第二章 即位
践祚即位の儀が別れた事は、前章に述べた通りである。その未だわかれなかつた時の御即位の古い儀式はいかゞであつたらう、今より詳に知ることは出来ぬが、神武天皇橿原宮にての御事を「古語拾遺」によりて考ふるに、先づ
手置帆負彦狭知の二神の孫が
斎斧斎鉏を以て山の
材を採りて正殿を構へ立て、
天富命が斎部の諸氏を率て種々の神宝鏡玉
矛盾木綿麻等を作り、
櫛明玉命の孫が
御祈玉を造り、
天日鷲命の孫が、木綿及び麻
並に織布、いはゆる
あらたへを造られた。これらは正殿装束の
具である。そこで皇天二祖の詔に従つて、
神籬をたてゝ、
高皇産霊神以下を祭られ、
日臣命は
来目部を率ゐて宮門を護衛し、
饒速日命は
内物部を率ゐて矛盾を造り備へられた。(此に
饒速日とあるはその実
可美真手の事である)
是等の物
備つて後
天富命諸の斎部を率ゐて、天璽の鏡剱を捧持して、正殿に奉安し、並に瓊玉を懸け、その幣物を
陳ねて、
殿祭の
祝詞を奏し、次に宮門の祭を行はれた。さて後、物部
矛盾を立て、大伴、
来目杖を建て門を開き、四方の国を朝せしめて天位の貴を観せしめたとある。いかに荘厳であつたかは大抵想像し得られる。
この後は史文簡にして御即位儀を伺ふことが出来ぬが、持統天皇の時に、物部氏
大盾を
樹て、中臣氏、
天神寿詞を読み、
畢つて忌部氏、神璽の剱鏡を奉上し、公卿百寮羅列迎拝して拍手したとあるは、やゝ詳に記されたるものである。中臣氏の天神寿詞の拝読、斎部氏の鏡剱奉上の事は「
令義解」にも見えて、この御儀中の最も重なるものであることは前章にも述べた通り。また物部大伴などの護衛の任を帯びて奉仕することも、神武天皇の時にも見えて、後代まで伝はつた大切の式である。そもかやうに大切の御儀である御即位の礼も、古くは
猶簡易質素なる御事であつたと推察し奉るを、後には極めて
美〻しく唐風の種〻の御式
具はり、御礼服をはじめ文武百官の行装、音楽
旌旗など耳目を驚かすやうになつたのは、何頃よりかと云ふと、
天智天皇の叡慮として定められたるに原因せるもので、これを実際に行はれたるは文武天皇の時からである。さてもいはゆる
袞龍の
御衣をも召されたことゝなつたは聖武天皇からと史に記されてある。その以前は御礼服は祭服と同じく帛の
御袍であつたらうと拝察する。
天智天皇の即位の礼を定められたと云ふ証は、元明天皇以下即位の時の詔に「近江大津宮御宇大倭根子天皇(天智)の天地と共に長く日月と共に遠く不改常典と立てたまひ敷きたまへる法と云々」といふ御詞の、爾来いづれの天皇の御即位の詔にも必ず見えたるにて知られるのである。然るにこの儀は唐風に拠られたもので、今日よりそのありさまを思ふと、さながら日本固有の風はないやうに見える。ことに践祚即位と別れて、践祚の儀の時に、神器奉上などは行はれるやうになつてからは、これは純然たる唐風のたゞきらびやかなるさまと成り果てたやうである。
さてその即位の儀式を(践祚とわかれて後の)貞観(清和)儀式に依つて概略を叙して見よう。
夫に先だちて当時宮城の第一殿たる大極殿を見おく要がある。
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大極殿の図 |
前一日大極殿を整設す。当日諸衛大儀を服し、各々所部を
勒して、大儀杖を殿庭の左右及び諸門に立つ。門部四人、章徳、興礼両門の東西に居る。左右中将の杖御前に供奉し、即ち東西の階下に陣す。兵衛、
龍尾道を挟んで陣す。
中務、
内舎人を率ゐ、近杖の南に陣す。
内蔵大舎人寮等、各々威儀の物を執て、東西相分れて殿庭に列す。
主殿図書各〻礼服を服して、炉の東西に列す。寅一刻兵部
丞録、
史生省掌等を率ゐて、左右相分れて章徳興礼両門より入り、共に龍尾道上に至り、左右
兵庫寮の樹つる所の諸幡諸衛儀仗等を
検校す。式部丞録、史生省掌等を率ゐて左右相分れて長楽、永嘉両門より入り、応天門左右閣道壇上座に就く。録二人史生省掌等を率ゐ、分れて
