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○飛廉風 を起 し 「飛廉」は、風の神の異名である。郭璞の説に、「飛廉ハ、竜雀ナリ。世、因テ以テ風伯之名ト為ス。」とある。
○陽侯浪 を揚 げ 「陽侯」は、海神の異名である。昔、晋の陽陵国侯が、溺死して海神となり、風浪を起して船を覆したといふ故事から、「陽侯」の文字は、海神の異名となり、また大浪の意味に用ゐられてゐる。「淮南子」覧冥の註に、「武王伐紂シ、孟津ヲ渡ル、陽侯ノ波、逆流シテ撃ス。」とある。
〔大意〕
天皇の詔であると、まことに畏くまします石清水八幡大菩薩の御前につつしみつつしんで申上げよとの仰せのとほりに申上げる。去る天禄元年からはじめて、捧げ奉るうづの御幣を、よい日を選び、衆議従二位行左近衛権中将藤原朝臣定祥をさしつかはして、捧げ持たしめて、東遊や走馬をも調へ備へて御納めまゐらせる。まことに畏くまします大菩薩には、平らかに安らかにお聞き入れ下されて、尊い御位が永久にゆるがないやうに、朝廷を夜も昼もまもりたまひ、天下国家も平和であるやうに御恵を垂れたまふやうにと、つつしみつつしんで申上げよとの仰せのとほりに申上げる。
とりわけて申しあげるのは、近頃、相模国御浦郡浦賀の沖に、異国の船が着いたので、何のために来たのかとたづねると、交易を乞ふためであるといふ。交易といふことは、昔から互に信じ合はない国にみだりに許せば、國體にも関係することであるから、たやすく許すことではないと、お許しにならず、衣類や食物などに困つてゐる船員に、必要なものだけを与へてお救ひになつたので、異国船も帆をあげて直に立ちかへつた。そればかりでなく、また肥前国にも来たやうに聞しめしたので、利益を貪る商人か、隙をうかがつて攻め寄せて来ようとする姦賊か、更にそのわけがわからず、どうしたものであらうかと、寝てもさめても、お忘れなさる時がなく、大御心をなやましてあらせられる。まことに畏くまします大菩薩には、このありさまを平らかに安らかにお聞き入れ下され、再び異国船が来ても、大風を起し、大浪をあげて、少しも早く吹き放し、追ひのけはらひのけたまひ、国中が静かによく治まつて、天皇の御位が永久に栄え、多くの民が楽しみ喜んでくらすやうにおまもり下され、あはれみ助けたまはれと、つつしみつつしんで、申上げよとの仰せのとほりに申上げる。
〔史実〕
光格天皇についで仁孝天皇が御即位あらせられ、仁孝天皇についで孝明天皇が御即位あらせられた。
仁孝天皇は、光格天皇の第三皇子にましまし、御諱を
孝明天皇は、仁孝天皇の第四皇子にましまし、御諱を
内憂外患が交々到つた幕末の国運転換期に、孝明天皇がいかに宸襟を悩ませたまうたかといふことは、ここに贅言するまでもない。聖代に生を享けた国民は、明治天皇の御偉業を讃仰すると共に、孝明天皇が御一代に御深憂あらせられたその大御心を、一日も忘れず、常に偲び奉らなければならない。天皇は、まことに黎明近づいた新日本の苦悩を、御一身に負うて立ちたまうたのであつた。
米国の使節ビッドルが、軍艦二隻を率ゐて、相模国浦賀に来り、通商を求めたのは、弘化三年(1846)閏五月二十七日のことであつた。孝明天皇の御践祚は、その年の二月十三日であるから、御践祚から僅かに四箇月餘の後に当つてゐる。故に、孝明天皇は、幕末の外交が最大難局に直面した時に、皇位を御継承になり、御一代を通じて、宸慮あらせられたのであつた。
ここに謹載したのは、弘化四年四月二十五日、石清水八幡宮に奉幣、国難を祈禳したまうた宣命である。かうした国難の御祈禳は、御一代の中にしばしば行はせられたが、それらの宣命と当時の重臣に賜はつた宸翰とを拝誦して、大御心を偲び奉る時に、何人も恐懼いふところを知らない感じにうたれるであらう。
三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第4巻』(河出書房、昭和15年)
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