2017年9月21日木曜日

大神宮に外患を祈禳し給へる宸翰宣命

(安政五年六月十七日)


けまくもかしこ伊勢いせ度会わたらひ五十鈴いすず河上かはかみした磐根いはねに、大宮柱おほみやばしら広敷立ひろしきたて、高天原たかまのはら千木ちぎ高知たかしりて、称辞たたへごとまつ天照坐あまてらします皇太神すめおほかみ広前ひろまへに、かしこかしこみもまをしてまをさく。統仁をさひと薄徳はくとくもつて、みだり洪基こうきまもるとも、せいなほ童蒙どうもうなり。とくほどこすこといま四海しかいあまねからずして、天日嗣あまつひつぎつたへ、古今ここんかへりみてひとおそるとも、ひとへあつ御恤おんめぐみひろ御助おんたすけきなり。ここぬる嘉永かえいとしより以往このかた蛮夷ばんいしばしばきたれども、こと墨夷ぼくい魁首くわいしゆて、ふかくに和親わしんところ後年こうねん併吞へいどんきざしまた邪教じやけう伝染でんせんまたおそし。もとめさからへば、戦争せんさうおよきのよしまをす。じつ安危あんきあひだけつがたおもわでらふところ、東武とうぶいて応接おうせつおよび、方今いまこばきのこころもなく、時勢じせい変革へんかくもつて、貿易ばうえき通交つうかう許容きよようせむとほつす。すなは天下てんか国家こくか汚辱をぢよく禍害くわがいとほからずと、ひるともよるともく、めてもうれねてもうれふ。兵船へいせんきたるべくらば、皇太神すめおほかみはや照察せうさつたまひ、こと神徳しんとく擁護ようごもつて、蒙古もうこ旧蹤きうしようごとく、神風かみかぜほどこたまひ、賊船ぞくせんただよしづめしめ、鎮護ちんごちかひたがはずして、天変てんぺん地妖ちえうくわいきなりとも、のぞたまひて、泰平たいへい延長えんちやうに、公武こうぶ和熟わじゆくし、うたがひざんり、不正ふせい流言りうげんおこらず、臣庶しんしよ黎民れいみんいたるまで、姦計かんけいさしはさみ、国恩こくおんむくいざるものは、神罰しんばつかうむらしむきなり。ねがはくは冥助みやうじよあふぎ、霊験れいげんたのきにりて、幣使へいし発遣はつけんせしめ、吉日きちにち良辰りやうしんえらさだめて、正二位行しやうにゐかう権大納言ごんだいなごん藤原ふぢはら朝臣あそみ公純きみずみ差使さしつかはして、礼代ゐやしろ幣帛おほみてぐらいつかささたしめて、御馬みうまへて奉出まつりいだしたまふ。皇太神すめおほかみさまたひらけくやすらけく聞食きこしめして、國體こくたいあやまらずして、禍乱くわらんのぞたまひ、四海しかい静謐せいひつ万民ばんみん娯楽ごらくなが戎狄じゆてきうれひなく、五穀ごこく豊熟ほうじゆくにして、宝位あまつひつぎうごく、常磐ときは堅磐かきはに、夜守よのまもり日守ひのまもりまもさきはたまへと、かしこかしこみもまをしてまをす。


〔史実〕
これは、安政五年(1858)六月十七日、伊勢大神宮に奉幣あらせられて、外患を祈禳したまうた宣命である。

嘉永六年(1853)、アメリカの使節ペリーが浦賀に来り、再訪を約して帰国してから、対外関係は、最大の難局に直面した。翌年(安政元年)正月、ペリーは再び浦賀に来り、開港を強要した。対策に窮した幕府は、三月三日、日米和親条約に調印して、下田と函館の二港を開いた。そこで、安政三年(1856)七月、米国総領事ハリスは、下田に来りて玉泉寺を領事館とし、十月、将軍に謁して国書を呈し、老中堀田正睦を訪ひ、世界の形勢を語り、通商条約締結の必要を説いた。その間には、露国の使節、英国の使節等も、しばしば来朝して、それぞれの要求を提出した。大勢に抗し難きことを察した幕府は、ハリスの提言を容れて、通商条約を議し、遂に神奈川・兵庫・長崎・函館・新潟の五港を開き、公使・領事の駐剳、外人の信教自由、治外法権を認め、輸出・輸入等に関する規則を定めて、勅裁を奏請した。しかるに、当時、徳川斉昭をはじめ、攘夷の説を高調して、幕府の外交策に反対する者が多かつたので、朝廷に於かせられては、幕府の奏請を許したまはず、更に諸大名の衆議を尽くして上奏するやうにと勅答あらせられた。一方に於ては、ハリスが条約の調印を強硬に迫つてやまなかつたので、幕府もここに進退きはまり、安政五年六月十九日、勅許を待たずして条約に調印した。

ここに謹載した宣命は、この幕府の条約調印二日前の詔である。この緊迫した時局を察して本詔を拝する時、国家の前途を深く憂ひたまうた大御心が一そう畏く偲ばれる。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第4巻』(河出書房、昭和15年)

2017年9月20日水曜日

賀茂例祭に外患を祈禳し給へる宣命

(安政五年四月十六日)


天皇すめら御命おほみことせ、けまくもかしこ賀茂かも皇太神すめおほがみ広前ひろまへに、かしこかしこみも申給まをしたまはくとまをさく。大神おほかみたすたままもたまふにりて、天皇すめら朝廷みかどは、たひらけく大坐おほましまして、食国をすくに天下あめのした事無ことなしとてなむ、つねすすむる宇都うづ大幣おほみてぐらを、正五位下しやうごゐげ内蔵頭くらんどのかみけん摂津守せつつのかみ大江おほえの朝臣あそみ俊有としありささたしめて、阿礼乎止己あれをとこ阿礼乎止女あれをとめ走馬はしりうますすめらると、かしこかしこみも申給まをしたまはくとまをす。

