2019年10月21日月曜日

践祚即位(池辺義象)③譲位

第三章 譲位


譲位とは天皇より、位を皇太子に譲られる礼で、即ち前帝について言ふことば、その譲を受けられた新帝の方からは受禅といふのである。第一章以下述べたやうに、上古は天皇崩御の後、皇太子践祚せられる例であつたから、かゝる詞はもとよりなかつた。然るに後やうやうこの事行はれるに至つて、一は御父子間の礼、一は天下万民に告げられる儀と変つて来たことは前述べた通りである

第一章には主として践祚と即位との別れ来た所以を述べたがこの章には践祚の礼即ち譲位の儀は、いかなるものであるか、又譲位はいつごろから始つたかといふことを叙して見よう。要するにこの三章は、互に聯絡して居るから、読者はその心して見られたい。

史を按ずるに、神武天皇以下二十五代の間は、曾て譲位の御事跡はない。然るに継体天皇御大患に依つて位を、安閑天皇に譲つて、即日崩御になつた。これ事実に於ては安閑天皇は、先帝崩後の践祚であるが、譲位礼の嚆矢である。この後九代をへだてゝ皇極天皇は、御位を孝徳天皇に譲り、持統天皇は、文武天皇に御譲位あり、その後或は御事故或は御疾病等によつて歴朝御譲位を見るやうになつた。中にも聖武天皇のごときは、つとに仏道に御帰依のあまり、未だ御壮齢にて御譲位になり、太政天皇としておはしましたるが、後にはこれに傚はせられ、仏門御信仰のための譲位が、殆ど例のやうになつたのである

受禅の新帝は、直にその御儀を挙げられる事であるが、前述べた通り、此方はいはゞ御内場の礼であるから御即位式のやうに仰〻しい事はない。併しながら、いはゆる神器授受の御式などは此方にあることで、決して軽い御儀ではない。今貞観儀式以下後世の書をも参考して大概を記せば、先づ左のごとくである。

譲位の日時定つて後、警固けいご固関こげんといふ事がある。これは非常を戒めるためで、警固とは六衛の官に司々を固め衛らしめることである。固関こげんとは関所々々を固めることで、中古では三関といつて伊勢の鈴鹿すゞか、近江の逢坂あふさか、美濃の不破ふはの三関を三ヶ国の国司に命じて固めしめることである。

さて是等これらの事がをはり紫宸殿の装飾敷設が成つて、当日天皇は大臣以下を率ゐて出御、高御座に着きたまへば、皇太子、時を図つて進んで殿上の座に着せらる。親王以下座定つて、大臣、宣命大夫をめして宣命を授く。大夫座に進めば、皇太子座を起つて立ちたまふ、大夫宣制二段、群臣再拝す。
按ずるに譲位の宣命は時に臨んで一定せぬ、こゝに「朝野群載」に掲げたるものを挙れば左のごとくである。
現神云々(中略)朕以薄徳天久纂洪緒、是以皇太子多留、某親王万機倍天、令賢者臨四海世志女天、令㆘㆓徳化育万民女牟止念行古止既経多年奴、知人鑑、聖帝之明毛難止勢利止所聞止毛此皇子温恭蘊性、仁孝凝太能毛之久タノモシク於多比之久オタヒシク天奈牟此位授賜、諸衆此状、清直心乎毛知天、此皇子輔導仕奉、天下、又古人有、上多仁波、下苦止奈毛聞、故是以、太上皇止之云号、亦諸服御停賜、又如此時都々、人々不、天下、己氏門遠毛滅人等前々有、若如此有遠波、己我教訓直天、各己祖門不滅、弥高仕奉欲継、思慎弐心之天、仕奉倍支止、詔、天皇勅命衆聞食宣。

1 読み下し。「現神あきつみかみと云々(中略)朕薄徳を以て久しく洪緒を纂し、是以こゝをもつて皇太子と定めたる、某親王に万機を授け賜へて、賢者をして四海に君臨せしめて、徳化せしめて万民を子育せしめむと念行おもほすこと既に多年を経ぬ、人を知る鑑は、聖帝之明も難とせりと所聞きこしめせども、此皇子温恭蘊性、仁孝神を凝らして太能毛之久たのもしく於多比之久おたひしく在るに依りてなむ、此位を授け賜ふ、諸衆此状を悟りて、清直心をもちて、此皇子を輔導し仕奉りて、天下を平けく有らしめよ、又古人言有り、上多き時には、下苦しむとなも所聞きこしめすかれ是以こゝをもつて、太上皇との号も停めぬ、亦諸服御の物も停め賜ふ、又此の如き時に当つゝ、人々好からず謀り懐て、天下を乱り、己が氏門をも滅人等も前々有り、若し此の如く有む人をば、おのをしへをしへなほして、各の己祖おのがおやの門滅びず、弥高いやたかに仕奉り継がまほさば、思慎おもひつゝしみて弐心なくして、仕奉るべきと、詔、天皇すめら勅命おほみこともろもろ聞食きこしめせと宣りたまふ。」※この読み下しには多くの誤りがあると思ひます。
かくて剱璽渡御の儀となる、掃部寮かもんれう筵道えんだうを敷き、近衛次将二人、剱璽を持つて歩む、関白扈従こしようす、次将階を上りて内侍に授く、事定つて今帝南階より下りて拝舞あり。内侍、節剱せつけんを持つて追従し、少納言一人伝国璽でんこくじを持つて追従し、又一人鈴印鑰れいいんやく等を持つて、今上の御所に進す。近衛以下御雑器を持供して同所に進す。
この日の宣命使には、中納言或は参議を用ゐられる。又この日は南殿の御簾を懸けてあらはにおはしまさず近衛次将も縫腋ほうえきの袍に壺胡簶つぼやなぐひを負ひて陣を引く。常の節会せちゑとは替てをる。
宣制二段とは、宣命を二たびよむことである。之を諸卿は受けて一段ごとに再拝し、或は後段には舞踏する例もある。(舞踏とは袍の袂に手を入れて起つて左右左居て左右左として拝礼することをいふ)。
又新帝上表とて、御父子の間がらにあらざる時は(二三の異例は除きて)受禅をせらるゝ式がある。但しこれは表面のことで、前帝よりたゞちに御止めになる例である。但し幼主の時は是等の事はなされぬ。
神器御授受のほか、御渡しになる雑物とは、歴代の御宝物で、常に清涼殿せいりやうでんに御飾り付けのもので「江次第」その他の古書によれば、
日記御厨子みづし二脚、大床子だいしやうじ三脚、同御厨子二脚、師子形しゝがた二、琵琶びは一面、和琴わごん一面、笛筥ふえばこ一合、笛二管、尺八二、横笛よこぶえ二管、狗笛こまのふえ殿上でんしやう御椅子みいし一脚、時簡ときのふだ一枚、在杭、等の御品々である。
この御式が済んで後(或は翌日)前帝に、太政天皇の尊号を奉られ、又母后に皇太后の号を奉られる。さて後伊勢神宮に奉幣あり、つゞいて宇佐八幡宮に奉幣がある。(中古には宇佐は特別に御信仰があつて、二所宗廟などゝも申したことである)

践祚即位の礼分れ、譲位の御事さへ、殆ど例とならせられては、権臣等が己が威勢を張らんために強ひて御心にもなき御譲位を御勧め申したことは、藤原時代、鎌倉時代、足利時代にも少からぬ事である。彼の法皇の御号はじまりて、院政時代といふ変態を生じ、海内の人心、適従する所を知らざるやうなるありさまに陥つた事も、必竟ひつきやうは御譲位の繁き事に原因してをる。近世後水尾天皇の御譲位のごときは最も幕府の専横を憤りたまうたあまりの御事で、これが為には京都と江戸との衝突のあつたことが、その当時の記録に見えて、今猶寒心に堪へぬ次第である。

