2017年9月17日日曜日

石清水放生会に外患を祈禳し給へる宣命

(嘉永六年八月十五日)


天皇すめら詔旨おほみことらまと、けまくもかしこ石清水いはしみづ御座ましませる八幡大菩薩はちまんだいぼさつ広前ひろまへに、かしこかしこみもまをたまはくとまをさく。延久えんきう二年よりはじめて、納言なごん参議さんぎべん外記げきふびと諸衛等しよゑたち差定さしさだめて、放生会はうじやうゑ行幸みゆきごと供奉ぐぶせしめ、ねてまた前後ぜんご当日たうじつ相並あひならびて三箇日さんがにち放生はうじやうことおこなはしめたまひて、まついだたま宇都うづ御幣みてぐらを、官位くわんゐ姓名せいめい差使さしつかはしてまついだたまことを、けまくもかしこ大菩薩だいぼさつたひらけくやすらけく聞食きこしめして、天皇すめら朝廷みかど宝位あまつひつぎうごく、常磐ときは堅磐かきは夜守よのまもり日守ひのまもりまもさきはたまひ、天下てんか国家こくかをも事無ことな故無ゆゑなく、安穏あんをん泰平たいへいあはれたまへと、かしこかしこみもまをたまはくとまをす。

辞別ことわきてまをさく。いに六月ろくぐわつに、相模国さがみのくに御浦郡みうらのこほり浦賀うらがきしに、えびすふね又来またきたりしが、無為むゐ日数ひかずず、ばして退まかりぬれど、近年きんねんしばしば近海きんかいきぬれば、防禦ばうぎよげんになすといへども、民心みんしんやすからざること、奈何いかにやはなすと、めてもねてもあやぶみおそたまふ。大菩薩だいぼさつふか御恤おんめぐみ、ひろ御助おんたすけにりて、たときたりなむわざはひなりとも、擁護ようごちかひあやまらずして、いまきざさざるにはらのぞたまひて、四海しかいいよいよ静謐せいひつに、國體こくたいいよいよ安穏あんをんに、まもさきはたまへと、かしこかしこみもまをたまはくとまをす。


延久えんきう二年 「延久」は、後三条天皇の御代の年号である。

放生会はうじやうゑ 「放生」は、「殺生」に対する語。捕へておいた魚鳥等の生物を放つことをいふ。日を定めて放生を行ふ神社や仏寺の行事を放生会といふ。その起原は甚だ古く、元正天皇の御代にはじまれるものといはれ、仏教の普及とともに、各地の神社及び仏寺に於て行はれた。

前後ぜんご当日たうじつ相並あひならびて三箇日さんがにち 石清水八幡宮の放生会は、陰暦八月十五日に行はれたので、その当日即ち八月十五日と、前日即ち八月十四日と、後日即ち八月十六日の三日間をいふ。

無為むゐ日数ひかず 「無駄な日を費さず」といふこと。「無為」は、「有為」に対する語。その文字のとほり、「何事もしない」ことをいふ。無干渉の意味にも用ゐられる。老子に曰ふ。「為無為、則無不治。」「無為をなせば、則ち治まらざる無し。」

ばし 「帆をあげて」といふことを、強く表現したもの。

防禦ばうぎよ ふせぐ。「防」も「禦」も「ふせぐ」と訓む文字。「防」は、豫め用心してふせぐこと、「禦」は、その場合に当面してふせぐこと。

奈何いかにやはなす 「どうしたらよからうか」といふこと。「やは」は、反語の意にものを打返していふ語。「古今集」巻十六に曰ふ。「時しもあれ秋やは人の別るべきあるを見るだに恋しきものを」

○擁護の誓をあやまらず 「おまもりくだされるといふお誓のとほりに間ちがひなく」といふこと。「擁護」は、「おうご」ともいふ。諸仏・諸菩薩が、所願に応援して、衆生を保護したまふことをいふ仏経の語である。「愆」の文字は、「あやまち」とも訓む。「心得ちがひ」といふ意味に用ゐられることが多い。

いまきざさざるにはら まだ起らないうちにふせぐ。未然に豫防すること。「未萌」は、「未だ草木が芽を出さない」といふ字義から転じて、「未だ事故の起らない前」といふ意味に用ゐられる語である。


〔大意〕
天皇の仰せ出される詔であると、まことにたふとい石清水にまします八幡大菩薩の御前に、つつしみつつしんで申上げよと仰せられるとほりに申上げる。去る延久二年からはじめて、納言や参議や辨や外記や史や衛府の官人などを、おえらびになり、放生会には、行幸の儀を行はせられるやうに供奉せしめられ、併せて、その当日と前後の日の三箇日間、放生の事を行はせられてあるそのとほりに、捧げまつるうづの御幣を、勅使と定められた者をさしつかはされ、捧げまつりたまふのであるといふことを、まことに畏くあらせられる大菩薩には、平らかに安らかにお聞き入れ下されて、尊い天皇の御位が少しもゆるがず、朝廷が永久につづくやうに、夜も昼もおまもりなされ、幸福をお与へ下されて、天下国家に何事もなく、しづかに平和であるやうに、あはれみ助けたまはるやうにと、つつしみつつしんで申上げよと仰せられるとほりに申上げる。

