(安政五年六月十七日)
掛けまくも畏き伊勢の度会の五十鈴の河上の下つ磐根に、大宮柱広敷立て、高天原に千木高知りて、称辞定へ奉る天照坐皇太神の広前に、恐み恐みも申して申さく。統仁、薄徳を以て、猥に洪基を守るとも、性猶童蒙なり。徳を施すこと未だ四海に洽からずして、天日嗣を受け伝へ、古今を顧みて独り慙ぢ懼るとも、偏に厚き御恤、広き御助に在る可きなり。爰に去ぬる嘉永の年より以往、蛮夷屢来れども、殊に墨夷は魁首と為て、深く我が国と和親を請ふ所、後年併吞の兆、又邪教の伝染も亦恐る可し。若し要に逆へば、戦争に曁ぶ可きの由を白す。実に安危の間、決し難く思ひ煩ふところ、東武に於いて応接に及び、方今差し拒む可きの慮もなく、時勢の変革を以て、貿易通交を許容せむと欲す。是れ輒ち天下国家の汚辱、禍害遠からずと、昼とも無く夜とも無く、寤めても憂へ寐ねても憂ふ。若し兵船来るべく在らば、皇太神早く照察を垂れ給ひ、殊に神徳の擁護を以て、蒙古の旧蹤の如く、神風を施し給ひ、賊船を漂ひ没めしめ、鎮護の誓を愆はずして、天変地妖の怪在る可きなりとも、消し除き給ひて、泰平延長に、公武和熟し、疑を絶ち讒を去り、不正の流言起らず、臣庶黎民に至るまで、姦計を挟み、国恩を報いざる者は、神罰を蒙らしむ可きなり。希はくは冥助を仰ぎ、霊験を憑む可きに依りて、幣使を発遣せしめ、吉日良辰を択び定めて、正二位行権大納言藤原朝臣公純を差使はして、礼代の幣帛を持ち斎り捧げ持たしめて、御馬を牽き副へて奉出給ふ。皇太神、此の状を平けく安けく聞食して、國體を誤らずして、禍乱を除き給ひ、四海静謐、万民娯楽、永く戎狄の憂なく、五穀豊熟にして、宝位動き無く、常磐堅磐に、夜守日守に護り幸へ給へと、恐み恐みも申して申す。
〔史実〕
これは、安政五年(1858)六月十七日、伊勢大神宮に奉幣あらせられて、外患を祈禳したまうた宣命である。
嘉永六年(1853)、アメリカの使節ペリーが浦賀に来り、再訪を約して帰国してから、対外関係は、最大の難局に直面した。翌年
(安政元年)正月、ペリーは再び浦賀に来り、開港を強要した。対策に窮した幕府は、三月三日、日米和親条約に調印して、下田と函館の二港を開いた。そこで、安政三年(1856)七月、米国総領事ハリスは、下田に来りて玉泉寺を領事館とし、十月、将軍に謁して国書を呈し、老中堀田正睦を訪ひ、世界の形勢を語り、通商条約締結の必要を説いた。その間には、露国の使節、英国の使節等も、しばしば来朝して、それぞれの要求を提出した。大勢に抗し難きことを察した幕府は、ハリスの提言を容れて、通商条約を議し、遂に神奈川・兵庫・長崎・函館・新潟の五港を開き、公使・領事の駐剳、外人の信教自由、治外法権を認め、輸出・輸入等に関する規則を定めて、勅裁を奏請した。しかるに、当時、徳川斉昭をはじめ、攘夷の説を高調して、幕府の外交策に反対する者が多かつたので、朝廷に於かせられては、幕府の奏請を許したまはず、更に諸大名の衆議を尽くして上奏するやうにと勅答あらせられた。一方に於ては、ハリスが条約の調印を強硬に迫つてやまなかつたので、幕府もここに進退
谷まり、安政五年六月十九日、勅許を待たずして条約に調印した。
ここに謹載した宣命は、この幕府の条約調印二日前の詔である。この緊迫した時局を察して本詔を拝する時、国家の前途を深く憂ひたまうた大御心が一そう畏く偲ばれる。
三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第4巻』(河出書房、昭和15年)
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