(慶応元年三月)
天皇が詔旨と、掛けまくも畏き下野の日光に御坐せる東照宮大権現の広前に、恐み恐みも申給はくと申さく。世の乱を治め、民の苦を済ひ、泰平の勲績を遂げ給ひしより、四海波静に、万民所を安んずることは、偏に大権現の助け護り給ふに有る可しとなも所念行す。今二百五十回の遠忌に及べり。因りて祭礼を修め行ひ、報謝の精誠を致し給ひ、常にしも無き幣使を発遣せしめむと、吉日良辰を択び定めて、正四位下行右近衛権中将藤原朝臣公賀を差使はして、礼代の大幣を捧げ持たしめて奉出し給ふ。大権現此の状を平けく安けく聞食して、天皇朝廷を宝位動き無く、常磐堅磐に、夜守日守に、護り幸はへ給ひて、文教倍盛に、武運弥久に、護り恤み給へと、恐み恐みも申給はくと申す。
○泰平の勲績 世の中を平和にをさめた功労。
○万民所を安んずる すべての民が、それぞれ自分に適した生活をして、安らかな日をおくること。
○遠忌 「をんき」とも訓む。三年忌以上、五十年、百年といふやうな遠い年忌をいふ。「鵞峯文集」巻十八に、遠忌日説を述べて曰ふ。「本朝国俗、三年忌後、有七年忌、有十三年忌、有十七年忌、有二十五年忌、有三十三年忌、是流例也。」また曰ふ。「僧周鳳夢語集、載遠忌之事、曰、大蔵経五千餘函、無遠忌之事、則震旦天竺共不修之。」
○報謝の精誠 「功労に報いるまごころ」といふこと。「報謝」は、「物を贈つて報いる」こと即ち「返礼」「謝礼」等と同義の文字である。また仏事を修めた僧侶に、布施物などを贈ることをもいふ。「史記」の信陵君伝に、「臣乃市井鼓刀屠者、而公子親数存之、所以不報謝者、以為小礼無所用。」
○常にしも無き 「常例にあらぬ」といふこと。「常も」に対する語。
〔史実〕
徳川家康は、後水尾天皇の元和二年(紀元二二七六年)に薨じた。故に、慶応元年(紀元二五二五年)は、歿後二百五十年に当つてゐる。この年、二百五十年の遠忌が行はれるに際し、畏くも下野日光の東照宮に、勅使を御派遣あそばされて、幣帛を進めたまうたのであつた。ここに謹載したのは、その時の宣命である。「世の乱を治め、民の苦を済ひ、泰平の勲績を遂げ給ひしより」と生前の功績を表彰したまひ、更に、「四海波静に、万民所を安んずることは、偏に大権現の助け護り給ふに有る可し。」とあるは、聖恩優渥、まことに恐懼に堪へぬことである。
三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第4巻』(河出書房、昭和15年)
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