辞別ことわきてまをさく。頃年このごろ以来より諸夷しよいしばしばきたうちにしも、墨夷ぼくいは、伊豆いづ下田しもだきたり、うち覬覦きゆこころいだき、そと和交わかうよしみむすび、港口こうこうひらき、商館しやうくわんてむことをもとむ。応接おうせつ聞食きこしめすに、事情じじやうはなは驕慢けうまんにして、れいくこともし。まこと皇国くわうこく大患たいくわん天下てんか深憂しんいうにして、安危あんきあひだ治乱ちらんもとなれば、ゆるがせにすからざるときなり。くのごと國體こくたいにもかかはりなむとする危難きなんいたることは、ちん菲徳ひとくりていたところか、敬神けいしんあさきがいたところかと、めてもねてもあやぶたまおそたまひ、あふいで祖宗そそうみちおもひ、して億兆おくてうこころさつし、あした群臣ぐんしんはかり、ゆうべ叡慮えいりよらしめたまふ。けまくもかしこ大神おほかみ此状このさまたひらけくやすらけく聞食きこしめして、ひろ御助おんたすけをたまひ、昊天かうてん慈雨じうくだすがごとく、はや神州しんしう汚辱をぢよくあらたまひ、すすたまひて、いまより以往のち天下てんかいよいよ泰平たいへいに、国家こくかますます安全あんぜんに、宝祚はうそ長久ちやうきう万民ばんみん娯楽ごらくならむことを、まもさきはへたまへと、かしこかしこみも申給まをしたまはくとまをす。

御命おほみこと 「仰せられる御言葉でござると」といふこと。「坐す」は、「在り」「居る」の敬語である。「御命に坐せ」は、前に謹載した宣命の中にも、しばしばこれを拝してゐる。

阿礼乎止己あれをとこ 「阿礼男」である。「阿礼」は、奉幣といふ意味の語。毎年四月、賀茂祭に際し、神前に捧げる榊に、綵帛を垂れ、綱をつけて引いて行くのを、「あれひき」といふ。「阿礼男」は、奉斎をする男といふこと。賀茂祭の祭主の称ともいふ。

阿礼乎止女あれをとめ 「阿礼少女」である。「奉斎する少女」の意味。「阿礼」は、「阿礼男」の「阿礼」と同じ。賀茂の斎宮いつきのみや内親王の異称を、「阿礼少女」といつた。「類聚国史」巻五に、天長八年十二月、賀茂の斎内親王を替へたまうたことを記して、「阿礼乎止売に(中略)時子女王を卜定うらへさだめてまゐらする状を」とあり、「三代実録」巻第三十、元慶元年二月の条に、「可令奉仕つかまつらしむべき物なりとてなも、敦子内親王を卜定めて、阿令乎度女に進状を」とある。

走馬はしりうま 「疾く走り行く馬」といふ字義。「くらべうま」「うまかけ」「競馬」等の意味にも用ゐられてゐる。「左右馬寮式」に、「凡賀茂二社祭、走馬十二匹」とあり、賀茂祭には、古くからこれを捧げるのが神事になつてゐたものと思はれる。

墨夷ぼくい アメリカ人のこと。アメリカに亜墨利加の文字を当ててゐたからである。

覬覦きゆ 隙をうかがつて非望を遂げようとすること。「左伝」の桓公二年に、「民其ノ上ニ服事シテ、下覬覦スルコトナシ。」とあり、註に「下上位ヲ冀望セズ。」とある。

昊天かうてん 「夏の空」または単に「空」を意味する語。「爾雅」の釈天に、「夏ヲ昊天ト為ス。」とあり、「周礼」の春官に、「禋祀ヲ以テ昊天上帝ヲ祀ル。」とある。

慈雨じう めぐみの雨。転じては、庶人に遍く恩恵の及ぶことの喩に用ゐられる語。梁簡文帝の「請武帝御講啓」に曰ふ。「油然慧雲、霈然ハイゼン慈雨、光斯盛業、導彼蒼生。」


〔大意〕
天皇の仰せであると、まことにたふとくまします賀茂の皇大神の御前に、つつしみつつしんで、申上げよと仰せられるとほりに申上げる。大神の御助けと御護りによつて、我が皇室は御安泰にましまし、我が国家も無事であるとのおぼしめしから、例年上りたまふ大幣を、正五位下内蔵頭兼摂津守大江朝臣俊有に捧げ持たしめて、神宮に奉仕する男女や、走馬等を進め奉るのであるといふことを、つつしみつつしんで、申上げよと仰せられるとほりに申上げる。

とりわけて申上げる。この頃から、諸国の異人が度々来るその中でも、アメリカ人は、伊豆の下田に来て、心の中に我が隙をうかがつて、非望を遂げようとする野心をもち、うはべに和交の好を結んで、港を開き、商館を建てたいといふことを乞ひ求めてゐる。その応接の態度を聞しめすに、すべての事がらが甚だ驕慢であり、無礼であり、この上もなく不埒である。まことに、皇国の大いなる災難であり、天下のために深く心配すべきことであり、安危のわかれるところ、治乱の本ともなるから、軽々しいことをしてはならない時である。かやうに、國體にも関係しようといふ危難が生じたことは、朕の徳が薄いためであらうか、神を敬ふ心が浅いためであらうかと、てもさめても、御不安におぼしめされ、仰いでは、御先祖にまします天皇の道をおかんがへになり、俯しては、万民の心をお察しになり、朝には多くの臣と御相談なされ、夕には大御心を悩ませられる。まことにたふとくあらせられる大神には、このありさまを平けく安けく聞しめして、厚い御めぐみと、大いなる御助けを垂れたまひ、夏の空からめぐみの雨が降るやうに、早く我が日本の汚辱を洗ひたまひ、すすぎたまうて、これから後、天下はいよいよ泰平に、国家はますます安全に、天皇の御位が永久につづき、万民が楽しんでくらすやうに、御護りなさつて、幸福をお与へ下さるやうにと、つつしみつつしんで、申上げよと仰せられるとほりに申上げる。


〔史実〕
これは、安政五年(1858)四月十六日、賀茂神宮の例祭に奉幣、外患を祈禳したまうた宣命である。

嘉永六年(1853)に、再訪を約して帰国した米国使節は、翌年(安政元年)正月、再来して開港を要求した。その後の経緯は、次に謹載する「大神宮に外患を祈禳し給へる宸翰宣命」の後に略述する。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第4巻』(河出書房、昭和15年)

2017年9月19日火曜日

安政改元の詔

(安政元年十一月二十七日)


