2017年9月25日月曜日

時局を御軫念御述懐の勅書

(文久二年五月十一日)


それ聖人にあらざるより、うち安ければかならずそとわざはひ有りと。方今はうこん天下二百有餘年、至平しへいに慣れ、内遊惰いうだに流れ、そと武備を忘れ、甲冑朽廃きうはいし、干戈腐鏽ふしようす。卒然として夷狄之わずらひ起て、不能応之これにおうずるあたはず。終に癸丑みづのとうし甲寅きのえとらの年より、有司ますます駕御がぎよ之術を失し、事模稜もりよう多し。これもつて戎虜じゆうりよ不知所恐懼きようくするところをしらず求徴きうちよう無饜あくなく、条約を定め、関市くわんしを通ぜん事を請ふ。幕府因循、不能拒其請そのこひをこばむことあたはず、以旗下小吏奏聴そうちやうす。朕、知其誣罔斥之そのふまうをしつてこれをしりぞく。翌巳年(午の御誤)(安政五年)二月、幕府以老吏堀田備中守及二三小吏登京、事情をちんし、切請不止しきりにこうてやまず。朕熟案つらつらあんずるに、古今夷狄之うれひ雖不少すくなからずといへども、近年之如くはなはだしき未有之也いまだこれあらざるなりもし一旦親狎之これにしんかふし膻流せんりう穢漲くわいちやう、神州陸沈りくちんし、朕が世にいたつて、はじめ金甌きんおうかけば、何以なにをもつて先皇せんのう在天之霊ざいてんのれいしやせんと、深謀遠慮し、群臣に咨詢しじゆんするに、皆その不可なる事をまをす。又列藩内密上言之者不少すくなからずすなはち幕府に命じ、天下の大小名に令し、つとめて時宜を陳せしむ。然るに幕府、命をかうし、あへて之を天下に伝示でんしせず。朕、ふかく憂慮し、未だ処置すること不有あらず於是ここにおいて群臣八十八人、奮然として、奏状そうじやうを以て、朕が意を賛す。又或曰、朕、もし幕府之こひ不従したがはざれば、かならず承久元弘の事を為んと。然れども、朕何ぞ一身のことを以て、祖宗の天下にかへんやと、つひかさねて命ずるに前令をもつてし、次で幕吏を返らしむ。又使を発し、へいを三社に奉し、戎虜じゆうりよ國體をけがすことなく、人民其せいやすんぜんことを祈請きせいす。庶幾こひねがはくは弘安の先蹤せんしようつがんと。あに図らんや、旬日之間、幕吏、ちんが命を不用もちゐず、遂に条約を定め、通商を許し、片紙へんしを以て奏曰そうしていはく、時勢切迫、不得止事やむをえざること也と。朕、殊に其侮慢ぶまん非礼をいかると雖も、いまだにはかに是を譲責じやうせきせず。三家家門、或は大老を召し、其子細を尋糺じんきうせんとす。然るに尾水越、其餘二三の名藩臣を籠居せしめて、又嘗て命を奉ぜず。次で前将軍かうぜり。又忠言するもの有り。曰、嗣子幼弱、将軍に任ずることなく、しばらく其為す所を見て、而後しかるのち任之これににんぜよと。然ども直に其職に任じ、其を以て、其職をつくさしめんとす。然るに将軍幼若、有司柔惰じうだ、朕が意にかなふ事を不知しらず。嘗て攘夷の念なく、却て之を親昵しんじつし、あまつさへ正議(義、下同じ)之士を排斥す。朕、其三家三卿等を召せども、不来きたらずあまつさへ正議之名藩臣を退隠或は禁錮せしめ、其積鬱せきうつ之餘、激して変を生じ、外夷其きよに乗ぜんことを過慮くわりよし、特命を幕府水府に下し、天下の大小名、同心合力、幕府を輔佐し、うち奸吏を除き、諸藩勤王の志をし、外黠虜きつりよはらひ、各国窺覦きゆの念を絶せしめんとす。然るに皆、朕が意を体し、其命を海内に示伝しでんし、天下一心戮力りくりよく、徳川を輔佐し、外夷征殄せいてんの議を不興おこさず、却て公武不和の難を醸し、朕、深く之を憂ふ。