然るに明治天皇の御代に至つて御譲位といふことを一切廃せられ、上古の法に復させたまうたは、誠に深き叡慮あらせられたる御事とかしこみ思ひ奉られる事である[2]
           三条実美
 君かますあつまの都
   春立ちてあらたまりたる
     世のてふりかな


2 平成28年8月8日、第百二十五代に在らせられた上皇陛下には、国民に向けて勅語を御発しになつた。その勅語には「天皇が健康を損なひ、深刻な状態に立ち至つた場合、これ迄にも見られたやうに、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれ迄の皇室の仕来りとして、天皇の終焉に当つては、重いもがりの行事が連日ほゞ二ヶ月に亘つて続き、その後喪儀に関聯する行事が、一年間続きます。その様々な行事と、新時代に関はる諸行事が同時に進行することから、行事に関はる人々、とりわけ遺される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。かうした事態を避けることは出来ないものだらうかとの思ひが、胸に去来することもあります。」とあり、高齢や罹病により天皇の務めを全身全霊を以て果すことが出来なくなる場合に国民にもたらす悪影響と、若しこれ迄通り譲位を認めないとした場合に於ける天皇の崩御と新帝の御即位に伴ふ皇族方の過重な御負担とを御軫念になり、御譲位の叡慮を暗に御示しになつた。そして平成31年4月末日を以て皇位を今上陛下に御譲りになり、皇室の新たな時代を御拓きになつた。
明治の皇室典範《第十条 天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク》の義解に譲位の御事に就いて《再ヒツヽシミテ按スルニ神武天皇ヨリ舒明天皇ニ至ル迄三十四世嘗テ譲位ノ事アラス 譲位ノ例ノ皇極天皇ニ始マリシハケダシ女帝仮摂カセツヨリキタル者ナリ 継体天皇ノ安閑天皇ニ譲位シタマヒシハ同日ニ崩御アリ未タ譲位ノ始トナスヘカラス 聖武天皇光仁天皇ニ至テ遂ニ定例ヲ為セリ此ヲ世変セイヘンノ一トス 其ノ後権臣ノ強迫ニ因リ両統互立ヲ例トスルノ事アルニ至ル而シテ南北朝ノ乱マタ此ニ源因セリ 本条ニ践祚ヲ以テ先帝崩御ノ後ニ即チ行ハルヽ者ト定メタルハ上代ノ恒典ニ因リ中古以来譲位ノ慣例ヲ改ムル者ナリ》とある。最後の文を文字通り訳せば「本条に、践祚を、先帝崩御の後に直ちに行はれるものであると定めたのは、上代の恒典に則つて、中古以来の譲位の慣例を改めるものである」となる。これが基となつて明治以来、御譲位が否定されたものと解釈されて来た。
美濃部達吉博士の『憲法撮要』(有斐閣、昭和21年)の第三章第一節には「皇位の継承は天皇の崩御のみに因りて生ず。天皇在位中の譲位は皇室典範の全く認めざる所……典範(一〇条)に『天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク』と曰へるは即ち此の意を示すものなり。中世以来皇位の禅譲は殆ど定例を為し、時としては権臣の脅迫に因りて譲位を餘儀なくせしむるものあるに至り、屡禍乱の源を為せり。皇室典範は此の中世以来の慣習を改めたるものにして、其の『天皇崩スルトキハ』と曰へるは、崩スルトキに限りと謂ふの意なり。」とある。
また佐々木惣一博士の『日本憲法要論』(金剌芳流堂、昭和8年)第二章第三節には「皇位継承の原因及び発生」として「皇位継承は天皇の崩御に因て生ず。天皇の崩御以外に皇位継承の原因なし。」とあり、更に金森徳次郎博士の『帝國憲法要綱』(巖松堂書店、昭和9年)の第二編第二款には「皇位継承の原因と時期」として「天皇崩御の場合の外には継承を生ずる場合なし。我国に於ても歴史上には天皇の譲位に因る場合ありと雖も今日に於ては之を認めず。如何なる場合と雖も君主は在世中其の位を譲らるることなし。」とある。
或いは上杉愼吉博士の『新稿憲法述義』(有斐閣、大正14年)第二編第三章第二節には「皇位継承の原因」として「皇位継承は唯だ天皇崩御の場合にのみ之れあり、譲位受禅は皇室典範に依り将来之を認めざるなり、之れ我が上代の古法にして、中世特殊の事情は譲位の例を生じたるも、皇室典範は恒典を復して将来譲位の事なきの原則を確立せるなり」とある。
だが、天皇主体説の学者たる淸水澄博士は『憲法講義 完』(明治大學出版部)第二編第五章「皇位継承」の中で皇位継承は前代の君主より其皇位を譲受ゆづりうくるものにあらず 随て其間何等の行為を要するものにあらずして一定事実の発生と共に当然生ずべき国法上の現象なり 換言すれば前代の君主皇位を去るの瞬間に国法上其継承の順位に在る者当然其地位を襲ふものなり 我皇室典範第十条に「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」とあるは即ち此義なり 故に践祚は新帝となるべき者の意思如何に拘はらず当然其効果を生じ継承の順序に当るもの践祚することを拒絶するを得ず 其一旦皇位に即きたる後に於て禅位することを得るや否やは全く別問題にしていやしくも先帝の崩御と同時に継承順位に在る者は既に帝位に在るものなれば其自由意思を以て皇位に即くの諾否を決すべき餘地あるものにあらざるなり 或は新帝の即位に当り即位の式を挙げ或は欧洲に其例を見る如く君主即位の初め宣誓を為すが如きことありと雖も是れ単に一の儀式上の行為たるに止まり即位式及び宣誓等は君位継承の成立条件にあらざるなり」と述べてゐる。
淸水博士の説明は、特に「皇位継承は前代の君主より其皇位を譲受くるものにあらず」の一文が恰も「譲位」を否定するかに見える一方、その後に「一旦皇位に即きたる後に於て禅位することを得るや否やは全く別問題」と述べて、先帝崩御により皇嗣がその瞬間に自動的に御践祚なさることと、御践祚後に御位を禅譲なさることとを別問題として扱つてゐる。同じく天皇主体説の穗積八束博士の『憲法提要』(有斐閣、昭和11年)第二編第二章「皇位継承」の説明を見てみる。
「按ずるに、皇位継承の事、法理を以て立言すれば権利の移転には非ず、主格の継続なり。語に於て統治権の継承と謂ふときは或は権利の授受を意味するものの如し。其の本義は即ち然らず。統治権は天皇の身位に固著して離るべからず、甲乙の間之を授受しあたふの権利に非ざるなり。皇位の継承は天皇の身位の継続なり。主格の継続は法理上之を同一主格の存在とす。故に皇位に二なし、時を同じうして二なきのみならず、時を異にするも亦二なきなり。今の皇位は即ち千古の皇位なり、万世一系改更あることなし、此れを継承の本義とす。」
淸水博士の言ふ「譲受くるものにあらず」とは穗積博士の言ふ「権利の移転(授受)には非ず」といふ意味であることが解る。皇位継承は、統治権の所在たる皇位を永続せしめる為に為されるものである。何故ならば統治権の所在が途切れることは統治権(即ち国家主権)が途切れることで、従つて国家の断絶を意味するからである。皇位継承が前帝の崩御に起因しようと、或いは別の原因に依るものであらうと、何れにしても前帝が皇位を御去りになつた瞬間に皇嗣が間断なく之を充たし給ふ。それは家督の相続のやうに、父から子へと統治権といふ財産権が授受されることではない。統治権の所在たる皇位を空席にしないやうに、それを嗣ぐ資格のある者がサッとその座に御即きになるのである。皇位は万世不動のもので、それを充たすべき御方が途切れることなく之を充たして行かれるのである。それは天皇が入れ替ることでもない。皇位に在る御方のみを天皇と申し奉るからである。さうであるからこそ皇位に坐します天皇は一瞬も途切れることなく皇位に坐しまし、しかも常に御一人に在らせられ、天皇が御二人いらつしゃる瞬間も生ぜず、御一人もいらつしゃらない瞬間も生じない。皇室典範第十条の条文の主旨は正にこゝに在つて、義解にある譲位の御事はそれとは別の問題であると淸水博士は述べてゐることが之で判る。「譲位不可」説は餘りにも義解に囚はれ過ぎてゐた観があるのである。
平成29年6月16日に公布された『天皇の退位等に関する皇室典範特例法』には「第二条 天皇は、この法律の施行の日限り、退位し、皇嗣が、直ちに即位する。」とある。これは明治の典範第十条に対応する現行皇室典範第四条の「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する。」の条文に傚つたたものである。従来、皇位継承の唯一の原因と解釈されて来た「崩御」を「退位」に置き換へれば、天皇陛下が御退位なされば自動的に皇嗣(皇太子)殿下が御即位(御践祚)なさる、そこに一瞬たりとも空隙は生じない、といふ法理が成り立つ。正に淸水博士の「前代の君主皇位を去るの瞬間に国法上其継承の順位に在る者当然其地位を襲ふ」の表現と一致する。「君主皇位を去る」原因が崩御か退位かに拘はりなく、その瞬間に皇嗣が直ちに御践祚になるのである。特例法が「譲位」と書かずに「退位」とした所以は、法律条文には「皇位継承の原因」として「退位」としか書きやうがないからであらう。「譲位」とは現代に於てこの一連の御事を総称する言葉と解するべきである。抑も上皇陛下御親ら一貫して「譲位」と仰せになつてをられたのだから、御譲位と申し上げて間違ひない。さういふ訳で、上皇陛下におかせられては、明治以来の誤れる慣例を再び見事に打ち破られて、本来の皇室に相応しい正しい慣例を改めて御創めになつたと拝するべきである。 


