2019年1月11日金曜日

国語改革四十年――1 漢字をやめようという運動⑥廃止を前提に

廃止を前提に


明治三十五年に国語調査委員会の官制ができた。

上田萬年の経歴をのべたところで言ったとおり、その前明治三十三年に、文部省に国語調査委員というのがおかれている。いったいこの明治三十三年というのは、それまで二十年余の国語改革論議をうけて文部省が動き出した年である。この年に小学校令を改定して、教科書で「字音棒引き」を実施している。漢字のおんをかなで書く際――中学校以上や一般社会では字音語は当然漢字で書くが、小学校ではかなで書くことがあるわけだ――長音を長音符(いわゆる棒)であらわすことにした。たとえば小学校は「ショーガㇰコー」、一年生は「イチネンセー」、教科書は「キョーカショ」というふうに書く。もっともこれは評判がわるくて、八年間やっただけで明治四十一年に廃止になった。それに、小学生にとってもこれはむずかしかった。何が字音で何が日本語(和語)であるか、小学生にはわからないから。たとえば相談は「そーだん」だが、「そーだよ」はだめで「さうだよ」。東京は「とーきょー」だが今日を「きょー」はだめで「けふ」である。
〔引用者註〕《明治三十年代は日清戦争の勝利によって日本の民族的自覚が高まった時期である。敗戦国製の漢字を戦勝国が使用しているのはよくないというような幼稚な意見が広く通用した。そこで字音の仮名遣をどうするかを決めるのが先決だという意見も出た。よってまず字音仮名遣を発音通りに改定することが認められた。しかし、棒引き案は安易に発音主義を目指したわけではない。明治二十六年に時の文部大臣井上毅は、漢字音の仮名遣は字音の専攻者でなければできないことであるから歴史的仮名遣による必要はないと述べ、字音仮名遣を発音式に改定することの可否を、栗田寛・黒川真頼・外山正一・物集高見・落合直文・高津鍬三郎らの諸学者に諮問している。》(丸谷才一編著『国語改革を批判する』、大野晋「国語改革の歴史(戦前)」、中公文庫、平成11年)
この「字音棒引き」は現代仮名遣しか知らない現代人にとつては理解しにくいと思ふ。抑も一般に「歴史的仮名遣」「旧仮名遣」と呼ばれてゐるものには、「国語仮名遣」と「字音仮名遣」とがある。「国語仮名遣」とは「やまとことば」の古典的仮名遣であり、「字音仮名遣」とは漢字の音読みの古典的仮名遣のことである。「字音棒引き」とは、この「字音仮名遣」の方だけを「現代仮名遣」風のものに改めませう、といふものである。
《明治政府がはじめて大規模な漢字政策をおこなったのは、一九〇〇年の小学校令改正のときであった。ここでは、かな字体の統一、教育漢字数を千二百字に制限、そして字音かなづかい(漢字のおんの表記)の表音表記がうたわれた(棒引かなづかいとよばれた)。ただし国語かなづかい(和語や訓)は従来の歴史的かなづかいなので、漢字の音だけ別の表記原理を適用することになり、生徒側に混乱をもたらした。》(安田敏朗『国語審議会 迷走の60年』、講談社現代新書、平成19年)
混乱するのは当り前なのである。かういふ所にも、実社会の便不便を殆ど考慮せずに成果ばかりを急いで政策を推し進めようとするエリートたちの悪い癖が表れてゐるのである。因みに、この時の「かな字体の統一」によつて所謂「変体仮名」と呼ばれる多様な仮名文字が一音一字に統一された。現代人が古文書を読まうと思つたら、この変体仮名を改めて勉強し直さなくてはならなくなつたのである。
その明治三十三年に、国語調査委員をおいて正式に委員会をもうける準備にとりかかり、いよいよ三十五年に本格的に官制をしいて国語調査委員会が発足したのである。

国語調査委員会の委員長は加藤弘之で主事が上田萬年である。ほかに委員が十一人と補助委員が五人いる。実質的に委員会をリードしたのは加藤と上田である。加藤は、日本の国語改革のために秀才を一人選んでヨーロッパに派遣し博言学を研究させるよう政府に建議した人で、上田はその選ばれてヨーロッパへ行った秀才である。この両人につぐ領導的位置にあったのが大槻文彦と芳賀矢一である。これらは大物だ。対して補助委員は若手の俊秀で、たとえば新村出(当時二十七歳)がはいっており、新村が京都へ行ったあとは山田孝雄がくわわった。

国語調査委員会は、最初に委員会の根本方針四箇条と調査事項六箇条とをさだめた。その根本方針第一条に、
文字ハ音韻文字(「フォノグラム」)ヲ採用スルコトヽシ假名羅馬字等ノ得失ヲ調査スルコト
とある。すなわち漢字を廃止して音標文字にすることは最初から前提になっており、かながいいかローマ字がいいかを研究するのが委員会の役目ということになっているのである。

新村出がのちにこう書いている。
當時末輩に列してゐた自分ながら、根本の第一方針に對して大不滿であつたが、これは設立當初の主旨が旣に動かす可らざるものとなつてゐたので、何とも致し方なかつた。(「國語問題と國語敎育」)
根本方針は既定であって、討議の対象とはならなかったことがわかる。
〔引用者註〕《明治三十七、八年の日露戦争後、新しい社会情勢に即応するために国定教科書を修正しようとしていた文部省は、修正に先立って仮名遣問題を解決しようと「国語仮名遣改定案」をまとめた。それは字音も国語も表音的仮名遣に改定し、用言の語尾と助動詞の長音に「う」を用いる他には長音符号を用いる、助詞「は」「へ」→「わ」「え」とし、同音の連呼によって生じる「ぢ」「づ」以外は「じ」「ず」に統一しようという本案と、用言の語尾と助詞の仮名遣に変化を及ぼさないことを特徴とする別案とから成っており、国語調査委員会や高等教育会議に諮問された。》
《しかしその仮名遣案は貴族院を中心とする保守的傾向の人々によって反対を受けた。国語の尊厳を守ろうと「国語会」「国語擁護会」というような会も生まれた。そこで文部大臣は、小学校教科書の修正を見合わせるとともに善後策を講じることとし、明治四十一年五月には「臨時仮名遣調査委員会」を設置し、仮名遣改定案を教科書に許容する可否について諮問した。これについて、大槻文彦・矢野文雄・芳賀矢一らは、発音が変れば綴りも変えるのが当然である。仮名遣は手段であるから便利なように変えるべきだ。現今社会に行われていないものを学校教育で教えるのはおかしいのであり、これは学術問題ではなく通俗問題だ。これらの主旨で賛成論を唱えた。一方、森林太郎(鷗外)・伊沢修二らは、綴りは元来保守的なものでみだりに変えてはならない。歴史的仮名遣こそ国語本来の姿であるから永遠に守るべきだ、として反対を唱えた。この時の森林太郎の反対論は、極めて整然たる論理をもつもので、言語についての保守的立場を極めて明確に述べている。》(丸谷才一編著『国語改革を批判する』、大野晋「国語改革の歴史(戦前)」、中公文庫、平成11年)
結果、諮問案は撤回され、四十一年九月には棒引き仮名遣も撤回されることとなつた。ここで注意してほしいのは、「棒引き仮名遣」にしろ「国語仮名遣改定案」にしろ、戦争と前後して議題に上つてゐることである。後述されるが、昭和に入つてからは大東亜戦争中に「標準漢字表」なるものが提出され、終戦後の占領期に至つて「当用漢字」「現代仮名遣」が出てくる訳である。我が国の官僚どもは、常に戦争を契機として良からぬ改革案を提起し、「非常時」を口実にしてゴリ押ししようとしてきたことが判るのである。
この国語調査委員会は十二年後の大正三年にいったん廃止され、その後臨時国語調査会と名をかえて再建され、昭和九年さらに国語審議会と名をかえた。性格は一貫してかわっていない。この国語審議会が戦後の国語改革を実行した。

