(安政五年四月十六日)
天皇が御命に坐せ、掛けまくも畏き賀茂の皇太神の広前に、恐み恐みも申給はくと申さく。大神の助け給ひ護り給ふに依りて、天皇朝廷は、平けく大坐して、食国の天下事無く有る可しと為てなむ、常も進むる宇都の大幣を、正五位下内蔵頭兼摂津守大江朝臣俊有に捧げ持たしめて、阿礼乎止己阿礼乎止女走馬進めらると、恐み恐みも申給はくと申す。
辞別きて申さく。頃年以来諸夷屢来る中にしも、墨夷は、伊豆の下田に来り、内覬覦の心を懐き、外和交の好を結び、港口を開き、商館を建てむことを乞ひ求む。其の応接を聞食すに、事情甚だ驕慢にして、礼も無く厭くことも無し。寔に皇国の大患、天下の深憂にして、安危の間、治乱の本なれば、忽せにす可からざる時なり。此くの如く國體にも拘りなむとする危難の到ることは、朕菲徳に依りて致す所か、敬神の浅きが致す所かと、寤めても寐ねても危み給ひ懼り給ひ、仰いで祖宗の道を念ひ、俯して億兆の情を察し、朝に群臣と議り、夕に叡慮を凝らしめ給ふ。掛けまくも畏き大神、此状を平けく安けく聞食して、広き御助けを垂れ給ひ、昊天の慈雨を降すが如く、早く神州の汚辱を洗ひ給ひ、滌ぎ給ひて、今より以往天下弥泰平に、国家益安全に、宝祚長久、万民娯楽ならむことを、護り幸はへ給へと、恐み恐みも申給はくと申す。
○御命に坐せ 「仰せられる御言葉でござると」といふこと。「坐す」は、「在り」「居る」の敬語である。「御命に坐せ」は、前に謹載した宣命の中にも、しばしばこれを拝してゐる。
○阿礼乎止己 「阿礼男」である。「阿礼」は、奉幣といふ意味の語。毎年四月、賀茂祭に際し、神前に捧げる榊に、綵帛を垂れ、綱をつけて引いて行くのを、「あれひき」といふ。「阿礼男」は、奉斎をする男といふこと。賀茂祭の祭主の称ともいふ。
○阿礼乎止女 「阿礼少女」である。「奉斎する少女」の意味。「阿礼」は、「阿礼男」の「阿礼」と同じ。賀茂の斎宮内親王の異称を、「阿礼少女」といつた。「類聚国史」巻五に、天長八年十二月、賀茂の斎内親王を替へたまうたことを記して、「阿礼乎止売に(中略)時子女王を卜定めて進状を」とあり、「三代実録」巻第三十、元慶元年二月の条に、「可令奉仕き物なりと為てなも、敦子内親王を卜定めて、阿令乎度女に進状を」とある。
○走馬 「疾く走り行く馬」といふ字義。「くらべうま」「うまかけ」「競馬」等の意味にも用ゐられてゐる。「左右馬寮式」に、「凡賀茂二社祭、走馬十二匹」とあり、賀茂祭には、古くからこれを捧げるのが神事になつてゐたものと思はれる。
○墨夷 アメリカ人のこと。アメリカに亜墨利加の文字を当ててゐたからである。
○覬覦 隙をうかがつて非望を遂げようとすること。「左伝」の桓公二年に、「民其ノ上ニ服事シテ、下覬覦スルコトナシ。」とあり、註に「下上位ヲ冀望セズ。」とある。
○昊天 「夏の空」または単に「空」を意味する語。「爾雅」の釈天に、「夏ヲ昊天ト為ス。」とあり、「周礼」の春官に、「禋祀ヲ以テ昊天上帝ヲ祀ル。」とある。
○慈雨 めぐみの雨。転じては、庶人に遍く恩恵の及ぶことの喩に用ゐられる語。梁簡文帝の「請武帝御講啓」に曰ふ。「油然慧雲、霈然慈雨、光斯盛業、導彼蒼生。」
〔大意〕
天皇の仰せであると、まことにたふとくまします賀茂の皇大神の御前に、つつしみつつしんで、申上げよと仰せられるとほりに申上げる。大神の御助けと御護りによつて、我が皇室は御安泰にましまし、我が国家も無事であるとのおぼしめしから、例年上りたまふ大幣を、正五位下内蔵頭兼摂津守大江朝臣俊有に捧げ持たしめて、神宮に奉仕する男女や、走馬等を進め奉るのであるといふことを、つつしみつつしんで、申上げよと仰せられるとほりに申上げる。
とりわけて申上げる。この頃から、諸国の異人が度々来るその中でも、アメリカ人は、伊豆の下田に来て、心の中に我が隙をうかがつて、非望を遂げようとする野心をもち、うはべに和交の好を結んで、港を開き、商館を建てたいといふことを乞ひ求めてゐる。その応接の態度を聞しめすに、すべての事がらが甚だ驕慢であり、無礼であり、この上もなく不埒である。まことに、皇国の大いなる災難であり、天下のために深く心配すべきことであり、安危のわかれるところ、治乱の本ともなるから、軽々しいことをしてはならない時である。かやうに、國體にも関係しようといふ危難が生じたことは、朕の徳が薄いためであらうか、神を敬ふ心が浅いためであらうかと、寐てもさめても、御不安におぼしめされ、仰いでは、御先祖にまします天皇の道をおかんがへになり、俯しては、万民の心をお察しになり、朝には多くの臣と御相談なされ、夕には大御心を悩ませられる。まことにたふとくあらせられる大神には、このありさまを平けく安けく聞しめして、厚い御めぐみと、大いなる御助けを垂れたまひ、夏の空からめぐみの雨が降るやうに、早く我が日本の汚辱を洗ひたまひ、すすぎたまうて、これから後、天下はいよいよ泰平に、国家はますます安全に、天皇の御位が永久につづき、万民が楽しんでくらすやうに、御護りなさつて、幸福をお与へ下さるやうにと、つつしみつつしんで、申上げよと仰せられるとほりに申上げる。
〔史実〕
これは、安政五年(1858)四月十六日、賀茂神宮の例祭に奉幣、外患を祈禳したまうた宣命である。
嘉永六年(1853)に、再訪を約して帰国した米国使節は、翌年(安政元年)正月、再来して開港を要求した。その後の経緯は、次に謹載する「大神宮に外患を祈禳し給へる宸翰宣命」の後に略述する。
三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第4巻』(河出書房、昭和15年)
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