(池邊義象『皇室』、博文館、大正2年)

2019年10月20日日曜日

践祚即位(池辺義象)②即位

第二章 即位


践祚即位の儀が別れた事は、前章に述べた通りである。その未だわかれなかつた時の御即位の古い儀式はいかゞであつたらう、今より詳に知ることは出来ぬが、神武天皇橿原宮にての御事を「古語拾遺」によりて考ふるに、先づ手置帆負たおきほおひ彦狭知ひこさしりの二神の孫が斎斧いみをの斎鉏いみすきを以て山のを採りて正殿を構へ立て、天富あめのとみの命が斎部の諸氏を率て種々の神宝鏡玉矛盾ほこたて木綿ゆふあさ等を作り、櫛明玉くしあかるたまの命の孫が御祈玉みほきたまを造り、天日鷲あめのひのわしの命の孫が、木綿及び麻ならびに織布、いはゆるあらたへを造られた。これらは正殿装束のである。そこで皇天二祖の詔に従つて、神籬ひもろぎをたてゝ、高皇産霊神たかみむすびのかみ以下を祭られ、日臣ひのおみの命は来目部くめべを率ゐて宮門を護衛し、饒速日にぎはやひの命は内物部うちつもののべを率ゐて矛盾を造り備へられた。(此に饒速日にぎはやひとあるはその実可美真手うましまでの事である)是等これらの物そなはつて後天富命あめのとみのみこと諸の斎部を率ゐて、天璽の鏡剱を捧持して、正殿に奉安し、並に瓊玉を懸け、その幣物をつらねて、殿祭おほとのほかひ祝詞のりとを奏し、次に宮門の祭を行はれた。さて後、物部矛盾ほこたてを立て、大伴、来目くめ杖を建て門を開き、四方の国を朝せしめて天位の貴を観せしめたとある。いかに荘厳であつたかは大抵想像し得られる。

この後は史文簡にして御即位儀を伺ふことが出来ぬが、持統天皇の時に、物部氏大盾おほだてて、中臣氏、天神あまつかみの寿詞よごとを読み、をはつて忌部氏、神璽の剱鏡を奉上し、公卿百寮羅列迎拝して拍手したとあるは、やゝ詳に記されたるものである。中臣氏の天神寿詞の拝読、斎部氏の鏡剱奉上の事は「令義解りやうのぎげ」にも見えて、この御儀中の最も重なるものであることは前章にも述べた通り。また物部大伴などの護衛の任を帯びて奉仕することも、神武天皇の時にも見えて、後代まで伝はつた大切の式である。そもかやうに大切の御儀である御即位の礼も、古くはなほ簡易質素なる御事であつたと推察し奉るを、後には極めて美〻びゞしく唐風の種〻の御式そなはり、御礼服をはじめ文武百官の行装、音楽旌旗せいきなど耳目を驚かすやうになつたのは、何頃よりかと云ふと、天智天皇の叡慮として定められたるに原因せるもので、これを実際に行はれたるは文武天皇の時からである。さてもいはゆる袞龍こんりよう御衣ぎよいをも召されたことゝなつたは聖武天皇からと史に記されてある。その以前は御礼服は祭服と同じく帛の御袍ごはうであつたらうと拝察する。
天智天皇の即位の礼を定められたと云ふ証は、元明天皇以下即位の時の詔に「近江あふみ大津宮おほつのみやに御宇あめのしたしろしめしし大倭おほやまと根子ねこの天皇すめらみこと(天智)の天地と共に長く日月と共に遠く不改かはるまじき常典つねののりと立てたまひ敷きたまへるのり云々」といふ御詞の、爾来いづれの天皇の御即位の詔にも必ず見えたるにて知られるのである。然るにこの儀は唐風に拠られたもので、今日よりそのありさまを思ふと、さながら日本固有の風はないやうに見える。ことに践祚即位と別れて、践祚の儀の時に、神器奉上などは行はれるやうになつてからは、これは純然たる唐風のたゞきらびやかなるさまと成り果てたやうである。
さてその即位の儀式を(践祚とわかれて後の)貞観(清和)儀式に依つて概略を叙して見よう。それに先だちて当時宮城の第一殿たる大極殿を見おく要がある。

大極殿の図

 前一日大極殿を整設す。当日諸衛大儀を服し、各々所部をろくして、大儀杖を殿庭の左右及び諸門に立つ。門部四人、章徳、興礼両門の東西に居る。左右中将の杖御前に供奉し、即ち東西の階下に陣す。兵衛、龍尾道りゆうびだうを挟んで陣す。中務なかつかさ内舎人うどねりを率ゐ、近杖の南に陣す。内蔵くら大舎人おほとねりれう等、各々威儀の物を執て、東西相分れて殿庭に列す。主殿とのも図書づしよ各〻礼服を服して、炉の東西に列す。寅一刻兵部丞録じようろく史生ししやう省掌しやうしやう等を率ゐて、左右相分れて章徳興礼両門より入り、共に龍尾道上に至り、左右兵庫寮ひやうごれうの樹つる所の諸幡諸衛儀仗等を検校けんげうす。式部丞録、史生省掌等を率ゐて左右相分れて長楽、永嘉両門より入り、応天門左右閣道壇上座に就く。録二人史生省掌等を率ゐ、分れて朱雀しゆじやく門東西杖舎前に到り、儀仗を立つ。六位以下の刀禰とねを整列せしむ。時に弾正忠だんじやうちゆう以下朱雀門西腋門より出て、左右分列し、東西杖舎の前に於て、礼儀及び帯杖非違等を糺弾す。をはつて東西腋門より入り、翔鸞しやうらん棲鳳せいほう両楼の南頭に列立す。糺弾すること常のごとし。典儀一人賛者さんじや二人、光範門より入り、各〻位に就く。大臣以下含輝がんき章義しやうぎ両門より入り、朝集てうしふ堂の床に就く。式部丞録以下、閣道の座より起ちて、降つて砌の前に立つ。史生各〻二人大策を持ち、共に庭中に立ち計唱けいしやうす。五位以上唱に随つて称唯ゐしやう列立れつりつす。をはつて内辨ないべんの大臣、昭訓門より入り幄の下座に就く。内記、位記はこを執つて大臣の前の机に置く。大臣式兵両省を喚び、叙すべきものゝ簿を賜ふ。又両省の輔丞を喚び、位記筥を賜ふ。輔丞昭訓門より出て、更に昌福堂の南西を経て、趨つて案上に置く。時に外辨げべんの大臣召使をす。召使称唯ゐしやうして立つ。大臣宣して兵部を喚す、召使称唯ゐしやう退出、大臣宣して、装了の皷を撃たしむ。丞、称唯ゐしやう、外辨の皷を撃たしむ。諸門つぎを以て之に応ず。すなはち、章徳興礼両門を開く。とも佐伯さへぎ両氏各一人、門部三人を率ゐ、両門より入り、会昌門内に居る。辰一刻皇帝建礼門より出でゝ大極殿の後房に御す執翳しつえいの命婦みやうぶ十八人、褰張けんちやうの命婦みやうぶ二人、威儀ゐぎの命婦みやうぶ四人、各〻礼服をちやくし、相分れて座に就く。侍従四人相分れて共に立つ。少納言二人、昭訓光範両門より入る。門部、門を開く。内辨大臣刀禰とねめせの皷を撃たしむ。諸門の皷皆応ず。参議以上次を以て堂を降り、列に就き参入す。五位已上いじやう続いて会昌門より参入す。式部の録、六位已下いか刀禰とねを率ゐて参入す。親王顕親門より入る。諸式をはつて後、皇帝冕服べんぷくを服し高座たかみくらに即きたまふ。殿下鉦を撃つこと三下。執翳はとりの女嬬によじゆ左右分進してかざしを奉ず。褰張けんちやうの命婦みやうぶ御張をかゝぐ。宸儀初て見はれたまふ。執杖者ともけいを称す。式部の録以下面伏す。群臣謦折けいせつ諸伏座す。主殿図書各二人次を以て東西の炉に就て香を焼く。王公百官再拝の儀あり。をはつて宣命せんみやう大夫だいぶ、進んで宣命版せんみやうのはんにつき宣制す。

