2017年9月18日月曜日

神嘗祭に外患を祈禳し給へる宣命

(嘉永六年九月十一日)


天皇すめら詔旨おほみことらまと、けまくもかしこ伊勢いせ度会わたらひ五十鈴いすず河上かはかみ下津したつ磐根いはね大宮柱おほみやばしら広敷ひろして、高天原たかまのはら千木ちぎ高知たかしりて、称辞たたへごとまつ天照坐あまてらします皇太神すめおほがみ広前ひろまへに、かしこかしこみも申賜まをしたまへとまをさく。つね奉賜たてまつりたま九月くぐわつ神甞かんなめ御幣おほみてぐらを、王位わうくらゐ姓名せいめい中臣なかとみ官位くわんゐ姓名せいめいたち差使さしつかはして、忌部いむべくらゐ姓名せいめい弱肩よわかた太繦ふとだすき取懸とりかけて、礼代ゐやしろ御幣おほみてぐら持斎もちゆまはりささたしめて、奉出まつりいだたまふ。此状このさまたひらけくやすらけく聞食きこしめして、天皇すめら朝廷みかど宝位あまつひつぎうごく、常磐ときは堅磐かきはに、夜守よのまもり日守ひのまもりに、まもさきはへたまへと、かしこかしこみも申賜まをしたまはくとまをす。

辞別ことわきてまをさく。近年きんねん奈何いかにや、夷船えびすのふね東海とうかいわたきたりぬ。既去いに六月ろくぐわつ相模国さがみのくに浦賀うらがきたりしが、ひろ御恤おんめぐみのしるしにやは、かれたちままかりぬれど、また八月はちぐわつに、西海さいかいきたきぬとなむ聞食きこしめす。くのごとことしばしばりぬれば、諸国しよこく諸人しよにんこころをも、奈何いかにやはと、となくとなくおそたまあやぶたまふ。かんながらも此状このさま聞食きこしめして、たふとしるしあらはたまひて、いまきたらざるわざはひをもはらのぞたまひて、四海しかいいよいよしづかに、國體こくたいいよいよやすらけく、まもさきはへたまへと、かしこかしこみも申給まをしたまはくとまをす。


伊勢いせ度会わたらひ 「渡会」は地名。

下津したつ磐根いはね 磐のやうに堅い地の底といふ意味の語であらう。基礎の鞏固なことの喩。「底津磐根」といふに同じ。「祈年祭祝詞」に、「下磐根に宮柱太知り立て、」とあり、「大殿祭祝詞」に、「此れの敷坐しきま大宮地おほみやどころは、底津磐根そこついはねきはみ下津綱根したつつなね這ふ虫のわざはひなく、」とある。

大宮柱おほみやばしら広敷ひろし 宮殿の柱をゆつたりと立てるといふ意味の語。宏大な神殿を建築すること。「大宮」は、「皇居」や「神宮」の尊称である。「広敷」は、敷地を広くするといふ語義の文字であらう。江戸の時代には、広間の一名ともなつてゐた。

千木ちぎ高知たかし 「千木」は、「大言海」に、「一名氷木ヒギ。上代ノ家作ニ、切棟作リノ屋根ノ、左右ノ端ニ用ヰル長キ材ニテ、其本ハ、前後ノ軒ヨリ上リテ、棟ニテ行合フヲ組交ヘ、其組目以上、其梢ヲ、ソノママ長ク出シテ空ヲ衝クモノ。其組目ヨリ下ハ、タルキト並ビ、又、屋ノ妻ニテハ、搏風ハフトナル、千木ハ、今、神社ニノミ用ヰル。其梢ノ一角ヲ殺グヲ、かたそぎト云フ。伊勢ノ内宮ナルハ内角ヲ殺ギ、外宮ナルハ外角ヲ殺グ、共ニ風穴ヲ明ク。」とある。「高知り」の「高」は称辞、「知」は、「領有」「治める」といふ意味の語。故に、「高知り」は、「治めたまふ」といふことである。「千木高知り」は、千木を高くをさめたまふといふこと。高くりつぱな建築を営みたまふことの意味である。「日本書紀」の神武紀に、「高天原に搏風ちぎ峻峙たかしりて」とあり、「祈年祭祝詞」にも、「高天原に千木高知りて」とある。「五十鈴の河上の下津磐根に大宮柱広敷き立て、高天原に千木高知りて」の文字は、伊勢の大神宮に奉幣の宣命に、しばしば拝するところである。前出、伏見天皇の「大神宮に国難を祈禳し給へる宣命」の中にも、これを拝したが、後に掲ぐる宣命の中にこれを拝するものが多い。

称辞たたへごと 御神徳を崇め奉つる詞。「祈年祭祝詞」に曰ふ。「皇御孫命すめみまのみことのうづの幣帛みてぐらを、朝日の豊栄登とよさかのぼりに、称辞たたへごとたてまつらくとる。」