けだく、皇猷くわういうよろしき寰宇くわんう乂安がいあんなれば、すなは天地てんち祥瑞しやうずゐおうあらはし、庶政しよせいあきらかならずして民人みんじん疾苦しつくせば、すなは陰陽いんやう災眚さいせいへんしめすと。嗚呼ああつつしまざるけむや。ちんみだり眇眇べうべうもつて、つつしみて元元げんげんうへたくす。鴻業こうげふぎてより、たび寒暑かんしよけみし、夙夜しゆくやつつしおそれて、底寧ていねいいとまあらず。しかるにまことものかんぜず、くわとほおよばず。元気げんき鬱塞うつそくして、祝融しゆくゆうたたりし、宮闕きゆうけつ蕩然たうぜんとして、わざはひ閭閻りよえんおよび、洋夷やうい出没しゆつぼつして、腥羶せいせん薫騰くんとうし、辺海へんかいやすからずして、士夫しふ勤労きんらうす。加之しかのみならず六月ろくぐわつ以来いらい坤徳こんとくつねさからひて、近畿きんき地震ちふるひ、餘動よどうきやうおよびて、いまいままず。つまびらかおもふに、咎徴きうちよう予一人よいちにんり。大和たいわ導迎だうげいして、もつ衆変しゆうへん弭消びせうせしめむことをおもふ。よろしく冠元くわんげんへて、あまね宥過いうくわたくほどこすべし。嘉永かえい七年をあらためて安政あんせい元年ぐわんねんし、天下てんか大赦たいしやせよ。今日こんにち昧爽まいさう以前いぜん大辟たいへき以下いかつみ軽重けいぢゆうく、已発覚いはつかく未発覚みはつかく已結正いけつしやう未結正みけつしやうは、ことごとみな赦除しやぢよせよ。ただし犯八虐はんはちぎやく故殺こさつ謀殺ぼうさつ私鋳銭しちうせん強窃二盗がうせつにたう常赦じやうしやゆるさざるところものは、かぎりらず。また天下てんか今年こんねん半徭はんえうふくせよ。老人らうじんおよ僧尼そうにとし百歳ひやくさい以上いじやうには、こく四斛しこくあたへよ。九十くじふ以上いじやうには三斛さんごく八十はちじふ以上いじやうには二斛にこく七十しちじふ以上いじやうには一斛いちこくとせよ。庶幾こひねがはくは、いまよりものとも一新いつしんし、かみ天譴てんけんこたへ、しも人望じんばうかなひ、六府りくふをさまり、万方ばんぱううれひからむことを。天下てんか布告ふこくして、ちんらしめよ。主者しゆしや施行しかうせよ。


寰宇くわんう乂安がいあん 天下太平または国家平安と同じ。「寰宇」は国のうち、「乂安」は安らかに治まること。

災眚さいせいへん 「災変」と同じ。「災眚」は「わざはひ」である。「後漢書」に、「災眚ヲ消救シ、黎元ヲ安輯セヨ。」とある。「眚」は過失を意味する文字で、過失及び災難による犯罪を「災眚」また「眚災」といふこともある。

底寧ていねいいとまあら 心を安んずる暇がないといふこと。「底寧」は、「寧に至る」即ち安心である。

祝融しゆくゆうたたり 火事が起ることの喩。「祝融」は火の神である。転じて火災の意味に用ゐられてゐる語。「左伝」の昭公二十九年に、「火正ハ祝融ト曰フ。」とある。

わざはひ閭閻りよえんおよ 多くの民が災難を蒙つたといふこと。「閭閻」は、里中の門を意味する語。村里の人々といふ意味に転用せられる。「史記」の李斯伝に曰ふ。「斯ハ閭閻ヲ以テ、諸侯ヲ歴テ、入リテ秦ニ事フ。」

洋夷やうい出没しゆつぼつ 外国人が往来すること。幕末から明治初年には、外国人のことを洋夷と称した。

腥羶せいせん薫騰くんとう なまぐさい獣肉がくすぼりあがるといふ意味の語。不快不穏な空気が漂ふことの喩。「腥羶」は「なまぐさい獣」である。その獣肉を食ふ外国人を罵る語として用ゐられた。「薫騰」は「熏騰」と同じ。「薫」は「熏」に通ずる。

坤徳こんとくつねさから 地上に異変を生ずることをいふ。「坤徳」は、万物を育成する大地の徳である。

衆変しゆうへん弭消びせう 多くの災変が再び起らないやうにすること。「弭消」は、「とどめ消す」といふ意味の語である。

六府りくふをさまり 天地がしづかに穏かになること。「六府」は天地の蔵の意味。財用の出づる六つのもの即ち水・火・金・木・土・穀の総称となつてゐる。「書経」の大禹謨に曰ふ。「地平天成ニシテ、六府三事ハマコトニ治マル。」とある。

万方ばんぱう 四方の国々をいふ。書経の湯誥に、「アア爾万方ノ有衆」とある。


〔史実〕
孝明天皇の嘉永七年(1854)十一月二十七日、その年を安政元年と改元の旨を仰せ出された。ここに掲げ奉つたのが、その詔である。

嘉永六年六月には、米国の使節ペリーが、軍艦四隻を率ゐて浦賀に来り、国書を齎らして通商を強要し、同年七月には、露国の使節プゥチャーチンが長崎に来り、国境の確定、通商の開始を望む等、外交上の問題が日毎に錯綜した。天皇の御深憂一方ならざりし折柄、嘉永七年六月以来、近畿にしばしば震災が起つたので、本詔の如く、改元を仰せ出されて、天下に大赦を命じたまうたのであつた。

しかるに、天は無情にも災禍を止めず、安政二年十月に至り、江戸に大地震が起り、死傷者が十万餘人の多きに及んだ。

三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第4巻』(河出書房、昭和15年)

2017年9月18日月曜日

神嘗祭に外患を祈禳し給へる宣命

(嘉永六年九月十一日)


天皇すめら詔旨おほみことらまと、けまくもかしこ伊勢いせ度会わたらひ五十鈴いすず河上かはかみ下津したつ磐根いはね大宮柱おほみやばしら広敷ひろして、高天原たかまのはら千木ちぎ高知たかしりて、称辞たたへごとまつ天照坐あまてらします皇太神すめおほがみ広前ひろまへに、かしこかしこみも申賜まをしたまへとまをさく。つね奉賜たてまつりたま九月くぐわつ神甞かんなめ御幣おほみてぐらを、王位わうくらゐ姓名せいめい中臣なかとみ官位くわんゐ姓名せいめいたち差使さしつかはして、忌部いむべくらゐ姓名せいめい弱肩よわかた太繦ふとだすき取懸とりかけて、礼代ゐやしろ御幣おほみてぐら持斎もちゆまはりささたしめて、奉出まつりいだたまふ。此状このさまたひらけくやすらけく聞食きこしめして、天皇すめら朝廷みかど宝位あまつひつぎうごく、常磐ときは堅磐かきはに、夜守よのまもり日守ひのまもりに、まもさきはへたまへと、かしこかしこみも申賜まをしたまはくとまをす。

