(文久二年五月十一日)
夫聖人に非るより、内安ければ必外の患有りと。方今天下二百有餘年、至平に慣れ、内遊惰に流れ、外武備を忘れ、甲冑朽廃し、干戈腐鏽す。卒然として夷狄之患起て、不能応之。終に癸丑・甲寅の年より、有司益駕御之術を失し、事模稜多し。是を以、戎虜不知所恐懼、求徴無饜、条約を定め、関市を通ぜん事を請ふ。幕府因循、不能拒其請、以旗下小吏奏聴。朕、知其誣罔斥之。翌巳年(午の御誤)(安政五年)二月、幕府以老吏堀田備中守及二三小吏登京、事情を陳し、切請不止。朕熟案、古今夷狄之憂雖不少、近年之如く甚は未有之也。若一旦親狎之、膻流穢漲、神州陸沈し、朕が世に至て、初て金甌を缺ば、何以先皇在天之霊に謝せんと、深謀遠慮し、群臣に咨詢するに、皆其不可なる事を白す。又列藩内密上言之者不少。乃幕府に命じ、天下の大小名に令し、務て時宜を陳せしむ。然るに幕府、命を抗し、肯て之を天下に伝示せず。朕、深憂慮し、未だ処置すること不有。於是群臣八十八人、奮然として、奏状を以て、朕が意を賛す。又或曰、朕、若幕府之請に不従ば、必承久元弘の事を為んと。然れども、朕何ぞ一身のことを以て、祖宗の天下に易んやと、卒に重て命ずるに前令を以し、次で幕吏を返らしむ。又使を発し、幣を三社に奉し、戎虜國體を汚すことなく、人民其生を安ぜんことを祈請す。庶幾は弘安の先蹤を継んと。豈図らんや、旬日之間、幕吏、朕命を不用、遂に条約を定め、通商を許し、片紙を以て奏曰、時勢切迫、不得止事也と。朕、殊に其侮慢非礼を怒と雖も、未遽に是を譲責せず。三家家門、或は大老を召し、其子細を尋糺せんとす。然るに尾水越、其餘二三の名藩臣を籠居せしめて、又嘗て命を奉ぜず。次で前将軍薨ぜり。又忠言するもの有り。曰、嗣子幼弱、将軍に任ずることなく、暫其為す所を見て、而後任之よと。然ども直に其職に任じ、其を以て、其職を尽さしめんとす。然るに将軍幼若、有司柔惰、朕が意に称ふ事を不知。嘗て攘夷の念なく、却て之を親昵し、剰へ正議(義、下同じ)之士を排斥す。朕、其三家三卿等を召せども、不来。剰へ正議之名藩臣を退隠或は禁錮せしめ、其積鬱之餘、激して変を生じ、外夷其虚に乗ぜんことを過慮し、特命を幕府水府に下し、天下の大小名、同心合力、幕府を輔佐し、内奸吏を除き、諸藩勤王の志を慰し、外黠虜を攘ひ、各国窺覦の念を絶せしめんとす。然るに皆、朕が意を体し、其命を海内に示伝し、天下一心戮力、徳川を輔佐し、外夷征殄の議を不興、却て公武不和の難を醸し、朕、深く之を憂ふ。其間事事紛紛、尽く言ふべき事難し、然れども其一二を言んに、人人以為らく、幕府如此衰弱不振、戎狄如此猖獗不懲。然則外患何時止まん。神州正気何時回復せん。人民何時生を安せん。是豪傑英雄の将にあらずんば、治むること不能と。三家三卿の中、一橋刑部卿は、其英雄なるを以て、之をして其職に当らしめば、寧よく大事を成就せんと。是以草莽有志の士、其事に周旋奔馳するものあり。又其間、奸猾其意を快くせんとするものありて、事多く朕が意の如くならず。不日にして、間部下総守登京、幕命を以て、凡て天下の事を論ずる者、一切に縛収して、之を江戸に下し、次で四大臣落飾幽居し、正議の士、是に於て尽く。下総守幕議を白して曰、条約押印のことは、先役備中守の所為にして、当役の知る所に非ず、即今条約を返し、通市を止むる時は、外国に不信を伝へ、彼が怒を激し、異変不測に生ぜん、環海武備未だ充実せず、且大奸内に在り、若外患起らば、内憂之に乗ぜん、然らば忽ち天下土崩瓦解、如何とも為べからざるに至るべし、希は幕府の申す所に従ひ、姑く天下の時勢を覧ぜんことを、必不経年して、戎虜を掃絶し、神州の正気を回復せんと。是以、朕、不得止事、枉て其請に任せ、以て天下の時勢を見る。其後庚申(万延元年)三月三日、水府浪士、井伊掃部頭を刺の事あり。其所為は乱暴に似たりと雖も、其所懐中の状書を視て、其意を察すれば、深く外夷の跋扈を憤怒し、幕府の失職を死を以て諫むるにあり。是朕が嘗てより所憂也。又其後年墨使を刺し、又東漸寺の件件、皆其意斯に基づけり。其餘外夷の陸梁なる、対州の事、二个国相増事、兵庫より陸行、江府に至の事、海岸測量、殿山を借与の事等、朕、一一幕府に、其然らざる事を責れども、幕吏奏曰、是皆一時の権宜にして、浪華開商延期の術策なりと。