2017年9月30日土曜日

討幕の詔

(慶応三年十月十三日)


みなもとの慶喜よしのぶは、累世るゐせいり、闔族かふぞくきやうたのみて、みだり忠良ちゆうりやう賊害ぞくがいし、しばしば王命わうめい棄絶きぜつし、つひには先帝せんていみことのりめておそれず、万民ばんみん溝壑こうがくおとしてかへりみず。罪悪ざいあくいたところ神州しんしうまさ傾覆けいふくせむとす。ちんいまたみ父母ふぼり。ぞくにしてたずむば、なにもつてかかみ先帝せんていれいしやし、しも万民ばんみん深讐しんしうむくいむや。ちん憂憤いうふんところ諒闇りやうあんをもかへりみざるは、ばんからざればなり。なんぢよろしくちんこころたいし、賊臣ぞくしん慶喜よしのぶ殄戮てんりくし、もつすみやか回天くわいてん偉勲ゐくんそうして、生霊せいれい山嶽さんがくやすきくべし。ちんねがひなり。あへ或懈わくかいすることかれ。

累世るゐせい 「何代も続いた勢力」といふこと。「累世」は、その文字のとほり、世をかさねるといふ意味の語。「代々」と同じ。

闔族かふぞくきやう 一族の勢力の強いこと。「闔」は、「門の扉」を意味し、またあらゆるものを総合するといふ意味の文字である。故に、「闔族」は「一族」「一門」と同じ。

溝壑こうがくおと 「みぞや谷間へ突き落す」といふことで、最も危険な目にあはせることの喩として、常に用ゐられる語である。

諒闇りやうあん 天皇の喪中をいふ。「諒」は信、「闇」は黙を意味する。「後漢書」和熹鄧皇后紀に、「諒闇既終」とあり、古くからその用例が存してゐる。

殄戮てんりく 「ほろぼしつくす」即ち悉く滅ぼしてしまふこと。「殄」は、「たつ」(絶)「つくす」(尽)といふ意味の文字である。

回天くわいてん偉勲ゐくん 「衰へた国の勢を再びもとにかへす大いなるてがら」といふこと。「回天」は、「君主の心を挽回させる」といふことから、国勢を挽回させるといふ意味に多く転用せられる語。「唐書」張玄素伝に曰ふ。「魏徴歎ジテ曰ク、張公事ヲ論ズルニ、回天之力有リ、仁人之言、其ノ利博キカナト謂フベシ。」

或懈わくかい 疑ひ怠ることをいふ。


〔大意〕
源慶喜(徳川慶喜)は、先祖代々の勢にまかせ、また一族が栄えて強いのをよいことにして、妄りに忠義な良い人々を賊よばはりをして害し、度々天皇の大命に従はなかつたばかりか、遂に先帝(孝明天皇)の詔を勝手にかへて、それを恐れ多いこととも思はず、多くの民を溝や谷間へ突き落すやうなひどい目にあはせて、それを悪いこととも考へない。さうした罪悪がつもりつもつて、まさにこの日本の国は、倒れてしまはうとしてゐる。朕は、今民の父母となつてゐる。この賊を討たなければ、何によつて、上は先帝の御霊に申しわけをし、下は多くの民の深い恨を晴らすことが出来よう。これは、朕が心配しまた腹だたしく思ふところである。先帝の喪中をかへりみないのも、まことにやむを得ない。汝等は、どうか朕が心を察して、賊臣慶喜を滅ぼしつくし、衰へた勢をもりかへすやうにてがらをたて、多くの民を山の上に住むやうに安心させなければならない。これは、朕が願ひである。決して疑つたり怠つたりしてはならない。


〔史実〕
内外多事の幕末に際して、深く大御心を悩ませたまうた孝明天皇には、御病に罹らせられて、慶応二年(1866)十二月二十五日、三十六歳の御壮齢を以て崩御あらせられたので、翌年(慶応三年)正月九日、明治天皇が御践祚あそばされた。

明治天皇は、孝明天皇の第二皇子にましまし、御諱を睦仁むつひとと申上げ、祐宮さちのみやと称し奉つた。嘉永五年(1852)九月二十二日(太陽暦十一月三日)に御降誕、万延元年(1860)九月二十八日に親王とならせたまうた。慶応二年御践祚の時、御年漸く十六歳にならせたまうたばかりであつた。天資御英明にましまし、未曾有の難局を打開したまひ、宏遠なる皇謨を以て、天業を御経綸あそばされたので、我が国運は隆々として発展し、国威は中外に輝いて、遂に今日の盛世に到達する国力の基礎が、天皇の大御代に確立した。

