2019年10月18日金曜日

皇位継承(池辺義象)③女帝

第三章 女帝


皇室典範第一章第一条に、「大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」とあるは、明治の御代みよの御定めであるが、その実は太古以来の常典じやうてんである。これについては古代女帝御継承の歴史をのぶれば誰も得心するであらう。

日向御三代は、もとよりの事、神武天皇以来、崇峻天皇まで三十二代の間女帝御即位の事はない。然るに三十三代に及んで推古天皇が立たせられた。これ女帝の始である。これより後、皇極天皇、持統天皇、元明天皇、元正天皇、孝謙天皇、明正天皇、後桜町天皇の女帝があらはれ給うた。いまこの諸女帝の御即位の事情を尋ねて見よう。

推古天皇は、敏達天皇の皇后であらせられたが、この頃大臣おほおみ蘇我馬子といふが権力をほしいまゝにし、かしこくも崇峻天皇を弑しまつるに至つた。そこで推古天皇が御即位になつたが、この天皇は御母は蘇我氏である。これ馬子が権臣の勢ひを以て、この天皇を御位にけまつつたものである。

皇極天皇は、欽明天皇の皇后で、天智天皇の御母であらせられる。欽明天皇崩ぜられて、天智天皇は皇太子ではあらせられたが、当時もなほ蘇我蝦夷えみし、蘇我入鹿いるかなどいふ不逞の大臣等が政権を握つて、皇太子の御意のまゝにならぬことが多くて、この御即位はあらせられたものとおもふ。且又かつまた皇太子は後に藤原鎌足と図つて、入鹿を誅せられた位の御事であるから、これにはよほど入組んだ事情が伏在して居たのであらう。

持統天皇は、天武天皇の皇后であらせられたが、天武天皇の皇太子草壁くさかべの皇子と申すが世を早くしたまひ、その御子(後の文武天皇)おはしたれども、未だ御幼年であつたから(当時は中古のやうに幼稚の天皇を立てられない御定めであつた。)御祖母でありながら御即位になり、皇孫文武天皇の十五歳にならせられるを待つて、御位を譲られたのである。

元明天皇は、草壁皇子の妃で即ち文武天皇の御母であらせられたが、文武天皇崩御の後、皇子なほ幼冲えうちゆうなるによつて、位に即かせられ、十年に及びましたれども、聖武天皇なほ御成人無き故に、更に位を元正天皇に譲られたまうたのである。故にこの時には二代女帝が続かせられた。

孝謙天皇は、聖武天皇の御女で、父帝が深く仏道に帰依したまひ、万機の政をはやく脱れて、一向に信念を凝らしたまはむとの、古来未曾有の叡慮より、御位を孝謙天皇に譲つて、太上天皇の尊号を受けさせられた。

遥に降つての女帝が明正天皇である。天皇は後水尾天皇の皇女で、御母は東福門院、即ち徳川二代将軍秀忠の女である。この御即位は、後水尾天皇の思召とは申せ、江戸幕府の専横に御心たひらかならざるに原因して居ることは、当時の諸記録が明かに語つてをることである。

後桜町天皇は、桜町天皇の皇女で、その皇姪後桃園天皇が幼冲であらせられた間、帝位に上られたものである。

右のごとく推古天皇以後の女帝の御上を考へて見るに、一は皇太子御幼冲により、一は権臣の推す処とならせられたのである。たゞ聖武天皇の孝謙天皇に御譲位の事のみは、仏道御帰依といふに原因して、前の二の原因とは違つてをる。一体この天皇は東大寺大仏を起して「三宝の奴」とのたまひたる仏道信仰の御方で、それが為には万乗の御位をも去つて、かゝる事を敢てしたまうたのである。

されば孝謙天皇を除き奉ては仮の御位とも見申すべきもので、もとより祖宗以来の正法とは申されぬ。推古天皇以前に、神功皇后、飯豊青いひとよあをの皇女の事もあつたが、いづれも摂政に過ぎぬのである。若し欧洲のある国のごとく公然と女帝を許すことゝすれば、従つて皇夫の制も立たねばならぬ事になり、皇統の御上に弊害の生ずることは、たなごゝろを指すやうなものである。これ皇祖皇宗のつとに女系を避けしめられたものと拝察する。
我が皇位の継承に将来女系を禁ぜられたは、祖宗以来の不文憲法を明文にたしかめられたといふことは承つたが、然らば天照大神はいかがであらう、大神は大日孁貴おほひるめのむちとも申し、全く女神ではないかといふ人がある。いかにも天照大神は女神である。併しこの大神は、即ち皇位のもとを定められた大神であるから、男神でも女神でも、歴代の天皇がたと共に均しく論ずべき神ではない。古史に光華明彩照臨六合[1]などゝあつて、これ神、これ聖、これ祖、これ宗、尊きことゝ二なき大神である。この大神が女体であらせられたとて、皇統に女帝を禁じたまふこと少しも差支はない。

1 読み下し。「光華ひかり明彩うるはしくして、六合くにのうち照臨せうりんす。」 
然るにある学者の如く、この本を定めたまうた大神をも男神にしようとて、天照大神は実は男体である、然るに女神として日本紀古事記等の古史に伝へてあるのは、蘇我大臣一派が、我が権力を伸す為に、太古以来例のない女帝推古天皇を立てまゐらせた時に、後世より疑義を挟むものゝないやうに、大神の男体であるものを、ことごとく女神に書き換へ語り換へしめたものであると説くものがある。併しこれは餘りに穿鑿に過ぎかへつてその愚をあらはす説で、信ずるに足らぬ。
  君か代はかきりもあらし長濱の
    まさこのかすはよみつくすとも[2]
  近江のや鏡のやまをたてたれは
    かねてそ見ゆるきみかちとせは[3]
              (大歌所の歌[4]

2 古今集1085番、仁和の御べ(光孝天皇の大嘗会)の伊勢の国の歌。「君がよは限りもあらじ長濱の真砂のかずはよみつくすとも」
(岩波文庫『古今和歌集』)
3 古今集1086番、今上の御べ(醍醐天皇の大嘗会)の近江の歌。「近江のや鏡の山をたてたればかねてぞ見ゆる君が千歳は」(岩波文庫『古今和歌集』)
4 この2首は古今集巻第二十「大歌所御歌」ではなく同巻「神遊びのうた」に所載。


(池邊義象『皇室』、博文館、大正2年)

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