(文久二年五月十一日)
朕惟ふに、方今の時勢、夷戎猖獗を恣にし、幕吏措置を失ひ、天下騒然として、万民塗炭に墜ちむと欲す。朕、深く之を憂ふ。仰ぎては祖宗に恥ぢ、俯しては蒼生に愧づ。而るに幕吏奏して曰く、近来国民協和せず、是を以て膺懲の師を挙ぐること能はず、願はくは皇妹を大樹に降嫁せば、則ち公武一和、而して天下力を戮せて、以て夷戎を掃攘せむと。故に其の請ふ所を許す。而も幕吏連署して曰く、十年の内に必ず夷戎を攘はむと。朕、甚だ之を喜び、誠を抽でて神に祈り、以て其の成功を待つ。昨臘和宮の関東に入るや、千種少将・岩倉少将をして、天下大赦の事を諭さしめ、且つ告げて曰く、国政は旧に仍りて大概関東に委す、外夷の事の如きに至りては、則ち我が国の一大重事なり、其の國體に係る者は、咸く朕に問ひて而る後に定め議し、或は二三の外藩臣をして、預め夷戎の所置を聞かしめよと。幕吏対へて曰く、宸意事甚だ重大にして、遽に奉行し難し、請ふ暫く猶豫あらむことをと。既にして頃日、列藩謀議を献る者有り。薩・長二藩の如きは、殊に親しく来りて事を奏す。且つ山陽・南海・西国の忠士、既に蜂起して密奏して云はく、幕吏の奸徒日に多く、正義地に委す、而も王家を蔑にして夷戎と睦ぶ、物貨濫出して、国用乏耗し、万民困弊の極、殆ど夷戎の管轄を受くるに至るや、日ならずして知る可きなり、冀はくは旌旗を挙げて、鸞輿を函嶺に奉じ、幕府の奸吏を誅せむと。或は曰く、太平浸潤、游惰の弊を除かむが為に、京師の奸徒を誅せむと。又曰く、幕府を顧みずして、攘夷の令を五畿・七道の諸藩に下さむと。其の衆議の如きは、畢く忠誠憂国の至情に出づと雖も、事甚だ激烈にして、薩・長の輩に喩して鎮圧せしむ。其の他幕老吏久世大和守を召すも、往復に日を歴て、未だ唯諾を告げず。而して先づ昨臘喩す所の大赦を行ふ。夫れ大樹猶弱し。何の失か之有らむ。但幕吏因循にして安を偸み、撫馭術を失ふ。是の如くならば則ち国家の傾覆、立ちて待つ可きなり。朕、日に憂懼す。所謂一日の安を偸みて、百年の患を忘る、聖賢の遺訓鑑む可し。当に内は文徳を修め、外は武衛を備へて、断然攘夷の功を建つべし。是に於て衆議を斟酌し、中道を執守して、徳川をして祖先の功業を興し、天下の綱紀を張らしめむと欲す。因りて三事を策す。
其の一に曰く、大樹をして大小名を率ゐて上洛し、国家を治め夷戎を攘はむことを議し、上は祖神の宸怒を慰め、下は義臣の帰嚮に従ひて、万民和育の基を啓き、天下をして泰山の安に比せしめむと欲す。
其の二に曰く、豊太閤の故典に依りて、沿海の大藩五国をして、五大老と称せしめ、国政を咨決し、夷戎を防禦するの所置を為さしむれば、則ち環海の武備は、堅固確然として、必ずや攘夷の功有らむ。
其の三に曰く、一橋刑部卿をして大樹を援け、越前前中将をして大老職に任じて、幕府内外の政を輔佐せしむれば、当に左袵の辱を受けざるべし。此れ万人の望にして、恐らくは違はざらむ。
朕が意、此の三事に決す。是を以て使を関東に下す。蓋し幕府をして三事中の一を選びて以て行はしめむと欲するなり。是を以て周く群臣に詢る。群臣忌憚する所無く、各心丹を啓沃して、宜しく讜言を奏すべし。
〔追記〕
「千種少将」は千草有文、「岩倉少将」は岩倉具視、「久世大和守」は久世広周、「一橋刑部卿」は徳川慶喜、「越前前中将」は松平慶永である。
三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第4巻』(河出書房、昭和15年)
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