明神あきつみかみ大八洲おほやしまぐに所知しろしめす天皇詔すめらがみこと良万止らまと宣勅のりたまふみこともろもろ聞食きこしめせのる(群官称唯再拝)かけまくも畏支かしこき明神あきつみかみとます天皇云々しかじかのる、(群官称唯再拝)しかれどもきみ大坐氐おほましまして天下あめのした治賜をさめたまふ君波きみは賢人乃かしこきひとの云々宣。(群官称唯再拝舞踏再拝)武臣ともはたを振つて万歳を称す、拝舞せず。式部兵部案下に就て、して位記を授く。被叙親王以下再拝舞踏あり。をはつて殿上侍従御前に進行して礼畢らいひつと称す。殿下鉦を撃つこと三下、執翳命婦かざしを奉し、褰張命婦御張みちやうを垂る、皇帝還りて後房に入りたまふ。閤内大臣退皷をたしむ。諸門の皷皆応ず。親王以下上よりまかる。をはつて門を閉ぢ解陣げぢんす。

御即位儀の大要は右のごとくである。御服の冕服べんぷくとは即ち袞龍こんりようの御衣ぎよいで、日、月、星辰、山、龍、華虫くわちゆう宗彝そうゐそう火、粉米ふんべい黼黻ほふつの十二章で、これは「書経」に見えて居て舜の時につくられたといふものである。又文武官の大礼服も、ことごとく唐風で、武官は挂甲かけよろひとて、金銀をちりばめたよろひを着る。又龍尾壇上に立る旗は、日月像幢烏形幢うぎやうどうを始め、青龍せいりよう朱雀しゆじやく白虎びやくこ玄武げんぶ四神旗しじんきを建てつらね、進退掛引は、本文のごとく鉦皷を以てし、主殿図書の官人が御前にて、香を焼くなど、尽く唐風である。

左に古図に拠つてこれを掲ぐ。

高御座の図(文安即位調度図所載)

これらを建陳ねた紫宸殿にての図は、別図の如くである。

御即位図

 御即位の前に当つて、先づ伊勢神宮に奉幣して、即位せらるべきよしを奉告せられる、之を「由奉幣よしのほうへい」といふ。又をはつて幣を諸神に奉られる儀がある。又諸山陵にもこの由を告げられる礼がある、是等これら告文こくぶんは、時に依つて多少の相違はあるが、天日嗣あまつひつぎの位を受け継ぎまして、新しく政を視たまふにつきて、その御守りを願ひ、天下の安らけく治まらんことを祈られることはいつも同じことである。」

さて右に述べたやうに、御即位礼は、大極殿にて行はせられる例であつたが、陽成天皇の時、大極殿災あり未だ御造営成らずして、豊楽殿にて行はせられ、冷泉天皇御不豫ごふよに依つて、紫宸殿にて行はせられた。(日本紀略に冷泉康保四年十月十一日、丙寅、天皇於紫宸殿位、依不豫、不大極殿[1]これがこの大礼の紫宸殿に移つた始で、天皇御悩の気に依つて、時の大臣小野宮実頼が注意の結果と伝つて「古事談」には、これを大臣の高名の事に数へてある。この後後三条天皇、大極殿焼失後未だ造りをはらざるに依て、太政官庁にて、この礼を行はせられた。この後安徳天皇治承四年四月また紫宸殿にて行はせられた。これも大極殿焼失の為であつた。この時は、後三条天皇の例に依つて、官庁即位の説を建てたものもあつたけれど、時の右大臣藤原兼実の議で、紫宸殿にまつたのである。然るにこの後皇室漸次御衰頽で、再び大極殿御造営も成りがたく、遂にこの儀は、紫宸殿(或は太政官庁)にての礼となり了つたのである。然れどもその装飾敷設等の事は、いづこまでも奈良朝以来の古儀に則つて、冕冠べんくわん冕服べんぷくの唐風で孝明天皇の御時まで続いたのである。先帝明治天皇御即位の時は、大政維新の始であり、総て神武天皇の創業に則られたまふといふので、奈良朝以来の唐風の冕冠礼服を廃せられ、我が国固有の礼に基いて帛御袍はくのごはうを召され、かも高御座の下には地球儀を据ゑられたまうたと承つてをる。「皇室典範」及び「新登極令」に依れば、御即位は、京都紫宸殿にて行はせたまふことであつて、秋冬の間大甞祭の前に於てせられることである。かくて大礼使を定めて一切の事を掌らしめ、その日時がきまれば、賢所、皇霊殿、神殿に奉告し、勅使をして、神宮、神武天皇御陵、ならびに前帝四代の御陵に奉幣せられる。その紫宸殿の儀は、高御座たかみくらを立てゝ御座とし、その東方に皇后の御座を設け、殿上を装飾し、庭上には、日月像旛、烏形旛、霊鵄形旛、菊花旛等をたてられ、儀仗を敷き、皇太子以下親王大臣諸官座定つて、天皇は御束帯おんそくたい黄櫨染くわうろぜん(未成年の御時は闕腋けつてきの御袍ごはう空頂くうちやう黒幘こくさく)にて、御座に昇らせたまひ、皇后は御五衣おんいつゝぎぬ御唐衣おんからぎぬ御裳おんもにて御座に着かせらる。侍従女官等、御張をかゝぐれば、天皇は御笏おんしやくを端し立御、皇后は御檜扇おひあふぎを執り立御、勅語あり、内閣総理大臣寿詞よごとを奏し、同じく万歳を唱ふ、諸員之に和し、をはつて入御。式の始終には鉦皷を用ゐることは、中古と同じことである。

