2019年10月16日水曜日

皇位継承(池辺義象)①皇太子

第一章 皇太子


皇太子の事を述ぶるには、先づ皇位の事を説かねばならぬ。皇位は第一編の第一章に記したやうに、天照大神の定めたまうたものである。天照大神は天つ日の大神とたゝへ奉るに依て、皇位を、あま日嗣ひつぎといふ。これ天つ日の大神の定められたる御位を嗣々つぎつぎに受けたまひて、その位に上りたまふ義である。即ちこの御位は天壌無窮に定つて動かぬものである。皇太子は、この御位を受嗣うけつぎたまふ御子みこといふので、国語に「ひつぎのみ子」と申すのである。この語はあま日嗣ひつぎの御位からいふもので、現天皇げんてんわう御子みこといふ義ではない。併し事実に於て、現天皇の御子がその御位を継がれるから、ひつぎのみ子、即ち皇太子は、現天皇の御子にいふことゝなる。
この詞の義は後までも存して、現天皇の皇子でなくても太子と記した場合が処々に見える。たとへば「日本紀」に足中彦たらしなかつひこ天皇(仲哀)は日本武尊、第二子也稚足彦わかたらしひこ天皇(成務)四十八年立太子とある。これ叔姪の御間柄である。又「続日本紀」に孝謙淳仁の御間柄のごとき、親等よりいへば、卑属親より尊属親に位を禅らせられた処にも皇太子と書してある。これ「ひつぎのみこ」いはゆる、皇位の御子といふ義から、此に至つたものである。
この皇太子となつて、皇位を継がれる御方は、第一が直系親にて承けられるを正法とするのである。これ天照大神の「吾子孫可王」の大詔にもとづかれたるもので、子孫、曾孫、玄孫といふやうに、真直に数へるので、傍系に及ぶを潔としない。持統天皇の時、継承者の事に就て疑議の起つた、その時、葛野王が、
我国家為法也、神代以来子孫相承以襲天位若兄弟相及則乱従此興[1]懐風藻

1 読み下し。「我が国家の法たるや、神代以来、子孫相承し以て天位をげり、若し兄弟相及ぼさば則ち乱これより興る。」
と言はれたのは、く直系親継承の古法を説明せられたものである。併しながら長き御代々の事、万々已むを得ざる場合には、一時の変道として、兄弟相及ぼされたこともある。

又皇位継承者は嫡出を先にし庶出を後にするが、古よりの定まりである。神武天皇の庶出の手研耳たぎしみゝをさし置いて、神淳名川耳かんぬなかはみゝ(綏靖)を立てられたのも、即ちこの義である。またこれと同時に皇位は一系にして二三に分割することを許されぬ法である。即ち皇子二人あれば之を二分し、三人あれば三分にすといふやうな事は禁ぜられてある。(民間でいふ長子権相続法とか総領法とかいふにやゝ似かよつてをる。)いはゆる皇太子が位に即かるれば、その御一人に統治権があつて、他の方々に国土を分封して、主権を分つなどといふことは是認せられない。天智天皇のいはゆる天無二日地無二王[2]主義である。一系連綿といふはたゞに御血統が続いて居るといふのではない、即ち地無二王主義の事をも含めて云ふ語である。故に後世権臣が私を営むために、皇位を二分し二系にて国政を見たまふやうに為しまゐらせたるは天祖以来の憲法に背いたものである。これ学者が正閏論を唱ふる所以である。

2 読み下し。「天に二日なく、地に二王なし。」
皇位は一系にして、嫡出の皇太子、之を継承せられる事、右のごとくであるが、その皇太子いはゆる「ひつぎのみこ」は上代に在ては時の天皇の叡旨のまゝに、必しも一人に限らず、二人をも三人をも定め置かれた。かく多くを定めて天皇崩御の後に、順序として、皇長子相続したまふが例であるけれども場合に依ては、長子を越えて、皇次子皇三子より承けられることもある。
「古事記伝」に上代には日嗣御子ひつぎのみこと申せるは皇子たちの中に取分けてたうとみあがめて殊なるさまに定めたまへるものにて、其は必しも一柱ひとはしらには限らず、或は二柱三柱も坐しことなり(先は皇后の御腹の御兄さては殊なる由ある皇子たちなり)かくて御位は必ず其の日嗣御子の中なるぞつぎ給ひける。其の証は葺不合尊ふきあへずのみことの御子たち四柱の中に五瀬命いつせのみこと若御毛沼命わかみけぬのみことと二柱、太子に坐し、又神武天皇の太子は、神八井耳かんやゐみゝ命と神沼河耳かんぬまかはみゝ命と二柱坐し、崇神天皇の時、豊城とよき命と活目いくめ命(垂仁)とを御夢に因て、嗣に定めたまへるも、この二柱太子に坐すが故なり、垂仁の時に天皇詔五十瓊敷いにしきの命、大足彦おほたらしひこの曰云々とあるも、この二柱太子に坐すが故なり、応神の時に、天皇召大山守おほやまもり命、大鷦鷯おほさゝきの之云々とあるも、この二柱も宇遅稚郎子うちのわきいらつこと共に、三柱太子たりしが故なり云々下略
今按ずるに、かく二人三人までも、皇太子と定置かせられる事は、必竟皇位を大事に思召すよりの御事にて、皇長子必ず賢明といふことも保しがたい叡旨に起つたことであらう。
皇位継承者たる皇太子は、此の如くなると共に男系を以てせられるが正法である。女系は万々已むを得ざる時の御事で、決して正法でない。(この事は後章に委しく述べよう)
皇太子は右の様な条件の下に立たせられるが大宝制令以後は、皇太子の居所を東宮といひ、傅一人あつて、道徳を以て東宮輔導の事を掌らしめ、学士二人あつて、経を執つて奉説を掌らしめるのである。又東宮の事務を扱ふ官庁を春宮坊といつて、大夫一人、大進少進大属少属以下の吏員が附してある。又この坊の被管として、舎人監しやじんげん主膳監しゆぜんげん主蔵監しゆざうげん主殿署しゆでんしよ主書署しゆしよしよ主醬署しゆせうしよ主工署しゆこうしよ主兵署しゆへいしよ主馬署しゆめしよといふ数多の小官庁がある。