当初の国語調査委員会の補助委員の一人に上田萬年の弟子の保科孝一がいる。いったい大学で言語学ないし国語学を学んだ人は学者であって、運動家になった人はないのだが、この保科孝一は例外で、国語改革の運動家あるいは実践家となり、明治、大正、昭和と実に四十数年にわたってこの文部省の機関――名称は上述のとおり国語調査委員会、臨時国語調査会、国語審議会とかわった。以下一々列挙するのはわずらわしいので「政府国語機関」と言う――に座をしめて、民間出身のマツサカ・タダノリ(松坂忠則)らと協力してついに悲願の国語改革をなしとげた。つまり師上田萬年の意図をつらぬいたわけだ。もっとも当の上田萬年は、その晩年のころには、かつての自分の考えはまちがっていた、と言っていたそうである。山田孝雄がそう書いている(文藝春秋昭和十七年十月号。日本國語會編『國語の尊嚴』昭和十八年國民評論社のなかで大西雅雄が引用している)。
〔引用者註〕大体エリートは現役を引退し棺桶に片足を突つ込んで、何の責任も問はれない境遇に身を置いてから本音を吐露することが多いのである。上田萬年も、本当はもつと早い時期から国語改革のをかしさに気づいてゐたのではなからうか。こういふ無責任な態度は、もちろん現代のエリートもこれを忠実に踏襲してゐるのである。だから引用者は、現役を引退してから活撥に発言するやうな人の話は真面目に聴く気が起らないのである。言ふなら現役の時に言はないと意味がないのである。
政府国語機関は、明治三十五年に発足してから昭和二十年敗戦まで四十数年間に、いくたびも内閣に対して国語改革案を建議した。ただしその建議が、政令となって実施にうつされたことは一度もない。案が公表されるたびにはげしい反対論がおこったからである。具体的にどういう人のどういう反論があったかについては、福田恒存『國語問題論爭史』(昭和三十七年新潮社)を見るとよい。現在全文をかんたんに見られるのは、森鷗外の「假名遣意見」(明治四十一年)、芥川龍之介の「文部省の假名遣改定案について」(大正十四年)など。いずれも全集にはいっている。言語学者、国語学者では、山田孝雄、橋本進吉、新村出などがしばしば反対論をのべた。それらの論はそれぞれの著作集におさめられている。
〔引用者註〕正に言ふべき時に言ふ人こそ本物なのである。そして戦前の改革案が悉く却下されたのは、言ふべき時に言ふ人が大勢ゐたからである。社会が健全であれば、権力がどんなにをかしな事をやらうとしても成功しない。人の体に譬へて言ふと、体が健康であれば、少々の病気なら跳ね返すことができる、といふことなのである。然るに敗戦の混乱といふのは、社会が満身創痍の状態だつたのであり、「当用漢字」と「現代仮名遣」の押しつけとは、抵抗できない病人に薬と偽つて毒を飲ませるが如き非道だつた訳である。
建議はつねに二つの柱から成っていた。一つは表音的かなづかい、一つは漢字制限である。

本書は漢字についての本であるから、かなづかいのことは省略し、漢字についてのべよう。

政府の目標は一貫して音標文字の採用であるが、一挙にやるのではなく、漢字を制限し、一部漢字の使用をみとめる「渡りの時期」をおき、ついで漢字を全廃する二段階方式をとった。よって建議のたびに許容漢字案を出した。

政府国語機関の委員は、当初は学者ないし識者ばかりであったが、大正期から新聞社の代表がくわわるようになり、やがてこれが多数をしめた。新聞はつねに大急ぎでつくらねばならぬものである。現在はコンピューターを使って組版するから漢字がいくらあっても平気らしいが、戦前は植字工が一つ一つ活字を拾った。文字数(文字の種類)がすくないほどすばやく新聞をつくることができる。新聞は使用漢字の範囲をせまく限定することをつねに要求した。
〔引用者註〕悪事の陰には常に新聞社が居るのである。

(高島俊男『漢字と日本人』、文春新書、平成13年)

2019年1月10日木曜日

国語改革四十年――1 漢字をやめようという運動⑤上田萬年と国語政策

上田萬年と国語政策


国語改革論議が最もさかんであったのは、上述のごとく、明治の最初の二十年間であった。

では音標文字化は進んだかと言えば、すこしも進まなかった。それどころか、さきに言ったように、似たりよったりの音を持った数千数万の漢字語がつくられた。それらは、確実に西洋化しつつある日本人の生活の全局面において、それなしにはすまないものになった。それらの新語はどれをとってみても、漢字のうらづけなしには用をなさない。漢字の使用は江戸時代にくらべて飛躍的に増加した。

政治も産業も学術も教育も、何もかもが、漢字がなければ――正確に言えば漢字に訳された西洋語や西洋の概念がなければ――動かなかった。漢字の廃止は、江戸時代のうちならば、よほどの無理をすればあるいはできたかもしれぬが、もはや不可能であることはあきらかであった。しかしそのことが、当時の人たちには見えなかったらしい。日本は音標文字化をめざしていた。
〔引用者註〕近代教育で育つたエリートには、現実が見えない、現実に即して方針を臨機応変に改めることができない、といふ缺点があるのである。繰り返すが、さういふカチカチ頭は「当時の人たち」ではなくて「当時のエリートたち」なのであり、「今のエリートたち」も全くこれと同じなのである。庶民がいくら「そんなバカな事はするな」と言つても、「俺はエリートなんだ、俺が間違ふ筈はないのだ」と内心思つてゐるのかゐないのか、どつちみち聴く耳を持たないのである。
明治の国語政策(音標文字化)を指導したのが上田萬年である。慶応三年生れ、帝国大学和文学科卒、明治二十三年博言学研究のためドイツに留学、同二十七年帰朝、帝国大学博言学科教授。三十一年国語学研究室創設とともに教授。三十三年文部省国語調査委員。三十五年同国語調査委員会委員、同主事。昭和十二年歿、七十一歳。
名の萬年はカズトシとよむらしいが一般にマンネンと言う。こういう名乗系の名にしいてふりがなをつけるのはおろかしいことである。
こんにちの言語学のことを明治の二十年代には博言学と言った。明治三十三年言語学と改称。
上田萬年は、日本語をどうするか、という問題を研究するため、日本政府よりヨーロッパに派遣されたのである。これはかなりばかばかしいことであった。日本語をどうするかの答がヨーロッパにあるはずがない。

