2017年9月23日土曜日

石清水八幡宮に内憂外患を祈禳し給へる宣命

(元治元年九月十七日)


天皇すめら詔旨おほみことらまと、けまくもかしこ石清水いはしみづ御座ましませる八幡大菩薩はちまんだいぼさつ広前ひろまへに、かしこかしこみもまをしたまはくとまをさく。七月しちぐわつ不意ゆくりなく禁門きんもんちか干戈かんくわうごかすのわざはひおこりて、民屋みんをくおほうしなひ、武士ぶし東西とうざいみだはしり、公民おほみたから遠近をちこちはしのがれ、こと躁驚さやぎぬるを、ふか御意おほみこころなやましめたまひしが、不日ひならず静謐せいひつりぬれど、叡慮えいりよなほやすまりたまはず。周防すはう長門ながと凶徒等きようとらを、はらしづたまはむとおもほしめす。しかるにまた戎虜じゆうりよ来寇らいかうすと聞食きこしめす。かれこれひ、皇国くわうこく患難くわんなんここいたるは、ちん不徳ふとくまねところかと、昼夜ちうや間無ひまなうれおもなげたまふ。かくごとわざはひはらのぞくことは、人力じんりよくおよばざるところなり。けまくもかしこ大菩薩だいぼさつはや神威しんゐきて、はら退ほろぼたまひ、天下てんか安国やすくにたひらたまをさたまはむことを、あふいのいのたまふ。。ここもつて、吉日きちにち良辰りやうしんえらさだめて、正二位しやうにゐかう権大納言ごんだいなごんけん大宰権帥だざいごんのそつ藤原ふぢはら朝臣あそみ俊克としかつ差使さしつかはして、金銀きんぎん御幣みてぐらささたしめて奉出給まつりいだしたまふ。さまたひらけくやすらけく聞食きこしめして、たとひ時世じせい禍乱くわらんなりとも、すみやかたけいつ霊験れいげんたまひ、戎夷じゆうい凶徒きようとはら退しづおさたまひて、いまより已後いごくに災害さいがいたみ憂患いうくわんを、皆悉みなことごといまきざさざるのほかはらのぞたまひて、四海しかいたひらけく公民おほみたからやすらけく、宝祚あまつひつぎ延長えんちやうに、武運ぶうん悠久いうきうに、常磐ときは堅磐かきはに、夜守よのまもり日守ひのまもりまもさきはあはれたまへと、かしこかしこみも申給まをしたまはくとまをす。

禁門きんもん 宮城の御門のこと。「宮門」または「禁闕」と同じ。

戎虜じゆうりよ 文の終にある「戎夷」と同じ。「えびす」即ち野蛮国を意味する語。異国人を軽侮する時に用ゐられてゐる。

天下てんか安国やすくにたひら 天下を平定して安らかにをさまれる国にすること。中臣寿詞に曰ふ。「豊葦原の瑞穂の国を安国と平らけくしろしめして。」


〔史実〕
幕府の勢威が失墜して、尊皇攘夷論が盛になるにつれて、種々の事件が相次いで勃発した。朝命黙し難く、幕府が攘夷決行の期日と定めた文久三年(1863)五月十日になると、長州藩は、米国船を砲撃し、その翌々月、薩摩藩もまた英国軍艦と砲火を交へた。しかるに、同年八月十八日に至り、朝議が俄に一変し、京都守護職松平容保が禁門を警衛し、尊皇攘夷論の首魁者たる長州藩主毛利敬親の入京を停め、長州藩士を悉く解任した。尊皇の志士は、幕府の措置に憤慨して、兵を挙げる者が各地に起つた。松本奎堂は大和の五条に、平野国臣は但馬の生野に、藤田小四郎は常陸の筑波に、それぞれ同志を糾合して、討幕の魁をしたが、何れもみな力尽きて滅びた。

長州藩士福原越後ゑちご国司くにし信濃しなの・益田右衛門介うゑもんのすけ等は、朝議の復旧を志し、元治元年、兵を率ゐて東上し、藩主以下の赦免を奏請したが許されなかつた。伏見街道を北上した福原は、大垣の兵に遮ぎられ、嵯峨を発して蛤御門に向つた国司と、山崎から堺町御門に向つた益田は、会津・桑名・薩摩の兵の迎撃を受けて、何れも敗走した。蛤御門の戦闘は、最も激烈を極め、恐れ多くも銃丸が御所に達したこともあつたといふ。これを世に蛤御門の変といつてゐる。

この内憂外患に深く宸襟を悩ませたまうた孝明天皇には、蛤御門の変が鎮静してから間もない元治元年九月十七日に、石清水八幡宮に奉幣したまうて、国難を祈禳あらせられた。ここに謹載したのがその宣命である。

なほこの元治元年から、慶応二年にかけて、諸社に奉幣したまうたことは、十餘回の多きに及んでゐる。本巻には、この宣命を謹載するのみに止めたが、他の多くの宣命を拝誦して、いかに重大時局の難関に大御心を悩ませたまうたかを察し奉る時、我等は胸の痛み来るを感ずる。

その他に、天皇の大御心を最もよく拝し奉ることの出来るのは、当時、輔弼の重臣に賜はつた宸翰である。その中の二三を次に謹載奉誦することにする。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第4巻』(河出書房、昭和15年)

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