朱雀門東西杖舎前に到り、儀仗を立つ。六位以下の
刀禰を整列せしむ。時に
弾正忠以下朱雀門西腋門より出て、左右分列し、東西杖舎の前に於て、礼儀及び帯杖非違等を糺弾す。
訖つて東西腋門より入り、
翔鸞棲鳳両楼の南頭に列立す。糺弾すること常のごとし。典儀一人
賛者二人、光範門より入り、各〻位に就く。大臣以下
含輝章義両門より入り、
朝集堂の床に就く。式部丞録以下、閣道の座より起ちて、降つて砌の前に立つ。史生各〻二人大策を持ち、共に庭中に立ち
計唱す。五位以上唱に随つて
称唯列立す。
訖つて
内辨大臣、昭訓門より入り幄の下座に就く。内記、位記
筥を執つて大臣の前の机に置く。大臣式兵両省を喚び、叙すべきものゝ簿を賜ふ。又両省の輔丞を喚び、位記筥を賜ふ。輔丞昭訓門より出て、更に昌福堂の南西を経て、趨つて案上に置く。時に
外辨大臣召使を
喚す。召使
称唯して立つ。大臣宣して兵部を喚す、召使
称唯退出、大臣宣して、装了の皷を撃たしむ。丞、
称唯、外辨の皷を撃たしむ。諸門
次を以て之に応ず。
乃、章徳興礼両門を開く。
伴佐伯両氏各一人、門部三人を率ゐ、両門より入り、会昌門内に居る。
辰一刻皇帝建礼門より出でゝ大極殿の後房に御す、
執翳命婦十八人、
褰張命婦二人、
威儀命婦四人、各〻礼服を
著し、相分れて座に就く。侍従四人相分れて共に立つ。少納言二人、昭訓光範両門より入る。門部、門を開く。内辨大臣
刀禰召の皷を撃たしむ。諸門の皷皆応ず。参議以上次を以て堂を降り、列に就き参入す。五位
已上続いて会昌門より参入す。式部の録、六位
已下の
刀禰を率ゐて参入す。親王顕親門より入る。諸式
了つて後、皇帝
冕服を服し
高座に即きたまふ。
殿下鉦を撃つこと三下。執翳女嬬左右分進して翳を奉ず。褰張命婦御張を褰ぐ。宸儀初て見はれたまふ。執杖者
俱に
警を称す。式部の録以下面伏す。群臣
謦折諸伏座す。主殿図書各二人次を以て東西の炉に就て香を焼く。王公百官再拝の儀あり。
訖つて
宣命大夫、進んで
宣命版につき宣制す。
明神止大八洲所知天皇詔良万止宣勅乎衆聞食止宣(群官称唯再拝)
掛畏支明神坐天皇
我云々宣、(群官称唯再拝)
然皇止大坐氐天下治賜君波賢人乃云々宣。(群官称唯再拝舞踏再拝)武臣
俱に
旆を振つて万歳を称す、拝舞せず。式部兵部案下に就て、
喚して位記を授く。被叙親王以下再拝舞踏あり。
訖つて殿上侍従御前に進行して
礼畢と称す。殿下鉦を撃つこと三下、執翳命婦
翳を奉し、褰張命婦
御張を垂る、
皇帝還りて後房に入りたまふ。閤内大臣退皷を
槌たしむ。諸門の皷皆応ず。親王以下上より
罷る。
訖つて門を閉ぢ
解陣す。
御即位儀の大要は右のごとくである。御服の
冕服とは即ち
袞龍御衣で、日、月、星辰、山、龍、
華虫、
宗彝、
藻火、
粉米黼黻の十二章で、これは「書経」に見えて居て舜の時に
製られたといふものである。又文武官の大礼服も、
尽く唐風で、武官は
挂甲とて、金銀を
鏤めた
甲を着る。又龍尾壇上に立る旗は、日月像幢
烏形幢を始め、
青龍、
朱雀、
白虎、
玄武の
四神旗を建て
陳ね、進退掛引は、本文のごとく鉦皷を以てし、主殿図書の官人が御前にて、香を焼くなど、尽く唐風である。
左に古図に拠つてこれを掲ぐ。
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高御座の図(文安即位調度図所載) |
これらを建陳ねた紫宸殿にての図は、別図の如くである。
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御即位図 |
御即位の前に当つて、先づ伊勢神宮に奉幣して、即位せらるべき
由を奉告せられる、之を「
由奉幣」といふ。又
畢つて幣を諸神に奉られる儀がある。又諸山陵にもこの由を告げられる礼がある、
是等の
告文は、時に依つて多少の相違はあるが、
天日嗣の位を受け継ぎまして、新しく政を視たまふにつきて、その御守りを願ひ、天下の安らけく治まらんことを祈られることはいつも同じことである。」