ヨーロッパの言語学は――と言っても言語学という学問はヨーロッパの学問なのだからつまり言語学という学問は――現に存在する、もしくはかつて存在した諸言語について、そのしくみやはたらきを、あるいはその類縁関係や系統、変遷の道筋を研究する学問である。特に当時は、印欧語族(インドヨーロッパ語族)という、東はインドから西はイギリスにいたる広大な範囲で話されているあまたの言語がみな共通の祖語から出発した一大家族であるらしいことがわかって、その系統関係の研究がさかんにおこなわれている時であった。

ところが上田萬年の任務は言語学の研究ではなくて国語政策である。国語政策というのは一つの国の政府がこれからの国語をどうするかという政治の問題であって、言語学の研究とはまったく別のことである。国語政策の指針を言語学にもとめたのは、「解剖學者や細菌學者を招いて病氣の診斷を乞うたやうなものであつた」と時枝誠記博士は皮肉っていらっしゃる。

ところが明治政府は、学問という以上はかならず政治に指針をあたえてくれるものと思って若き秀才上田萬年をヨーロッパへ送り出したわけだ。

帰ってきた上田萬年はこう言っている(明治二十八年五月大学通俗講話における講話)。
今日の私はどこまでも支那文字の樣な意字に反對であるのみか、日本の假名の樣な(ひとつ)の綴音を本とする「シラビック、システム」の文字にも大不贊成なのであります。それで敢て羅馬字とは申しませぬが、その羅馬字的の母音子音を充分に精しく書きわけることのできる「フォネチック、システム」の文字といふものを、最も珍重するものであります。
まあこれくらいのことなら、何も四年間もヨーロッパへ行かなくたって、二万人もいる日本のローマ字論者がはじめから言っている。
〔引用者註〕上田の存在意義は、その学識にあるのではなくて、公権力主導の国語改革の体制を整へたことにあるのである。
《言語学(当時は博言学といった)研究のためにドイツに留学した上田万年が学んできたのは、アルファベットという表音文字の上に築かれた言語学であった。上田は、文字が「言語を写す手段にすぎない」とする観念をそのまま日本へ導入し、表意文字である漢字は理に合わない。従って廃止しなければならないと考え、弟子を養成し、後に行政府に働きかけて多くの委員会を作り、日本の文字改革の基本方針を確立し、それを断行するために、政府の力を使うことを考え(民間の力で改革を進めようとせず)、実際に活動した。西欧言語学を後楯に、行政府に強く働きかけた上田万年の仕事は、その後の国字問題の方向に大きな影響を与え、以後、国語改革の主導権を政府がとるという道をつけた。》(丸谷才一編著『国語改革を批判する』、大野晋「国語改革の歴史(戦前)」、中公文庫、平成11年)
ちょっと説明をくわえるなら、「支那文字」というのは漢字のことである。戦前の学者には支那文字と言う人が多くあった。この呼びかたのほうがよい。漢字と呼んでもおなじことなのだが、どうも「漢字」と言うと、日本語をあらわす文字であるように思う人が多い。「支那文字」と言うと、支那でできた支那語のための文字であることがだれにもあきらかであり、性格のことなる日本語を書きあらわすには不適当かつ不便な文字であることがわかりやすい。
〔引用者註〕著者は、漢字は外来の文字であり、日本語を書き表すのに不向きであるので、成るべくこれを使はないやうにすべきとの立場である。しかし、国語に漢字が採り込まれた時点で、既に国字となつたのである。
《文字をもたなかったわが国では、国語を表記するのに漢字を用いた。漢字を国語の語義に合せてよむことを和訓といい、その訓を字訓という。「やま」「かは」「たかし」「きよし」などがその例である。字訓は漢字を国語としてよむ方法であるのみでなく、また国語を漢字で表記する方法であった。字訓が国語表記の方法として一般に認められ、定着するとき、その字を常訓の字という。常訓の字は、いわば国語化された漢字である。そして、このような訓義の定着によって、さらに字音の使用が可能となる。「山川さんせん」「山河さんが」のようにいい、また「高大こうだい」「淸明せいめい」という語が、字音のままで国語化され、語彙化される。漢字を国字として使用するのには、まずその訓義によって字義を理解すること、すなわち字訓の成立が不可欠の条件であった。》(白川静『字訓』、「字訓の編集について」、平凡社、平成19年)
要するに、音読みだけの熟語(=字音語)が国語の語彙として成立する為には、先づそれらの漢字と大和言葉との結びつき(=常訓)が確立されてゐなければならないといふ意味である。即ち、国語で字音語が用ゐられてゐるといふ事実そのものが、漢字が既に国字であることの何よりの証拠なのである。従つて敢てこれを「支那文字」などと呼んで国語から排斥しようとするのは、国語そのものを破壊する行為にほかならないのである。
「意字」は表語文字。

「綴音」。テイオンまたはテツオン。通俗講話(一般の人むけの学術講話)だから多分テツオンと言ったのだろう。スペリングのことだがここでは音標字の意でもちいている。

「シラビック、システム」。音節すなわち人の口から出る最小単位の音を一字に書く方式。日本語のばあいかながそうである。漢語のばあいは漢字がそうである。

「フォネチック、システム」。音節をさらにその音を構成している要素に分解して書きあらわす方式。日本語のばあいローマ字がそうである。漢語のばあいは注音字母および拼音ローマ字がそうである。

たとえば日本語の「カキクケコ」(「かきくけこ」と書いてももちろんおなじ。以下カタカナで書く)の五音は共通の子音を持っている。そのことはむかしの日本人にもわかっていたからカキクケコを一行にならべたのである。しかし文字の上ではその共通子音はすこしもあらわれていない。これを子音と母音に分解してka ki ku ke koと書くとkという共通子音を持つことが一目瞭然である。同様に日本語のアカサタナハマヤラワは共通の母音を持つがそれは文字の上にはあらわれていない。これをa ka sa ta na ha ma ya ra waと書けば共通母音を持つことがだれでもわかる。上田萬年はこの分解方式のほうがよいと言っているのである。

漢語のばあい漢字はすべて一音節一字で、日本語のかなとおなじく、その字を見ただけではその音節の構成要素はわからない。詩、殺、社、誰、手、山……とならべてもこれが共通の子音を持つことはわからないが、ㄕ、ㄕㄚ、ㄕㄜ、ㄕㄟ、ㄕㄡ、ㄕㄢ……(声調符号は略す)もしくはshi, sha, she, shei, shou, shan……と書けば共通子音を持つことが一目でわかるわけだ。漢字は「シラビック、システム」、注音字母および拼音ローマ字は「フォネチック、システム」にあたるわけである。

(高島俊男『漢字と日本人』、文春新書、平成13年)

2019年1月9日水曜日

国語改革四十年――1 漢字をやめようという運動④かな派とローマ字派

かな派とローマ字派


どういう音標文字をもちいるかについては意見がわかれた。大きくは「かな派」と「ローマ字派」とにわかれる。前者は漢字を廃止してかなのみで日本語を表記しようとする人たち、後者は漢字もかなも廃してローマ字で日本語を表記しようという人たちである。