辞別ことわきてまをさく。近年きんねん奈何いかにや、夷船えびすのふね東海とうかいわたきたりぬ。既去いに六月ろくぐわつ相模国さがみのくに浦賀うらがきたりしが、ひろ御恤おんめぐみのしるしにやは、かれたちままかりぬれど、また八月はちぐわつに、西海さいかいきたきぬとなむ聞食きこしめす。くのごとことしばしばりぬれば、諸国しよこく諸人しよにんこころをも、奈何いかにやはと、となくとなくおそたまあやぶたまふ。かんながらも此状このさま聞食きこしめして、たふとしるしあらはたまひて、いまきたらざるわざはひをもはらのぞたまひて、四海しかいいよいよしづかに、國體こくたいいよいよやすらけく、まもさきはへたまへと、かしこかしこみも申給まをしたまはくとまをす。


伊勢いせ度会わたらひ 「渡会」は地名。

下津したつ磐根いはね 磐のやうに堅い地の底といふ意味の語であらう。基礎の鞏固なことの喩。「底津磐根」といふに同じ。「祈年祭祝詞」に、「下磐根に宮柱太知り立て、」とあり、「大殿祭祝詞」に、「此れの敷坐しきま大宮地おほみやどころは、底津磐根そこついはねきはみ下津綱根したつつなね這ふ虫のわざはひなく、」とある。

大宮柱おほみやばしら広敷ひろし 宮殿の柱をゆつたりと立てるといふ意味の語。宏大な神殿を建築すること。「大宮」は、「皇居」や「神宮」の尊称である。「広敷」は、敷地を広くするといふ語義の文字であらう。江戸の時代には、広間の一名ともなつてゐた。

千木ちぎ高知たかし 「千木」は、「大言海」に、「一名氷木ヒギ。上代ノ家作ニ、切棟作リノ屋根ノ、左右ノ端ニ用ヰル長キ材ニテ、其本ハ、前後ノ軒ヨリ上リテ、棟ニテ行合フヲ組交ヘ、其組目以上、其梢ヲ、ソノママ長ク出シテ空ヲ衝クモノ。其組目ヨリ下ハ、タルキト並ビ、又、屋ノ妻ニテハ、搏風ハフトナル、千木ハ、今、神社ニノミ用ヰル。其梢ノ一角ヲ殺グヲ、かたそぎト云フ。伊勢ノ内宮ナルハ内角ヲ殺ギ、外宮ナルハ外角ヲ殺グ、共ニ風穴ヲ明ク。」とある。「高知り」の「高」は称辞、「知」は、「領有」「治める」といふ意味の語。故に、「高知り」は、「治めたまふ」といふことである。「千木高知り」は、千木を高くをさめたまふといふこと。高くりつぱな建築を営みたまふことの意味である。「日本書紀」の神武紀に、「高天原に搏風ちぎ峻峙たかしりて」とあり、「祈年祭祝詞」にも、「高天原に千木高知りて」とある。「五十鈴の河上の下津磐根に大宮柱広敷き立て、高天原に千木高知りて」の文字は、伊勢の大神宮に奉幣の宣命に、しばしば拝するところである。前出、伏見天皇の「大神宮に国難を祈禳し給へる宣命」の中にも、これを拝したが、後に掲ぐる宣命の中にこれを拝するものが多い。

称辞たたへごと 御神徳を崇め奉つる詞。「祈年祭祝詞」に曰ふ。「皇御孫命すめみまのみことのうづの幣帛みてぐらを、朝日の豊栄登とよさかのぼりに、称辞たたへごとたてまつらくとる。」

神甞かんなめ御幣おほみてぐら 神嘗祭に上るところの幣帛。神嘗祭は、その年の新穀を伊勢の神宮に上らせたまふ御祭事である。もとは陰暦九月十一日に行はせられたが、今日では十月十七日と定められてある。「御幣」は、神に上るもの。前に度々出てゐる。

弱肩よわかた太繦ふとだすき取懸とりか 「弱肩」は、その文字のとほり、弱々しい肩である。「太繦」は、「大言海」に「たすき」の美称としてある。「たすき」は、「繦」「襁」「襷」等の文字を当ててゐる。「天治字鏡」巻四に、「繦ハ、児ヲ負フ帯ナリ。須支すき。」とある。しかし、これは、肩にかけて手の力を助けるといふことから生じた語であらうといふ。上代から、神事には、肩に紐の如きものをかけて、謹んで物を上る手の力を助け、これを「たすき」と称した。「古事記」上巻に、「天香山あめのかぐやま天之日影あめのひかげ手次たすきけて」とある。「弱肩に太繦取懸け」といふのは、神事に奉仕する者の労を尽くせるさまを称する語として、「祈年祭祝詞」にも、「大殿祭祝詞」にも、「六月月次祝詞」にも出てゐる。

持斎もちゆまはり 「ゆまはる」といふのは、「斎まふ」の延語である。ものいみすること。穢きことを忌み避け、清く身を持して慎しむことをいふ。「大殿祭祝詞」に、「斎玉作いむたまつくり持斎もちゆまはり持浄もちきよまはりつくつかまつれる」とあり、「祈年祭祝詞」に、「忌部いむべ弱肩よわかた太襷ふとだすき取挂とりかけて持ゆまはり仕へ奉れる」とあり、「高橋氏文」に、「天津御食みけを、斎忌いはひゆまはり取持ちて」とある。

諸国しよこく諸人しよにん 天下の万民といふに同じ。国内のすべての民を仰せられてあるものと拝する。


〔大意〕
謹約。「天皇の仰せのとほりに、いともたふとい伊勢の度会の五十鈴の河上の高く荘厳な神殿にまします天照大神の御前につつしみつつしんで申上げる。例年のとほりに、九月の神嘗祭の御幣を、王の某、中臣某を差しつかはし、忌部某がうやうやしく身を浄めて捧げ奉るやうに持たしめてお出しなされる。このことを平安に聞しめして、天皇の御位が永遠にゆるぎないやうに、夜も昼もおまもり下されるやうに、つつしみつつしんで申上げよと仰せられるとほりに申上げる。

とりわけて申上げる。近年どうしたことか、異国の船が東海に渡つて来た。去る六月、相模国浦賀に来たが、ありがたい御めぐみのしるしにより、忽ち去つてしまつたのに、また八月になつて、西海に来り著いたと聞しめし、かうしたことが、度々あると、天下の民の心も、動揺するであらうと、毎日毎夜、御不安におぼしめされてある。大神にもこのありさまを聞しめして、尊いしるしをあらはしたまうて、まだ禍の来らないうちに、これを攘ひ除き下されて、天下太平に、國體が安定するやうに、おまもり下さるやうにと、つつしみつつしんで、申上げよと仰せられるとほりに申上げる。」


