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○擁護の誓を
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〔大意〕
天皇の仰せ出される詔であると、まことにたふとい石清水にまします八幡大菩薩の御前に、つつしみつつしんで申上げよと仰せられるとほりに申上げる。去る延久二年からはじめて、納言や参議や辨や外記や史や衛府の官人などを、おえらびになり、放生会には、行幸の儀を行はせられるやうに供奉せしめられ、併せて、その当日と前後の日の三箇日間、放生の事を行はせられてあるそのとほりに、捧げまつるうづの御幣を、勅使と定められた者をさしつかはされ、捧げまつりたまふのであるといふことを、まことに畏くあらせられる大菩薩には、平らかに安らかにお聞き入れ下されて、尊い天皇の御位が少しもゆるがず、朝廷が永久につづくやうに、夜も昼もおまもりなされ、幸福をお与へ下されて、天下国家に何事もなく、しづかに平和であるやうに、あはれみ助けたまはるやうにと、つつしみつつしんで申上げよと仰せられるとほりに申上げる。
とりわけて申上げる。去る六月に、相模国御浦郡浦賀の海岸に、異国の船がまたも来たが、無駄に長くとどまつてゐず、急いで帆をあげてかへつて行つた。近年かく度々異国の船が近海に着くので、厳重に防ぎまもる備へはしてゐるが、民の心を安らかにすることが出来ず、どうしてよいものであらうかと、さめても寝ても国のことを危みたまうて、御心配なされてある。大菩薩の深いおあはれみと、広いお助けによつて、たとひそれがやがて襲ひ来るであらう災難であつても、おまもり下さるお誓にあやまりなきやうに、事の起らない前に、これをはらひ除きたまうて、この国がますます静かによく治まり、わが國體がますます安穏につづくやうに、おまもりなされて、幸福をお与へ下されるやうにと、つつしみつつしんで申上げよと仰せられるとほりに申上げる。
〔史実〕
米国の軍艦が、はじめて相模国浦賀に来り、通商を要求したのは、弘化三年(1846)閏五月二十七日であつた。当時、外国艦船の近海に出没するものが、次第に多くなり、不安の空気が著しく濃厚になつてゐた折柄、かうした米国軍艦の通商要求といふ重大な問題が起つたので、その年、御即位あそばされた孝明天皇には、深く宸襟を悩ませられ、幕府に対して海防を厳修すべき旨、仰せ出され、翌年四月二十五日、石清水八幡宮の臨時祭に、勅使を御派遣、外患を御祈禳あらせられた。その宣命は、前にこれを謹載しておいた。
米国の通商要求に対して、幕府は、これを拒絶した。通商は、国禁であるから、許容し難いこと、幾度来るとも、徒労に帰するから、再渡の無益であることを申渡して、米艦の退去を促した。我が国が門戸開放の意志なきことを確めた米将ビッドルは、別に請ふところもなく、滞泊十餘日、そのまま浦賀を去つた。米国政府は、ビッドルの態度が軟弱に失し、日本官憲の常套手段に乗ぜられたものとして、交渉の全権を駐支公使に付与し、更に機会を窺つてゐた。
米国使節が浦賀を退去したその日、仏国提督セシュが、三隻の軍艦を率ゐて、長崎に入港し、薪水の供給と漂民の救護を要求し、碇泊三日の後に退去した。
弘化三年には、かく短期間に、種々の問題が続出したので、近海の警備といふことが、いたく上下の民心を刺戟した。江戸湾常備の任に当つてゐた忍藩主松平忠国は、警邏船に大砲搭載の必要を具申し、浦賀奉行大久保忠豊は、砲台築造、兵船増設の急務を建議した。幕府に於ても、江戸湾警備強化の必要を認め、韮山代官江川太郎左衛門をして、伊豆七島を巡視せしめ、尋 いで、目付松平式部少輔近韶に命じて、浦賀附近の防備を巡検せしめ、それぞれ対策を講じた。また諸藩の中にも、時局の重大を自覚して、海防の充実を画策するものが少くなかつた。しかし、当時の我が国力は、甚だ低く、国防もまことに幼稚なものであつた。欧米諸国の堅艦巨砲に比すれば、同日の談ではなかつた。その間に、海外の情勢は、刻々に変転した。その情勢は、長崎蘭館長の提出せる別段風説書によつて、幕府に伝へられた。
嘉永五年(1852)のはじめ、米国政府は、日本の門戸開放を熱望し、使節を派遣することに決した。先に我が国に開国を慫慂した蘭国政府は、これを聞知して、再び我が国に開国の必要を説いて忠告するところがあつた。その重大な警告に対しても、幕府は、因習を脱却して、勇断の処置に出づることを得ず、蘭国再度の忠告も、ただ米国使節の再訪を豫報したのみに止まつた。
嘉永六年(1853)六月三日、朝の五ッ時(午前八時)に、米国東印度艦隊司令長官マシュウ・カールブレース・ペリーが率ゐる四隻の米国艦隊は、伊豆の沖合に現れ、我が役船の制止に目もくれず、快走して午後三時に浦賀鴨居村の海上に投錨した。浦賀奉行の命を受けて、使者となり米艦に登舷した中島三郎助が、長崎回航を諭告したが、ペリーは、これを諾かず、あくまでも、国書の受理を要求して已まず、頗る強硬な態度に出た。幕府に於ては、その傍若無人を憤慨したが、これに抵抗する防備もなかつたので、國體を汚す大事の出来を憂ひ、協議の結果、浦賀奉行に、国書受理の回訓を発した。
米艦来航の警報は、武陵桃源の夢を貪つてゐた我が国民に、甚大の畏怖を与へた。人心は恟々として、元寇以来の国難を思はせた。
畏くも、孝明天皇が如何に深く宸襟を悩ませたまうたかは、これを偲び奉るも、恐懼に堪へない。同年(嘉永六年)八月十五日、石清水八幡宮の放生会に、勅使を御差遣あそばれて、外患を祈禳したまうた宣命によつても、大御心の一端を拝し奉ることが出来る。ここに謹載したのが、その宣命である。
三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第4巻』(河出書房、昭和15年)
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