「かなのくわい」は明治十六年結成、総裁は皇族で、会員は約一万人、「羅馬字會」は翌十七年結成、朝野の貴顕紳士をつらねて会員約二万人、といずれも一時は非常に隆盛であったが、内部闘争に力を消耗して漢字を相手に戦闘するに至らず、前者は明治二十三年に、後者は二十五年につぶれた。ただし、漢字を廃止してかなに、或はローマ字に、という思想がつぶれたのではない。同一趣旨の組織はつぎつぎに生れて昭和におよび、特に「カナモジカイ」のマツサカ・タダノリ(松坂忠則)は、戦後の国語改革をリードした。

かな論者は、幕末の前島密、明治初期の大槻文彦、物集もづめ高見たかみなど大物が多い。ローマ字論者は、物理学者田中館たなかだて愛橘あいきつ、田丸卓郎など理科系の学者が多い。帝国大学総長外山とやま正一まさかずは「かなのくわい」と「羅馬字會」の両方の会員であった。外山は言う。「我々の敵は漢字である。その漢字がまだ倒れていないのに、倒したあかつきには天下はオレのものだ、いやオレのものだ、と、まったく敵と戦わないでもっぱら味方同士で戦争しているのはばかばかしい。だから自分は両方にはいって、まず漢字を廃止するために戦え、と説いているのである」と。まことに正論である。
〔引用者註〕《我が国社会学の創始者外山正一は、言語文字は知識を伝え、思想を交換するのに便利でなければならない、従って海外諸国と競争するためには漢字を廃止すべきであると「漢字を廃し英語を熾に興すは今日の急務なり」(『東洋学芸雑誌』第三十三号明治十七年六月・『新体漢字破』同十一月)と主張した。外山によれば、すでに中国から文化的に学ぶ知識はない、今や欧米諸国の知識をまる取りしなければならない時である。それゆえ欧米の語を学び用いることが必要であり、その方がチンプン漢語で訳翻するより分りやすいはずであると主張した。》(丸谷才一編著『国語改革を批判する』、大野晋「国語改革の歴史(戦前)」、中公文庫、平成11年)
日本の音標化論、およびかなとローマ字との得失等については、田丸卓郎の『ローマ字國字論』(岩波書店)をおすすめする。この本は、最初大正三年(一九一四)に刊行され、大正十一年に改訂版、昭和五年に再改訂版が出て(翌々七年著者歿)、それが平成十三年(二〇〇一)のいまもなお現役で刊行中という、おそらく現在、日本で最も長寿をたもっている本である。ごくわかりやすく書かれていて、これをよめば、明治から昭和にかけての雰囲気や、各派の論点、主張などがよくわかる。一方またたとえば、文化遺産の継承、つまり過去の日本人とこれからの日本人とのつながりをどうたもってゆくか、というだいじな問題について、著者の説くところがいかにおざなりであるかを見ると、これほど聰明な、まじめな、良心的な人であってもこうであったのだなあと、感慨にとらえられるのである。当時の多くの日本人は、ひたすら「坂の上の雲」を見つめ、自分たちの根っこのこと――いかにまずしいものであろうと、この根っこを切りはなしてしまっては、われわれ日本人はその立つ地面をうしない、世界にただよう浮草になってしまうのだ、というようなことを考えなかったのだ。無論それは戦後の日本人もまたそうなのであるが――。
なお田丸卓郎は、夏目漱石とともに、寺田寅彦の熊本五高時代の先生である。その人柄については寅彦の「田丸先生の追憶」がおもしろい。
音標文字を採用するとすれば、事実上かなとローマ字しかない。「かな派」と「ローマ字派」とが生じたのは当然である。しからば両派が、どちらをとるかについて争ったかといえば、それはほとんどなかった。「かな派」はその内部で、カタカナをもちいるかひらかなをもちいるか、またどういう書きかたをするかでいくつかの分派にわかれ、また「ローマ字派」は、英米式にするか日本式にするかで二つにわかれ、それぞれ分派同士の主導権争いで力を消耗したからである(英米式とは富士山をFujiと書く方式、日本式はHuziと書く方式)。
〔引用者註〕とかく運動家は内紛が好きなのである。内紛が好きなのは権力が大好きだからなのである。権力争ひに明け暮れてゐると、いつの間にやら個々の小勢力に分裂し力を失つてしまふのである。
音標文字化すれば、以後の日本人は、それまでの日本人が書きのこしてきたものをよめなくなるが、明治のなかばごろまでは、そのことを考慮した者はほとんどなかった。明治初めごろの日本人は、それまでの日本のいっさいを、何の価値もないものと思っていた。かえって日本へ来た西洋人のほうが、そんなにかんたんにいっさいの過去を捨ててしまっていいのかと心配したくらいである。

たとえば『ベルツの日記』明治九年十月二十五日の条にはこうある。
ところが――なんと不思議なことには――現代の日本人は自分自身の過去については、もう何も知りたくないのです。それどころか、教養ある人たちはそれを恥じてさえいます。「いや、何もかもすっかり野蛮なものでした(言葉そのまま!)」とわたしに言明したものがあるかと思うと、またあるものは、わたしが日本の歴史について質問したとき、きっぱりと「われわれには歴史はありません、われわれの歴史は今からやっと始まるのです」と断言しました。(……)これら新日本の人々にとっては常に、自己の古い文化の真に合理的なものよりも、どんなに不合理でも新しい制度をほめてもらう方が、はるかに大きい関心事なのです。(菅沼竜太郎訳)
「新日本」ということばがしばしばとなえられた。日本は白紙状態で新しく建国にのりだすのだ、というのが多くの人の考えであった。したがって、これまでの日本人の書きのこしたものを、これからの日本人がよめなくなっても、それはさしつかえないのである。どっちにしてももう用はないのであるから。

言語は新日本建設の道具であり、したがってこれをわかりやすく能率的なものにするのがよいのである。日本の言語は、これからの日本人が、過去の日本人と語りあうための道具でもあるのだ、とはだれも考えなかった。

そう、右とおなじことが、約八十年後、昭和敗戦後の日本でもう一度おこるのである。淡泊で、腰が軽く、変り身のはやい点において、日本人は、世界の諸種族のなかでもおそらく最右翼にあると言ってよいと思われる。
引用者註〕本書では漢字廃止論者の論ばかりが紹介されてゐるので、宛もそれのみが当時の知識人全般を覆つてゐたかのやうに錯覚するが、漢字尊重の論も既に早くから発表されてゐたのである。
《明治時代に、教育の普及ためには漢字は害悪であるといわれ、漢字廃止が声高に叫ばれていたが、明治九年六月二十日、海内果は『東京日日新聞』の社説で「文字論」を発表し、自由の思想を発露するために、今日我が国において最も効用ある文章を選ぶべきと主張した。その最も効用ある文章とは日本で用いられて久しく、今日の気運に適応している漢字交りの文章を選ぶべきだという。これが漢字尊重論の第一である。
〔……中略……
井上円了の『漢字不可廃論』が刊行されたのは、…明治三十三年である。これは国字改良論に反対したもののうち、最も明確な論といえよう。井上の国字改良反対の主張は次のようなものである。

