2019年10月20日日曜日

践祚即位(池辺義象)②即位

第二章 即位


践祚即位の儀が別れた事は、前章に述べた通りである。その未だわかれなかつた時の御即位の古い儀式はいかゞであつたらう、今より詳に知ることは出来ぬが、神武天皇橿原宮にての御事を「古語拾遺」によりて考ふるに、先づ手置帆負たおきほおひ彦狭知ひこさしりの二神の孫が斎斧いみをの斎鉏いみすきを以て山のを採りて正殿を構へ立て、天富あめのとみの命が斎部の諸氏を率て種々の神宝鏡玉矛盾ほこたて木綿ゆふあさ等を作り、櫛明玉くしあかるたまの命の孫が御祈玉みほきたまを造り、天日鷲あめのひのわしの命の孫が、木綿及び麻ならびに織布、いはゆるあらたへを造られた。これらは正殿装束のである。そこで皇天二祖の詔に従つて、神籬ひもろぎをたてゝ、高皇産霊神たかみむすびのかみ以下を祭られ、日臣ひのおみの命は来目部くめべを率ゐて宮門を護衛し、饒速日にぎはやひの命は内物部うちつもののべを率ゐて矛盾を造り備へられた。(此に饒速日にぎはやひとあるはその実可美真手うましまでの事である)是等これらの物そなはつて後天富命あめのとみのみこと諸の斎部を率ゐて、天璽の鏡剱を捧持して、正殿に奉安し、並に瓊玉を懸け、その幣物をつらねて、殿祭おほとのほかひ祝詞のりとを奏し、次に宮門の祭を行はれた。さて後、物部矛盾ほこたてを立て、大伴、来目くめ杖を建て門を開き、四方の国を朝せしめて天位の貴を観せしめたとある。いかに荘厳であつたかは大抵想像し得られる。

この後は史文簡にして御即位儀を伺ふことが出来ぬが、持統天皇の時に、物部氏大盾おほだてて、中臣氏、天神あまつかみの寿詞よごとを読み、をはつて忌部氏、神璽の剱鏡を奉上し、公卿百寮羅列迎拝して拍手したとあるは、やゝ詳に記されたるものである。中臣氏の天神寿詞の拝読、斎部氏の鏡剱奉上の事は「令義解りやうのぎげ」にも見えて、この御儀中の最も重なるものであることは前章にも述べた通り。また物部大伴などの護衛の任を帯びて奉仕することも、神武天皇の時にも見えて、後代まで伝はつた大切の式である。そもかやうに大切の御儀である御即位の礼も、古くはなほ簡易質素なる御事であつたと推察し奉るを、後には極めて美〻びゞしく唐風の種〻の御式そなはり、御礼服をはじめ文武百官の行装、音楽旌旗せいきなど耳目を驚かすやうになつたのは、何頃よりかと云ふと、天智天皇の叡慮として定められたるに原因せるもので、これを実際に行はれたるは文武天皇の時からである。さてもいはゆる袞龍こんりよう御衣ぎよいをも召されたことゝなつたは聖武天皇からと史に記されてある。その以前は御礼服は祭服と同じく帛の御袍ごはうであつたらうと拝察する。
天智天皇の即位の礼を定められたと云ふ証は、元明天皇以下即位の時の詔に「近江あふみ大津宮おほつのみやに御宇あめのしたしろしめしし大倭おほやまと根子ねこの天皇すめらみこと(天智)の天地と共に長く日月と共に遠く不改かはるまじき常典つねののりと立てたまひ敷きたまへるのり云々」といふ御詞の、爾来いづれの天皇の御即位の詔にも必ず見えたるにて知られるのである。然るにこの儀は唐風に拠られたもので、今日よりそのありさまを思ふと、さながら日本固有の風はないやうに見える。ことに践祚即位と別れて、践祚の儀の時に、神器奉上などは行はれるやうになつてからは、これは純然たる唐風のたゞきらびやかなるさまと成り果てたやうである。
さてその即位の儀式を(践祚とわかれて後の)貞観(清和)儀式に依つて概略を叙して見よう。それに先だちて当時宮城の第一殿たる大極殿を見おく要がある。

