(元治元年九月十七日)
天皇が詔旨と、掛けまくも畏き石清水に御座せる八幡大菩薩の広前に、恐み恐みも申給はくと申さく。去る七月、不意も禁門近く干戈を動すの災起りて、民屋多く焼け亡ひ、武士は東西に乱れ走り、公民は遠近に奔り逃れ、殊に躁驚ぎぬるを、深く御意を悩ましめ給ひしが、不日も静謐に成りぬれど、叡慮猶も安まり給はず。彼の周防・長門の凶徒等を、禳ひ鎮め給はむと念ほしめす。然るに又戎虜の来寇すと聞食す。彼と云ひ此と云ひ、皇国の患難此に至るは、朕が不徳の招く所かと、昼夜間無く憂ひ念ひ恥ぢ歎き給ふ。此の如き禍を禳ひ除くことは、人力の及ばざる所なり。掛けまくも畏き大菩薩、早く神威を播きて、払ひ退け銷し滅し給ひ、天下を安国と平げ給ひ治め給はむ事を、仰ぎ祈り伏し禱り給ふ。。故れ是を以て、吉日良辰を択び定めて、正二位行権大納言兼大宰権帥藤原朝臣俊克を差使はして、金銀の御幣を捧げ持たしめて奉出給ふ。此の状を平けく安けく聞食して、縦時世の禍乱なりとも、速に武く厳き霊験を垂れ給ひ、戎夷・凶徒を禳ひ退け鎮め圧へ給ひて、今より已後、国の災害民の憂患を、皆悉く未だ萌さざるの外に禳ひ除き給ひて、四海平けく公民安けく、宝祚延長に、武運悠久に、常磐堅磐に、夜守日守に護り幸へ恤み給へと、恐み恐みも申給はくと申す。
○禁門 宮城の御門のこと。「宮門」または「禁闕」と同じ。
○戎虜 文の終にある「戎夷」と同じ。「えびす」即ち野蛮国を意味する語。異国人を軽侮する時に用ゐられてゐる。
○天下を安国と平げ 天下を平定して安らかにをさまれる国にすること。中臣寿詞に曰ふ。「豊葦原の瑞穂の国を安国と平らけくしろしめして。」
〔史実〕
幕府の勢威が失墜して、尊皇攘夷論が盛になるにつれて、種々の事件が相次いで勃発した。朝命黙し難く、幕府が攘夷決行の期日と定めた文久三年(1863)五月十日になると、長州藩は、米国船を砲撃し、その翌々月、薩摩藩もまた英国軍艦と砲火を交へた。しかるに、同年八月十八日に至り、朝議が俄に一変し、京都守護職松平容保が禁門を警衛し、尊皇攘夷論の首魁者たる長州藩主毛利敬親の入京を停め、長州藩士を悉く解任した。尊皇の志士は、幕府の措置に憤慨して、兵を挙げる者が各地に起つた。松本奎堂は大和の五条に、平野国臣は但馬の生野に、藤田小四郎は常陸の筑波に、それぞれ同志を糾合して、討幕の魁をしたが、何れもみな力尽きて滅びた。
長州藩士福原越後、国司信濃・益田右衛門介等は、朝議の復旧を志し、元治元年、兵を率ゐて東上し、藩主以下の赦免を奏請したが許されなかつた。伏見街道を北上した福原は、大垣の兵に遮ぎられ、嵯峨を発して蛤御門に向つた国司と、山崎から堺町御門に向つた益田は、会津・桑名・薩摩の兵の迎撃を受けて、何れも敗走した。蛤御門の戦闘は、最も激烈を極め、恐れ多くも銃丸が御所に達したこともあつたといふ。これを世に蛤御門の変といつてゐる。
この内憂外患に深く宸襟を悩ませたまうた孝明天皇には、蛤御門の変が鎮静してから間もない元治元年九月十七日に、石清水八幡宮に奉幣したまうて、国難を祈禳あらせられた。ここに謹載したのがその宣命である。
なほこの元治元年から、慶応二年にかけて、諸社に奉幣したまうたことは、十餘回の多きに及んでゐる。本巻には、この宣命を謹載するのみに止めたが、他の多くの宣命を拝誦して、いかに重大時局の難関に大御心を悩ませたまうたかを察し奉る時、我等は胸の痛み来るを感ずる。
その他に、天皇の大御心を最もよく拝し奉ることの出来るのは、当時、輔弼の重臣に賜はつた宸翰である。その中の二三を次に謹載奉誦することにする。
三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第4巻』(河出書房、昭和15年)
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