第三章 譲位
譲位とは天皇より、位を皇太子に譲られる礼で、即ち前帝について言ふ
第一章には主として践祚と即位との別れ来た所以を述べたがこの章には践祚の礼即ち譲位の儀は、いかなるものであるか、又譲位はいつごろから始つたかといふことを叙して見よう。要するにこの三章は、互に聯絡して居るから、読者はその心して見られたい。
史を按ずるに、神武天皇以下二十五代の間は、曾て譲位の御事跡はない。然るに継体天皇御大患に依つて位を、安閑天皇に譲つて、即日崩御になつた。これ事実に於ては安閑天皇は、先帝崩後の践祚であるが、譲位礼の嚆矢である。この後九代をへだてゝ皇極天皇は、御位を孝徳天皇に譲り、持統天皇は、文武天皇に御譲位あり、その後或は御事故或は御疾病等によつて歴朝御譲位を見るやうになつた。中にも聖武天皇のごときは、
受禅の新帝は、直にその御儀を挙げられる事であるが、前述べた通り、此方はいはゞ御内場の礼であるから御即位式のやうに仰〻しい事はない。併しながら、いはゆる神器授受の御式などは此方にあることで、決して軽い御儀ではない。今貞観儀式以下後世の書をも参考して大概を記せば、先づ左のごとくである。
譲位の日時定つて後、
さて
按ずるに譲位の宣命は時に臨んで一定せぬ、こゝに「朝野群載」に掲げたるものを挙れば左のごとくである。
現神止云々(中略)朕以㆓薄徳㆒天久纂㆓洪緒㆒、是以皇太子止定多留、某親王爾授㆓万機㆒介賜倍天、令㆓賢者㆒天君㆓臨四海㆒世志女天、令㆘㆓徳化㆒天子㆗育万民㆖女牟止念行古止既経㆓多年㆒奴、知㆑人鑑波、聖帝之明毛難止勢利止所聞止毛、此皇子温恭蘊性、仁孝凝㆑神天太能毛之久 於多比之久 在仁依天奈牟、此位乎授賜布、諸衆此状乎悟天、清直心乎毛知天、此皇子乎輔導支仕奉天、天下乎平久令㆑有与、又古人有㆑言利、上多支時仁波、下苦止奈毛所㆑聞、故是以、太上皇止之云号毛停奴、亦諸服御乃物毛停賜布、又如㆑此時爾当都々、人々不㆑好須謀利懐天、天下乎乱利、己加氏門遠毛滅人等毛前々有利、若如㆑此有牟人遠波、己我教爾訓直天、各乃己祖乃門不㆑滅、弥高爾仕奉欲㆑継、思慎天无㆓弐心㆒之天、仕奉倍支止、詔、天皇我勅命遠衆聞食止宣。
註かくて剱璽渡御の儀となる、
1 読み下し。「現神 と云々(中略)朕薄徳を以て久しく洪緒を纂し、是以 皇太子と定めたる、某親王に万機を授け賜へて、賢者をして四海に君臨せしめて、徳化せしめて万民を子育せしめむと念行 こと既に多年を経ぬ、人を知る鑑は、聖帝之明も難とせりと所聞 ども、此皇子温恭蘊性、仁孝神を凝らして太能毛之久 於多比之久 在るに依りてなむ、此位を授け賜ふ、諸衆此状を悟りて、清直心をもちて、此皇子を輔導し仕奉りて、天下を平けく有らしめよ、又古人言有り、上多き時には、下苦しむとなも所聞 、故 是以 、太上皇との号も停めぬ、亦諸服御の物も停め賜ふ、又此の如き時に当つゝ、人々好からず謀り懐て、天下を乱り、己が氏門をも滅人等も前々有り、若し此の如く有む人をば、己 が教 に訓 直 て、各の己祖 の門滅びず、弥高 に仕奉り継がまほさば、思慎 て弐心なくして、仕奉るべきと、詔、天皇 が勅命 を衆 聞食 と宣りたまふ。」※この読み下しには多くの誤りがあると思ひます。
この日の宣命使には、中納言或は参議を用ゐられる。又この日は南殿の御簾を懸けてあらはにおはしまさず近衛次将も縫腋 の袍に壺胡簶 を負ひて陣を引く。常の節会 とは替てをる。
宣制二段とは、宣命を二たびよむことである。之を諸卿は受けて一段ごとに再拝し、或は後段には舞踏する例もある。(舞踏とは袍の袂に手を入れて起つて左右左居て左右左として拝礼することをいふ)。
