2019年10月17日木曜日

皇位継承(池辺義象)②神器

第二章 神器


神器は即ち三種の神器で、天照あまてらす大神おほみかみより天孫てんそん瓊々杵尊にゝぎのみことに賜はつた八尺やさかの勾璁まがたま八咫鏡やたのかゞみ天叢雲剱あめのむらくもつるぎ(草薙剱とも云ふ)である。凡そ皇位を継承せられるには、必ずこの三種神器を御伝授になる。この三神器を御伝授ない間は正しき皇位を継承せられた御方とすることは出来ぬ。言換ればこの三種神器の御伝授は正当に御即位あらせられた標幟である。故に昔より最もこの礼を大切にせられる。「日本紀」にもこの三種神器の事を「天皇璽符」とも「天璽」とも「神璽」とも書いてある。「神祇令」には凡践祚之日中臣奏天神寿詞、忌部上神璽之鏡剱[1]と定めさせられてある。(天神寿詞とは、中臣氏に伝はつた天孫降臨当時の寿詞で御即位の度ごとに、この故事を新天皇に奏上したものである。)上代は践祚即ち即位でその区別がなかつたから、この日に神器奏上の礼も行はれた。然るに後に至り、践祚と即位と別々なる礼となつてからは、践祚の日に神器奏上の礼は行はれることになつた。(践祚即位の事は第二篇に述べる)

1 読み下し。「凡そ践祚の日、中臣天神寿詞あまつかみのよごとを奏し、忌部神璽しんじの鏡剱をたてまつる。」
此の如く三種神器は御即位の標幟ともなる貴いものなるに依て、古来決して、この物なくして御即位あらせられるやうな事はなかつたが、源平の乱の時に安徳天皇西海御没落あらせられて、その御留守に、京都にて後鳥羽天皇が神器なくして御即位があつた。これ実に開闢以来の大変事で、心あるものは悲憤の涙にくれぬはなかつた。時の太閤藤原ふぢはらの兼実かねざねがその日記「玉葉」に記した処を見られよ。
先我朝之習、以剱璽主為国王、不璽践祚之例、書契以来未曾聞、然而依止事、有立王事、天子位不一日之故也、然而至于即位者、待剱璽之帰来、可遂行也(中略)剱璽即位之例出来者、後代乱逆之基、只可此事云々[2]

2 読み下し。「先の我朝の習ひは、剱璽の主を以て国王と為し、璽を待たずして践祚するの例、書契以来未だ曾て聞かず。然れども止む事なきに依りて、王を立つるの事あるは、天子の位は一日も空しうせずの故なり。然れども即位に至りては、剱璽の帰来を待ちて、遂行せらるべきなり(中略)剱璽を帯びずして即位するの例出来せば、後代乱逆の基、たゞに此の事に在るべし云々」(『玉葉』寿永三年六月)
唇滅れば歯寒し霜をんで堅氷至るといふやうに、この寿永の例は、果して後世乱臣賊子の利用する処となつて、足利尊氏は、我が権勢をほしいまゝにせんために、閏位の天皇をおしたてゝ、神器を蔑にした。こゝに於て開国以来嘗てない皇統二系に分れていはゆる南朝北朝などいふ両朝廷が出来天下の人心惑乱せられた。抑も寿永の時は「天子位不一日」の理由もあらせられたがこの尊氏に至つては、全く自己権勢の為に、皇室を蔑にし、天祖以来の憲法をかきみだしたのである。これが尊氏逆臣の名が、万世の下にも消えぬ訳で南北正閏の論ある所以である。正閏の論は決して御血統の上の論ではない、天祖の憲法の正しく守られ居る御位と守られてゐない御位との議である。これを思はずして、北朝正論など唱ふる輩は、天祖以来の皇位継承についたる大憲法を破壊するものである。

抑もかやうに貴い三種神器とはいかにといふに、申すまでもない八咫鏡やたのかゞみ八尺瓊やさかにの勾璁まがたまあめの叢雲剱むらくものつるぎ草薙剱くさなぎのつるぎ)で、その中にも鏡は天岩屋戸あめのいはやとの時に、思兼神おもひかねのかみの思慮にて大神の御姿をうつし奉る為に造らしめられた者、玉は玉祖命たまのおやのみことの同じく天岩屋戸の時に献られたもの、あめの叢雲剱むらくものつるぎは、素戔烏すさのを尊の八岐やまたの大蛇おろちの尾のうちよりられたといふ霊剱である。この三種を思兼神はさかきの枝に取付けて天岩屋戸の前に立てゝ、遂に大神を招き出し奉つたものである。かゝる縁故よりこの三器は大神の御物としてあつたのを、天孫降臨の際に御手つから賜はつたものである。かゝれば天孫以降御代々、宮中に於ては、これを大神の神霊として同殿共床に奉斎せられたことは、前々も述べた通り、崇神天皇の時鏡剱を御模造になつてからは、宮中の一殿に奉斎せられ、朝夕に拝礼あそばすことゝなり、後には温明殿うんめいでんといふに奉斎せられた。この温明殿うんめいでん賢所かしこどころかしこく貴む義。賢の字を書くはその訓を借りたるまでなり)とも、又内侍所ないしどころ(内侍(女官)が奉仕する故に)とも申すのである。(温明殿奉斎の御代は諸説あつてつまびらかでないが、恐くは大内裏御造営が成つて後であらう。後には、春興殿に奉斎せられた、これは大内裏廃頽の後、武家以後の事と思ふ。)玉は常に御座所遠からぬ御間に安置せられるので、賢所には奉斎せられない。(模造の御剱は璽と同じく御奉斎になつて、賢所には御鏡のみを祭り給へる事で有る。温明の字も神鏡を祭られるから採用せられたことゝ思ふ。)さればのち宮中炎焼の時、災にかゝらせられたるは、この模造の御鏡で、真の御鏡は前記のごとく神宮の御神体として奉斎してある。さてもこの度々の火災及び寿永の乱の時も、御玉はいつもつゝがなくおはしまして、かしこくも今に御身の護となつてあらせられる。又火災水難にかゝらせられた鏡剱も、御改鋳のことはなく、そのまゝに御奉斎になつてをる事と承はつてをる。