大極殿の図

 前一日大極殿を整設す。当日諸衛大儀を服し、各々所部をろくして、大儀杖を殿庭の左右及び諸門に立つ。門部四人、章徳、興礼両門の東西に居る。左右中将の杖御前に供奉し、即ち東西の階下に陣す。兵衛、龍尾道りゆうびだうを挟んで陣す。中務なかつかさ内舎人うどねりを率ゐ、近杖の南に陣す。内蔵くら大舎人おほとねりれう等、各々威儀の物を執て、東西相分れて殿庭に列す。主殿とのも図書づしよ各〻礼服を服して、炉の東西に列す。寅一刻兵部丞録じようろく史生ししやう省掌しやうしやう等を率ゐて、左右相分れて章徳興礼両門より入り、共に龍尾道上に至り、左右兵庫寮ひやうごれうの樹つる所の諸幡諸衛儀仗等を検校けんげうす。式部丞録、史生省掌等を率ゐて左右相分れて長楽、永嘉両門より入り、応天門左右閣道壇上座に就く。録二人史生省掌等を率ゐ、分れて朱雀しゆじやく門東西杖舎前に到り、儀仗を立つ。六位以下の刀禰とねを整列せしむ。時に弾正忠だんじやうちゆう以下朱雀門西腋門より出て、左右分列し、東西杖舎の前に於て、礼儀及び帯杖非違等を糺弾す。をはつて東西腋門より入り、翔鸞しやうらん棲鳳せいほう両楼の南頭に列立す。糺弾すること常のごとし。典儀一人賛者さんじや二人、光範門より入り、各〻位に就く。大臣以下含輝がんき章義しやうぎ両門より入り、朝集てうしふ堂の床に就く。式部丞録以下、閣道の座より起ちて、降つて砌の前に立つ。史生各〻二人大策を持ち、共に庭中に立ち計唱けいしやうす。五位以上唱に随つて称唯ゐしやう列立れつりつす。をはつて内辨ないべんの大臣、昭訓門より入り幄の下座に就く。内記、位記はこを執つて大臣の前の机に置く。大臣式兵両省を喚び、叙すべきものゝ簿を賜ふ。又両省の輔丞を喚び、位記筥を賜ふ。輔丞昭訓門より出て、更に昌福堂の南西を経て、趨つて案上に置く。時に外辨げべんの大臣召使をす。召使称唯ゐしやうして立つ。大臣宣して兵部を喚す、召使称唯ゐしやう退出、大臣宣して、装了の皷を撃たしむ。丞、称唯ゐしやう、外辨の皷を撃たしむ。諸門つぎを以て之に応ず。すなはち、章徳興礼両門を開く。とも佐伯さへぎ両氏各一人、門部三人を率ゐ、両門より入り、会昌門内に居る。辰一刻皇帝建礼門より出でゝ大極殿の後房に御す執翳しつえいの命婦みやうぶ十八人、褰張けんちやうの命婦みやうぶ二人、威儀ゐぎの命婦みやうぶ四人、各〻礼服をちやくし、相分れて座に就く。侍従四人相分れて共に立つ。少納言二人、昭訓光範両門より入る。門部、門を開く。内辨大臣刀禰とねめせの皷を撃たしむ。諸門の皷皆応ず。参議以上次を以て堂を降り、列に就き参入す。五位已上いじやう続いて会昌門より参入す。式部の録、六位已下いか刀禰とねを率ゐて参入す。親王顕親門より入る。諸式をはつて後、皇帝冕服べんぷくを服し高座たかみくらに即きたまふ。殿下鉦を撃つこと三下。執翳はとりの女嬬によじゆ左右分進してかざしを奉ず。褰張けんちやうの命婦みやうぶ御張をかゝぐ。宸儀初て見はれたまふ。執杖者ともけいを称す。式部の録以下面伏す。群臣謦折けいせつ諸伏座す。主殿図書各二人次を以て東西の炉に就て香を焼く。王公百官再拝の儀あり。をはつて宣命せんみやう大夫だいぶ、進んで宣命版せんみやうのはんにつき宣制す。

明神あきつみかみ大八洲おほやしまぐに所知しろしめす天皇詔すめらがみこと良万止らまと宣勅のりたまふみこともろもろ聞食きこしめせのる(群官称唯再拝)かけまくも畏支かしこき明神あきつみかみとます天皇云々しかじかのる、(群官称唯再拝)しかれどもきみ大坐氐おほましまして天下あめのした治賜をさめたまふ君波きみは賢人乃かしこきひとの云々宣。(群官称唯再拝舞踏再拝)武臣ともはたを振つて万歳を称す、拝舞せず。式部兵部案下に就て、して位記を授く。被叙親王以下再拝舞踏あり。をはつて殿上侍従御前に進行して礼畢らいひつと称す。殿下鉦を撃つこと三下、執翳命婦かざしを奉し、褰張命婦御張みちやうを垂る、皇帝還りて後房に入りたまふ。閤内大臣退皷をたしむ。諸門の皷皆応ず。親王以下上よりまかる。をはつて門を閉ぢ解陣げぢんす。

御即位儀の大要は右のごとくである。御服の冕服べんぷくとは即ち袞龍こんりようの御衣ぎよいで、日、月、星辰、山、龍、華虫くわちゆう宗彝そうゐそう火、粉米ふんべい黼黻ほふつの十二章で、これは「書経」に見えて居て舜の時につくられたといふものである。又文武官の大礼服も、ことごとく唐風で、武官は挂甲かけよろひとて、金銀をちりばめたよろひを着る。又龍尾壇上に立る旗は、日月像幢烏形幢うぎやうどうを始め、青龍せいりよう朱雀しゆじやく白虎びやくこ玄武げんぶ四神旗しじんきを建てつらね、進退掛引は、本文のごとく鉦皷を以てし、主殿図書の官人が御前にて、香を焼くなど、尽く唐風である。

左に古図に拠つてこれを掲ぐ。

高御座の図(文安即位調度図所載)