  •  国字改良の困難とか平易は習慣の有無に関係している。
  •  漢字は字数として千~二千字もあれば幾十倍する単語を組み立てることができる。
  •  漢字を用いながら、言文一致の実行は可能である。
  •  漢字の字形・字体は多少の変更は免れまい。
  •  漢字を廃止したら同音の文字を区別することができないので、言語文章の錯雑は今より五倍も十倍もふえる。
  •  言語文字は精神思想を表示する第一の器械である。
  •  文字の上に事物の分類が現われているのは漢字のみである。
  •  文字の形と語声で脳中に印象付ける漢字は、世道人心の根本である。
西欧の言語学に依っている人々との決定的な違いは、文字を単に言語を写すための道具ではないとし、「精神思想を表示する」ものと考えていることである。》(丸谷才一編著『国語改革を批判する』、大野晋「国語改革の歴史(戦前)」、中公文庫、平成11年)

(高島俊男『漢字と日本人』、文春新書、平成13年)

2019年1月8日火曜日

国語改革四十年――1 漢字をやめようという運動③中国の音標化

中国の音標化


中国も、日本よりややおくれて、音標文字化を国の方針とした。一九一二年に成立した中華民国も一九四九年に成立した中華人民共和国も音標文字化をめざした点ではおなじだが、採用した文字がちがう。

中華民国は、「注音字母」という日本のカタカナのような文字を新たに作った(声母がㄅ、ㄆ、ㄇ、ㄈなど二十一、韻母がㄚ、ㄛ、ㄜ、ㄝなど十五、合計三十六字、声調は別につける。縦にも横にも書ける。たとえば「革命」を横書きするとㄍㄜˊ ㄇㄧㄥˋ)。

中華人民共和国は拼音ピンイン羅馬字ローマツーというアルファベットをもちいる方式を作った(「革命」はgémìng、横にしか書けない)。

注音字母はきわめて合理的にできている。ただ、見なれぬ字をおぼえないといけないのでやっかいである。拼音羅馬字は、アルファベットを知っている者には新たな字をおぼえる必要がなく、したしみやすい。そのかわりあまり合理的にはできていない。
ここで、中華人民共和国の「簡体字」について説明せよと注文がついた。日本も中国もそうだが、国家の方針として音標文字化(つまり漢字廃止)をきめた。しかし一挙にやるのではなく「渡りの期間」をおくことにした。日本のばあい、漢字の数をへらし、字体を簡略化して当分の間使用をみとめることとしたのはごぞんじのとおり。中国のばあい、中華民国は、音標文字化をかかげ注音字母の普及にのり出したが漢字に手をつけぬうちに大陸でほろんだ。台湾に移ってからは共産党との対抗上むしろ漢字保存の傾向が強くなった。中華人民共和国は漢字を簡略化して当分の間使用をみとめ、その間にローマ字を普及して遠からぬ将来完全に廃止することとした。その後、日本も中国も、音標文字化の方針を正式にとりけしたわけではないのだが、事実上漢字廃止にすすまず、廃止までの「渡りの期間」用だったはずの簡略字体があたかも正式字体になったような中途半端な状態のまま停止している。中華人民共和国の簡体字は、几(幾)、个(個)、广(廣)、义(義)、干(乾、幹)、丰(豐)、开(開)、无(無)、书(書)、币(幣)、习(習)、乡(鄕)、认(認)、云(雲)、儿(兒)のごときものである。日本人はしばしばこれらの字を見て「けったいな字」と笑うが、日本略字も似たようなもので、目クソ鼻クソを笑うのたぐいである。藝を芸とし、缺を欠とし、假を仮としたのなどは中国簡体字よりわるい。
〔引用者註〕実は、中華人民共和国では現行の「簡体字」よりも更に簡略化を進めた簡体字のバージョン2を1977年に公布したことがある。しかし餘りにも簡略化しすぎて、誰も読むことができずに撤回された。あんな独裁国家でも、多くの人の反対によつて、政府が一度出したものを撤回するやうなことがあり得るほど、文字といふものは大事なものなのである。
ほんとうは、さきにも言ったように、漢語には漢字が一番あっているのである。当然のことだ。漢字は漢語を表記するためにうまれたものなのだから――。しかし中国人は「人類の文字は象形文字から音標文字へと進む。それが文字の進歩である」と思った(いまもそう思っているらしい)。なぜそう思ったのかというと、西洋で音標文字を使っているからである。

本家本元すら漢字を捨てようというのだから、日本人が捨てようとしたのはふしぎでない。もともと日本人にとって漢字は借りものであり、日本語とあわなくて苦労しているのである。実際、「かつてわれわれは支那に学んだ。このたび支那よりも西洋のほうが優秀であることがわかった。ゆえに西洋に乗りかえるのに何の不都合があろう」というのが、英語採用論たると音標文字論たるとを問わず、論者たちの一致した見解であった。
〔引用者註〕かつて江戸時代に、賀茂真淵や本居宣長等の国学者があれほど「漢意からごゝろ」(外国崇拝)を戒めたにも拘らず、いざ近代に乗り出すに際してこの有様なのである。本当に我が国のエリートと呼ばれる人達にはつける薬がないのである。仮に漢字を借り物と呼ぶならば、新たに乗り換へる西洋も同じ理屈で借り物に過ぎないではないか。
明治二年に出た福沢諭吉の『世界せかい國盡くにづくし』。これは文明にむかう世界の諸国諸種族を、七五調で調子よく紹介したものである。中国についてはこう言っている。
……そもそ支那からの物語、往古むかし陶虞たうぐの時代より、年を經ること四千歲しせんざい、仁義五常をおもんじて、人情厚き(ふう)なりと、其名(そのな)も高く聞えしが、文明開化(あと)ずさり、風俗次第に衰へて、德を修めず知を(みが)かず、……(以下阿片戦争に大敗したことをのべて)……なほこりざる無智の民、理もなき事に兵端へいたんを、みだりに開く弱兵は、(まけ)て戰ひ又(まけ)て、今の姿にきし、其有樣ぞ(あは)れなり。
歴史の大道を進むどころかずるずる後退している。現在では日本よりも後方に位置している、という見かたである。ずいぶんバカにしているようだが、中国の進歩的な知識人(たとえば魯迅のような)の見かたもこれとおなじであった。
〔引用者註〕《中国の近代文学の元祖ともいわれ、国民精神の改造を課題とした作家、魯迅(一八八一~一九三六)は、「漢字が滅びなければ、中国は必ず亡びる」と断言して、次のように述べている。
この四角い字〔漢字〕の弊害を伴った遺産のお蔭で、我々の最大多数の人々は、すでに幾千年も文盲として殉難し、中国もこんなザマとなって、ほかの国ではすでに人口雨さえ作っているという時代に、我々はまだ雨乞いのため蛇を拝んだり、神迎えをしたりしている。もし我々がまだ生きて行くつもりならば、私は、漢字に我々の犠牲となって貰う外はないと思う。(「漢字とラテン化」松枝茂夫訳による)(大島正二『漢字と中国人 ―文化史をよみとく―』、岩波新書、平成15年)
したがって、文字についても、軽快で能率的な音標文字アルファベット、対して、おくれた鈍重な象形文字漢字、というのが当時の見かただった。魯迅が「漢字がほろびなければ中国がほろびる」と言ったように、漢字は進歩の足かせと見られた。

