2017年9月29日金曜日

東照宮に奉幣し給へる宣命

(慶応元年三月)


天皇すめら詔旨おほみことらまと、けまくもかしこ下野しもつけ日光につくわう御坐ましませる東照宮とうせうぐう大権現だいごんげん広前ひろまへに、かしこかしこみも申給まをしたまはくとまをさく。みだれをさめ、たみくるしみすくひ、泰平たいへい勲績いさをしたまひしより、四海しかい波静なみしづかに、万民ばんみんところやすんずることは、ひとへ大権現だいごんげんたすまもたまふにしとなも所念行おもはしめす。いま二百にひやく五十回ごじつくわい遠忌ゑんきおよべり。りて祭礼さいれいをさおこなひ、報謝はうしや精誠まこといたたまひ、つねにしも幣使へいし発遣はつけんせしめむと、吉日きちにち良辰りやうしんえらさだめて、正四位しやうしゐ下行げかう右近衛うこんゑ権中将ごんのちゆうじやう藤原ふぢはら朝臣あそみ公賀きみよし差使さしつかはして、礼代ゐやしろ大幣おほみてぐらささたしめて奉出まつりだたまふ。大権現だいごんげんさまたひらけくやすらけく聞食きこしめして、天皇すめら朝廷みかど宝位あまつひつぎうごく、常磐ときは堅磐かきはに、夜守よのまもり日守ひのまもりに、まもさきはへたまひて、文教ぶんけうますますさかんに、武運ぶうん弥久いやひさに、まもあはれたまへと、かしこかしこみも申給まをしたまはくとまをす。

泰平たいへい勲績いさをし 世の中を平和にをさめた功労。

万民ばんみんところやすんずる すべての民が、それぞれ自分に適した生活をして、安らかな日をおくること。

遠忌ゑんき 「をんき」とも訓む。三年忌以上、五十年、百年といふやうな遠い年忌をいふ。「鵞峯文集」巻十八に、遠忌日説を述べて曰ふ。「本朝国俗、三年忌後、有七年忌、有十三年忌、有十七年忌、有二十五年忌、有三十三年忌、是流例也。」また曰ふ。「僧周鳳夢語集、載遠忌之事、曰、大蔵経五千餘函、無遠忌之事、則震旦天竺共不修之。」

報謝はうしや精誠まこと 「功労に報いるまごころ」といふこと。「報謝」は、「物を贈つて報いる」こと即ち「返礼」「謝礼」等と同義の文字である。また仏事を修めた僧侶に、布施物などを贈ることをもいふ。「史記」の信陵君伝に、「臣乃市井鼓刀屠者、而公子親数存之、所以不報謝者、以為小礼無所用。」

つねにしも 「常例にあらぬ」といふこと。「常も」に対する語。


〔史実〕
徳川家康は、後水尾天皇の元和二年(紀元二二七六年)に薨じた。故に、慶応元年(紀元二五二五年)は、歿後二百五十年に当つてゐる。この年、二百五十年の遠忌が行はれるに際し、畏くも下野日光の東照宮に、勅使を御派遣あそばされて、幣帛を進めたまうたのであつた。ここに謹載したのは、その時の宣命である。「世の乱を治め、民の苦を済ひ、泰平の勲績を遂げ給ひしより」と生前の功績を表彰したまひ、更に、「四海波静に、万民所を安んずることは、偏に大権現の助け護り給ふに有る可し。」とあるは、聖恩優渥、まことに恐懼に堪へぬことである。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第4巻』(河出書房、昭和15年)

0 件のコメント:

コメントを投稿