(文久三年三月一日)
天皇が詔旨と、掛けまくも畏き伊勢の度会の五十鈴の河上の下つ磐根に、大宮柱広敷立て、高天原に千木高知りて、称辞定へ奉る天照坐皇太神の広前に、恐み恐みも申賜はくと申さく。夷俘の我が日本国を汚穢し軽んじ侮るの心、今更絶えずして、動もすれば身を文け袵を左するの恥を受けむと、重く慎み深く懼り給ふ。加之、頃日、英夷の軍艦を寄せ来すとなむ聞食す。其の状を繹ぬるに、利を貪り隙を覬覦ふの心情明らかに著し。依りて許多の軍将を以て沿海を守らしめ、夷賊等が軍争を圧へ鎮め、皇威を海の外に輝し、永く夷賊等が侮り覬覦ふの念を絶たしめむと念ほしめす。皇太神は、我が朝の太祖に御座して、照らし給ひ護り給ふに因りて、猶も擁護の誓明らかに祈り請ひ給ふとなむ。故れ是を以て、吉日良辰を択び定めて、従二位行権中納言藤原朝臣光愛・従四位上行侍従藤原朝臣実梁を差使はして、内外宮に仕へ奉らしめ給ふ。掛けまくも畏き皇大神、此の状を平けく安けく聞食して、夷賊等が軍艦を来すも、激浪を揚げ、飈風を起し、千里の外に禳ひ退け漂ひ没め給ひて、皇御孫命御国を常磐堅磐に、天地と共に久しく、日月と共に明らかに、弥継継の御世御世も、国の浦浦の賤民も、安穏泰平に、夜守日守に護り幸へ給へと、恐み恐みも申賜はくと申す。
○夷俘 「とりこ」といふ意味の語であるが、ここに仰せられてあるのは、「夷狄」即ち「えびす」の意味に拝する。「えびす」は野蛮人といふこと。外国人を軽蔑していふ語である。
○身を文け袵を左す いれずみをし左前に衣服を著るといふことで、異国人が野蛮人として取扱はれる最大の恥辱を喩へた語。「文身」は「いれずみ」
(刺青)である。「礼記」の王制に、「東方、夷ト曰フ、被髪文身、火食セザル者有リ。」とある。「左袵」は「左衽」とも書く。「左前」即ち襟を左合せにして衣服を著ることをいふ。夷の衣服の著方といはれてゐる。「論語」の憲問篇に、「管仲
微カリセバ、吾其レ被髪左衽セン」とある。
○飈風 はげしいつむじ風のこと。「爾雅」に曰ふ。「暴風、下ヨリ上スルヲ飈風ト曰フ。」
〔史実〕
ここに謹載したのは、文久三年三月一日、伊勢大神宮に奉幣、外患を祈禳したまうた宣命である。
安政五年(1858)六月、勅許を待たずして、日米通商条約に調印した幕府の専断に対しては、これを非難する声が四方に起つた。特に尊皇論者は、鋭く幕府の違勅を責めて、盛に討幕論を唱へ、また攘夷説を叫んだ。大老井伊直弼は、この囂々たる世論を鎮圧するために、尊王の志士を捕へて、所謂安政の大獄を起し、天下の耳目を聳動せしめたが、時代の大勢を逆行することは出来なかつた。幕府の威信は、ますます地に墜ち、士気はいよいよ頽廃し、ただ朝命のままにこれを遵奉する能なく、既に事変に対処する実力を失つた。
尊皇攘夷論が勢力を占むるに至り、朝廷に於かせられては、文久二年(1862)十月、勅使を東下せしめられて、幕府に攘夷を命じたまうた。将軍家茂は、遂に攘夷の時期を翌年五月十日と定めてこれを奏上し、遍く列藩に布告した。
攘夷論者の中には、外国人に対して反感を抱く者が多く、不祥な事件もしばしば生じた。文久二年十二月には、長州藩士が江戸品川の英国公使館を焼いた。種々の流言蜚語も乱れ飛んだ。英国の艦隊が大挙して侵寇するといふ風評もあつた。その不穏な空気は、現代人の想像を絶してゐた。
かうした世相に宸襟を悩ませたまうて、皇大神宮に祈請したまうたこの宣命は、我が国民が永遠に忘るべからざるものである。
三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第4巻』(河出書房、昭和15年)
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