(嘉永六年九月十一日)
天皇が詔旨と、掛けまくも畏き伊勢の度会の五十鈴の河上の下津磐根に大宮柱広敷き立て、高天原に千木高知りて、称辞定へ奉る天照坐皇太神の広前に、恐み恐みも申賜へと申さく。常も奉賜ふ九月神甞の御幣を、王位姓名、中臣官位姓名等を差使はして、忌部位姓名の弱肩に太繦取懸けて、礼代の御幣を持斎はり捧げ持たしめて、奉出し賜ふ。此状を平けく安けく聞食して、天皇が朝廷を宝位動き無く、常磐堅磐に、夜守日守に、護り幸はへ給へと、恐み恐みも申賜はくと申す。
辞別きて申さく。近年奈何にや、夷船の東海に渡り来りぬ。既去し六月、相模国浦賀に来りしが、広き御恤みの験にやは、彼忽ち罷りぬれど、又八月に、西海に来り着きぬとなむ聞食す。是くの如き事の屢有りぬれば、諸国の諸人の心をも、奈何にやはと、日となく夜となく恐れ給ひ危み給ふ。神ながらも此状を聞食して、尊き験を顕し揚げ給ひて、未だ来らざる禍をも禳ひ除き給ひて、四海弥静に、國體弥安けく、護り幸はへ給へと、恐み恐みも申給はくと申す。
○伊勢の度会 「渡会」は地名。
○下津磐根 磐のやうに堅い地の底といふ意味の語であらう。基礎の鞏固なことの喩。「底津磐根」といふに同じ。「祈年祭祝詞」に、「下磐根に宮柱太知り立て、」とあり、「大殿祭祝詞」に、「此れの敷坐す大宮地は、底津磐根の極、下津綱根這ふ虫の禍なく、」とある。
○大宮柱広敷き立て 宮殿の柱をゆつたりと立てるといふ意味の語。宏大な神殿を建築すること。「大宮」は、「皇居」や「神宮」の尊称である。「広敷」は、敷地を広くするといふ語義の文字であらう。江戸の時代には、広間の一名ともなつてゐた。
○千木高知り 「千木」は、「大言海」に、「一名氷木。上代ノ家作ニ、切棟作リノ屋根ノ、左右ノ端ニ用ヰル長キ材ニテ、其本ハ、前後ノ軒ヨリ上リテ、棟ニテ行合フヲ組交ヘ、其組目以上、其梢ヲ、ソノママ長ク出シテ空ヲ衝クモノ。其組目ヨリ下ハ、椽ト並ビ、又、屋ノ妻ニテハ、搏風トナル、千木ハ、今、神社ニノミ用ヰル。其梢ノ一角ヲ殺グヲ、かたそぎト云フ。伊勢ノ内宮ナルハ内角ヲ殺ギ、外宮ナルハ外角ヲ殺グ、共ニ風穴ヲ明ク。」とある。「高知り」の「高」は称辞、「知」は、「領有」「治める」といふ意味の語。故に、「高知り」は、「治めたまふ」といふことである。「千木高知り」は、千木を高くをさめたまふといふこと。高くりつぱな建築を営みたまふことの意味である。「日本書紀」の神武紀に、「高天原に搏風峻峙りて」とあり、「祈年祭祝詞」にも、「高天原に千木高知りて」とある。「五十鈴の河上の下津磐根に大宮柱広敷き立て、高天原に千木高知りて」の文字は、伊勢の大神宮に奉幣の宣命に、しばしば拝するところである。前出、伏見天皇の「大神宮に国難を祈禳し給へる宣命」の中にも、これを拝したが、後に掲ぐる宣命の中にこれを拝するものが多い。
○称辞 御神徳を崇め奉つる詞。「祈年祭祝詞」に曰ふ。「皇御孫命のうづの幣帛を、朝日の豊栄登に、称辞竟へ奉らくと宣る。」
○神甞の御幣 神嘗祭に上るところの幣帛。神嘗祭は、その年の新穀を伊勢の神宮に上らせたまふ御祭事である。もとは陰暦九月十一日に行はせられたが、今日では十月十七日と定められてある。「御幣」は、神に上るもの。前に度々出てゐる。
○弱肩に太繦取懸け 「弱肩」は、その文字のとほり、弱々しい肩である。「太繦」は、「大言海」に「たすき」の美称としてある。「たすき」は、「繦」「襁」「襷」等の文字を当ててゐる。「天治字鏡」巻四に、「繦ハ、児ヲ負フ帯ナリ。須支。」とある。しかし、これは、肩にかけて手の力を助けるといふことから生じた語であらうといふ。上代から、神事には、肩に紐の如きものをかけて、謹んで物を上る手の力を助け、これを「たすき」と称した。「古事記」上巻に、「天香山の天之日影を手次に繫けて」とある。「弱肩に太繦取懸け」といふのは、神事に奉仕する者の労を尽くせるさまを称する語として、「祈年祭祝詞」にも、「大殿祭祝詞」にも、「六月月次祝詞」にも出てゐる。