又奏請曰、外夷を掃殄するに、天下一心戮力にあらずんば、為し難し、故に和宮を以て将軍に尚し、公武一和を天下に表し、而後戎虜剿絶に可及也、不然ば、公武の間を隔絶せんとするの奸賊ありて、外夷拒絶に及び難しと。朕念ふに、先帝遺腹の妹を以て、百有餘里の外に嫁し、而も古来未曾有之武臣に尚せんこと、朕が意実に忍びざる所也。然るに幕吏切に内外の事情を陳謝し、朕が憐を請て不止。朕も意に不忍と雖も、祖宗の天下の事には代へ難しと、意を決して其請を許し、十年を不出、必然外夷掃除の事を命じ、且海内大小名に朕意を伝示し、武備充実せしめんとす。幕吏連署奏状し、皆朕が命を聴く。故に去冬、和宮入城の事に及べり。然るに今春に至り、幕吏安藤対馬守、浪士の為に刺さる。是等皆、掃部頭を刺せし者と同意の者にして、如此輩は、死を視ること帰するが如く、実に勇豪の士也。嗚呼、此輩をして、少く其憤鬱する所を押へしめて、諭すに丁寧誠実の言を以てして、暫く其勇気を儲へしめ、他日非常の変に用ひ、其をして先鋒たらしめば、堅を衝き鋭を挫くに於て、何の難きことかあらんや。誠に愛むべきの士也。然るを幕府、意を斯に不著、日夜猶其餘党を索る。是惟に、怨を天下に構へて、事に於て益なく、其本に反らずして、只に威力を以て制せんとす。是を捕れば、殃又斯に生じ、天下之変止む時なく、終に大変を激生するに至らん。是朕が深く憂慮する所也。聞、翌十六日、将軍拝廟の事あり。有司前日の変を以て、拝廟の事を延引せんと謂へり。然るに将軍、嘗て拝廟のことを不廃して、之を行へりと。朕、其寛量を愛し、因て思ふ。庚申三月以来、九門外に守兵を置き、又関白邸亭にも兵士を置、或は参朝に密密武士を具して、非常に備ふと。是等、朕、深く慙憂する所也。因て又思ふに、往年三社に奉幣せし以来、神州の汚穢を洒掃せんことを朝夕禱請して、又法楽をも、至今猶之を行ふ。庶幾くは、以て前の志願を全うして、之を終んと。去年元を改め、天下と与に更始す。公主既に尚し、公武実に一和す。此時に迨んで、既往の咎めざるの教に由り、天下に大赦し、三大臣の幽閉を免じ、列藩臣の禁錮を赦し、有志の士の連座せる者を放んことを速告幕府、以て此挙を行しめよ。是朕所深欲也。爾後天下心を合せ、力を一にし、十年内を限り、武備充実せしめ、断然として、夷虜に諭すに利害を以てし、一切に之を謝絶し、若不聴、速に膺懲之師を挙、海内の全力を以て、入ては守り、出ては制せば、豈神州の元気を恢復せんに難きこと有んや。若不然して、惟に因循姑息、旧套に従て不改、海内疲弊の極、卒には戎虜の術中に陥り、座しながら膝を犬羊に屈し、殷鑑不遠、印度の覆轍を踏ば、朕、実に何以か先皇在天の神霊に謝せんや。若幕府、十年内を限りて、朕が命に従ひ、膺懲の師を作さずんば、朕、実に断然として、神武天皇神功皇后の遺蹤に則とり、公卿百官と、天下の牧伯を師ゐて親征せんとす。卿等、其斯意を体して、以て朕に報ぜんことを計れ。
〔追記〕
「堀田備中守」は堀田正睦、「前将軍」は徳川家定、「一橋刑部卿」は徳川慶喜、「間部下総守」は間部詮勝、「井伊掃部頭」は井伊直弼、「安藤対馬守」は安藤信正、「関白邸亭ニモ兵士ヲ置」の「関白」は九条尚忠である。
「忠香公手録」
(「孝明天皇紀」百三十一所収)に、「坂下門外変事被聞食、時勢御歎息、元来思食、方今思食被表候御帖左之通。」として、前に謹載した勅書を掲ぐ。
「村井政礼日記」
(「孝明天皇紀」百三十一所収)に曰ふ。「文久二年六月七日、去月十一日詔書同時ニ被仰出候思召書之儀ハ、堂上方ヘ於禁中為見被下候耳ニテ、書写等之儀ハ、一切不相成、然ル処、薩長二藩之儀ハ、勅使東行ニ付テハ、周旋被仰付之儀故、内々一本ツツ被下之儀由、依テ極々密々久坂玄瑞ニ約定致置、今午後同人方ヘ行向、写一本借用、」
三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第4巻』(河出書房、昭和15年)
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