1 読み下し。「天皇、紫宸殿に於て位に即きたまふ、不豫に依りて、大極殿に御したまはず。」
按ずるに古儀と異つたることは、袞龍こんりようの御衣を黄櫨染くわうろぜんの御袍ごはうに代へたまうた事、皇后の御座の玉座と相並んで共にこの礼を挙げたまふ事、執翳はとりの命婦みやうぶの無きこと、宣命版せんみやうのはんめて、直に勅語をのたまふこと、大臣の寿詞よごとを奏すること、その他いにしへは内辨外辨の大臣が何事も奉仕したるを、新令にては大礼使といふが総てこの時に預ることなどで、文武官の礼服などのかはりあることは申すまでもない。幔をうち旗を立てられる等については、古を折衷して定められてあるやうである。
この新令による御即位式を挙げられることも、最早明年の秋期[2]に迫つてをれば、吾人臣民は遠からずこのかしこき御光に接し得ることである。開闢以来未曾有の発展をなした我が帝国のこの御式、いかに万国人の目をも驚かしめかしこましめることであらうか。

2 大正3年に行はせられる御予定であつた大正天皇御即位の大礼のこと。大正3年4月、昭憲皇太后には崩御あそばされた為、延期されて翌大正4年11月10日に御挙行あらせられた。「新令」といふのは明治に御制定あつた登極令のことで、明治の皇室典範と同登極令に則つて初めて御即位あそばされたのが大正天皇にあらせられた。


(池邊義象『皇室』、博文館、大正2年)

2019年10月19日土曜日

践祚即位(池辺義象)①践祚

第一章 践祚


践はふむ、祚は位福ともいふ義にて、皇太子があらたに帝位を践まれることで、即ち即位と同じこゝろである。然るにこの編に、践祚、即位また譲位と章を分つたのは、平安朝以来是等これらの儀礼が別〻に行はれる事となつて来たから、それを明に知らしめむ為である。さてかやうに各々儀礼を異にするに至つたについては、それぞれ沿革があるから、いまこゝにのぶるであらう。

上古に於ては践祚も即位も一つで、この間に何の区別もなかつた、従つてその儀礼のかはりやうはない。だから「令義解りやうのぎげ」にも、天皇即位謂之践祚[1]と見え又践祚の日の御儀式として、中臣氏が天神あまつかみの寿詞よごとを奏し、忌部氏が神璽の鏡剱をたてまつると書いてある。(この二つは神代以来の大切なる旧儀であるから)然るに後に至つて、漸くこの儀礼が二つに別れた。

1 読み下し。「天皇即位は之を践祚と謂ふ。」
それは何時頃かといふに、大化の改新を去ること遠からぬ斉明天皇が、御即位後七年の七月に崩御になつた。そこで皇太子(天智)が岡本をかもとの宮で摂政五ヶ年を続けられ、その六年目の三月に、都を近江の志賀に遷し、八年の正月に、天皇の位に即かれた。これを天智天皇は、斉明天皇の後を受けて践祚せられ、のち即位の礼を挙げられたものとして、この両儀(践祚と即位と)の別れた始とする説がある。これは皇太子とは称せられながら(日本紀に皇太子素服称制とあり)既に先帝の御跡を承けられたるが故に、践祚と見るべきであるとの考へから来た説である。(皇室典範義解などはこの見解である)さりながら践祚といふは即位と同じ義であるとすれば、既に践祚したまうたならば、皇太子と称せられる理はあるまい。これは「日本紀」にとあり、又「皇年代略記」には皇太子(天智)至孝不即位壬戌以来於岡本宮摂政五箇年[2]とあれば摂政であつて天皇とは称せられなかつたのである。さればこの時の事を以て践祚と即位との始とするはいさゝか無理であらう。

2 読み下し。「至孝にして即位を称へたまはず、壬戌以来、岡本宮に於て摂政したまふこと五箇年。」
この後数代を経て、桓武天皇の、先帝光仁天皇の禅を受けて、天応元年四月辛卯の日に位に即かれ、癸卯の日に(十二日目)大極殿だいごくでんに於て天下万民に向つて即位の礼を行はれたるは、践祚即位と文字は書きわけては無いけれども、辛卯の日なるは践祚で、癸卯の日なるが即位で、この二つの礼を別々に行はれた始とすべきであらう。(践祚即位とかきわけて無いのは、この二つは同儀に用ゐてあるからである)

この後、光孝天皇も、陽成天皇の禅を受けて元慶八年二月四日に、天子の璽授神鏡宝剱等を受けられて天皇となり、廿三日大極殿にて、即位の礼を行はれた。この時も践祚といふ文字はない。醍醐天皇は、寛平九年七月三日に宇多天皇の御禅を受けられ、十三日に大極殿にて、即位の礼を挙げられた。この時も天祚于紫宸殿[3]と書いてある。朱雀天皇に至つて、延長八年九月廿ニ日禅践祚、十一月廿一日天皇於大極殿即位[4]とあつて、始て践祚と即位とを書き分てある。桓武天皇以来事実は同じであるが、明に書き分られたのは此時である。

3 読み下し。「天祚を紫宸殿に於て譲りたまふ。」
4 読み下し。「延長八年九月廿ニ日、禅を受けて践祚したまひ、十一月廿一日、天皇大極殿に於て即位したまふ。」
かくの如く両儀あきらかにわかれた後は、践祚は前帝と新帝との御間、即ち御父子間の御儀で、即位は広く天下万民に告げられる礼となつた。故に上古以来の旧儀で最も貴い神器御授受の儀は践祚の時に行はせられるのである。(第三章譲位の条を見よ)

按ずるに新定登極令に依れば、天皇践祚の時は掌典長をして、賢所に祭典を行はしめ、かつ践祚の旨を皇霊殿神殿に奉告せらるゝことゝなり、又剱璽渡御の儀がある。この時には天皇は御通常服で、剱璽渡御は侍従奉仕し国璽御璽も内大臣秘書官が捧持して従ふのである。又剱璽を御前の案上に奉安するは内大臣つかさどることになつてあるが、是等これらの式は即ち古代の儀を折衷して新に定められたるものである。


(池邊義象『皇室』、博文館、大正2年)

2019年10月18日金曜日

皇位継承(池辺義象)③女帝

第三章 女帝


皇室典範第一章第一条に、「大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」とあるは、明治の御代みよの御定めであるが、その実は太古以来の常典じやうてんである。これについては古代女帝御継承の歴史をのぶれば誰も得心するであらう。

日向御三代は、もとよりの事、神武天皇以来、崇峻天皇まで三十二代の間女帝御即位の事はない。然るに三十三代に及んで推古天皇が立たせられた。これ女帝の始である。これより後、皇極天皇、持統天皇、元明天皇、元正天皇、孝謙天皇、明正天皇、後桜町天皇の女帝があらはれ給うた。いまこの諸女帝の御即位の事情を尋ねて見よう。

推古天皇は、敏達天皇の皇后であらせられたが、この頃大臣おほおみ蘇我馬子といふが権力をほしいまゝにし、かしこくも崇峻天皇を弑しまつるに至つた。そこで推古天皇が御即位になつたが、この天皇は御母は蘇我氏である。これ馬子が権臣の勢ひを以て、この天皇を御位にけまつつたものである。

皇極天皇は、欽明天皇の皇后で、天智天皇の御母であらせられる。欽明天皇崩ぜられて、天智天皇は皇太子ではあらせられたが、当時もなほ蘇我蝦夷えみし、蘇我入鹿いるかなどいふ不逞の大臣等が政権を握つて、皇太子の御意のまゝにならぬことが多くて、この御即位はあらせられたものとおもふ。且又かつまた皇太子は後に藤原鎌足と図つて、入鹿を誅せられた位の御事であるから、これにはよほど入組んだ事情が伏在して居たのであらう。

持統天皇は、天武天皇の皇后であらせられたが、天武天皇の皇太子草壁くさかべの皇子と申すが世を早くしたまひ、その御子(後の文武天皇)おはしたれども、未だ御幼年であつたから(当時は中古のやうに幼稚の天皇を立てられない御定めであつた。)御祖母でありながら御即位になり、皇孫文武天皇の十五歳にならせられるを待つて、御位を譲られたのである。

元明天皇は、草壁皇子の妃で即ち文武天皇の御母であらせられたが、文武天皇崩御の後、皇子なほ幼冲えうちゆうなるによつて、位に即かせられ、十年に及びましたれども、聖武天皇なほ御成人無き故に、更に位を元正天皇に譲られたまうたのである。故にこの時には二代女帝が続かせられた。