又新帝上表とて、御父子の間がらにあらざる時は(二三の異例は除きて)受禅を辞 せらるゝ式がある。但しこれは表面のことで、前帝より直 に御止めになる例である。但し幼主の時は是等の事はなされぬ。
神器御授受の外 、御渡しになる雑物とは、歴代の御宝物で、常に清涼殿 に御飾り付けのもので「江次第」その他の古書によれば、
日記御厨子 二脚、大床子 三脚、同御厨子二脚、師子形 二、琵琶 一面、和琴 一面、笛筥 一合、笛二管、尺八二、横笛 二管、狗笛 、殿上 御椅子 一脚、時簡 一枚、在杭、等の御品々である。
践祚即位の礼分れ、譲位の御事さへ、殆ど例とならせられては、権臣等が己が威勢を張らんために強ひて御心にもなき御譲位を御勧め申したことは、藤原時代、鎌倉時代、足利時代にも少からぬ事である。彼の法皇の御号はじまりて、院政時代といふ変態を生じ、海内の人心、適従する所を知らざるやうなるありさまに陥つた事も、
然るに明治天皇の御代に至つて御譲位といふことを一切廃せられ、上古の法に復させたまうたは、誠に深き叡慮あらせられたる御事とかしこみ思ひ奉られる事である[2]
三条実美
君かますあつまの都
春立ちてあらたまりたる
世のてふりかな
註
2 平成28年8月8日、第百二十五代に在らせられた上皇陛下には、国民に向けて勅語を御発しになつた。その勅語には「天皇が健康を損なひ、深刻な状態に立ち至つた場合、これ迄にも見られたやうに、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれ迄の皇室の仕来りとして、天皇の終焉に当つては、重い殯 の行事が連日ほゞ二ヶ月に亘つて続き、その後喪儀に関聯する行事が、一年間続きます。その様々な行事と、新時代に関はる諸行事が同時に進行することから、行事に関はる人々、とりわけ遺される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。かうした事態を避けることは出来ないものだらうかとの思ひが、胸に去来することもあります。」とあり、高齢や罹病により天皇の務めを全身全霊を以て果すことが出来なくなる場合に国民にもたらす悪影響と、若しこれ迄通り譲位を認めないとした場合に於ける天皇の崩御と新帝の御即位に伴ふ皇族方の過重な御負担とを御軫念になり、御譲位の叡慮を暗に御示しになつた。そして平成31年4月末日を以て皇位を今上陛下に御譲りになり、皇室の新たな時代を御拓きになつた。
明治の皇室典範《第十条 天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク》の義解に譲位の御事に就いて《再ヒ恭 テ按スルニ神武天皇ヨリ舒明天皇ニ至ル迄三十四世嘗テ譲位ノ事アラス 譲位ノ例ノ皇極天皇ニ始マリシハ蓋 女帝仮摂 ヨリ来 ル者ナリ 継体天皇ノ安閑天皇ニ譲位シタマヒシハ同日ニ崩御アリ未タ譲位ノ始トナスヘカラス 聖武天皇光仁天皇ニ至テ遂ニ定例ヲ為セリ此ヲ世変 ノ一トス 其ノ後権臣ノ強迫ニ因リ両統互立ヲ例トスルノ事アルニ至ル而シテ南北朝ノ乱亦 此ニ源因セリ 本条ニ践祚ヲ以テ先帝崩御ノ後ニ即チ行ハルヽ者ト定メタルハ上代ノ恒典ニ因リ中古以来譲位ノ慣例ヲ改ムル者ナリ》とある。最後の文を文字通り訳せば「本条に、践祚を、先帝崩御の後に直ちに行はれるものであると定めたのは、上代の恒典に則つて、中古以来の譲位の慣例を改めるものである」となる。これが基となつて明治以来、御譲位が否定されたものと解釈されて来た。