〔史実〕
嘉永六(1853)年六月三日、浦賀に来航した米国東印度艦隊司令長官ペリーに対して、幕府は、最初、国書の受理を拒んだが、ペリーの強要により、やむなく、これを受理するに至つた。国書の授受をへると、ペリーは、明春の再渡を告げ、全艦隊を率ゐてと先づ東京湾を退去した。

米国が日本に使節を送つたといふ情報は、俄然、欧洲諸国の注意を惹いた。はやくから我が北辺を窺つてゐた露国は、海軍中将エウフィーミー・プゥチャーチンを使節として、我が国に派遣した。嘉永六年七月十八日、露使は、四隻の軍艦を率ゐて長崎に来り、穏和な態度を以て、国書の受領を求めた。それは、米艦退去の翌月であつたから、上下の驚愕も甚しかつた。八月十九日、幕府の回訓により、長崎奉行大沢定宅は、露使を引見して、国書を受理した。国書には、千島及び樺太の境界を定めることと、通商を要求することが認められてあつた。幕府は、国事繁劇のために、即答し難き旨を告げておいて、その措置を議し、老中に返書を起草せしめた。境界の決定には、実地踏査の必要があること、通商は、国法の禁ずるところであるから、世界の大勢を考慮して、利害を調査した上で決定すること等が、その回答の要旨であつた。

かうした時局に、深く宸襟を悩ませたまうた孝明天皇には、九月十一日、神嘗祭に伊勢の神宮に奉幣、ここに謹載した宣命のやうに、国難を御祈攘あらせられたのであつた。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第4巻』(河出書房、昭和15年)

2017年9月17日日曜日

石清水放生会に外患を祈禳し給へる宣命

(嘉永六年八月十五日)


天皇すめら詔旨おほみことらまと、けまくもかしこ石清水いはしみづ御座ましませる八幡大菩薩はちまんだいぼさつ広前ひろまへに、かしこかしこみもまをたまはくとまをさく。延久えんきう二年よりはじめて、納言なごん参議さんぎべん外記げきふびと諸衛等しよゑたち差定さしさだめて、放生会はうじやうゑ行幸みゆきごと供奉ぐぶせしめ、ねてまた前後ぜんご当日たうじつ相並あひならびて三箇日さんがにち放生はうじやうことおこなはしめたまひて、まついだたま宇都うづ御幣みてぐらを、官位くわんゐ姓名せいめい差使さしつかはしてまついだたまことを、けまくもかしこ大菩薩だいぼさつたひらけくやすらけく聞食きこしめして、天皇すめら朝廷みかど宝位あまつひつぎうごく、常磐ときは堅磐かきは夜守よのまもり日守ひのまもりまもさきはたまひ、天下てんか国家こくかをも事無ことな故無ゆゑなく、安穏あんをん泰平たいへいあはれたまへと、かしこかしこみもまをたまはくとまをす。

辞別ことわきてまをさく。いに六月ろくぐわつに、相模国さがみのくに御浦郡みうらのこほり浦賀うらがきしに、えびすふね又来またきたりしが、無為むゐ日数ひかずず、ばして退まかりぬれど、近年きんねんしばしば近海きんかいきぬれば、防禦ばうぎよげんになすといへども、民心みんしんやすからざること、奈何いかにやはなすと、めてもねてもあやぶみおそたまふ。大菩薩だいぼさつふか御恤おんめぐみ、ひろ御助おんたすけにりて、たときたりなむわざはひなりとも、擁護ようごちかひあやまらずして、いまきざさざるにはらのぞたまひて、四海しかいいよいよ静謐せいひつに、國體こくたいいよいよ安穏あんをんに、まもさきはたまへと、かしこかしこみもまをたまはくとまをす。


延久えんきう二年 「延久」は、後三条天皇の御代の年号である。

放生会はうじやうゑ 「放生」は、「殺生」に対する語。捕へておいた魚鳥等の生物を放つことをいふ。日を定めて放生を行ふ神社や仏寺の行事を放生会といふ。その起原は甚だ古く、元正天皇の御代にはじまれるものといはれ、仏教の普及とともに、各地の神社及び仏寺に於て行はれた。

前後ぜんご当日たうじつ相並あひならびて三箇日さんがにち 石清水八幡宮の放生会は、陰暦八月十五日に行はれたので、その当日即ち八月十五日と、前日即ち八月十四日と、後日即ち八月十六日の三日間をいふ。

無為むゐ日数ひかず 「無駄な日を費さず」といふこと。「無為」は、「有為」に対する語。その文字のとほり、「何事もしない」ことをいふ。無干渉の意味にも用ゐられる。老子に曰ふ。「為無為、則無不治。」「無為をなせば、則ち治まらざる無し。」

ばし 「帆をあげて」といふことを、強く表現したもの。

防禦ばうぎよ ふせぐ。「防」も「禦」も「ふせぐ」と訓む文字。「防」は、豫め用心してふせぐこと、「禦」は、その場合に当面してふせぐこと。

奈何いかにやはなす 「どうしたらよからうか」といふこと。「やは」は、反語の意にものを打返していふ語。「古今集」巻十六に曰ふ。「時しもあれ秋やは人の別るべきあるを見るだに恋しきものを」

○擁護の誓をあやまらず 「おまもりくだされるといふお誓のとほりに間ちがひなく」といふこと。「擁護」は、「おうご」ともいふ。諸仏・諸菩薩が、所願に応援して、衆生を保護したまふことをいふ仏経の語である。「愆」の文字は、「あやまち」とも訓む。「心得ちがひ」といふ意味に用ゐられることが多い。

いまきざさざるにはら まだ起らないうちにふせぐ。未然に豫防すること。「未萌」は、「未だ草木が芽を出さない」といふ字義から転じて、「未だ事故の起らない前」といふ意味に用ゐられる語である。


〔大意〕
天皇の仰せ出される詔であると、まことにたふとい石清水にまします八幡大菩薩の御前に、つつしみつつしんで申上げよと仰せられるとほりに申上げる。去る延久二年からはじめて、納言や参議や辨や外記や史や衛府の官人などを、おえらびになり、放生会には、行幸の儀を行はせられるやうに供奉せしめられ、併せて、その当日と前後の日の三箇日間、放生の事を行はせられてあるそのとほりに、捧げまつるうづの御幣を、勅使と定められた者をさしつかはされ、捧げまつりたまふのであるといふことを、まことに畏くあらせられる大菩薩には、平らかに安らかにお聞き入れ下されて、尊い天皇の御位が少しもゆるがず、朝廷が永久につづくやうに、夜も昼もおまもりなされ、幸福をお与へ下されて、天下国家に何事もなく、しづかに平和であるやうに、あはれみ助けたまはるやうにと、つつしみつつしんで申上げよと仰せられるとほりに申上げる。

