな事を考へる筈はないのである。また国字改良論は実は江戸時代の半ば頃からあつたといふ。
《ところが徳川時代中期、西洋語の学習とアルファベットの輸入とに刺激された新井白石、本多利明をはじめとする諸学者は、西洋の文字は数が少ないことを見た。それに驚き、日本語での漢字の数の多いことを批判的に論ずるようになって来た。徳川末期に学問を志す者が学んだのは主にオランダ語である。そのオランダ語を彼らは漢語に翻訳した。現代に至るまで生き続けている和製漢語の中には、当時のオランダ語学習の結果作り出されたものも少なくない。かように、蘭学者はオランダ語の日本訳にあたって大いに漢字を利用した。しかし一方では漢字の排斥を唱えたのである。》
《また、借用した文字である漢字に国語が隷属しているように見えることを不満とし、漢字漢語に対して批判的な立場をとった人もあった。司馬江漢などは、漢字を乱用すべきでないと説いたという。》(丸谷才一編著『国語改革を批判する』、大野晋「国語改革の歴史(戦前)」、中公文庫、平成11年)
言語は、日本が西洋からまなばねばならぬ事物の一つであるとともにあらゆる事物を学びとるための手段でもあるから、その改良、あるいは変革が課題として提起されたのも早い。すでに明治維新よりも前に、幕臣前島密が将軍に漢字廃止を建言している。
〔引用者註〕《幕府開成所の反訳筆記方だった前島密は、慶応二年十二月、開成所の頭取を介して将軍徳川慶喜に「漢字御廃止之議」を奉った。これが公的な漢字批判の最初である。》
《前島は、かつて中国に滞在したことのある米人宣教師ウィリアムズ(Channing Moore Williams)の説に示唆を受け、句法語格の整然たる日本語があり、簡易便利な仮名文字があるにも拘らず、繁雑不便難解な漢字によって教育を行うのは漢字の害毒に染まって気づかないものだと主張した。そして、教育を広めるために文字を易しくし、文字の記憶のために精力を浪費せずに、事柄を理解・推理・判断する力を養うべきであると提言した。漢字を使っているから日本は進歩しない。欧米諸国の今日の繁栄は自国の文章と平易な表音文字によって修めた学問による。前島の漢字廃止論はこうした、事の一面しか見ない思想に支えられていた。》(丸谷才一編著『国語改革を批判する』、大野晋「国語改革の歴史(戦前)」、中公文庫、平成11年)
明治になってからは、特にその最初の二十年、言語改革論がさかんにとなえられた。

その主張はさまざまだが、大きくわければ二つのグループにわけられる。一つは日本語を捨てようという主張であり、いま一つは、日本語は捨てないが漢字を捨てようという主張である。

まず一つめの主張についてのべよう。

これは、おくれた言語である日本語を全面的に捨て去り、英語を日本の国語にしよう、という主張である。

英語採用論を主張した人は数多いが、その最も著名なのは、文部大臣であった森有礼である。
〔引用者註〕初代文部大臣からして、こんな有様だつたのである。近年は頓に文部科学省の異常が目につくが、最初の出発からしてかうだつたのである。
森の考えは、アメリカで刊行した英文著書『日本の教育』(Education in Japan, 1873)、特にそのなかの、米国の学者ホイットニーにあてた手紙に見えている。そこで森は、「わが国の最も教育ある人々および最も深く思索する人々は、音標文字phonetic alphabetに対するあこがれを持ち、ヨーロッパ語のどれかを将来の日本語として採用するのでなければ世界の先進国と足並をそろえて進んでゆくことは不可能だと考えている」とのべている。もって当時の日本の知識界の雰囲気を知るに足る。これに対してホイットニーは、言語はその種族の魂と直接に結びついたものであるから、そう安易に放棄するなどと言ってはならない、と森に忠告した。
〔引用者註〕ホイットニーが森に宛てた手紙の抜粋《一國の文化の發達は、必ずその國語に依らねばなりませぬ。さもないと、長年の敎育を受けられない多數の者は、たゞ外國語を學ぶために年月を費やして、大切な知識を得るまでに進むことが出來ませぬ。さうなると、その國には少數の學者社會と多數の無學者社會とが出來て、相互ににらみあひになつて交際がふさがり、同情が缺けるやうになるから、その國の開化を進めることが望まれなくなります》(荻野貞樹『旧かなづかひで書く日本語』、幻冬舎新書、平成19年)
森はまた、言語だけでなく人種も変えるべきであるととなえ、日本の優秀な青年たちはアメリカへ行って、アメリカ女性と結婚してつれ帰り、体質・頭脳ともに優秀な後代を生ませよ、とすすめた。