三種神器の事は、あまり貴いあたりの御事であるから、此には大凡おほよそに記し奉つておくが、この三器の軽重などといふことを世に彼是かれこれといふのは、大に心得違であらう。いかにも御鏡は大神の御象おんかたをうつし申したもので貴いことこの上もないとは申せ、玉も剱も決してこれに劣れるものではない。たゞかやうな説の出るもとは「神祇令」に忌部上神璽之鏡剱[3]とあり「古語拾遺」に八咫鏡及草薙剱二種神宝賜皇孫永為天璽(所謂神璽剱鏡是也)矛玉自従[4]とあるなどを拠所として、三種の中、玉は軽きものゝやうに思ふもあるが、これははなはだ皮相の考へである。「神祇令」なるは忌部氏の職掌として奉上すべき鏡剱の事を記されたもので、玉はもとより天皇護身ごしんの御璽なればこゝに並べ挙げたまふべきものではない。又「古語拾遺」に二種神宝とあるも、これも忌部氏の職掌として、その家伝かでんを書きたるもので、玉の事には及んでゐない。彼の文に矛玉自従とあるは、大国主おほくにぬし神の帰順の時に献られた平国之くにむけの広矛ひろほこと、みつの八尺瓊玉やさかにのたまとの事で、三種神器の一なる玉の事ではない。これは早く鈴木重胤も辨じておかれた如くである。(近藤芳樹は「公式令」に「天子神璽宝而不[5]」とあるが即ち八尺曲玉の事で、これは御内の物ゆゑに外むきの儀式の方には書いてないと論じて居られる。八尺曲玉の御内の宝なる事は、無論の事であるが、この「公式令」の神璽が果して玉をさしたるか否やといふことはいかであらうか。

3 読み下し。「忌部神璽をたてまつる。」
4 読み下し。「八咫鏡やたのかゞみまた草薙剱くさなぎのつるぎ二種ふたくさ神宝かむだからを以て、皇孫に授け賜ひて、ひたぶる天璽あまつしるし(所謂神璽みしるしの剱鏡これなり)とたまふ。矛玉はおのづからに従ふ。」
5 読み下し。「天子の神璽は宝にして用ゐず。」
さてこの三種神器について、昔よりいろいろ説をつけて、智仁勇の三徳をあらはしたまうたといふものもある。智仁勇の文字は漢土輸入であるが、いかにもその意義は、この三器によせられたものと思はれる。源親房は「神皇正統記」に「鏡は日の精なり、玉は月の精なり、剱は星の気あり、深きならひあるにや」と云ひ、又「鏡は一物をたくはへず、私の心なくして万象を興すに是非善悪の姿あらはれずといふことなし、その姿に従ひて感応するを徳とす、これ正直の本源なり、玉は柔和善順を徳とす、慈悲の本源なり、剱は剛利決断を徳とす、智恵の本源なり、この三徳を翕受あはせうけずしては天下の治まらむことまことに難かるべし、神勅あきらかにしてことばつゞまやかに旨ひろし、あまさへ神器にあらはしたまへり、いとかたじけなき事にや」と論ぜられてある。実に古よりの皇室の博愛慈仁進取なるは、かゝる処に淵源するのであらう。
ちなみいふ、今「皇霊殿」といふが、賢所の西方にあつて、常に御祭あらせられるが、これは明治以後の新儀である。但し古き処にも皇霊を祭られたことはあつたけれども、歴代の皇霊殿を建てゝ、かやうに御祭になることはなかつた。又「神殿」とて賢所の東方に御祭あるは古の神祇官の八神と、天神地祇とを合せまつられるものである。前の皇霊殿もこの神殿も、明治の初の頃は、賢所と御同殿にて御祭があつたが、明治廿ニ年今の宮城あらたに成つて後かやうに各々別殿に祭らせたまふことゝなつたと承つてをる。


(池邊義象『皇室』、博文館、大正2年)

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