ゆえに当然、中国も日本も漢字を捨てようとしたのであった。
〔引用者註〕支那では当時、魯迅の言つた如く確かに人口の大部分が文盲であつた。それは今から考へると、単に教育が行き渡つてゐないが故の識字率の低さだつたに過ぎないのであるが、実際に数が膨大で憶えるのが大変な漢字こそが文盲が多い原因であると誤解してしまつたのも致し方ないことなのであつた。然るに日本の場合はこれとは事情が異つたのである。
《日本では一七〇〇年代に、すでに寺子屋なる教育設備があった。少年少女の二五パーセントがそこで読みと書きと初歩の計算とを学習していた。》(丸谷才一編著『国語改革を批判する』、大野晋「国語改革の歴史(戦前)」、中公文庫、平成11年)
当時の識者が「アルファベットを使つてゐるからこそ進んでゐるのだ」と考へたその西洋列強諸国の国民は、その何パーセントが文字を読めたのだらうか?若し当時の日本人がこの事に気づいてゐれば、近代化の後れを漢字に帰するやうなバカな議論は起らなかつたのではなからうか。
当時の人たちは、日本人にせよ中国人にせよ、言語というものを甘く見ていた。各々の言語というのは、日本語で「そら」と言うものを英語ではskyと言う、「ねこ」と言うものをcatと言う、あるくのをwalkと言い、わらうのをlaughと言う、という単なるおきかえと思っていた。

実は言語というのは、その言語を話す種族の、世界の切りとりかたの体系である。だから話すことばによって世界のありようがことなる。言語は思想そのものなのだ。たとえば、brother, sisterにあたることばは日本語にはない。――そう言うとみなさん、「兄弟」「姉妹」ということばがあるじゃないか、と言うかもしれない。でもね、英米人はたとえばI have two sisters.というふうに言うけれど、日本人が「わたし姉妹が二人あります」と言うことは決してないでしょう?「姉が二人あります」とか「姉が一人、妹が一人あります」とか言う。つまり、brotherとかsisterとかいうのは、自分のきょうだいについて、男女の別ははっきり区別するけれども、自分より上か下かは区別せず、ひっくるめてとらえるとらえかただ。対して日本語は、「上か下か」をわけてとらえる。そういうとらえかたしかない。ところが英語には、日本語の「にいさん」「ねえさん」「兄」「姉」「弟」「妹」にあたる単語はない(辞書にはelder brotherとかyounger sisterとかの語が出ているけれども、それは複合語であるし、実際に英米人がI have an elder brother and two younger brothers.なんて言いはしない)。つまり、日本語と英語では「世界のとらえかた」がちがうわけなのだ。

ところが当時の人たちには、言語がそういう、それぞれの種族のものの考えかた、世界のとらえかたにかかわる重いものだということがわからなかった。それを知るための条件がなかった。世界の種々の言語をよく知ればおのずとわかってくるのだが、自分たちの言語だけしか知らず、そこへ急に規模雄大できらびやかな西洋文明を見て、目がくらんだ。だからかんたんに、言語改革、というようなことを言い出すことができたのである。

(高島俊男『漢字と日本人』、文春新書、平成13年)

2019年1月7日月曜日

国語改革四十年――1 漢字をやめようという運動②音標文字論

音標文字論


もう一つの主張が、音標文字論である。

西洋の言語と日本の言語との最も大きなちがいは、西洋では音標文字をもちいているのに対して日本では漢字をもちいていることである。すなわち進んだ言語は音標文字をもちいるのである。であるから日本も音標文字を採用して、進んだ言語に脱化しなければならない――とこれら論者は主張した。

西洋の言語と日本の言語、と言いながら文字のことばかり気にするのは甚だ奇妙だが、従来日本の知識人は、書物をつうじて異文化をとり入れてきたので、文字がことばであると思っていたのである。

音標文字(Phonogram)というのは、意味にかかわりなく、音のみをしるす文字である。アルファベットは音標文字である。catは、c、a、tの各文字は何らの意味を持たず、catという三字のくみあわせによって〔kæt〕という音をあらわし、〔kæt〕とよばれる動物を示す。日本語のかな表記「ねこ」「ネコ」も同様である。「表音文字」と言ってもおなじことだが、明治時代にはphonogramのことを「音標文字」と言ったし、いまもおおむねそうであるので――みなさんが英語の辞書でphonogramをひいたら「音標文字」と出ていると思う。あんまり小さな辞書だとそもそもphonogramという単語そのものが出てないかもしれませんけどね――「音標文字」と言うことにしておきます。

アルファベットやかなのような音だけをあらわす文字に対して、漢字は、一字一字が一つ一つのことば(単語)をあらわしている。これを「表語文字」とよぶ。「猫」という字は猫ということばをあらわす。

漢字を「表意文字」と言う人があるがそれは不適当である。漢字は「意」のみをあらわしているのではなく、これまで再々言ったように「語」をあらわしている。

典型的な表意文字は算用数字ですね。1を日本人はイチと言い英米人はoneと言いドイツ人はeinsと言い、その他各言語によってみなちがう。1、2、3……は「意」のみをあらわしている。特定の音を持たない。すなわち特定の「語」を表記したものではない。その他、天気予報のお天気マークや傘マークなどもそうで、「意」のみを持っている。道路入口の「🚫」は「自動車はここから先へはいってはいけませんよ」の意味をあらわし、塀の「⛩」は「ここでおしっこをしてはいけません」の意味をあらわす。まあああいうのが「表意文字」でしょうね。

音標文字を採用するというのは、すなわち漢字を廃止することである。したがって「音標文字論」と「漢字廃止論」とはおなじものである。

日本政府は明治三十年代にいたって、音標文字化を国の方針とした。
〔引用者註〕《……国語学者上田万年かずとし(一八六七~一九三七)を主事として一九〇二年に発足した文部省国語調査委員会が、調査方針を同年七月に以下のように定めた…
 一 文字ハ音韻文字(「フォノグラム」)ヲ採用スルコトヽシ仮名羅馬字ローマじ等ノ得失ヲ調査スルコト
 二 文章ハ言文一致体ヲ採用スルコトヽシ是ニ関スル調査ヲ為スコト
 三 国語ノ音韻組織ヲ調査スルコト
 四 方言ヲ調査シテ標準語ヲ選定スルコト
 こうして、適宜臨時委員や補助委員を任命しながら活動を開始した。
 明治初期においては一部知識人が主張するだけだったが、一九〇〇年前後に、官主導によって「国語」をつくりあげることが具体的に始まったのである。
 この方針「一」は裏返せば漢字廃止の宣言である。この宣言の基礎には、「二」とも関連するが、それまでの書きことばの中心であった漢文訓読体からの離脱のための漢字の排除という志向があった。さらに上田などが学んできた近代西洋言語学では文字よりも音声に分析の重点がおかれていたことの影響もある。》(安田敏朗『国語審議会 迷走の60年』、講談社現代新書、平成19年)