とりわけて申上げる。去る六月に、相模国御浦郡浦賀の海岸に、異国の船がまたも来たが、無駄に長くとどまつてゐず、急いで帆をあげてかへつて行つた。近年かく度々異国の船が近海に着くので、厳重に防ぎまもる備へはしてゐるが、民の心を安らかにすることが出来ず、どうしてよいものであらうかと、さめても寝ても国のことを危みたまうて、御心配なされてある。大菩薩の深いおあはれみと、広いお助けによつて、たとひそれがやがて襲ひ来るであらう災難であつても、おまもり下さるお誓にあやまりなきやうに、事の起らない前に、これをはらひ除きたまうて、この国がますます静かによく治まり、わが國體がますます安穏につづくやうに、おまもりなされて、幸福をお与へ下されるやうにと、つつしみつつしんで申上げよと仰せられるとほりに申上げる。


〔史実〕
米国の軍艦が、はじめて相模国浦賀に来り、通商を要求したのは、弘化三年(1846)閏五月二十七日であつた。当時、外国艦船の近海に出没するものが、次第に多くなり、不安の空気が著しく濃厚になつてゐた折柄、かうした米国軍艦の通商要求といふ重大な問題が起つたので、その年、御即位あそばされた孝明天皇には、深く宸襟を悩ませられ、幕府に対して海防を厳修すべき旨、仰せ出され、翌年四月二十五日、石清水八幡宮の臨時祭に、勅使を御派遣、外患を御祈禳あらせられた。その宣命は、前にこれを謹載しておいた。

米国の通商要求に対して、幕府は、これを拒絶した。通商は、国禁であるから、許容し難いこと、幾度来るとも、徒労に帰するから、再渡の無益であることを申渡して、米艦の退去を促した。我が国が門戸開放の意志なきことを確めた米将ビッドルは、別に請ふところもなく、滞泊十餘日、そのまま浦賀を去つた。米国政府は、ビッドルの態度が軟弱に失し、日本官憲の常套手段に乗ぜられたものとして、交渉の全権を駐支公使に付与し、更に機会を窺つてゐた。

米国使節が浦賀を退去したその日、仏国提督セシュが、三隻の軍艦を率ゐて、長崎に入港し、薪水の供給と漂民の救護を要求し、碇泊三日の後に退去した。

弘化三年には、かく短期間に、種々の問題が続出したので、近海の警備といふことが、いたく上下の民心を刺戟した。江戸湾常備の任に当つてゐた忍藩主松平忠国は、警邏船に大砲搭載の必要を具申し、浦賀奉行大久保忠豊は、砲台築造、兵船増設の急務を建議した。幕府に於ても、江戸湾警備強化の必要を認め、韮山代官江川太郎左衛門をして、伊豆七島を巡視せしめ、いで、目付松平式部少輔近韶に命じて、浦賀附近の防備を巡検せしめ、それぞれ対策を講じた。また諸藩の中にも、時局の重大を自覚して、海防の充実を画策するものが少くなかつた。しかし、当時の我が国力は、甚だ低く、国防もまことに幼稚なものであつた。欧米諸国の堅艦巨砲に比すれば、同日の談ではなかつた。その間に、海外の情勢は、刻々に変転した。その情勢は、長崎蘭館長の提出せる別段風説書によつて、幕府に伝へられた。

嘉永五年(1852)のはじめ、米国政府は、日本の門戸開放を熱望し、使節を派遣することに決した。先に我が国に開国を慫慂した蘭国政府は、これを聞知して、再び我が国に開国の必要を説いて忠告するところがあつた。その重大な警告に対しても、幕府は、因習を脱却して、勇断の処置に出づることを得ず、蘭国再度の忠告も、ただ米国使節の再訪を豫報したのみに止まつた。

嘉永六年(1853)六月三日、朝の五ッ時(午前八時)に、米国東印度艦隊司令長官マシュウ・カールブレース・ペリーが率ゐる四隻の米国艦隊は、伊豆の沖合に現れ、我が役船の制止に目もくれず、快走して午後三時に浦賀鴨居村の海上に投錨した。浦賀奉行の命を受けて、使者となり米艦に登舷した中島三郎助が、長崎回航を諭告したが、ペリーは、これを諾かず、あくまでも、国書の受理を要求して已まず、頗る強硬な態度に出た。幕府に於ては、その傍若無人を憤慨したが、これに抵抗する防備もなかつたので、國體を汚す大事の出来を憂ひ、協議の結果、浦賀奉行に、国書受理の回訓を発した。

米艦来航の警報は、武陵桃源の夢を貪つてゐた我が国民に、甚大の畏怖を与へた。人心は恟々として、元寇以来の国難を思はせた。

畏くも、孝明天皇が如何に深く宸襟を悩ませたまうたかは、これを偲び奉るも、恐懼に堪へない。同年(嘉永六年)八月十五日、石清水八幡宮の放生会に、勅使を御差遣あそばれて、外患を祈禳したまうた宣命によつても、大御心の一端を拝し奉ることが出来る。ここに謹載したのが、その宣命である。

三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第4巻』(河出書房、昭和15年)

2017年9月16日土曜日

石清水臨時祭に国難奉告の宣命

(弘化四年四月二十五日)

天皇すめらみことと、けまくもかしこ石清水いはしみづ御座ましませる八幡大菩薩はちまんだいぼさつ広前ひろまへに、かしこかしこみも申賜まをしたまへとまをさく。天禄てんろく元年ぐわんねんよりはじめて、奉出給まつりいだしたまふうづの御幣みてぐらを、吉日きちにち良辰りやうしんえらさだめて、参議さんぎ従二位じゆにゐ行左近衛かうさこんゑ権中将ごんのちゆうじやう藤原ふぢはら朝臣あそみ定祥さだよし差使さしつかはして、ささたしめて、東遊あづまあそび走馬はしりうま調ととのそなへて奉出賜まつりいだしたまふ。けまくもかしこ大菩薩だいぼさつたひらけくやすらけく聞食きこしめして、天皇すめら朝廷みかど宝位あまつひつぎゆるぎく、常磐ときは堅磐かきはに、夜守よのまもり日守ひのまもりまもさきはたまひ、天下てんか国家こくかをも、たひらけくやすらけくまもさきはたまへと、かしこかしこみも申賜まをしたまはくとまをす。