美濃部達吉博士の『憲法撮要』(有斐閣、昭和21年)の第三章第一節には「皇位の継承は天皇の崩御のみに因りて生ず。天皇在位中の譲位は皇室典範の全く認めざる所……典範(一〇条)に『天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク』と曰へるは即ち此の意を示すものなり。中世以来皇位の禅譲は殆ど定例を為し、時としては権臣の脅迫に因りて譲位を餘儀なくせしむるものあるに至り、屡禍乱の源を為せり。皇室典範は此の中世以来の慣習を改めたるものにして、其の『天皇崩スルトキハ』と曰へるは、崩スルトキに限りと謂ふの意なり。」とある。
また佐々木惣一博士の『日本憲法要論』(金剌芳流堂、昭和8年)第二章第三節には「皇位継承の原因及び発生」として「皇位継承は天皇の崩御に因て生ず。天皇の崩御以外に皇位継承の原因なし。」とあり、更に金森徳次郎博士の『帝國憲法要綱』(巖松堂書店、昭和9年)の第二編第二款には「皇位継承の原因と時期」として「天皇崩御の場合の外には継承を生ずる場合なし。我国に於ても歴史上には天皇の譲位に因る場合ありと雖も今日に於ては之を認めず。如何なる場合と雖も君主は在世中其の位を譲らるることなし。」とある。
或いは上杉愼吉博士の『新稿憲法述義』(有斐閣、大正14年)第二編第三章第二節には「皇位継承の原因」として「皇位継承は唯だ天皇崩御の場合にのみ之れあり、譲位受禅は皇室典範に依り将来之を認めざるなり、之れ我が上代の古法にして、中世特殊の事情は譲位の例を生じたるも、皇室典範は恒典を復して将来譲位の事なきの原則を確立せるなり」とある。
だが、天皇主体説の学者たる淸水澄博士は『憲法講義 完』(明治大學出版部)第二編第五章「皇位継承」の中で「皇位継承は前代の君主より其皇位を譲受 くるものにあらず 随て其間何等の行為を要するものにあらずして一定事実の発生と共に当然生ずべき国法上の現象なり 換言すれば前代の君主皇位を去るの瞬間に国法上其継承の順位に在る者当然其地位を襲ふものなり 我皇室典範第十条に「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」とあるは即ち此義なり 故に践祚は新帝となるべき者の意思如何に拘はらず当然其効果を生じ継承の順序に当るもの践祚することを拒絶するを得ず 其一旦皇位に即きたる後に於て禅位することを得るや否やは全く別問題にして苟 も先帝の崩御と同時に継承順位に在る者は既に帝位に在るものなれば其自由意思を以て皇位に即くの諾否を決すべき餘地あるものにあらざるなり 或は新帝の即位に当り即位の式を挙げ或は欧洲に其例を見る如く君主即位の初め宣誓を為すが如きことありと雖も是れ単に一の儀式上の行為たるに止まり即位式及び宣誓等は君位継承の成立条件にあらざるなり」と述べてゐる。
淸水博士の説明は、特に「皇位継承は前代の君主より其皇位を譲受くるものにあらず」の一文が恰も「譲位」を否定するかに見える一方、その後に「一旦皇位に即きたる後に於て禅位することを得るや否やは全く別問題」と述べて、先帝崩御により皇嗣がその瞬間に自動的に御践祚なさることと、御践祚後に御位を禅譲なさることとを別問題として扱つてゐる。同じく天皇主体説の穗積八束博士の『憲法提要』(有斐閣、昭和11年)第二編第二章「皇位継承」の説明を見てみる。
