第一章 皇太子
皇太子の事を述ぶるには、先づ皇位の事を説かねばならぬ。皇位は第一編の第一章に記したやうに、天照大神の定めたまうたものである。天照大神は天つ日の大神とたゝへ奉るに依て、皇位を、
この詞の義は後までも存して、現天皇の皇子でなくても太子と記した場合が処々に見える。たとへば「日本紀」にこの皇太子となつて、皇位を継がれる御方は、第一が直系親にて承けられるを正法とするのである。これ天照大神の「吾子孫可王」の大詔に足中彦 天皇(仲哀)は日本武尊、第二子也、稚足彦 天皇(成務)四十八年立為㆓太子㆒とある。これ叔姪の御間柄である。又「続日本紀」に孝謙淳仁の御間柄のごとき、親等よりいへば、卑属親より尊属親に位を禅らせられた処にも皇太子と書してある。これ「ひつぎのみこ」いはゆる、皇位の御子といふ義から、此に至つたものである。
我国家為㆑法也、神代以来子孫相承以襲㆓天位㆒若兄弟相及則乱従㆑此興[1]懐風藻
註と言はれたのは、
1 読み下し。「我が国家の法たるや、神代以来、子孫相承し以て天位を襲 げり、若し兄弟相及ぼさば則ち乱これより興る。」
又皇位継承者は嫡出を先にし庶出を後にするが、古よりの定まりである。神武天皇の庶出の
註皇位は一系にして、嫡出の皇太子、之を継承せられる事、右のごとくであるが、その皇太子いはゆる「ひつぎのみこ」は上代に在ては時の天皇の叡旨のまゝに、必しも一人に限らず、二人をも三人をも定め置かれた。かく多くを定めて天皇崩御の後に、順序として、皇長子相続したまふが例であるけれども場合に依ては、長子を越えて、皇次子皇三子より承けられることもある。
2 読み下し。「天に二日なく、地に二王なし。」
「古事記伝」に上代には日嗣御子 と申せるは皇子たちの中に取分けて尊 崇 めて殊なるさまに定めたまへるものにて、其は必しも一柱 には限らず、或は二柱三柱も坐しことなり(先は皇后の御腹の御兄さては殊なる由ある皇子たちなり)かくて御位は必ず其の日嗣御子の中なるぞ継 給ひける。其の証は葺不合尊 の御子たち四柱の中に五瀬命 と若御毛沼命 と二柱、太子に坐し、又神武天皇の太子は、神八井耳 命と神沼河耳 命と二柱坐し、崇神天皇の時、豊城 命と活目 命(垂仁)とを御夢に因て、嗣に定めたまへるも、この二柱太子に坐すが故なり、垂仁の時に天皇詔㆓五十瓊敷 命、大足彦 尊㆒曰云々とあるも、この二柱太子に坐すが故なり、応神の時に、天皇召㆓大山守 命、大鷦鷯 尊㆒問㆑之云々とあるも、この二柱も宇遅稚郎子 と共に、三柱太子たりしが故なり云々下略
今按ずるに、かく二人三人までも、皇太子と定置かせられる事は、必竟皇位を大事に思召すよりの御事にて、皇長子必ず賢明といふことも保しがたい叡旨に起つたことであらう。皇位継承者たる皇太子は、此の如くなると共に男系を以てせられるが正法である。女系は万々已むを得ざる時の御事で、決して正法でない。(この事は後章に委しく述べよう)
皇太子は右の様な条件の下に立たせられるが大宝制令以後は、皇太子の居所を東宮といひ、傅一人あつて、道徳を以て東宮輔導の事を掌らしめ、学士二人あつて、経を執つて奉説を掌らしめるのである。又東宮の事務を扱ふ官庁を春宮坊といつて、大夫一人、大進少進大属少属以下の吏員が附してある。又この坊の被管として、
その敬称は殿下と称し、御詞 を令と称し、申上ることを上啓と称し、いでましの事を行啓と称することこの頃よりの定めである。又太子監国と申して天皇行幸御留守中には代つて万機の政を見たまふので、この時は令を以て勅に代ふる法である。
この立太子の礼は、紫宸殿で行はれる。この時には親王以下百官を集めて、宣命がある。その文は、
この立太子の礼は、紫宸殿で行はれる。この時には親王以下百官を集めて、宣命がある。その文は、
天皇 詔 旨 勅命 乎 親王諸王諸臣百官人等天下公民衆 聞食止 宣 随法爾 可有伎 政 止志氐 、某親王 乎 立而 皇太子 止 定賜布 故 此之 状 悟天 百官人等仕奉礼止 詔 天皇 勅命 乎 衆 聞食止 宣
といふのである。これは「貞観儀式」(清和)に見えるが、その事実は夙 に行はれて居つたことは想像に難くない。
後には漸々 御儀式が整つて「江次第」によればこの御儀の時には、殿上に漢書 御屛風 大宋 御屛風 等を立つることも見えてある。かくて紫宸殿の儀式了 つて清涼殿にて、東宮の官人を任し、壺切剱 といふを天皇より御渡しになることがある。この壺切剱といふは、延喜以後の例で、その本は関白藤原 基経 が延喜天皇の皇太子の時に私に献つたのが例となつて、藤原氏摂関世襲時代の事であるから公 の御儀式となつたのである。故に「禁祕抄」(順徳御撰)には壺切代々東宮宝物也と記されてある。後三条天皇は藤原氏の御腹であらせられなかつた為に、立坊の後二十餘年も、この壺切剱を奉上しなかつた。夫故 遂にこの天皇は逆鱗あつて「壺切我持つて益なし更に欲しからず」とて御受け遊ばさなかつたと伝へてある。古事談江談抄
後には
「江次第」によればこの御剱は錦囊に入れて御渡しになることになつ て居る。又「禁祕抄」によればその御造は海浦 蒔絵 有㆓如㆑龍摺目 ㆒装束青滑革 延久御記 海浦蒔絵野剱、麒麟 螺鈿文 人車記などゝある。然るに治暦四年に火災にかゝつて鞘 を造り直され、承久の乱の時紛失したによつて、寛元元年に新造せられしが、正嘉二年に至つて、承久に紛失せられたるが勝光明院 の宝蔵より出現したことがある。
御新定の式は、中古以来の儀とは大分異つて、当日賢所皇霊殿に奉告し、勅使をして神宮、神武天皇御陵並 に先帝の御陵に奉幣せしめられることから、この立太子礼は賢所大前にて行はせられることに規定せられた。この時天皇は黄櫨染 御袍 、皇太子は黄丹 御袍 (未成年の時は闕腋袍 、空頂 黒幘 )を召されることは、古儀に拠られたものである。
(池邊義象『皇室』、博文館、大正2年)
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