さて右に述べたやうに、御即位礼は、大極殿にて行はせられる例であつたが、陽成天皇の時、大極殿災あり未だ御造営成らずして、
豊楽殿にて行はせられ、冷泉天皇
御不豫に依つて、
紫宸殿にて行はせられた。(日本紀略に冷泉康保四年十月十一日、丙寅、天皇於
㆓紫宸殿
㆒即
㆑位、依
㆓不豫
㆒、不
㆑御
㆓大極殿
㆒[1])
これがこの大礼の紫宸殿に移つた始で、天皇御悩の気に依つて、時の大臣小野宮実頼が注意の結果と伝つて「古事談」には、これを大臣の高名の事に数へてある。この後後三条天皇、大極殿焼失後未だ造り
畢らざるに依て、
太政官庁にて、この礼を行はせられた。この後安徳天皇治承四年四月また紫宸殿にて行はせられた。これも大極殿焼失の為であつた。この時は、後三条天皇の例に依つて、官庁即位の説を建てたものもあつたけれど、時の右大臣藤原兼実の議で、紫宸殿に
極まつたのである。然るにこの後皇室漸次御衰頽で、再び大極殿御造営も成りがたく、遂にこの儀は、紫宸殿(或は太政官庁)にての礼となり了つたのである。然れどもその装飾敷設等の事は、いづこまでも奈良朝以来の古儀に則つて、
冕冠冕服の唐風で孝明天皇の御時まで続いたのである。先帝明治天皇御即位の時は、大政維新の始であり、総て神武天皇の創業に則られたまふといふので、
奈良朝以来の唐風の冕冠礼服を廃せられ、我が国固有の礼に基いて帛御袍を召され、然かも高御座の下には地球儀を据ゑられたまうたと承つてをる。「皇室典範」及び「新登極令」に依れば、御即位は、京都紫宸殿にて行はせたまふことであつて、秋冬の間大甞祭の前に於てせられることである。かくて
大礼使を定めて一切の事を掌らしめ、その日時が
極れば、賢所、皇霊殿、神殿に奉告し、勅使をして、神宮、神武天皇御陵、
並に前帝四代の御陵に奉幣せられる。その紫宸殿の儀は、
高御座を立てゝ御座とし、その東方に皇后の御座を設け、殿上を装飾し、庭上には、日月像旛、烏形旛、霊鵄形旛、菊花旛等をたてられ、儀仗を敷き、皇太子以下親王大臣諸官座定つて、天皇は
御束帯黄櫨染(未成年の御時は
闕腋御袍空頂黒幘)にて、御座に昇らせたまひ、皇后は
御五衣、
御唐衣、
御裳にて御座に着かせらる。侍従女官等、御張を
褰れば、天皇は
御笏を端し立御、皇后は
御檜扇を執り立御、勅語あり、内閣総理大臣
寿詞を奏し、同じく万歳を唱ふ、諸員之に和し、
訖つて入御。式の始終には鉦皷を用ゐることは、中古と同じことである。
註
1 読み下し。「天皇、紫宸殿に於て位に即きたまふ、不豫に依りて、大極殿に御したまはず。」
按ずるに古儀と異つたることは、袞龍の御衣を黄櫨染御袍に代へたまうた事、皇后の御座の玉座と相並んで共にこの礼を挙げたまふ事、執翳命婦の無きこと、宣命版を止めて、直に勅語を宣ふこと、大臣の寿詞を奏すること、その他古は内辨外辨の大臣が何事も奉仕したるを、新令にては大礼使といふが総てこの時に預ることなどで、文武官の礼服などのかはりあることは申すまでもない。幔をうち旗を立てられる等については、古を折衷して定められてあるやうである。
この新令による御即位式を挙げられることも、最早明年の秋期
[2]に迫つてをれば、吾人臣民は遠からずこのかしこき御光に接し得ることである。開闢以来未曾有の発展をなした我が帝国のこの御式、いかに万国人の目をも驚かしめかしこましめることであらうか。
註
2 大正3年に行はせられる御予定であつた大正天皇御即位の大礼のこと。大正3年4月、昭憲皇太后には崩御あそばされた為、延期されて翌大正4年11月10日に御挙行あらせられた。「新令」といふのは明治に御制定あつた登極令のことで、明治の皇室典範と同登極令に則つて初めて御即位あそばされたのが大正天皇にあらせられた。
(池邊義象『皇室』、博文館、大正2年)
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