2017年9月21日木曜日

大神宮に外患を祈禳し給へる宸翰宣命

(安政五年六月十七日)


けまくもかしこ伊勢いせ度会わたらひ五十鈴いすず河上かはかみした磐根いはねに、大宮柱おほみやばしら広敷立ひろしきたて、高天原たかまのはら千木ちぎ高知たかしりて、称辞たたへごとまつ天照坐あまてらします皇太神すめおほかみ広前ひろまへに、かしこかしこみもまをしてまをさく。統仁をさひと薄徳はくとくもつて、みだり洪基こうきまもるとも、せいなほ童蒙どうもうなり。とくほどこすこといま四海しかいあまねからずして、天日嗣あまつひつぎつたへ、古今ここんかへりみてひとおそるとも、ひとへあつ御恤おんめぐみひろ御助おんたすけきなり。ここぬる嘉永かえいとしより以往このかた蛮夷ばんいしばしばきたれども、こと墨夷ぼくい魁首くわいしゆて、ふかくに和親わしんところ後年こうねん併吞へいどんきざしまた邪教じやけう伝染でんせんまたおそし。もとめさからへば、戦争せんさうおよきのよしまをす。じつ安危あんきあひだけつがたおもわでらふところ、東武とうぶいて応接おうせつおよび、方今いまこばきのこころもなく、時勢じせい変革へんかくもつて、貿易ばうえき通交つうかう許容きよようせむとほつす。すなは天下てんか国家こくか汚辱をぢよく禍害くわがいとほからずと、ひるともよるともく、めてもうれねてもうれふ。兵船へいせんきたるべくらば、皇太神すめおほかみはや照察せうさつたまひ、こと神徳しんとく擁護ようごもつて、蒙古もうこ旧蹤きうしようごとく、神風かみかぜほどこたまひ、賊船ぞくせんただよしづめしめ、鎮護ちんごちかひたがはずして、天変てんぺん地妖ちえうくわいきなりとも、のぞたまひて、泰平たいへい延長えんちやうに、公武こうぶ和熟わじゆくし、うたがひざんり、不正ふせい流言りうげんおこらず、臣庶しんしよ黎民れいみんいたるまで、姦計かんけいさしはさみ、国恩こくおんむくいざるものは、神罰しんばつかうむらしむきなり。ねがはくは冥助みやうじよあふぎ、霊験れいげんたのきにりて、幣使へいし発遣はつけんせしめ、吉日きちにち良辰りやうしんえらさだめて、正二位行しやうにゐかう権大納言ごんだいなごん藤原ふぢはら朝臣あそみ公純きみずみ差使さしつかはして、礼代ゐやしろ幣帛おほみてぐらいつかささたしめて、御馬みうまへて奉出まつりいだしたまふ。皇太神すめおほかみさまたひらけくやすらけく聞食きこしめして、國體こくたいあやまらずして、禍乱くわらんのぞたまひ、四海しかい静謐せいひつ万民ばんみん娯楽ごらくなが戎狄じゆてきうれひなく、五穀ごこく豊熟ほうじゆくにして、宝位あまつひつぎうごく、常磐ときは堅磐かきはに、夜守よのまもり日守ひのまもりまもさきはたまへと、かしこかしこみもまをしてまをす。


〔史実〕
これは、安政五年(1858)六月十七日、伊勢大神宮に奉幣あらせられて、外患を祈禳したまうた宣命である。

嘉永六年(1853)、アメリカの使節ペリーが浦賀に来り、再訪を約して帰国してから、対外関係は、最大の難局に直面した。翌年(安政元年)正月、ペリーは再び浦賀に来り、開港を強要した。対策に窮した幕府は、三月三日、日米和親条約に調印して、下田と函館の二港を開いた。そこで、安政三年(1856)七月、米国総領事ハリスは、下田に来りて玉泉寺を領事館とし、十月、将軍に謁して国書を呈し、老中堀田正睦を訪ひ、世界の形勢を語り、通商条約締結の必要を説いた。その間には、露国の使節、英国の使節等も、しばしば来朝して、それぞれの要求を提出した。大勢に抗し難きことを察した幕府は、ハリスの提言を容れて、通商条約を議し、遂に神奈川・兵庫・長崎・函館・新潟の五港を開き、公使・領事の駐剳、外人の信教自由、治外法権を認め、輸出・輸入等に関する規則を定めて、勅裁を奏請した。しかるに、当時、徳川斉昭をはじめ、攘夷の説を高調して、幕府の外交策に反対する者が多かつたので、朝廷に於かせられては、幕府の奏請を許したまはず、更に諸大名の衆議を尽くして上奏するやうにと勅答あらせられた。一方に於ては、ハリスが条約の調印を強硬に迫つてやまなかつたので、幕府もここに進退きはまり、安政五年六月十九日、勅許を待たずして条約に調印した。

ここに謹載した宣命は、この幕府の条約調印二日前の詔である。この緊迫した時局を察して本詔を拝する時、国家の前途を深く憂ひたまうた大御心が一そう畏く偲ばれる。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第4巻』(河出書房、昭和15年)

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