その敬称は殿下と称し、御詞おことばを令と称し、申上ることを上啓と称し、いでましの事を行啓と称することこの頃よりの定めである。又太子監国と申して天皇行幸御留守中には代つて万機の政を見たまふので、この時は令を以て勅に代ふる法である

この立太子の礼は、紫宸殿で行はれる。この時には親王以下百官を集めて、宣命がある。その文は、
天皇すめらがおほみことらまと勅命のりたまふおほみこと親王諸王諸臣百官人等天下公民もろもろ聞食止きこしめせとのりたまふ随法爾のりのまにまに可有伎あるべきまつりごと止志氐として、某親王みこ立而たてて皇太子ひつぎのみこ定賜布さだめたまふかれ此之このさまを悟天さとりて百官人等仕奉礼止つかへまつれとのりたまふ天皇すめらが勅命おほみこともろもろ聞食止きこしめせとのりたまふ
といふのである。これは「貞観儀式」(清和)に見えるが、その事実はつとに行はれて居つたことは想像に難くない。

後には漸々やうやう御儀式が整つて「江次第」によればこの御儀の時には、殿上に漢書かんしよの御屛風おんべうふ大宋たいそうの御屛風おんべうふ等を立つることも見えてある。かくて紫宸殿の儀式をはつて清涼殿にて、東宮の官人を任し、壺切剱つぼきりのつるぎといふを天皇より御渡しになることがある。この壺切剱といふは、延喜以後の例で、その本は関白藤原ふぢはらの基経もとつねが延喜天皇の皇太子の時に私に献つたのが例となつて、藤原氏摂関世襲時代の事であるからおほやけの御儀式となつたのである。故に「禁祕抄」(順徳御撰)には壺切代々東宮宝物也と記されてある。後三条天皇は藤原氏の御腹であらせられなかつた為に、立坊の後二十餘年も、この壺切剱を奉上しなかつた。夫故それゆゑ遂にこの天皇は逆鱗あつて「壺切我持つて益なし更に欲しからず」とて御受け遊ばさなかつたと伝へてある。古事談江談抄

もとより三種の神宝とは同日に論ずべきものではないが、今日では千年になんなんとする旧儀であるから、立太子の時には必ず天皇より御渡しになることゝなつて、今上陛下の立坊の時も、宮城にてこの御儀を行はせられたのである。御新定の「立太子式」にも侍従長壺切御剱を御前に奉れば、勅語あつて御剱を皇太子に授けられることになつて居る。かくてこの儀は、将来遠長く行はれることになつた。
「江次第」によればこの御剱は錦囊に入れて御渡しになることになつ て居る。又「禁祕抄」によればその御造は海浦かいぷ蒔絵まきゑ摺目すりかひ装束青滑革あをなめしかは延久御記 海浦蒔絵野剱、麒麟きりん螺鈿文らでんぶん人車記などゝある。然るに治暦四年に火災にかゝつてさやを造り直され、承久の乱の時紛失したによつて、寛元元年に新造せられしが、正嘉二年に至つて、承久に紛失せられたるが勝光明院しようくわうみやうゐんの宝蔵より出現したことがある。
御新定の式は、中古以来の儀とは大分異つて、当日賢所皇霊殿に奉告し、勅使をして神宮、神武天皇御陵ならびに先帝の御陵に奉幣せしめられることから、この立太子礼は賢所大前にて行はせられることに規定せられた。この時天皇は黄櫨染くわうろぜんの御袍ごはう、皇太子は黄丹わうにの御袍ごはう(未成年の時は闕腋袍けつてきのはう空頂くうちやう黒幘こくさく)を召されることは、古儀に拠られたものである。


(池邊義象『皇室』、博文館、大正2年)

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