2017年9月22日金曜日

大神宮に外患を祈禳し給へる宣命

(文久三年三月一日)


天皇すめら詔旨おほみことらまと、けまくもかしこ伊勢いせ度会わたらひ五十鈴いすず河上かはかみした磐根いはねに、大宮柱おほみやばしら広敷立ひろしきたて、高天原たかまのはら千木ちぎ高知たかしりて、称辞たたへごとまつ天照坐あまてらします皇太神すめおほかみ広前ひろまへに、かしこかしこみも申賜まをしたまはくとまをさく。夷俘いふ日本国につぽんこく汚穢をくわいかろんじあなどるのこころ今更いまさらえずして、ややもすればもどろえりひだりするのはぢけむと、おもつつしふかおそたまふ。加之しかのみならず頃日このごろ英夷えいい軍艦ぐんかんすとなむ聞食きこしめす。さまたづぬるに、むさぼすき覬覦うかがふの心情こころあきらかにしるし。りて許多あまた軍将ぐんしやうもつ沿海えんかいまもらしめ、夷賊等いぞくら軍争ぐんさうおさしづめ、皇威くわうゐうみそとかがやかし、なが夷賊等いぞくらあなど覬覦うかがふのねんたしめむとおもほしめす。皇太神すめおほかみは、みかど太祖おほみおや御座ましまして、らしたままもたまふにりて、なほ擁護ようごちかひあきらかにいのたまふとなむ。ここもつて、吉日きちにち良辰りやうしんえらさだめて、従二位行じゆにゐかう権中納言ごんちゆうなごん藤原ふぢはら朝臣あそみ光愛みつよし従四位上じゆしゐじやうかう侍従じじゆう藤原ふぢはら朝臣あそみ実梁さねむね差使さしつかはして、内外宮ないげくうつかまつらしめたまふ。けまくもかしこ皇大神すめおほかみさまたひらけくやすらけく聞食きこしめして、夷賊等いぞくら軍艦ぐんかんきたすも、激浪げきらうげ、飈風へうふうおこし、千里せんりそとはら退ただよしづたまひて、皇御孫命すめみまのみことの御国みくに常磐ときは堅磐かきはに、天地あめつちともひさしく、日月にちげつともあきらかに、弥継継いやつぎつぎ御世みよ御世みよも、くに浦浦うらうら賤民しづがたみも、安穏あんをん泰平たいへいに、夜守よのまもり日守ひのまもりまもさきはたまへと、かしこかしこみも申賜まをしたまはくとまをす。

夷俘いふ 「とりこ」といふ意味の語であるが、ここに仰せられてあるのは、「夷狄」即ち「えびす」の意味に拝する。「えびす」は野蛮人といふこと。外国人を軽蔑していふ語である。

もどろえりひだり いれずみをし左前に衣服を著るといふことで、異国人が野蛮人として取扱はれる最大の恥辱を喩へた語。「文身」は「いれずみ」(刺青)である。「礼記」の王制に、「東方、夷ト曰フ、被髪文身、火食セザル者有リ。」とある。「左袵」は「左衽」とも書く。「左前」即ち襟を左合せにして衣服を著ることをいふ。夷の衣服の著方といはれてゐる。「論語」の憲問篇に、「管仲カリセバ、吾其レ被髪左衽セン」とある。

飈風へうふう はげしいつむじ風のこと。「爾雅」に曰ふ。「暴風、下ヨリ上スルヲ飈風ト曰フ。」


〔史実〕
ここに謹載したのは、文久三年三月一日、伊勢大神宮に奉幣、外患を祈禳したまうた宣命である。

安政五年(1858)六月、勅許を待たずして、日米通商条約に調印した幕府の専断に対しては、これを非難する声が四方に起つた。特に尊皇論者は、鋭く幕府の違勅を責めて、盛に討幕論を唱へ、また攘夷説を叫んだ。大老井伊直弼は、この囂々たる世論を鎮圧するために、尊王の志士を捕へて、所謂安政の大獄を起し、天下の耳目を聳動せしめたが、時代の大勢を逆行することは出来なかつた。幕府の威信は、ますます地に墜ち、士気はいよいよ頽廃し、ただ朝命のままにこれを遵奉する能なく、既に事変に対処する実力を失つた。

尊皇攘夷論が勢力を占むるに至り、朝廷に於かせられては、文久二年(1862)十月、勅使を東下せしめられて、幕府に攘夷を命じたまうた。将軍家茂は、遂に攘夷の時期を翌年五月十日と定めてこれを奏上し、遍く列藩に布告した。

攘夷論者の中には、外国人に対して反感を抱く者が多く、不祥な事件もしばしば生じた。文久二年十二月には、長州藩士が江戸品川の英国公使館を焼いた。種々の流言蜚語も乱れ飛んだ。英国の艦隊が大挙して侵寇するといふ風評もあつた。その不穏な空気は、現代人の想像を絶してゐた。

かうした世相に宸襟を悩ませたまうて、皇大神宮に祈請したまうたこの宣命は、我が国民が永遠に忘るべからざるものである。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第4巻』(河出書房、昭和15年)

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