「按ずるに、皇位継承の事、法理を以て立言すれば権利の移転には非ず、主格の継続なり。語に於て統治権の継承と謂ふときは或は権利の授受を意味するものの如し。其の本義は即ち然らず。統治権は天皇の身位に固著して離るべからず、甲乙の間之を授受し能 ふの権利に非ざるなり。皇位の継承は天皇の身位の継続なり。主格の継続は法理上之を同一主格の存在とす。故に皇位に二なし、時を同じうして二なきのみならず、時を異にするも亦二なきなり。今の皇位は即ち千古の皇位なり、万世一系改更あることなし、此れを継承の本義とす。」
淸水博士の言ふ「譲受くるものにあらず」とは穗積博士の言ふ「権利の移転(授受)には非ず」といふ意味であることが解る。皇位継承は、統治権の所在たる皇位を永続せしめる為に為されるものである。何故ならば統治権の所在が途切れることは統治権(即ち国家主権)が途切れることで、従つて国家の断絶を意味するからである。皇位継承が前帝の崩御に起因しようと、或いは別の原因に依るものであらうと、何れにしても前帝が皇位を御去りになつた瞬間に皇嗣が間断なく之を充たし給ふ。それは家督の相続のやうに、父から子へと統治権といふ財産権が授受されることではない。統治権の所在たる皇位を空席にしないやうに、それを嗣ぐ資格のある者がサッとその座に御即きになるのである。皇位は万世不動のもので、それを充たすべき御方が途切れることなく之を充たして行かれるのである。それは天皇が入れ替ることでもない。皇位に在る御方のみを天皇と申し奉るからである。さうであるからこそ皇位に坐します天皇は一瞬も途切れることなく皇位に坐しまし、しかも常に御一人に在らせられ、天皇が御二人いらつしゃる瞬間も生ぜず、御一人もいらつしゃらない瞬間も生じない。皇室典範第十条の条文の主旨は正にこゝに在つて、義解にある譲位の御事はそれとは別の問題であると淸水博士は述べてゐることが之で判る。「譲位不可」説は餘りにも義解に囚はれ過ぎてゐた観があるのである。
平成29年6月16日に公布された『天皇の退位等に関する皇室典範特例法』には「第二条 天皇は、この法律の施行の日限り、退位し、皇嗣が、直ちに即位する。」とある。これは明治の典範第十条に対応する現行皇室典範第四条の「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する。」の条文に傚つたたものである。従来、皇位継承の唯一の原因と解釈されて来た「崩御」を「退位」に置き換へれば、天皇陛下が御退位なされば自動的に皇嗣(皇太子)殿下が御即位(御践祚)なさる、そこに一瞬たりとも空隙は生じない、といふ法理が成り立つ。正に淸水博士の「前代の君主皇位を去るの瞬間に国法上其継承の順位に在る者当然其地位を襲ふ」の表現と一致する。「君主皇位を去る」原因が崩御か退位かに拘はりなく、その瞬間に皇嗣が直ちに御践祚になるのである。特例法が「譲位」と書かずに「退位」とした所以は、法律条文には「皇位継承の原因」として「退位」としか書きやうがないからであらう。「譲位」とは現代に於てこの一連の御事を総称する言葉と解するべきである。抑も上皇陛下御親ら一貫して「譲位」と仰せになつてをられたのだから、御譲位と申し上げて間違ひない。さういふ訳で、上皇陛下におかせられては、明治以来の誤れる慣例を再び見事に打ち破られて、本来の皇室に相応しい正しい慣例を改めて御創めになつたと拝するべきである。
(池邊義象『皇室』、博文館、大正2年)
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