孝謙天皇は、聖武天皇の御女で、父帝が深く仏道に帰依したまひ、万機の政をはやく脱れて、一向に信念を凝らしたまはむとの、古来未曾有の叡慮より、御位を孝謙天皇に譲つて、太上天皇の尊号を受けさせられた。

遥に降つての女帝が明正天皇である。天皇は後水尾天皇の皇女で、御母は東福門院、即ち徳川二代将軍秀忠の女である。この御即位は、後水尾天皇の思召とは申せ、江戸幕府の専横に御心たひらかならざるに原因して居ることは、当時の諸記録が明かに語つてをることである。

後桜町天皇は、桜町天皇の皇女で、その皇姪後桃園天皇が幼冲であらせられた間、帝位に上られたものである。

右のごとく推古天皇以後の女帝の御上を考へて見るに、一は皇太子御幼冲により、一は権臣の推す処とならせられたのである。たゞ聖武天皇の孝謙天皇に御譲位の事のみは、仏道御帰依といふに原因して、前の二の原因とは違つてをる。一体この天皇は東大寺大仏を起して「三宝の奴」とのたまひたる仏道信仰の御方で、それが為には万乗の御位をも去つて、かゝる事を敢てしたまうたのである。

されば孝謙天皇を除き奉ては仮の御位とも見申すべきもので、もとより祖宗以来の正法とは申されぬ。推古天皇以前に、神功皇后、飯豊青いひとよあをの皇女の事もあつたが、いづれも摂政に過ぎぬのである。若し欧洲のある国のごとく公然と女帝を許すことゝすれば、従つて皇夫の制も立たねばならぬ事になり、皇統の御上に弊害の生ずることは、たなごゝろを指すやうなものである。これ皇祖皇宗のつとに女系を避けしめられたものと拝察する。
我が皇位の継承に将来女系を禁ぜられたは、祖宗以来の不文憲法を明文にたしかめられたといふことは承つたが、然らば天照大神はいかがであらう、大神は大日孁貴おほひるめのむちとも申し、全く女神ではないかといふ人がある。いかにも天照大神は女神である。併しこの大神は、即ち皇位のもとを定められた大神であるから、男神でも女神でも、歴代の天皇がたと共に均しく論ずべき神ではない。古史に光華明彩照臨六合[1]などゝあつて、これ神、これ聖、これ祖、これ宗、尊きことゝ二なき大神である。この大神が女体であらせられたとて、皇統に女帝を禁じたまふこと少しも差支はない。

1 読み下し。「光華ひかり明彩うるはしくして、六合くにのうち照臨せうりんす。」 
然るにある学者の如く、この本を定めたまうた大神をも男神にしようとて、天照大神は実は男体である、然るに女神として日本紀古事記等の古史に伝へてあるのは、蘇我大臣一派が、我が権力を伸す為に、太古以来例のない女帝推古天皇を立てまゐらせた時に、後世より疑義を挟むものゝないやうに、大神の男体であるものを、ことごとく女神に書き換へ語り換へしめたものであると説くものがある。併しこれは餘りに穿鑿に過ぎかへつてその愚をあらはす説で、信ずるに足らぬ。
  君か代はかきりもあらし長濱の
    まさこのかすはよみつくすとも[2]
  近江のや鏡のやまをたてたれは
    かねてそ見ゆるきみかちとせは[3]
              (大歌所の歌[4]

2 古今集1085番、仁和の御べ(光孝天皇の大嘗会)の伊勢の国の歌。「君がよは限りもあらじ長濱の真砂のかずはよみつくすとも」
(岩波文庫『古今和歌集』)
3 古今集1086番、今上の御べ(醍醐天皇の大嘗会)の近江の歌。「近江のや鏡の山をたてたればかねてぞ見ゆる君が千歳は」(岩波文庫『古今和歌集』)
4 この2首は古今集巻第二十「大歌所御歌」ではなく同巻「神遊びのうた」に所載。


(池邊義象『皇室』、博文館、大正2年)

2019年10月17日木曜日

皇位継承(池辺義象)②神器

第二章 神器


神器は即ち三種の神器で、天照あまてらす大神おほみかみより天孫てんそん瓊々杵尊にゝぎのみことに賜はつた八尺やさかの勾璁まがたま八咫鏡やたのかゞみ天叢雲剱あめのむらくもつるぎ(草薙剱とも云ふ)である。凡そ皇位を継承せられるには、必ずこの三種神器を御伝授になる。この三神器を御伝授ない間は正しき皇位を継承せられた御方とすることは出来ぬ。言換ればこの三種神器の御伝授は正当に御即位あらせられた標幟である。故に昔より最もこの礼を大切にせられる。「日本紀」にもこの三種神器の事を「天皇璽符」とも「天璽」とも「神璽」とも書いてある。「神祇令」には凡践祚之日中臣奏天神寿詞、忌部上神璽之鏡剱[1]と定めさせられてある。(天神寿詞とは、中臣氏に伝はつた天孫降臨当時の寿詞で御即位の度ごとに、この故事を新天皇に奏上したものである。)上代は践祚即ち即位でその区別がなかつたから、この日に神器奏上の礼も行はれた。然るに後に至り、践祚と即位と別々なる礼となつてからは、践祚の日に神器奏上の礼は行はれることになつた。(践祚即位の事は第二篇に述べる)

1 読み下し。「凡そ践祚の日、中臣天神寿詞あまつかみのよごとを奏し、忌部神璽しんじの鏡剱をたてまつる。」
此の如く三種神器は御即位の標幟ともなる貴いものなるに依て、古来決して、この物なくして御即位あらせられるやうな事はなかつたが、源平の乱の時に安徳天皇西海御没落あらせられて、その御留守に、京都にて後鳥羽天皇が神器なくして御即位があつた。これ実に開闢以来の大変事で、心あるものは悲憤の涙にくれぬはなかつた。時の太閤藤原ふぢはらの兼実かねざねがその日記「玉葉」に記した処を見られよ。
先我朝之習、以剱璽主為国王、不璽践祚之例、書契以来未曾聞、然而依止事、有立王事、天子位不一日之故也、然而至于即位者、待剱璽之帰来、可遂行也(中略)剱璽即位之例出来者、後代乱逆之基、只可此事云々[2]

2 読み下し。「先の我朝の習ひは、剱璽の主を以て国王と為し、璽を待たずして践祚するの例、書契以来未だ曾て聞かず。然れども止む事なきに依りて、王を立つるの事あるは、天子の位は一日も空しうせずの故なり。然れども即位に至りては、剱璽の帰来を待ちて、遂行せらるべきなり(中略)剱璽を帯びずして即位するの例出来せば、後代乱逆の基、たゞに此の事に在るべし云々」(『玉葉』寿永三年六月)
唇滅れば歯寒し霜をんで堅氷至るといふやうに、この寿永の例は、果して後世乱臣賊子の利用する処となつて、足利尊氏は、我が権勢をほしいまゝにせんために、閏位の天皇をおしたてゝ、神器を蔑にした。こゝに於て開国以来嘗てない皇統二系に分れていはゆる南朝北朝などいふ両朝廷が出来天下の人心惑乱せられた。抑も寿永の時は「天子位不一日」の理由もあらせられたがこの尊氏に至つては、全く自己権勢の為に、皇室を蔑にし、天祖以来の憲法をかきみだしたのである。これが尊氏逆臣の名が、万世の下にも消えぬ訳で南北正閏の論ある所以である。正閏の論は決して御血統の上の論ではない、天祖の憲法の正しく守られ居る御位と守られてゐない御位との議である。これを思はずして、北朝正論など唱ふる輩は、天祖以来の皇位継承についたる大憲法を破壊するものである。