辞別ことわきてまをさく。近者ちかごろ相模国さがみのくに御浦郡みうらのこほり浦賀うらがおきに、えびすふねきぬれば、来由らいゆたづぬるに、交易かうえきふとなむまをす。交易かうえきは、むかしよりしんつうぜざるくにみだりゆるしたまふことは、國體こくたいにもかかはりぬれば、たやすゆるすべきことにもあらずとゆるしたまはず。衣糧いりやうささすくたまひ、舶船はくせんとばしてしりぞかへりぬ。また肥前国ひぜんのくににもきたきぬとなむ聞食きこしめす。むさぼるの商旅しやうりよか、すきうかがふの姦賊かんぞくか、情実じやうじつがたきを如何いかにやはむと、めてもいねてもわすれたまふときなし。けまくもかしこ大菩薩だいぼさつさまたひらけくやすらけく聞食きこしめして、ふたたきたるとも、飛廉風ひれんかぜおこし、陽侯浪やうこうなみげて、すみやかはなち、退はらたまたまひ、四海しかいことなることく、天下てんか静謐せいひつに、宝祚あまつひつぎながひさしく、黎民れいみん快楽くわいらくまもさきはたまひ、あはれたすたまへと、かしこかしこみも申給まをしたまはくとまをす。

東遊あづまあそび 古くから伝はつてゐる祭祀の舞楽。東国の風俗歌に合せてうたひ舞ふもの。神事舞として奏せられた。

走馬はしりうま 「くらべ馬」即ち競馬と同じ。昔から神事に際して行はれてゐた。「左右馬寮式」に、「凡賀茂二社祭、走馬十二匹」とあり、「宇津保物語」梅花笠に、「臨時の祭りのさまなり。万づの事をととのへ、(中畧)はしり馬十匹。」とある。「走馬」の語義は、「よく走る馬」といふことである。

飛廉風ひれんかぜおこ 「飛廉」は、風の神の異名である。郭璞の説に、「飛廉ハ、竜雀ナリ。世、因テ以テ風伯之名ト為ス。」とある。

陽侯浪やうこうなみ 「陽侯」は、海神の異名である。昔、晋の陽陵国侯が、溺死して海神となり、風浪を起して船を覆したといふ故事から、「陽侯」の文字は、海神の異名となり、また大浪の意味に用ゐられてゐる。「淮南子」覧冥の註に、「武王伐紂シ、孟津ヲ渡ル、陽侯ノ波、逆流シテ撃ス。」とある。


〔大意〕
天皇の詔であると、まことに畏くまします石清水八幡大菩薩の御前につつしみつつしんで申上げよとの仰せのとほりに申上げる。去る天禄元年からはじめて、捧げ奉るうづの御幣を、よい日を選び、衆議従二位行左近衛権中将藤原朝臣定祥をさしつかはして、捧げ持たしめて、東遊や走馬をも調へ備へて御納めまゐらせる。まことに畏くまします大菩薩には、平らかに安らかにお聞き入れ下されて、尊い御位が永久にゆるがないやうに、朝廷を夜も昼もまもりたまひ、天下国家も平和であるやうに御恵を垂れたまふやうにと、つつしみつつしんで申上げよとの仰せのとほりに申上げる。

とりわけて申しあげるのは、近頃、相模国御浦郡浦賀の沖に、異国の船が着いたので、何のために来たのかとたづねると、交易を乞ふためであるといふ。交易といふことは、昔から互に信じ合はない国にみだりに許せば、國體にも関係することであるから、たやすく許すことではないと、お許しにならず、衣類や食物などに困つてゐる船員に、必要なものだけを与へてお救ひになつたので、異国船も帆をあげて直に立ちかへつた。そればかりでなく、また肥前国にも来たやうに聞しめしたので、利益を貪る商人か、隙をうかがつて攻め寄せて来ようとする姦賊か、更にそのわけがわからず、どうしたものであらうかと、寝てもさめても、お忘れなさる時がなく、大御心をなやましてあらせられる。まことに畏くまします大菩薩には、このありさまを平らかに安らかにお聞き入れ下され、再び異国船が来ても、大風を起し、大浪をあげて、少しも早く吹き放し、追ひのけはらひのけたまひ、国中が静かによく治まつて、天皇の御位が永久に栄え、多くの民が楽しみ喜んでくらすやうにおまもり下され、あはれみ助けたまはれと、つつしみつつしんで、申上げよとの仰せのとほりに申上げる。


〔史実〕
光格天皇についで仁孝天皇が御即位あらせられ、仁孝天皇についで孝明天皇が御即位あらせられた。

仁孝天皇は、光格天皇の第三皇子にましまし、御諱を恵仁あやひとと申上げ奉る。文化十四年三月二十二日御践祚、同年九月二十一日御即位。御在位三十年、弘化三年正月二十六日崩御。宝算四十七歳。

孝明天皇は、仁孝天皇の第四皇子にましまし、御諱を統仁をさひとと申上げ奉る。弘化三年二月十三日御践祚。時に御年十六。翌年九月二十三日御即位。御在位二十一年、慶応二年十二月二十五日崩御。宝算三十六歳。

内憂外患が交々到つた幕末の国運転換期に、孝明天皇がいかに宸襟を悩ませたまうたかといふことは、ここに贅言するまでもない。聖代に生を享けた国民は、明治天皇の御偉業を讃仰すると共に、孝明天皇が御一代に御深憂あらせられたその大御心を、一日も忘れず、常に偲び奉らなければならない。天皇は、まことに黎明近づいた新日本の苦悩を、御一身に負うて立ちたまうたのであつた。

米国の使節ビッドルが、軍艦二隻を率ゐて、相模国浦賀に来り、通商を求めたのは、弘化三年(1846)閏五月二十七日のことであつた。孝明天皇の御践祚は、その年の二月十三日であるから、御践祚から僅かに四箇月餘の後に当つてゐる。故に、孝明天皇は、幕末の外交が最大難局に直面した時に、皇位を御継承になり、御一代を通じて、宸慮あらせられたのであつた。

ここに謹載したのは、弘化四年四月二十五日、石清水八幡宮に奉幣、国難を祈禳したまうた宣命である。かうした国難の御祈禳は、御一代の中にしばしば行はせられたが、それらの宣命と当時の重臣に賜はつた宸翰とを拝誦して、大御心を偲び奉る時に、何人も恐懼いふところを知らない感じにうたれるであらう。

三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第4巻』(河出書房、昭和15年)