これらを建陳ねた紫宸殿にての図は、別図の如くである。

御即位図

 御即位の前に当つて、先づ伊勢神宮に奉幣して、即位せらるべきよしを奉告せられる、之を「由奉幣よしのほうへい」といふ。又をはつて幣を諸神に奉られる儀がある。又諸山陵にもこの由を告げられる礼がある、是等これら告文こくぶんは、時に依つて多少の相違はあるが、天日嗣あまつひつぎの位を受け継ぎまして、新しく政を視たまふにつきて、その御守りを願ひ、天下の安らけく治まらんことを祈られることはいつも同じことである。」

さて右に述べたやうに、御即位礼は、大極殿にて行はせられる例であつたが、陽成天皇の時、大極殿災あり未だ御造営成らずして、豊楽殿にて行はせられ、冷泉天皇御不豫ごふよに依つて、紫宸殿にて行はせられた。(日本紀略に冷泉康保四年十月十一日、丙寅、天皇於紫宸殿位、依不豫、不大極殿[1]これがこの大礼の紫宸殿に移つた始で、天皇御悩の気に依つて、時の大臣小野宮実頼が注意の結果と伝つて「古事談」には、これを大臣の高名の事に数へてある。この後後三条天皇、大極殿焼失後未だ造りをはらざるに依て、太政官庁にて、この礼を行はせられた。この後安徳天皇治承四年四月また紫宸殿にて行はせられた。これも大極殿焼失の為であつた。この時は、後三条天皇の例に依つて、官庁即位の説を建てたものもあつたけれど、時の右大臣藤原兼実の議で、紫宸殿にまつたのである。然るにこの後皇室漸次御衰頽で、再び大極殿御造営も成りがたく、遂にこの儀は、紫宸殿(或は太政官庁)にての礼となり了つたのである。然れどもその装飾敷設等の事は、いづこまでも奈良朝以来の古儀に則つて、冕冠べんくわん冕服べんぷくの唐風で孝明天皇の御時まで続いたのである。先帝明治天皇御即位の時は、大政維新の始であり、総て神武天皇の創業に則られたまふといふので、奈良朝以来の唐風の冕冠礼服を廃せられ、我が国固有の礼に基いて帛御袍はくのごはうを召され、かも高御座の下には地球儀を据ゑられたまうたと承つてをる。「皇室典範」及び「新登極令」に依れば、御即位は、京都紫宸殿にて行はせたまふことであつて、秋冬の間大甞祭の前に於てせられることである。かくて大礼使を定めて一切の事を掌らしめ、その日時がきまれば、賢所、皇霊殿、神殿に奉告し、勅使をして、神宮、神武天皇御陵、ならびに前帝四代の御陵に奉幣せられる。その紫宸殿の儀は、高御座たかみくらを立てゝ御座とし、その東方に皇后の御座を設け、殿上を装飾し、庭上には、日月像旛、烏形旛、霊鵄形旛、菊花旛等をたてられ、儀仗を敷き、皇太子以下親王大臣諸官座定つて、天皇は御束帯おんそくたい黄櫨染くわうろぜん(未成年の御時は闕腋けつてきの御袍ごはう空頂くうちやう黒幘こくさく)にて、御座に昇らせたまひ、皇后は御五衣おんいつゝぎぬ御唐衣おんからぎぬ御裳おんもにて御座に着かせらる。侍従女官等、御張をかゝぐれば、天皇は御笏おんしやくを端し立御、皇后は御檜扇おひあふぎを執り立御、勅語あり、内閣総理大臣寿詞よごとを奏し、同じく万歳を唱ふ、諸員之に和し、をはつて入御。式の始終には鉦皷を用ゐることは、中古と同じことである。

1 読み下し。「天皇、紫宸殿に於て位に即きたまふ、不豫に依りて、大極殿に御したまはず。」
按ずるに古儀と異つたることは、袞龍こんりようの御衣を黄櫨染くわうろぜんの御袍ごはうに代へたまうた事、皇后の御座の玉座と相並んで共にこの礼を挙げたまふ事、執翳はとりの命婦みやうぶの無きこと、宣命版せんみやうのはんめて、直に勅語をのたまふこと、大臣の寿詞よごとを奏すること、その他いにしへは内辨外辨の大臣が何事も奉仕したるを、新令にては大礼使といふが総てこの時に預ることなどで、文武官の礼服などのかはりあることは申すまでもない。幔をうち旗を立てられる等については、古を折衷して定められてあるやうである。
この新令による御即位式を挙げられることも、最早明年の秋期[2]に迫つてをれば、吾人臣民は遠からずこのかしこき御光に接し得ることである。開闢以来未曾有の発展をなした我が帝国のこの御式、いかに万国人の目をも驚かしめかしこましめることであらうか。

2 大正3年に行はせられる御予定であつた大正天皇御即位の大礼のこと。大正3年4月、昭憲皇太后には崩御あそばされた為、延期されて翌大正4年11月10日に御挙行あらせられた。「新令」といふのは明治に御制定あつた登極令のことで、明治の皇室典範と同登極令に則つて初めて御即位あそばされたのが大正天皇にあらせられた。


(池邊義象『皇室』、博文館、大正2年)

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