2017年9月20日水曜日

賀茂例祭に外患を祈禳し給へる宣命

(安政五年四月十六日)


天皇すめら御命おほみことせ、けまくもかしこ賀茂かも皇太神すめおほがみ広前ひろまへに、かしこかしこみも申給まをしたまはくとまをさく。大神おほかみたすたままもたまふにりて、天皇すめら朝廷みかどは、たひらけく大坐おほましまして、食国をすくに天下あめのした事無ことなしとてなむ、つねすすむる宇都うづ大幣おほみてぐらを、正五位下しやうごゐげ内蔵頭くらんどのかみけん摂津守せつつのかみ大江おほえの朝臣あそみ俊有としありささたしめて、阿礼乎止己あれをとこ阿礼乎止女あれをとめ走馬はしりうますすめらると、かしこかしこみも申給まをしたまはくとまをす。

辞別ことわきてまをさく。頃年このごろ以来より諸夷しよいしばしばきたうちにしも、墨夷ぼくいは、伊豆いづ下田しもだきたり、うち覬覦きゆこころいだき、そと和交わかうよしみむすび、港口こうこうひらき、商館しやうくわんてむことをもとむ。応接おうせつ聞食きこしめすに、事情じじやうはなは驕慢けうまんにして、れいくこともし。まこと皇国くわうこく大患たいくわん天下てんか深憂しんいうにして、安危あんきあひだ治乱ちらんもとなれば、ゆるがせにすからざるときなり。くのごと國體こくたいにもかかはりなむとする危難きなんいたることは、ちん菲徳ひとくりていたところか、敬神けいしんあさきがいたところかと、めてもねてもあやぶたまおそたまひ、あふいで祖宗そそうみちおもひ、して億兆おくてうこころさつし、あした群臣ぐんしんはかり、ゆうべ叡慮えいりよらしめたまふ。けまくもかしこ大神おほかみ此状このさまたひらけくやすらけく聞食きこしめして、ひろ御助おんたすけをたまひ、昊天かうてん慈雨じうくだすがごとく、はや神州しんしう汚辱をぢよくあらたまひ、すすたまひて、いまより以往のち天下てんかいよいよ泰平たいへいに、国家こくかますます安全あんぜんに、宝祚はうそ長久ちやうきう万民ばんみん娯楽ごらくならむことを、まもさきはへたまへと、かしこかしこみも申給まをしたまはくとまをす。

御命おほみこと 「仰せられる御言葉でござると」といふこと。「坐す」は、「在り」「居る」の敬語である。「御命に坐せ」は、前に謹載した宣命の中にも、しばしばこれを拝してゐる。

阿礼乎止己あれをとこ 「阿礼男」である。「阿礼」は、奉幣といふ意味の語。毎年四月、賀茂祭に際し、神前に捧げる榊に、綵帛を垂れ、綱をつけて引いて行くのを、「あれひき」といふ。「阿礼男」は、奉斎をする男といふこと。賀茂祭の祭主の称ともいふ。

阿礼乎止女あれをとめ 「阿礼少女」である。「奉斎する少女」の意味。「阿礼」は、「阿礼男」の「阿礼」と同じ。賀茂の斎宮いつきのみや内親王の異称を、「阿礼少女」といつた。「類聚国史」巻五に、天長八年十二月、賀茂の斎内親王を替へたまうたことを記して、「阿礼乎止売に(中略)時子女王を卜定うらへさだめてまゐらする状を」とあり、「三代実録」巻第三十、元慶元年二月の条に、「可令奉仕つかまつらしむべき物なりとてなも、敦子内親王を卜定めて、阿令乎度女に進状を」とある。

走馬はしりうま 「疾く走り行く馬」といふ字義。「くらべうま」「うまかけ」「競馬」等の意味にも用ゐられてゐる。「左右馬寮式」に、「凡賀茂二社祭、走馬十二匹」とあり、賀茂祭には、古くからこれを捧げるのが神事になつてゐたものと思はれる。

墨夷ぼくい アメリカ人のこと。アメリカに亜墨利加の文字を当ててゐたからである。

覬覦きゆ 隙をうかがつて非望を遂げようとすること。「左伝」の桓公二年に、「民其ノ上ニ服事シテ、下覬覦スルコトナシ。」とあり、註に「下上位ヲ冀望セズ。」とある。

昊天かうてん 「夏の空」または単に「空」を意味する語。「爾雅」の釈天に、「夏ヲ昊天ト為ス。」とあり、「周礼」の春官に、「禋祀ヲ以テ昊天上帝ヲ祀ル。」とある。

慈雨じう めぐみの雨。転じては、庶人に遍く恩恵の及ぶことの喩に用ゐられる語。梁簡文帝の「請武帝御講啓」に曰ふ。「油然慧雲、霈然ハイゼン慈雨、光斯盛業、導彼蒼生。」


〔大意〕
天皇の仰せであると、まことにたふとくまします賀茂の皇大神の御前に、つつしみつつしんで、申上げよと仰せられるとほりに申上げる。大神の御助けと御護りによつて、我が皇室は御安泰にましまし、我が国家も無事であるとのおぼしめしから、例年上りたまふ大幣を、正五位下内蔵頭兼摂津守大江朝臣俊有に捧げ持たしめて、神宮に奉仕する男女や、走馬等を進め奉るのであるといふことを、つつしみつつしんで、申上げよと仰せられるとほりに申上げる。

とりわけて申上げる。この頃から、諸国の異人が度々来るその中でも、アメリカ人は、伊豆の下田に来て、心の中に我が隙をうかがつて、非望を遂げようとする野心をもち、うはべに和交の好を結んで、港を開き、商館を建てたいといふことを乞ひ求めてゐる。その応接の態度を聞しめすに、すべての事がらが甚だ驕慢であり、無礼であり、この上もなく不埒である。まことに、皇国の大いなる災難であり、天下のために深く心配すべきことであり、安危のわかれるところ、治乱の本ともなるから、軽々しいことをしてはならない時である。かやうに、國體にも関係しようといふ危難が生じたことは、朕の徳が薄いためであらうか、神を敬ふ心が浅いためであらうかと、てもさめても、御不安におぼしめされ、仰いでは、御先祖にまします天皇の道をおかんがへになり、俯しては、万民の心をお察しになり、朝には多くの臣と御相談なされ、夕には大御心を悩ませられる。まことにたふとくあらせられる大神には、このありさまを平けく安けく聞しめして、厚い御めぐみと、大いなる御助けを垂れたまひ、夏の空からめぐみの雨が降るやうに、早く我が日本の汚辱を洗ひたまひ、すすぎたまうて、これから後、天下はいよいよ泰平に、国家はますます安全に、天皇の御位が永久につづき、万民が楽しんでくらすやうに、御護りなさつて、幸福をお与へ下さるやうにと、つつしみつつしんで、申上げよと仰せられるとほりに申上げる。


〔史実〕
これは、安政五年(1858)四月十六日、賀茂神宮の例祭に奉幣、外患を祈禳したまうた宣命である。

嘉永六年(1853)に、再訪を約して帰国した米国使節は、翌年(安政元年)正月、再来して開港を要求した。その後の経緯は、次に謹載する「大神宮に外患を祈禳し給へる宸翰宣命」の後に略述する。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第4巻』(河出書房、昭和15年)

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