2017年9月19日火曜日

安政改元の詔

(安政元年十一月二十七日)


けだく、皇猷くわういうよろしき寰宇くわんう乂安がいあんなれば、すなは天地てんち祥瑞しやうずゐおうあらはし、庶政しよせいあきらかならずして民人みんじん疾苦しつくせば、すなは陰陽いんやう災眚さいせいへんしめすと。嗚呼ああつつしまざるけむや。ちんみだり眇眇べうべうもつて、つつしみて元元げんげんうへたくす。鴻業こうげふぎてより、たび寒暑かんしよけみし、夙夜しゆくやつつしおそれて、底寧ていねいいとまあらず。しかるにまことものかんぜず、くわとほおよばず。元気げんき鬱塞うつそくして、祝融しゆくゆうたたりし、宮闕きゆうけつ蕩然たうぜんとして、わざはひ閭閻りよえんおよび、洋夷やうい出没しゆつぼつして、腥羶せいせん薫騰くんとうし、辺海へんかいやすからずして、士夫しふ勤労きんらうす。加之しかのみならず六月ろくぐわつ以来いらい坤徳こんとくつねさからひて、近畿きんき地震ちふるひ、餘動よどうきやうおよびて、いまいままず。つまびらかおもふに、咎徴きうちよう予一人よいちにんり。大和たいわ導迎だうげいして、もつ衆変しゆうへん弭消びせうせしめむことをおもふ。よろしく冠元くわんげんへて、あまね宥過いうくわたくほどこすべし。嘉永かえい七年をあらためて安政あんせい元年ぐわんねんし、天下てんか大赦たいしやせよ。今日こんにち昧爽まいさう以前いぜん大辟たいへき以下いかつみ軽重けいぢゆうく、已発覚いはつかく未発覚みはつかく已結正いけつしやう未結正みけつしやうは、ことごとみな赦除しやぢよせよ。ただし犯八虐はんはちぎやく故殺こさつ謀殺ぼうさつ私鋳銭しちうせん強窃二盗がうせつにたう常赦じやうしやゆるさざるところものは、かぎりらず。また天下てんか今年こんねん半徭はんえうふくせよ。老人らうじんおよ僧尼そうにとし百歳ひやくさい以上いじやうには、こく四斛しこくあたへよ。九十くじふ以上いじやうには三斛さんごく八十はちじふ以上いじやうには二斛にこく七十しちじふ以上いじやうには一斛いちこくとせよ。庶幾こひねがはくは、いまよりものとも一新いつしんし、かみ天譴てんけんこたへ、しも人望じんばうかなひ、六府りくふをさまり、万方ばんぱううれひからむことを。天下てんか布告ふこくして、ちんらしめよ。主者しゆしや施行しかうせよ。


寰宇くわんう乂安がいあん 天下太平または国家平安と同じ。「寰宇」は国のうち、「乂安」は安らかに治まること。

災眚さいせいへん 「災変」と同じ。「災眚」は「わざはひ」である。「後漢書」に、「災眚ヲ消救シ、黎元ヲ安輯セヨ。」とある。「眚」は過失を意味する文字で、過失及び災難による犯罪を「災眚」また「眚災」といふこともある。

底寧ていねいいとまあら 心を安んずる暇がないといふこと。「底寧」は、「寧に至る」即ち安心である。

祝融しゆくゆうたたり 火事が起ることの喩。「祝融」は火の神である。転じて火災の意味に用ゐられてゐる語。「左伝」の昭公二十九年に、「火正ハ祝融ト曰フ。」とある。

わざはひ閭閻りよえんおよ 多くの民が災難を蒙つたといふこと。「閭閻」は、里中の門を意味する語。村里の人々といふ意味に転用せられる。「史記」の李斯伝に曰ふ。「斯ハ閭閻ヲ以テ、諸侯ヲ歴テ、入リテ秦ニ事フ。」

洋夷やうい出没しゆつぼつ 外国人が往来すること。幕末から明治初年には、外国人のことを洋夷と称した。

腥羶せいせん薫騰くんとう なまぐさい獣肉がくすぼりあがるといふ意味の語。不快不穏な空気が漂ふことの喩。「腥羶」は「なまぐさい獣」である。その獣肉を食ふ外国人を罵る語として用ゐられた。「薫騰」は「熏騰」と同じ。「薫」は「熏」に通ずる。

坤徳こんとくつねさから 地上に異変を生ずることをいふ。「坤徳」は、万物を育成する大地の徳である。

衆変しゆうへん弭消びせう 多くの災変が再び起らないやうにすること。「弭消」は、「とどめ消す」といふ意味の語である。

六府りくふをさまり 天地がしづかに穏かになること。「六府」は天地の蔵の意味。財用の出づる六つのもの即ち水・火・金・木・土・穀の総称となつてゐる。「書経」の大禹謨に曰ふ。「地平天成ニシテ、六府三事ハマコトニ治マル。」とある。

万方ばんぱう 四方の国々をいふ。書経の湯誥に、「アア爾万方ノ有衆」とある。


〔史実〕
孝明天皇の嘉永七年(1854)十一月二十七日、その年を安政元年と改元の旨を仰せ出された。ここに掲げ奉つたのが、その詔である。

嘉永六年六月には、米国の使節ペリーが、軍艦四隻を率ゐて浦賀に来り、国書を齎らして通商を強要し、同年七月には、露国の使節プゥチャーチンが長崎に来り、国境の確定、通商の開始を望む等、外交上の問題が日毎に錯綜した。天皇の御深憂一方ならざりし折柄、嘉永七年六月以来、近畿にしばしば震災が起つたので、本詔の如く、改元を仰せ出されて、天下に大赦を命じたまうたのであつた。

しかるに、天は無情にも災禍を止めず、安政二年十月に至り、江戸に大地震が起り、死傷者が十万餘人の多きに及んだ。

三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第4巻』(河出書房、昭和15年)

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