其間事事紛紛じじふんぷんことごとく言ふべき事難し、然れども其一二をいはんに、人人以為おもへらく、幕府如此かくのごとく衰弱不振ふるはず、戎狄如此かくのごとく猖獗不懲ちようせずしからばすなはち外患何時まん。神州正気何時回復せん。人民何時生をやすんせん。是豪傑英雄の将にあらずんば、治むること不能あたはずと。三家三卿の中、一橋刑部卿ぎやうぶきやうは、其英雄なるを以て、之をして其職に当らしめば、むしろよく大事を成就せんと。是以これをもつて草莽有志の士、其事に周旋しうせん奔馳ほんちするものあり。又其間、奸猾かんくわつ其意を快くせんとするものありて、事多く朕が意の如くならず。不日にして、間部下総守登京とうきやう、幕命を以て、凡て天下の事を論ずる者、一切に縛収ばくしうして、之を江戸に下し、次で四大臣落飾幽居し、正議の士、是に於て尽く。下総守幕議をまをして曰、条約押印のことは、先役せんやく備中守の所為しよゐにして、当役たうやくの知る所に非ず、即今そくこん条約を返し、通市つうしを止むる時は、外国に不信を伝へ、彼がいかりを激し、異変不測に生ぜん、環海武備未だ充実せず、且大奸内に在り、もし外患起らば、内憂之に乗ぜん、然らば忽ち天下土崩瓦解、如何ともなすべからざるに至るべし、ねがはくは幕府の申す所に従ひ、しばらく天下の時勢をらんぜんことを、必不経年としをへずして、戎虜を掃絶さうぜつし、神州の正気を回復せんと。是以、朕、不得止事やむことをえずまげて其こひまかせ、以て天下の時勢を見る。其後庚申かのえさる(万延元年)三月三日、水府浪士、井伊掃部頭をさすの事あり。其所為は乱暴に似たりと雖も、其所懐中の状書を視て、其意を察すれば、深く外夷の跋扈を憤怒し、幕府の失職を死を以て諫むるにあり。是朕が嘗てより所憂うれふところ也。又其後年墨使ぼくしを刺し、又東漸寺とうぜんじの件件、皆其意ここに基づけり。其餘外夷の陸梁りくりやうなる、対州の事、二个国相増事あひますこと、兵庫より陸行、江府に至の事、海岸測量、殿山を借与の事等、朕、一一幕府に、其然らざる事をせむれども、幕吏奏曰そうしていはく、是皆一時の権宜けんぎにして、浪華なには開商延期の術策なりと。又奏請曰そうせいしていはく、外夷を掃殄さうてんするに、天下一心戮力りくりよくにあらずんば、為し難し、故に和宮かずのみやを以て将軍にしやうし、公武一和を天下に表し、而後戎虜剿絶さうぜつ可及およぶべき也、不然しからずんば、公武の間を隔絶せんとするの奸賊ありて、外夷拒絶に及び難しと。朕念ふに、先帝遺腹ゐふくの妹を以て、百有餘里の外にし、而も古来未曾有之武臣に尚せんこと、朕が意実に忍びざる所也。然るに幕吏しきりに内外の事情を陳謝し、朕があはれみを請て不止やまず。朕も意に不忍しのばずと雖も、祖宗の天下の事には代へ難しと、意を決して其こひを許し、十年を不出いでず、必然外夷掃除さうぢよの事を命じ、且海内大小名に朕意ちんがい伝示でんしし、武備充実せしめんとす。幕吏連署奏状そうじやうし、皆朕が命を聴く。故に去冬、和宮入城の事に及べり。然るに今春に至り、幕吏安藤対馬守、浪士の為に刺さる。是等皆、掃部頭を刺せし者と同意の者にして、如此かくのごとき輩は、死を視ること帰するが如く、実に勇豪ゆうがうの士也。嗚呼、此輩をして、少く其憤鬱ふんうつする所を押へしめて、諭すに丁寧誠実の言を以てして、暫く其勇気をたくはへしめ、他日非常の変に用ひ、其をして先鋒たらしめば、けんを衝きえいを挫くに於て、何の難きことかあらんや。