2017年2月11日土曜日

紀元節

紀 元 節


紀元節とは、每年二月十一日を以て御擧行遊ばさるゝ、我が大日本皇國紀元の大祝日にして、すなはち 皇祖神武天皇と稱し奉る所の、 神日本かむやまと磐余彥いはれびこのみことが、天子の御位みくらゐに即き給ひし御歲おんとしなり、

初め 天皇、日向國ひむかのくになる高千穗の宮にましまして、天下を治め給ひしかど、西隅せいぐうへんせるの故を以て、東國とうごく中國ちうごく等には未だ皇化に服せざる者あるを憂へ給ひ、諸皇子と謀り、舟師しうしを率ゐて、幾多の諸賊を滅ぼし、遂に大和國に入り給ひ、辛酉かのととりの春正月を以て、畝傍うねび橿原かしはらの宮に於て御即位の大禮を擧行せられ、あらたに元年をしるし給ひし、我が日本國民には最も印象深き尊き日なるにより、 明治天皇の大御代おほみよ知食しろしめすに當り、明治五年十一月十五日太陽曆御頒布の節、始めて之を祝日と定め給ひ、こゝに今年大正十二年は、乃ち二千五百八十三年なり、

されば宮中に於て畏くも 天皇陛下御親祭あらせられて、寶祚ほうそ天壤てんじやうと共にきはまり無からん事を祈祝きしゆくし給ふの御儀おんぎにして、正午よりは、皇族殿下、文武百官及び外國使臣等を豐明殿に御召出おんめしだしになり、御宴ぎよえんを賜ひ、優渥いうあくなる勅語を下し給へば、此時、總理大臣は群臣を代表して寶祚の無窮むきうを祝し、外國使臣もまた同樣、祝詞しゆくしを奉るので、まこと慶祥けいしやう比類なき、いとも目出度めでたき大典なり、

紀元節御親祭

さればわが 皇國の民たる者は、其國體の尊嚴なる、其紀元の悠久なる、其日章旗の神聖なる、廣き萬邦に對し、眞に超然として誇稱こしようき一大美點に在らずや、むべなり世界列强の民衆といへども、等しく瞻望せんばう欽羨きんせんして措かざること、

故宮內省御歌所おんうたどころ長、男爵高崎正風まさかぜ翁の「紀元節」と云ふ長歌はまことく此の理由を歌ひつくしあれば左に之を揭載せん、

仰げあふげ天壤あめつちの  あらん限りは榮えんと
あま御神みかみのたまひし  みことのままに高御座たかみくら
動かぬもとゐ建初たてそめし  神武のみかど智仁勇ちじんいう
そなはせる君にして  皇祖瓊瓊杵尊ににぎのみことより
日向ひむかの國の高千穗に  宮居みやゐ定めてまつりごと
しき給へれど恩澤おんたくに  まだうるほはぬ國多し
邑長いうちやうたがひに爭ひて  罪なき民のくるしむを
すくひ助けて天業てんげふを  おし弘めんと雄々しくも
おぼしたゝして皇子達みこたちと  大御軍おほみいくさをひきゐまし
西のはてより遙々と  ひむかしさしていでたたす
稜威みいつの風に草も木も  なびきしたがひ丹敷戶畔にしきとべ
兄猾えうかしはじめ兄磯城えしき等も  長髓彥ながすねひこもほろびけり
大和國やまとのくに橿原かしはらに  都をさだめ宮柱みやはしら
ふとしくたてゝ御位みくらゐに  のぼらせ給ふもろもろの
つかさを定め天下あめのした  鎭めたまへば大八洲おほやしま
また波風のさはぎなし  國民くにたみ喜びまつろひて
はつ國しらす天皇すめろぎと  あがめたふとみ天地あめつち
わかれし如く明かに  君臣くんしんの分さだまりぬ
地球のうちに國といふ  國はあれども浦安うらやす
國の名おひて外國とつくにの  人もうらやむたぐひなき
國をたてたる天皇すめろぎの  大御勳功おほみいさをに較べては
畝傍うねびの山も高からず  增田ますだの池も深からず
七千餘萬の皇國人みくにびと  もとを忘れず紀元節
祝ふ今日社けふこそ樂しけれ  祝ふ今日社けふこそ樂しけれ

ひとあやしむ、百年を以て一世紀とすれば、我が二千五百八十三年の紀元は、乃ち二十六世紀にして、西洋耶蘇やそ降生かうせいの紀元たる一千九百二十三年は、二十世紀なり、

今日世界國際上、時と場合とによりては、あるひは此の世紀を使用するのむを得ざる事あるしと雖ども、儼然世界の一等國として、獨立せし我が帝國國民が、奇を好むのきよく、自己の世紀を捨てすゝみて呼稱す可き事ならむや、

されば彼が二十世紀と唱ふる場合は、我は宜しく二十六世紀を以てす可し、何の足らざる所あり、何を苦しみて、我が神聖無比の世紀を捨てゝ、彼にならふ事をこれせんや、

試みに思へ、吾人の世に處する、固より傲慢不遜の態度ある可からずと雖ども、しかも更に自己尊重の氣節なく屈辱卑下して、他に盲從するが如き、そもそもこれ人間の能事のうじならんや、況や外に對しいよいよますます奮つて、國權を伸長せざる可からざるの時に於てをや、かくの如きは所謂、喬木を下りて幽谷に入る、尊外卑內の徒のみ、苟くも國家的の觀念に富める愛國人士の口にする事ならんや、

されば將來國家を形つくる所の、重任ある學生諸君、た國家の干城かんじやうたる軍人諸君に於ては、尤も深く愼まざる可からざる所なり、故に今紀元節の理由を序述するに當り、特記して迷夢を警醒する事しかり、


唱歌 紀元節

高崎正風 作詞
伊澤修二 作曲

   第一章
  雲にそびゆる高千穗の  高根たかねをろしに草も木も
  なびき伏しけむ大御代おほみよを  仰ぐ今日こそたのしけれ

   第二章
  海原なせる埴安はにやすの  池のおもよりなほひろき
  めぐみの波にあみし世を  仰ぐけふこそたのしけれ

   第三章
  天つ日嗣ひつぎ高御座たかみくら  千代萬代よろづよに動きなき
  もとゐさだめしその神を  仰ぐ今日こそたのしけれ

   第四章
  空にかがやく日のもとの  よろづの國にたぐひなき
  國のみはしらたてし世を  あふぐけふこそたのしけれ





(八雲都留麻『大祭祝日略説:国民宝典』、八重垣書院、大正12年)より