抑もかやうに貴い三種神器とはいかにといふに、申すまでもない八咫鏡やたのかゞみ八尺瓊やさかにの勾璁まがたまあめの叢雲剱むらくものつるぎ草薙剱くさなぎのつるぎ)で、その中にも鏡は天岩屋戸あめのいはやとの時に、思兼神おもひかねのかみの思慮にて大神の御姿をうつし奉る為に造らしめられた者、玉は玉祖命たまのおやのみことの同じく天岩屋戸の時に献られたもの、あめの叢雲剱むらくものつるぎは、素戔烏すさのを尊の八岐やまたの大蛇おろちの尾のうちよりられたといふ霊剱である。この三種を思兼神はさかきの枝に取付けて天岩屋戸の前に立てゝ、遂に大神を招き出し奉つたものである。かゝる縁故よりこの三器は大神の御物としてあつたのを、天孫降臨の際に御手つから賜はつたものである。かゝれば天孫以降御代々、宮中に於ては、これを大神の神霊として同殿共床に奉斎せられたことは、前々も述べた通り、崇神天皇の時鏡剱を御模造になつてからは、宮中の一殿に奉斎せられ、朝夕に拝礼あそばすことゝなり、後には温明殿うんめいでんといふに奉斎せられた。この温明殿うんめいでん賢所かしこどころかしこく貴む義。賢の字を書くはその訓を借りたるまでなり)とも、又内侍所ないしどころ(内侍(女官)が奉仕する故に)とも申すのである。(温明殿奉斎の御代は諸説あつてつまびらかでないが、恐くは大内裏御造営が成つて後であらう。後には、春興殿に奉斎せられた、これは大内裏廃頽の後、武家以後の事と思ふ。)玉は常に御座所遠からぬ御間に安置せられるので、賢所には奉斎せられない。(模造の御剱は璽と同じく御奉斎になつて、賢所には御鏡のみを祭り給へる事で有る。温明の字も神鏡を祭られるから採用せられたことゝ思ふ。)さればのち宮中炎焼の時、災にかゝらせられたるは、この模造の御鏡で、真の御鏡は前記のごとく神宮の御神体として奉斎してある。さてもこの度々の火災及び寿永の乱の時も、御玉はいつもつゝがなくおはしまして、かしこくも今に御身の護となつてあらせられる。又火災水難にかゝらせられた鏡剱も、御改鋳のことはなく、そのまゝに御奉斎になつてをる事と承はつてをる。

三種神器の事は、あまり貴いあたりの御事であるから、此には大凡おほよそに記し奉つておくが、この三器の軽重などといふことを世に彼是かれこれといふのは、大に心得違であらう。いかにも御鏡は大神の御象おんかたをうつし申したもので貴いことこの上もないとは申せ、玉も剱も決してこれに劣れるものではない。たゞかやうな説の出るもとは「神祇令」に忌部上神璽之鏡剱[3]とあり「古語拾遺」に八咫鏡及草薙剱二種神宝賜皇孫永為天璽(所謂神璽剱鏡是也)矛玉自従[4]とあるなどを拠所として、三種の中、玉は軽きものゝやうに思ふもあるが、これははなはだ皮相の考へである。「神祇令」なるは忌部氏の職掌として奉上すべき鏡剱の事を記されたもので、玉はもとより天皇護身ごしんの御璽なればこゝに並べ挙げたまふべきものではない。又「古語拾遺」に二種神宝とあるも、これも忌部氏の職掌として、その家伝かでんを書きたるもので、玉の事には及んでゐない。彼の文に矛玉自従とあるは、大国主おほくにぬし神の帰順の時に献られた平国之くにむけの広矛ひろほこと、みつの八尺瓊玉やさかにのたまとの事で、三種神器の一なる玉の事ではない。これは早く鈴木重胤も辨じておかれた如くである。(近藤芳樹は「公式令」に「天子神璽宝而不[5]」とあるが即ち八尺曲玉の事で、これは御内の物ゆゑに外むきの儀式の方には書いてないと論じて居られる。八尺曲玉の御内の宝なる事は、無論の事であるが、この「公式令」の神璽が果して玉をさしたるか否やといふことはいかであらうか。

3 読み下し。「忌部神璽をたてまつる。」
4 読み下し。「八咫鏡やたのかゞみまた草薙剱くさなぎのつるぎ二種ふたくさ神宝かむだからを以て、皇孫に授け賜ひて、ひたぶる天璽あまつしるし(所謂神璽みしるしの剱鏡これなり)とたまふ。矛玉はおのづからに従ふ。」
5 読み下し。「天子の神璽は宝にして用ゐず。」
さてこの三種神器について、昔よりいろいろ説をつけて、智仁勇の三徳をあらはしたまうたといふものもある。智仁勇の文字は漢土輸入であるが、いかにもその意義は、この三器によせられたものと思はれる。源親房は「神皇正統記」に「鏡は日の精なり、玉は月の精なり、剱は星の気あり、深きならひあるにや」と云ひ、又「鏡は一物をたくはへず、私の心なくして万象を興すに是非善悪の姿あらはれずといふことなし、その姿に従ひて感応するを徳とす、これ正直の本源なり、玉は柔和善順を徳とす、慈悲の本源なり、剱は剛利決断を徳とす、智恵の本源なり、この三徳を翕受あはせうけずしては天下の治まらむことまことに難かるべし、神勅あきらかにしてことばつゞまやかに旨ひろし、あまさへ神器にあらはしたまへり、いとかたじけなき事にや」と論ぜられてある。実に古よりの皇室の博愛慈仁進取なるは、かゝる処に淵源するのであらう。
ちなみいふ、今「皇霊殿」といふが、賢所の西方にあつて、常に御祭あらせられるが、これは明治以後の新儀である。但し古き処にも皇霊を祭られたことはあつたけれども、歴代の皇霊殿を建てゝ、かやうに御祭になることはなかつた。又「神殿」とて賢所の東方に御祭あるは古の神祇官の八神と、天神地祇とを合せまつられるものである。前の皇霊殿もこの神殿も、明治の初の頃は、賢所と御同殿にて御祭があつたが、明治廿ニ年今の宮城あらたに成つて後かやうに各々別殿に祭らせたまふことゝなつたと承つてをる。


(池邊義象『皇室』、博文館、大正2年)

2019年10月16日水曜日

皇位継承(池辺義象)①皇太子

第一章 皇太子


皇太子の事を述ぶるには、先づ皇位の事を説かねばならぬ。皇位は第一編の第一章に記したやうに、天照大神の定めたまうたものである。天照大神は天つ日の大神とたゝへ奉るに依て、皇位を、あま日嗣ひつぎといふ。これ天つ日の大神の定められたる御位を嗣々つぎつぎに受けたまひて、その位に上りたまふ義である。即ちこの御位は天壌無窮に定つて動かぬものである。皇太子は、この御位を受嗣うけつぎたまふ御子みこといふので、国語に「ひつぎのみ子」と申すのである。この語はあま日嗣ひつぎの御位からいふもので、現天皇げんてんわう御子みこといふ義ではない。併し事実に於て、現天皇の御子がその御位を継がれるから、ひつぎのみ子、即ち皇太子は、現天皇の御子にいふことゝなる。
この詞の義は後までも存して、現天皇の皇子でなくても太子と記した場合が処々に見える。たとへば「日本紀」に足中彦たらしなかつひこ天皇(仲哀)は日本武尊、第二子也稚足彦わかたらしひこ天皇(成務)四十八年立太子とある。これ叔姪の御間柄である。又「続日本紀」に孝謙淳仁の御間柄のごとき、親等よりいへば、卑属親より尊属親に位を禅らせられた処にも皇太子と書してある。これ「ひつぎのみこ」いはゆる、皇位の御子といふ義から、此に至つたものである。
この皇太子となつて、皇位を継がれる御方は、第一が直系親にて承けられるを正法とするのである。これ天照大神の「吾子孫可王」の大詔にもとづかれたるもので、子孫、曾孫、玄孫といふやうに、真直に数へるので、傍系に及ぶを潔としない。持統天皇の時、継承者の事に就て疑議の起つた、その時、葛野王が、
我国家為法也、神代以来子孫相承以襲天位若兄弟相及則乱従此興[1]懐風藻