○持斎はり 「斎はる」といふのは、「斎まふ」の延語である。斎すること。穢きことを忌み避け、清く身を持して慎しむことをいふ。「大殿祭祝詞」に、「斎玉作等が持斎はり持浄まはり造り仕へ奉れる」とあり、「祈年祭祝詞」に、「忌部の弱肩に太襷取挂けて持ゆまはり仕へ奉れる」とあり、「高橋氏文」に、「天津御食を、斎忌取持ちて」とある。
○諸国の諸人 天下の万民といふに同じ。国内のすべての民を仰せられてあるものと拝する。
〔大意〕
謹約。「天皇の仰せのとほりに、いともたふとい伊勢の度会の五十鈴の河上の高く荘厳な神殿にまします天照大神の御前につつしみつつしんで申上げる。例年のとほりに、九月の神嘗祭の御幣を、王の某、中臣某を差しつかはし、忌部某がうやうやしく身を浄めて捧げ奉るやうに持たしめてお出しなされる。このことを平安に聞しめして、天皇の御位が永遠に動ぎないやうに、夜も昼もおまもり下されるやうに、つつしみつつしんで申上げよと仰せられるとほりに申上げる。
とりわけて申上げる。近年どうしたことか、異国の船が東海に渡つて来た。去る六月、相模国浦賀に来たが、ありがたい御めぐみのしるしにより、忽ち去つてしまつたのに、また八月になつて、西海に来り著いたと聞しめし、かうしたことが、度々あると、天下の民の心も、動揺するであらうと、毎日毎夜、御不安におぼしめされてある。大神にもこのありさまを聞しめして、尊いしるしをあらはしたまうて、まだ禍の来らないうちに、これを攘ひ除き下されて、天下太平に、國體が安定するやうに、おまもり下さるやうにと、つつしみつつしんで、申上げよと仰せられるとほりに申上げる。」
〔史実〕
嘉永六(1853)年六月三日、浦賀に来航した米国東印度艦隊司令長官ペリーに対して、幕府は、最初、国書の受理を拒んだが、ペリーの強要により、やむなく、これを受理するに至つた。国書の授受を畢へると、ペリーは、明春の再渡を告げ、全艦隊を率ゐて一と先づ東京湾を退去した。
米国が日本に使節を送つたといふ情報は、俄然、欧洲諸国の注意を惹いた。夙くから我が北辺を窺つてゐた露国は、海軍中将エウフィーミー・プゥチャーチンを使節として、我が国に派遣した。嘉永六年七月十八日、露使は、四隻の軍艦を率ゐて長崎に来り、穏和な態度を以て、国書の受領を求めた。それは、米艦退去の翌月であつたから、上下の驚愕も甚しかつた。八月十九日、幕府の回訓により、長崎奉行大沢定宅は、露使を引見して、国書を受理した。国書には、千島及び樺太の境界を定めることと、通商を要求することが認められてあつた。幕府は、国事繁劇のために、即答し難き旨を告げておいて、その措置を議し、老中に返書を起草せしめた。境界の決定には、実地踏査の必要があること、通商は、国法の禁ずるところであるから、世界の大勢を考慮して、利害を調査した上で決定すること等が、その回答の要旨であつた。
かうした時局に、深く宸襟を悩ませたまうた孝明天皇には、九月十一日、神嘗祭に伊勢の神宮に奉幣、ここに謹載した宣命のやうに、国難を御祈攘あらせられたのであつた。
三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第4巻』(河出書房、昭和15年)
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