誠にをしむべきの士也。然るを幕府、意をここ不著つけず、日夜猶其餘党をさぐる。是おもふに、うらみを天下に構へて、事に於て益なく、其本にかへらずして、只に威力を以て制せんとす。是をとらふれば、わざはひここに生じ、天下之変止む時なく、終に大変を激生げきせいするに至らん。是朕が深く憂慮する所也。きく、翌十六日、将軍拝廟はいべうの事あり。有司前日の変を以て、拝廟の事を延引せんと謂へり。然るに将軍、嘗て拝廟のことを不廃はいせずして、之を行へりと。朕、其寛量くわんりやうを愛し、因て思ふ。庚申三月以来、九門外に守兵を置き、又関白邸亭ていていにも兵士を置、或は参朝に密密武士をして、非常に備ふと。是等、朕、深く慙憂ざんいうする所也。因て又思ふに、往年三社に奉幣せし以来、神州の汚穢をくわい洒掃さいさうせんことを朝夕禱請たうせいして、又法楽はふらくをも、至今いまにいたるも猶之を行ふ。庶幾こひねがはくは、以て前の志願を全うして、之ををへんと。去年げんを改め、天下ととも更始かうしす。公主既に尚し、公武実に一和いちわす。此時におよんで、既往の咎めざるの教に由り、天下に大赦し、三大臣の幽閉を免じ、列藩臣の禁錮を赦し、有志の士の連座せる者をはなたんことをすみやかに告幕府ばくふにつげ、以て此挙をおこなはしめよ。是朕所深欲ふかくほつするところ也。爾後天下心を合せ、力を一にし、十年内を限り、武備充実せしめ、断然として、夷虜いりよに諭すに利害を以てし、一切に之を謝絶し、若不聴きかざれば、速に膺懲之師をあげ、海内の全力を以て、入ては守り、出ては制せば、あに神州の元気を恢復せんに難きことあらんや。若不然しからずして、ただに因循姑息、旧套に従て不改あらためず、海内疲弊の極、つひには戎虜の術中に陥り、座しながら膝を犬羊けんやうに屈し、殷鑑いんかん不遠とほからず、印度の覆轍ふくてつふまば、朕、実に何以なにをもつてか先皇在天の神霊に謝せんや。若幕府、十年内を限りて、朕が命に従ひ、膺懲の師をおこさずんば、朕、実に断然として、神武天皇神功皇后の遺蹤ゐしように則とり、公卿百官と、天下の牧伯ぼくはくひきゐて親征せんとす。卿等けいら、其斯意このいを体して、以て朕に報ぜんことを計れ。


〔追記〕
「堀田備中守」は堀田正睦、「前将軍」は徳川家定、「一橋刑部卿」は徳川慶喜、「間部下総守」は間部詮勝、「井伊掃部頭」は井伊直弼、「安藤対馬守」は安藤信正、「関白邸亭ニモ兵士ヲ置」の「関白」は九条尚忠である。

「忠香公手録」(「孝明天皇紀」百三十一所収)に、「坂下門外変事被聞食、時勢御歎息、元来思食、方今思食被表候御帖左之通。」として、前に謹載した勅書を掲ぐ。

「村井政礼日記」(「孝明天皇紀」百三十一所収)に曰ふ。「文久二年六月七日、去月十一日詔書同時ニ被仰出候思召書之儀ハ、堂上方ヘ於禁中為見被下候耳ニテ、書写等之儀ハ、一切不相成、然ル処、薩長二藩之儀ハ、勅使東行ニ付テハ、周旋被仰付之儀故、内々一本ツツ被下之儀由、依テ極々密々久坂玄瑞ニ約定致置、今午後同人方ヘ行向、写一本借用、」


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第4巻』(河出書房、昭和15年)

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