2019年10月19日土曜日

践祚即位(池辺義象)①践祚

第一章 践祚


践はふむ、祚は位福ともいふ義にて、皇太子があらたに帝位を践まれることで、即ち即位と同じこゝろである。然るにこの編に、践祚、即位また譲位と章を分つたのは、平安朝以来是等これらの儀礼が別〻に行はれる事となつて来たから、それを明に知らしめむ為である。さてかやうに各々儀礼を異にするに至つたについては、それぞれ沿革があるから、いまこゝにのぶるであらう。

上古に於ては践祚も即位も一つで、この間に何の区別もなかつた、従つてその儀礼のかはりやうはない。だから「令義解りやうのぎげ」にも、天皇即位謂之践祚[1]と見え又践祚の日の御儀式として、中臣氏が天神あまつかみの寿詞よごとを奏し、忌部氏が神璽の鏡剱をたてまつると書いてある。(この二つは神代以来の大切なる旧儀であるから)然るに後に至つて、漸くこの儀礼が二つに別れた。

1 読み下し。「天皇即位は之を践祚と謂ふ。」
それは何時頃かといふに、大化の改新を去ること遠からぬ斉明天皇が、御即位後七年の七月に崩御になつた。そこで皇太子(天智)が岡本をかもとの宮で摂政五ヶ年を続けられ、その六年目の三月に、都を近江の志賀に遷し、八年の正月に、天皇の位に即かれた。これを天智天皇は、斉明天皇の後を受けて践祚せられ、のち即位の礼を挙げられたものとして、この両儀(践祚と即位と)の別れた始とする説がある。これは皇太子とは称せられながら(日本紀に皇太子素服称制とあり)既に先帝の御跡を承けられたるが故に、践祚と見るべきであるとの考へから来た説である。(皇室典範義解などはこの見解である)さりながら践祚といふは即位と同じ義であるとすれば、既に践祚したまうたならば、皇太子と称せられる理はあるまい。これは「日本紀」にとあり、又「皇年代略記」には皇太子(天智)至孝不即位壬戌以来於岡本宮摂政五箇年[2]とあれば摂政であつて天皇とは称せられなかつたのである。さればこの時の事を以て践祚と即位との始とするはいさゝか無理であらう。

2 読み下し。「至孝にして即位を称へたまはず、壬戌以来、岡本宮に於て摂政したまふこと五箇年。」
この後数代を経て、桓武天皇の、先帝光仁天皇の禅を受けて、天応元年四月辛卯の日に位に即かれ、癸卯の日に(十二日目)大極殿だいごくでんに於て天下万民に向つて即位の礼を行はれたるは、践祚即位と文字は書きわけては無いけれども、辛卯の日なるは践祚で、癸卯の日なるが即位で、この二つの礼を別々に行はれた始とすべきであらう。(践祚即位とかきわけて無いのは、この二つは同儀に用ゐてあるからである)

この後、光孝天皇も、陽成天皇の禅を受けて元慶八年二月四日に、天子の璽授神鏡宝剱等を受けられて天皇となり、廿三日大極殿にて、即位の礼を行はれた。この時も践祚といふ文字はない。醍醐天皇は、寛平九年七月三日に宇多天皇の御禅を受けられ、十三日に大極殿にて、即位の礼を挙げられた。この時も天祚于紫宸殿[3]と書いてある。朱雀天皇に至つて、延長八年九月廿ニ日禅践祚、十一月廿一日天皇於大極殿即位[4]とあつて、始て践祚と即位とを書き分てある。桓武天皇以来事実は同じであるが、明に書き分られたのは此時である。

3 読み下し。「天祚を紫宸殿に於て譲りたまふ。」
4 読み下し。「延長八年九月廿ニ日、禅を受けて践祚したまひ、十一月廿一日、天皇大極殿に於て即位したまふ。」
かくの如く両儀あきらかにわかれた後は、践祚は前帝と新帝との御間、即ち御父子間の御儀で、即位は広く天下万民に告げられる礼となつた。故に上古以来の旧儀で最も貴い神器御授受の儀は践祚の時に行はせられるのである。(第三章譲位の条を見よ)

按ずるに新定登極令に依れば、天皇践祚の時は掌典長をして、賢所に祭典を行はしめ、かつ践祚の旨を皇霊殿神殿に奉告せらるゝことゝなり、又剱璽渡御の儀がある。この時には天皇は御通常服で、剱璽渡御は侍従奉仕し国璽御璽も内大臣秘書官が捧持して従ふのである。又剱璽を御前の案上に奉安するは内大臣つかさどることになつてあるが、是等これらの式は即ち古代の儀を折衷して新に定められたるものである。


(池邊義象『皇室』、博文館、大正2年)

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