(高島俊男『漢字と日本人』、文春新書、平成13年)

2019年1月6日日曜日

国語改革四十年――1 漢字をやめようという運動①

1 漢字をやめようという運動


前の章では、――人類の歴史は一本道である。この道の上を各国各種族があゆんでいる。さきをあゆんでいるのは「進んでいる」のであり、うしろのほうでマゴマゴしているのは「おくれている」のである――という、そういうものの見かたを日本人は西洋人から教わったというお話をしました。日本人が西洋人から教わったことのうち、これが根本である。
〔引用者註〕進化論に基づく所謂「進歩史観」である。後にマルクスの思想が入つて来た時に、我が国のエリートの多くがそれに染まつてしまつたのは、それをすんなり受容してしまふ素地が初めから用意されてゐたことが判るのである。
そこで話は明治のはじめだ。日本は西洋よりはるかにおくれている。なにもかもがおくれている。急速に進まねばならぬ。その方法はかんたんである。なにもかも西洋人のやっているとおりにやればよいのである。――というわけで、政治、経済、産業、交通はもとより、学問も芸術も教育も、あらゆる事物を西洋に学びはじめたのである。

そのあらゆる事物にふかくかかわる最重要の事物は、ことば、すなわち言語である。いかなる法律も制度も学問も技術も、われわれは言語を媒介にして学ぶのであるから。

しかるに、日本の言語と西洋の言語とは大いにことなる。大いにことなるというのは、日本の言語が大いにおくれているということである(当時の日本人は当然のごとくそう思った)。追いつかねばならない。日本の言語を西洋の言語のようなものにしなければならない。
〔引用者註〕著者の言ふ「当時の日本人は…」とはエリートの人々のことであつて、市井の日本人がそんな事を考へる筈はないのである。また国字改良論は実は江戸時代の半ば頃からあつたといふ。
《ところが徳川時代中期、西洋語の学習とアルファベットの輸入とに刺激された新井白石、本多利明をはじめとする諸学者は、西洋の文字は数が少ないことを見た。それに驚き、日本語での漢字の数の多いことを批判的に論ずるようになって来た。徳川末期に学問を志す者が学んだのは主にオランダ語である。そのオランダ語を彼らは漢語に翻訳した。現代に至るまで生き続けている和製漢語の中には、当時のオランダ語学習の結果作り出されたものも少なくない。かように、蘭学者はオランダ語の日本訳にあたって大いに漢字を利用した。しかし一方では漢字の排斥を唱えたのである。》
《また、借用した文字である漢字に国語が隷属しているように見えることを不満とし、漢字漢語に対して批判的な立場をとった人もあった。司馬江漢などは、漢字を乱用すべきでないと説いたという。》(丸谷才一編著『国語改革を批判する』、大野晋「国語改革の歴史(戦前)」、中公文庫、平成11年)
言語は、日本が西洋からまなばねばならぬ事物の一つであるとともにあらゆる事物を学びとるための手段でもあるから、その改良、あるいは変革が課題として提起されたのも早い。すでに明治維新よりも前に、幕臣前島密が将軍に漢字廃止を建言している。
〔引用者註〕《幕府開成所の反訳筆記方だった前島密は、慶応二年十二月、開成所の頭取を介して将軍徳川慶喜に「漢字御廃止之議」を奉った。これが公的な漢字批判の最初である。》
《前島は、かつて中国に滞在したことのある米人宣教師ウィリアムズ(Channing Moore Williams)の説に示唆を受け、句法語格の整然たる日本語があり、簡易便利な仮名文字があるにも拘らず、繁雑不便難解な漢字によって教育を行うのは漢字の害毒に染まって気づかないものだと主張した。そして、教育を広めるために文字を易しくし、文字の記憶のために精力を浪費せずに、事柄を理解・推理・判断する力を養うべきであると提言した。漢字を使っているから日本は進歩しない。欧米諸国の今日の繁栄は自国の文章と平易な表音文字によって修めた学問による。前島の漢字廃止論はこうした、事の一面しか見ない思想に支えられていた。》(丸谷才一編著『国語改革を批判する』、大野晋「国語改革の歴史(戦前)」、中公文庫、平成11年)
明治になってからは、特にその最初の二十年、言語改革論がさかんにとなえられた。

その主張はさまざまだが、大きくわければ二つのグループにわけられる。一つは日本語を捨てようという主張であり、いま一つは、日本語は捨てないが漢字を捨てようという主張である。

まず一つめの主張についてのべよう。

これは、おくれた言語である日本語を全面的に捨て去り、英語を日本の国語にしよう、という主張である。

英語採用論を主張した人は数多いが、その最も著名なのは、文部大臣であった森有礼である。
〔引用者註〕初代文部大臣からして、こんな有様だつたのである。近年は頓に文部科学省の異常が目につくが、最初の出発からしてかうだつたのである。
森の考えは、アメリカで刊行した英文著書『日本の教育』(Education in Japan, 1873)、特にそのなかの、米国の学者ホイットニーにあてた手紙に見えている。そこで森は、「わが国の最も教育ある人々および最も深く思索する人々は、音標文字phonetic alphabetに対するあこがれを持ち、ヨーロッパ語のどれかを将来の日本語として採用するのでなければ世界の先進国と足並をそろえて進んでゆくことは不可能だと考えている」とのべている。もって当時の日本の知識界の雰囲気を知るに足る。これに対してホイットニーは、言語はその種族の魂と直接に結びついたものであるから、そう安易に放棄するなどと言ってはならない、と森に忠告した。
〔引用者註〕ホイットニーが森に宛てた手紙の抜粋《一國の文化の發達は、必ずその國語に依らねばなりませぬ。さもないと、長年の敎育を受けられない多數の者は、たゞ外國語を學ぶために年月を費やして、大切な知識を得るまでに進むことが出來ませぬ。さうなると、その國には少數の學者社會と多數の無學者社會とが出來て、相互ににらみあひになつて交際がふさがり、同情が缺けるやうになるから、その國の開化を進めることが望まれなくなります》(荻野貞樹『旧かなづかひで書く日本語』、幻冬舎新書、平成19年)
森はまた、言語だけでなく人種も変えるべきであるととなえ、日本の優秀な青年たちはアメリカへ行って、アメリカ女性と結婚してつれ帰り、体質・頭脳ともに優秀な後代を生ませよ、とすすめた。