長州征伐に失敗してから、徳川幕府の威信は、全く地に墜ちて、もはや内外の政務を処理する力もなくなった。そこで、諸藩の中には、幕府を廃して、国政の根本的刷新を図らなければ、重大事局に対処することが出来ないと考へる者が現れた。当時、志を得ずして、洛北に蟄居中の岩倉具視は、天性豪邁にして識見に富み、常に時事を慨し、ひそかに志士に接してゐたが、時勢の推移を察して、薩州藩の西郷隆盛・大久保利通、長州藩の木戸孝允等と結び、当時太宰府に拘留せられてゐた三条実美とも気脈を通じ、更に正親町三条実愛・中山忠能・中御門経之とも謀り、討幕の密議を進めた。かくして、薩州藩主島津久光は、慶応三年(1867)十月十三日、長州藩主毛利敬親は、その翌日、遂に討幕の密詔を拝するに至つた。ここに謹載したのが、その詔である。

しかるに、同日(十月十四日)徳川慶喜は、大政奉還を奏請し、その翌日(十五日)勅許あらせられたので、自然に討幕の必要がなくなつたのであつた。


〔追記〕
福地源一郎の「幕府衰亡論」に曰ふ。
「蓋し、この討幕の密勅は、当時、京都に於いて、祕密に組織せられたる討幕党の計画に出で、岩倉少将(具視)・西郷吉之助(隆盛)・大久保市蔵(利通)・桂小五郎(木戸孝允)の諸雄、是れが首領となりて、専ら其の謀をめぐらしたるが故に、其の注意の慎密なる、降勅の前後に於いて、ただに幕府、是れを知らざりしのみならず、朝廷の摂籙・議伝・職事と雖も、其の謀にあづかれる公卿の外は、之れを知らざりしと云へり。されば、余が如きも、幕府滅亡の後数年を経て、始めて其の密勅の写を拝読して、為めに愕然たり。其の後、是れを新聞紙にて公にしたりし時にも、旧幕士の諸人及び史論家は、交〻此の密勅に疑ひを挟み、甚だしきは余を以て、斯かる重大なる詔勅を偽作せるかと、怪しみたる輩もありき。然れども、此の密勅は、爾来史家の筆頭に写しのぼせられ、今は明治歴史中の昭然たる一大関節なれば、また毫末も、真偽に於いて疑惑を懐く者は、日本国中、一人も有るべきの理無し。」

三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)



徳川慶喜大政を奉還す
慶応三年十月十四日、徳川十五世将軍正二位内大臣右近衛大将征夷大将軍淳和奨学両院別当左馬寮御監源氏長者徳川慶喜表を以て祖先家康以来二百七十餘年連綿不断の大政を奉還す。其奏聞に曰く、
臣慶喜謹而ツツシンデ皇国時運ノ沿革ヲ考ヘ候ニ、昔王綱チウヲ解キ相家シヤウカ権ヲ執リ、保平ノ乱政権武門ニ移テヨリ、祖宗ニ至リ更ニ寵眷チヨウケンヲ蒙リ二百餘年子孫相受アヒウケ、臣其職ヲ奉スト雖モ、政刑タウヲ失フコト不少スクナカラズ、今日ノ形勢ニ至リ候モ畢竟ヒツキヤウ薄徳ノ所致イタストコロ不堪慚懼ザンクニタヘズ候。況ヤ当今外国ノ交際日ニ盛ナルニヨリ、イヨイヨ 朝権一途ニ不申マヲサズ候テハ綱紀難立タチガタクアヒダ、従来ノ旧習ヲ改メ、政権ヲ 朝廷ニ奉還シ、広ク天下ノ公議ヲ尽シ 聖断ヲ仰キ、同心協力共ニ皇国ヲ保護ツカマツリ候ヘハ、必ス海外万国ト可並立ナラビタツベク候。慶喜国家ニ所尽ツクストコロコレ不過スギズ奉存ゾンジタテマツリ候。乍去サリナガラ猶見込ノ儀モ有之コレアリ候ヘハ可申聞マヲシキクベキ旨諸侯ヘ相達置アヒタツシオキ候。依之コレニヨリテ此段謹テ奏聞ツカマツリ候以上。
     十月十四日      慶喜
同十五日朝廷其奏聞を許可し給ふ。其文に曰く、
祖宗以来御委任アツク御依頼被為在アラセラレ候ヘドモ方今ハウコン宇内之形勢ヲ考察シ建白ノ旨趣モツトモ被思食オボシメサレアヒダ被聞食キコシメサレ候。尚天下ト共ニ同心尽力致シ、皇国ヲ維持シ、可奉安宸襟シンキンヲヤスンジタテマツルベク、御沙汰候事。
大事件外夷一条ハ、尽衆議シユウギヲツクシ、其ホカ諸大名伺被仰出オホセイデサルル 朝廷於両役リヤウヤクニオイテ取扱トリアツカヒ、自餘之儀ハオメシノ諸侯上京ノ上御決定可有之コレアルベク夫迄ソレマデトコロ支配地市中取締トリシマリ等ハ、マヅ是迄コレマデトホリニテ、追テ可及御沙汰ゴサタオヨブベク候事。

吉野作造編『明治文化全集 第2巻 正史篇 上巻』(日本評論社、昭和2~5年)

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