1 読み下し。「我が国家の法たるや、神代以来、子孫相承し以て天位をげり、若し兄弟相及ぼさば則ち乱これより興る。」
と言はれたのは、く直系親継承の古法を説明せられたものである。併しながら長き御代々の事、万々已むを得ざる場合には、一時の変道として、兄弟相及ぼされたこともある。

又皇位継承者は嫡出を先にし庶出を後にするが、古よりの定まりである。神武天皇の庶出の手研耳たぎしみゝをさし置いて、神淳名川耳かんぬなかはみゝ(綏靖)を立てられたのも、即ちこの義である。またこれと同時に皇位は一系にして二三に分割することを許されぬ法である。即ち皇子二人あれば之を二分し、三人あれば三分にすといふやうな事は禁ぜられてある。(民間でいふ長子権相続法とか総領法とかいふにやゝ似かよつてをる。)いはゆる皇太子が位に即かるれば、その御一人に統治権があつて、他の方々に国土を分封して、主権を分つなどといふことは是認せられない。天智天皇のいはゆる天無二日地無二王[2]主義である。一系連綿といふはたゞに御血統が続いて居るといふのではない、即ち地無二王主義の事をも含めて云ふ語である。故に後世権臣が私を営むために、皇位を二分し二系にて国政を見たまふやうに為しまゐらせたるは天祖以来の憲法に背いたものである。これ学者が正閏論を唱ふる所以である。

2 読み下し。「天に二日なく、地に二王なし。」
皇位は一系にして、嫡出の皇太子、之を継承せられる事、右のごとくであるが、その皇太子いはゆる「ひつぎのみこ」は上代に在ては時の天皇の叡旨のまゝに、必しも一人に限らず、二人をも三人をも定め置かれた。かく多くを定めて天皇崩御の後に、順序として、皇長子相続したまふが例であるけれども場合に依ては、長子を越えて、皇次子皇三子より承けられることもある。
「古事記伝」に上代には日嗣御子ひつぎのみこと申せるは皇子たちの中に取分けてたうとみあがめて殊なるさまに定めたまへるものにて、其は必しも一柱ひとはしらには限らず、或は二柱三柱も坐しことなり(先は皇后の御腹の御兄さては殊なる由ある皇子たちなり)かくて御位は必ず其の日嗣御子の中なるぞつぎ給ひける。其の証は葺不合尊ふきあへずのみことの御子たち四柱の中に五瀬命いつせのみこと若御毛沼命わかみけぬのみことと二柱、太子に坐し、又神武天皇の太子は、神八井耳かんやゐみゝ命と神沼河耳かんぬまかはみゝ命と二柱坐し、崇神天皇の時、豊城とよき命と活目いくめ命(垂仁)とを御夢に因て、嗣に定めたまへるも、この二柱太子に坐すが故なり、垂仁の時に天皇詔五十瓊敷いにしきの命、大足彦おほたらしひこの曰云々とあるも、この二柱太子に坐すが故なり、応神の時に、天皇召大山守おほやまもり命、大鷦鷯おほさゝきの之云々とあるも、この二柱も宇遅稚郎子うちのわきいらつこと共に、三柱太子たりしが故なり云々下略
今按ずるに、かく二人三人までも、皇太子と定置かせられる事は、必竟皇位を大事に思召すよりの御事にて、皇長子必ず賢明といふことも保しがたい叡旨に起つたことであらう。
皇位継承者たる皇太子は、此の如くなると共に男系を以てせられるが正法である。女系は万々已むを得ざる時の御事で、決して正法でない。(この事は後章に委しく述べよう)
皇太子は右の様な条件の下に立たせられるが大宝制令以後は、皇太子の居所を東宮といひ、傅一人あつて、道徳を以て東宮輔導の事を掌らしめ、学士二人あつて、経を執つて奉説を掌らしめるのである。又東宮の事務を扱ふ官庁を春宮坊といつて、大夫一人、大進少進大属少属以下の吏員が附してある。又この坊の被管として、舎人監しやじんげん主膳監しゆぜんげん主蔵監しゆざうげん主殿署しゆでんしよ主書署しゆしよしよ主醬署しゆせうしよ主工署しゆこうしよ主兵署しゆへいしよ主馬署しゆめしよといふ数多の小官庁がある。

その敬称は殿下と称し、御詞おことばを令と称し、申上ることを上啓と称し、いでましの事を行啓と称することこの頃よりの定めである。又太子監国と申して天皇行幸御留守中には代つて万機の政を見たまふので、この時は令を以て勅に代ふる法である

この立太子の礼は、紫宸殿で行はれる。この時には親王以下百官を集めて、宣命がある。その文は、
天皇すめらがおほみことらまと勅命のりたまふおほみこと親王諸王諸臣百官人等天下公民もろもろ聞食止きこしめせとのりたまふ随法爾のりのまにまに可有伎あるべきまつりごと止志氐として、某親王みこ立而たてて皇太子ひつぎのみこ定賜布さだめたまふかれ此之このさまを悟天さとりて百官人等仕奉礼止つかへまつれとのりたまふ天皇すめらが勅命おほみこともろもろ聞食止きこしめせとのりたまふ
といふのである。これは「貞観儀式」(清和)に見えるが、その事実はつとに行はれて居つたことは想像に難くない。

後には漸々やうやう御儀式が整つて「江次第」によればこの御儀の時には、殿上に漢書かんしよの御屛風おんべうふ大宋たいそうの御屛風おんべうふ等を立つることも見えてある。かくて紫宸殿の儀式をはつて清涼殿にて、東宮の官人を任し、壺切剱つぼきりのつるぎといふを天皇より御渡しになることがある。この壺切剱といふは、延喜以後の例で、その本は関白藤原ふぢはらの基経もとつねが延喜天皇の皇太子の時に私に献つたのが例となつて、藤原氏摂関世襲時代の事であるからおほやけの御儀式となつたのである。故に「禁祕抄」(順徳御撰)には壺切代々東宮宝物也と記されてある。後三条天皇は藤原氏の御腹であらせられなかつた為に、立坊の後二十餘年も、この壺切剱を奉上しなかつた。夫故それゆゑ遂にこの天皇は逆鱗あつて「壺切我持つて益なし更に欲しからず」とて御受け遊ばさなかつたと伝へてある。古事談江談抄

もとより三種の神宝とは同日に論ずべきものではないが、今日では千年になんなんとする旧儀であるから、立太子の時には必ず天皇より御渡しになることゝなつて、今上陛下の立坊の時も、宮城にてこの御儀を行はせられたのである。御新定の「立太子式」にも侍従長壺切御剱を御前に奉れば、勅語あつて御剱を皇太子に授けられることになつて居る。かくてこの儀は、将来遠長く行はれることになつた。
「江次第」によればこの御剱は錦囊に入れて御渡しになることになつ て居る。又「禁祕抄」によればその御造は海浦かいぷ蒔絵まきゑ摺目すりかひ装束青滑革あをなめしかは延久御記 海浦蒔絵野剱、麒麟きりん螺鈿文らでんぶん人車記などゝある。然るに治暦四年に火災にかゝつてさやを造り直され、承久の乱の時紛失したによつて、寛元元年に新造せられしが、正嘉二年に至つて、承久に紛失せられたるが勝光明院しようくわうみやうゐんの宝蔵より出現したことがある。
御新定の式は、中古以来の儀とは大分異つて、当日賢所皇霊殿に奉告し、勅使をして神宮、神武天皇御陵ならびに先帝の御陵に奉幣せしめられることから、この立太子礼は賢所大前にて行はせられることに規定せられた。この時天皇は黄櫨染くわうろぜんの御袍ごはう、皇太子は黄丹わうにの御袍ごはう(未成年の時は闕腋袍けつてきのはう空頂くうちやう黒幘こくさく)を召されることは、古儀に拠られたものである。


(池邊義象『皇室』、博文館、大正2年)