いまそういう話をすると、森という人は頭が変になっていたのではないか、と言う人がある。しかし森は正気であり、のみならず有能で誠実な政治家であった。森は若いころからヨーロッパに留学し、西洋をよく知っていた人である。日本人は西洋人のようにならねばならぬ、と本気で考えれば、体質改良、言語変革を考えるのはむしろ当然であったろう。日本語を日本語のままで英語やフランス語のような言語に改良するのはとても無理だ、と考えるほうが自然である。日本人同士結婚して生れた子を西洋人なみの体格に育てろ、というのが無理であるように。
〔引用者註〕ナチスの優生学を彷彿させるのである。ナチスの場合は自分達アーリア人の血こそ最も優れたものだと考へたのに対し、森有礼の場合はさういふアーリア人の優れた血を分けてもらひ日本人を西洋人の仲間にしてもらはうといふ、今から考へれば気持ちのよい位に自虐的な人種差別主義であつた訳である。
なお森有礼にせよ、すこしあとの高田早苗(早稲田大卓総長、文部大臣などを歴任)などにせよ、英語を日本の国語にすることをとなえた人たちはみな、日常の会話はともかくも、すこし筋道立ったことを話す際、特に文章を書く際には、日本語よりも英語のほうが容易であった人たちである。明治の前半ごろに教育を受けた人たちは、日本語の文章を書く訓練を受けたことはなく、もっぱら西洋人の教師から西洋語の文章を書く訓練をきびしく受けたのであるから、日本語の文章は書けないが、英語やフランス語なら自由に書ける、というのはごくふつうのことであった。その点、昭和の敗戦後に、フランス語を国語にするのがよいと言った志賀直哉などとは選を異にする。なおまた、言うまでもないことだが、明治前半ごろまでの日本語の文章というのは、それを書くのに特別の訓練を要するものであった。こんにちの日本人が書くような、だらだらした口語体の文章というのはまだなかった。文章は、話しことばとは別のものであった。
〔引用者註〕凡そ外国語を真面目に勉強した人といふのは、外国語の方が国語よりも優れてゐると勘違ひしがちなのである。しかし抑も外国語の様々な言ひ回しや、微妙なニュアンスの違ひ等を理解できるのは、実は国語(日本語)がその外国語と同等かそれ以上のものを持つてゐるからなのである。引用者の中学時代の英語の先生が「英語能力は、国語能力以上のレベルに達することはできないのだよ」と仰つた言葉は、今でも忘れられないのである。我が国では幼稚園から大学院まで、全ての授業カリキュラムが国語で行はれてゐる。また世界中の著名な書籍が殆ど全て国語に翻訳されて出版されてゐる。これほどの国は世界中どこにもないのである。これは我が国の国語が、どんな言語で表現された概念をも正確に言ひ表すことができる証拠である。即ち我が国の国語は世界最高レベルの言語といふことが出来るのである。勿論これらは、明治期の近代化によつて国語の語彙が大幅に増えた結果なのであらうが、しかし明治初期のエリートたちが、我が国が西洋よりも立ち後れてゐるのは国語が西洋語よりも劣つてゐるからだと誤解してしまつたことが、その後の無意味で有害な国語改良論の大きな原因となつたのである。

(高島俊男『漢字と日本人』、文春新書、平成13年)