とりわけて申上げる。去る六月に、相模国御浦郡浦賀の海岸に、異国の船がまたも来たが、無駄に長くとどまつてゐず、急いで帆をあげてかへつて行つた。近年かく度々異国の船が近海に着くので、厳重に防ぎまもる備へはしてゐるが、民の心を安らかにすることが出来ず、どうしてよいものであらうかと、さめても寝ても国のことを危みたまうて、御心配なされてある。大菩薩の深いおあはれみと、広いお助けによつて、たとひそれがやがて襲ひ来るであらう災難であつても、おまもり下さるお誓にあやまりなきやうに、事の起らない前に、これをはらひ除きたまうて、この国がますます静かによく治まり、わが國體がますます安穏につづくやうに、おまもりなされて、幸福をお与へ下されるやうにと、つつしみつつしんで申上げよと仰せられるとほりに申上げる。


〔史実〕
米国の軍艦が、はじめて相模国浦賀に来り、通商を要求したのは、弘化三年(1846)閏五月二十七日であつた。当時、外国艦船の近海に出没するものが、次第に多くなり、不安の空気が著しく濃厚になつてゐた折柄、かうした米国軍艦の通商要求といふ重大な問題が起つたので、その年、御即位あそばされた孝明天皇には、深く宸襟を悩ませられ、幕府に対して海防を厳修すべき旨、仰せ出され、翌年四月二十五日、石清水八幡宮の臨時祭に、勅使を御派遣、外患を御祈禳あらせられた。その宣命は、前にこれを謹載しておいた。

米国の通商要求に対して、幕府は、これを拒絶した。通商は、国禁であるから、許容し難いこと、幾度来るとも、徒労に帰するから、再渡の無益であることを申渡して、米艦の退去を促した。我が国が門戸開放の意志なきことを確めた米将ビッドルは、別に請ふところもなく、滞泊十餘日、そのまま浦賀を去つた。米国政府は、ビッドルの態度が軟弱に失し、日本官憲の常套手段に乗ぜられたものとして、交渉の全権を駐支公使に付与し、更に機会を窺つてゐた。

米国使節が浦賀を退去したその日、仏国提督セシュが、三隻の軍艦を率ゐて、長崎に入港し、薪水の供給と漂民の救護を要求し、碇泊三日の後に退去した。

弘化三年には、かく短期間に、種々の問題が続出したので、近海の警備といふことが、いたく上下の民心を刺戟した。江戸湾常備の任に当つてゐた忍藩主松平忠国は、警邏船に大砲搭載の必要を具申し、浦賀奉行大久保忠豊は、砲台築造、兵船増設の急務を建議した。幕府に於ても、江戸湾警備強化の必要を認め、韮山代官江川太郎左衛門をして、伊豆七島を巡視せしめ、いで、目付松平式部少輔近韶に命じて、浦賀附近の防備を巡検せしめ、それぞれ対策を講じた。また諸藩の中にも、時局の重大を自覚して、海防の充実を画策するものが少くなかつた。しかし、当時の我が国力は、甚だ低く、国防もまことに幼稚なものであつた。欧米諸国の堅艦巨砲に比すれば、同日の談ではなかつた。その間に、海外の情勢は、刻々に変転した。その情勢は、長崎蘭館長の提出せる別段風説書によつて、幕府に伝へられた。

嘉永五年(1852)のはじめ、米国政府は、日本の門戸開放を熱望し、使節を派遣することに決した。先に我が国に開国を慫慂した蘭国政府は、これを聞知して、再び我が国に開国の必要を説いて忠告するところがあつた。その重大な警告に対しても、幕府は、因習を脱却して、勇断の処置に出づることを得ず、蘭国再度の忠告も、ただ米国使節の再訪を豫報したのみに止まつた。

嘉永六年(1853)六月三日、朝の五ッ時(午前八時)に、米国東印度艦隊司令長官マシュウ・カールブレース・ペリーが率ゐる四隻の米国艦隊は、伊豆の沖合に現れ、我が役船の制止に目もくれず、快走して午後三時に浦賀鴨居村の海上に投錨した。浦賀奉行の命を受けて、使者となり米艦に登舷した中島三郎助が、長崎回航を諭告したが、ペリーは、これを諾かず、あくまでも、国書の受理を要求して已まず、頗る強硬な態度に出た。幕府に於ては、その傍若無人を憤慨したが、これに抵抗する防備もなかつたので、國體を汚す大事の出来を憂ひ、協議の結果、浦賀奉行に、国書受理の回訓を発した。

米艦来航の警報は、武陵桃源の夢を貪つてゐた我が国民に、甚大の畏怖を与へた。人心は恟々として、元寇以来の国難を思はせた。

畏くも、孝明天皇が如何に深く宸襟を悩ませたまうたかは、これを偲び奉るも、恐懼に堪へない。同年(嘉永六年)八月十五日、石清水八幡宮の放生会に、勅使を御差遣あそばれて、外患を祈禳したまうた宣命によつても、大御心の一端を拝し奉ることが出来る。ここに謹載したのが、その宣命である。

三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第4巻』(河出書房、昭和15年)

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