2017年9月27日水曜日

徳川家茂に賜はれる勅書

(元治元年正月廿一日)


嗚呼、汝、方今はうこん之形勢如何とる。内はすなはち紀鋼廃弛はいし上下しやうか解体、百姓ひやくせい塗炭に苦む。殆ど瓦解土崩の色を顕し、外はすなはち驕虜けうりよ五大洲の凌侮を受け、正に併吞のわざはひかからんとす。其あやふき実に如累卵るゐらんのごとく、又如焼眉せうびのごとし。朕、思之これをおもうて夜不能寝よもいぬるあたはず食不下咽しよくものどをくだらず。嗚呼、汝、それ是を如何と顧る。是則汝の罪に非ず。朕が不徳の致す所、其罪在朕躬ちんがみにあり。天地鬼神、夫朕を何とか云はん。何を以て祖宗の地下に見ることを得んや。由て思へらく、汝は朕が赤子せきし、朕、汝を愛すること如子このごとし。汝、朕をしたしむこと如父ちちのごとくせよ。其親睦の厚薄、天下挽回の成否に関係す。あに重きに非ずや。嗚呼、汝、夙夜しゆくや心を尽し、思をこがし、勉て征夷府せいいふの職掌を尽し、天下人心の企望に対答たいたふせよ。夫醜夷しうい征服は、国家の大典、遂に膺懲の師を興さずんばあるべからず。雖然しかりといへども、無謀の征夷は、実に朕が好む所に非ず。然る所以の策略を議して、以て朕に奏せよ。朕、其可否を論ずる詳悉、以て一定不抜の国是を定むべし。朕、又思へらく、古より中興の大業を為さんとするや、其人を得ずんば有可あるべからず。朕、凡百の武将を見るに、苟も其人有と云へども、当時会津中将・越前前中将・伊達前侍従・土佐前侍従・島津少将等の如きは、頗る忠実純厚、思慮宏遠、以て国家の枢機を任ずるに足る。朕、是を愛すること子の如し。願くは汝是を親み、ともに計れよ。嗚呼、朕、与汝なんぢとともに誓て衰運を挽回し、上は先皇の霊に報じ、下は万民の急を救はんと欲す。若し怠惰にして、成功なくんば、殊に是朕と汝の罪也。天地鬼神、夫是をきよくすべし。汝、勉旃つとめよ勉旃つとめよ

〔追記〕
「会津中将」は松平容保、「越前前中将」は松平慶永、「伊達前侍従」は伊達宗城、「土佐前侍従」は山内豊信、「島津少将」は島津久光である。


【孝明天皇紀巻百七十七】
元治元年甲子正月二十一日癸亥 征夷大将軍内大臣徳川家茂を右大臣に任す 家茂入見恩を謝す 一橋慶喜徳川茂承等在京の諸大名高家四十四人亦従ひて朝す 皆謁を賜ふ 是日特に家茂に勅して征夷の職掌を尽さしめ一定不抜の国是を議して天裁を請はしむ


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第4巻』(河出書房、昭和15年)

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