いまそういう話をすると、森という人は頭が変になっていたのではないか、と言う人がある。しかし森は正気であり、のみならず有能で誠実な政治家であった。森は若いころからヨーロッパに留学し、西洋をよく知っていた人である。日本人は西洋人のようにならねばならぬ、と本気で考えれば、体質改良、言語変革を考えるのはむしろ当然であったろう。日本語を日本語のままで英語やフランス語のような言語に改良するのはとても無理だ、と考えるほうが自然である。日本人同士結婚して生れた子を西洋人なみの体格に育てろ、というのが無理であるように。
〔引用者註〕ナチスの優生学を彷彿させるのである。ナチスの場合は自分達アーリア人の血こそ最も優れたものだと考へたのに対し、森有礼の場合はさういふアーリア人の優れた血を分けてもらひ日本人を西洋人の仲間にしてもらはうといふ、今から考へれば気持ちのよい位に自虐的な人種差別主義であつた訳である。
なお森有礼にせよ、すこしあとの高田早苗(早稲田大卓総長、文部大臣などを歴任)などにせよ、英語を日本の国語にすることをとなえた人たちはみな、日常の会話はともかくも、すこし筋道立ったことを話す際、特に文章を書く際には、日本語よりも英語のほうが容易であった人たちである。明治の前半ごろに教育を受けた人たちは、日本語の文章を書く訓練を受けたことはなく、もっぱら西洋人の教師から西洋語の文章を書く訓練をきびしく受けたのであるから、日本語の文章は書けないが、英語やフランス語なら自由に書ける、というのはごくふつうのことであった。その点、昭和の敗戦後に、フランス語を国語にするのがよいと言った志賀直哉などとは選を異にする。なおまた、言うまでもないことだが、明治前半ごろまでの日本語の文章というのは、それを書くのに特別の訓練を要するものであった。こんにちの日本人が書くような、だらだらした口語体の文章というのはまだなかった。文章は、話しことばとは別のものであった。
〔引用者註〕凡そ外国語を真面目に勉強した人といふのは、外国語の方が国語よりも優れてゐると勘違ひしがちなのである。しかし抑も外国語の様々な言ひ回しや、微妙なニュアンスの違ひ等を理解できるのは、実は国語(日本語)がその外国語と同等かそれ以上のものを持つてゐるからなのである。引用者の中学時代の英語の先生が「英語能力は、国語能力以上のレベルに達することはできないのだよ」と仰つた言葉は、今でも忘れられないのである。我が国では幼稚園から大学院まで、全ての授業カリキュラムが国語で行はれてゐる。また世界中の著名な書籍が殆ど全て国語に翻訳されて出版されてゐる。これほどの国は世界中どこにもないのである。これは我が国の国語が、どんな言語で表現された概念をも正確に言ひ表すことができる証拠である。即ち我が国の国語は世界最高レベルの言語といふことが出来るのである。勿論これらは、明治期の近代化によつて国語の語彙が大幅に増えた結果なのであらうが、しかし明治初期のエリートたちが、我が国が西洋よりも立ち後れてゐるのは国語が西洋語よりも劣つてゐるからだと誤解してしまつたことが、その後の無意味で有害な国語改良論の大きな原因となつたのである。

(高島俊男『漢字と日本人』、文春新書、平成13年)

2018年12月23日日曜日

天長節

十二月二十三日は天長節なり。

天長節は我が 今上天皇陛下の生れさせ給ひし日にして、 聖寿の長久を祝ひ奉る節会せちゑなり。

此の日は、賢所、並びに皇霊殿、神殿の三前に於て祭事を行はせられ、群臣に酺宴ほえんを賜ふ。明治元年、初めて此の儀を行ひ給ひしを、後には兼ねて観兵の式をも挙げさせ給ふ事となりぬるも、先の敗戦以来、嘗ての御盛典は政府の不作為によりて、久しきに亘り御中断餘儀なく、遂に平成の大御代にも御再興能はざる、此れ全く臣民の不忠の致す所にして、新たなる大御代に必ずや再興を誓ひ奉る次第なり。

天長とは天長地久の語(『老子』)より出づ。則ち 聖寿の長久を祝する義なり。聖誕日を天長節と曰ふ事の起りは 光仁天皇の御世に在り。宝亀六年(皇紀1435年、西暦775年)九月壬寅の勅に
十月十三日ハ是レ朕ガ生日ナリ、此ノ辰ニ至ル毎ニ感慶兼ネ集ル、宜シク諸寺ノ僧尼ヲシテ、毎年是ノ日、転経行道セシムベク、海内諸国ナラビテ屠ヲ断ツベシ、内外百官酺宴ヲ賜フコト一日、仍テ此ノ日ヲナヅケテ天長節ト為ス、ネガハクハ斯ノ功徳ヲ廻ラシ、ツヽシミテ先慈ニ奉ジ、此ノ慶情ヲ以テ、普ク天下ニ被ラシメン
とのりたまひ、『同年十月癸酉、是日天長、大ニ群臣ニ酺シ、翫好グワンカウ酒食ヲ献ゼシム』とあるを以て始めとす。此の時代には、仏法盛に行はれしを以て、各寺に読経などをも仰せられて其の儀甚だ盛なりき。王政復古に及びて、 明治天皇、此の節を定め給ひしは、すなはち 光仁の御制を復し給へるなり。

抑も此等の祝日を定め給ふは、衆庶と歓楽を共にせさせ給はんの大御心より出づ。臣民たるもの誰か感佩かんぱいせざるものあらん。今、甞て酺宴を賜ひし時の 明治天皇の勅語を挙げん。
コヽニ朕ガ誕辰ニアタリ、群臣ヲ会同シ、酺宴ヲ張リ、舞楽ヲ奏セシム、汝群臣、 朕ガトモニ楽ムノ意ヲ体シ、其レク歓ヲ尽セヨ、
時の太政大臣三条実美公、及び従一位中山忠能公等これに奉答せり、その詞に曰はく、
茲ニ天長ノ佳節ニ方リ、 陛下群臣ヲ会同シ、酺宴ヲ賜ヒ、舞楽ヲ奏セシメ、特ニ辱クモ偕楽ノ 寵命ヲ拝ス、群臣感喜ノイタリヘズ、ニ歓ヲ尽クシ楽ミヲ極メザルベケンヤ、乃チウヤウヤシク 陛下ノ聖誕ヲ祝シ、万寿無彊ヲ祈リ奉ル、
此の勅語を奉読せば其意おのづから明かならん。

今上陛下は第百二十四代 昭和天皇の皇子にして御名を 継宮つぐのみや明仁あきひと親王殿下と申し奉り、昭和八年十二月二十三日の御誕生なり。御年十八歳(昭和二十七年)にして太子に立ち給ひ、御年五十五(平成元年)の時、御位に即かせ給へり。

陛下には、 先帝陛下の大御心を御心とし給ひ、 玉体を労し、 叡慮を悩まし給ひ、黎庶に先だちて辛苦を甘んじ、常に苦楽を共にせさせ給ひしかば、国家の鴻基益々固く、君民の紐帯益々強く結ばるゝに至れり。特に災害の度毎に罹災者に寄り添ひ給ひ、また大戦に於ける戦歿者の慰霊の為に国内のみならず世界各地の戦跡を行幸あらせらるゝに及びては、我等国民一同 畏き大御心に感涙せざる者なし。

我等が万世一系の有難き大御国に生れて安楽に暮らし得るは、これ皆偏へに 陛下の御仁恵によるなり。されば天長節に当りて、我等は謹んで 聖寿の万歳を祝し、恭しく宝祚の隆盛を祈り奉らでやはあるべき。