神甞かんなめ御幣おほみてぐら 神嘗祭に上るところの幣帛。神嘗祭は、その年の新穀を伊勢の神宮に上らせたまふ御祭事である。もとは陰暦九月十一日に行はせられたが、今日では十月十七日と定められてある。「御幣」は、神に上るもの。前に度々出てゐる。

弱肩よわかた太繦ふとだすき取懸とりか 「弱肩」は、その文字のとほり、弱々しい肩である。「太繦」は、「大言海」に「たすき」の美称としてある。「たすき」は、「繦」「襁」「襷」等の文字を当ててゐる。「天治字鏡」巻四に、「繦ハ、児ヲ負フ帯ナリ。須支すき。」とある。しかし、これは、肩にかけて手の力を助けるといふことから生じた語であらうといふ。上代から、神事には、肩に紐の如きものをかけて、謹んで物を上る手の力を助け、これを「たすき」と称した。「古事記」上巻に、「天香山あめのかぐやま天之日影あめのひかげ手次たすきけて」とある。「弱肩に太繦取懸け」といふのは、神事に奉仕する者の労を尽くせるさまを称する語として、「祈年祭祝詞」にも、「大殿祭祝詞」にも、「六月月次祝詞」にも出てゐる。

持斎もちゆまはり 「ゆまはる」といふのは、「斎まふ」の延語である。ものいみすること。穢きことを忌み避け、清く身を持して慎しむことをいふ。「大殿祭祝詞」に、「斎玉作いむたまつくり持斎もちゆまはり持浄もちきよまはりつくつかまつれる」とあり、「祈年祭祝詞」に、「忌部いむべ弱肩よわかた太襷ふとだすき取挂とりかけて持ゆまはり仕へ奉れる」とあり、「高橋氏文」に、「天津御食みけを、斎忌いはひゆまはり取持ちて」とある。

諸国しよこく諸人しよにん 天下の万民といふに同じ。国内のすべての民を仰せられてあるものと拝する。


〔大意〕
謹約。「天皇の仰せのとほりに、いともたふとい伊勢の度会の五十鈴の河上の高く荘厳な神殿にまします天照大神の御前につつしみつつしんで申上げる。例年のとほりに、九月の神嘗祭の御幣を、王の某、中臣某を差しつかはし、忌部某がうやうやしく身を浄めて捧げ奉るやうに持たしめてお出しなされる。このことを平安に聞しめして、天皇の御位が永遠にゆるぎないやうに、夜も昼もおまもり下されるやうに、つつしみつつしんで申上げよと仰せられるとほりに申上げる。

とりわけて申上げる。近年どうしたことか、異国の船が東海に渡つて来た。去る六月、相模国浦賀に来たが、ありがたい御めぐみのしるしにより、忽ち去つてしまつたのに、また八月になつて、西海に来り著いたと聞しめし、かうしたことが、度々あると、天下の民の心も、動揺するであらうと、毎日毎夜、御不安におぼしめされてある。大神にもこのありさまを聞しめして、尊いしるしをあらはしたまうて、まだ禍の来らないうちに、これを攘ひ除き下されて、天下太平に、國體が安定するやうに、おまもり下さるやうにと、つつしみつつしんで、申上げよと仰せられるとほりに申上げる。」


〔史実〕
嘉永六(1853)年六月三日、浦賀に来航した米国東印度艦隊司令長官ペリーに対して、幕府は、最初、国書の受理を拒んだが、ペリーの強要により、やむなく、これを受理するに至つた。国書の授受をへると、ペリーは、明春の再渡を告げ、全艦隊を率ゐてと先づ東京湾を退去した。

米国が日本に使節を送つたといふ情報は、俄然、欧洲諸国の注意を惹いた。はやくから我が北辺を窺つてゐた露国は、海軍中将エウフィーミー・プゥチャーチンを使節として、我が国に派遣した。嘉永六年七月十八日、露使は、四隻の軍艦を率ゐて長崎に来り、穏和な態度を以て、国書の受領を求めた。それは、米艦退去の翌月であつたから、上下の驚愕も甚しかつた。八月十九日、幕府の回訓により、長崎奉行大沢定宅は、露使を引見して、国書を受理した。国書には、千島及び樺太の境界を定めることと、通商を要求することが認められてあつた。幕府は、国事繁劇のために、即答し難き旨を告げておいて、その措置を議し、老中に返書を起草せしめた。境界の決定には、実地踏査の必要があること、通商は、国法の禁ずるところであるから、世界の大勢を考慮して、利害を調査した上で決定すること等が、その回答の要旨であつた。

かうした時局に、深く宸襟を悩ませたまうた孝明天皇には、九月十一日、神嘗祭に伊勢の神宮に奉幣、ここに謹載した宣命のやうに、国難を御祈攘あらせられたのであつた。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第4巻』(河出書房、昭和15年)

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