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〔大意〕
源慶喜(徳川慶喜)は、先祖代々の勢にまかせ、また一族が栄えて強いのをよいことにして、妄りに忠義な良い人々を賊よばはりをして害し、度々天皇の大命に従はなかつたばかりか、遂に先帝(孝明天皇)の詔を勝手にかへて、それを恐れ多いこととも思はず、多くの民を溝や谷間へ突き落すやうなひどい目にあはせて、それを悪いこととも考へない。さうした罪悪がつもりつもつて、まさにこの日本の国は、倒れてしまはうとしてゐる。朕は、今民の父母となつてゐる。この賊を討たなければ、何によつて、上は先帝の御霊に申しわけをし、下は多くの民の深い恨を晴らすことが出来よう。これは、朕が心配しまた腹だたしく思ふところである。先帝の喪中をかへりみないのも、まことにやむを得ない。汝等は、どうか朕が心を察して、賊臣慶喜を滅ぼしつくし、衰へた勢をもりかへすやうにてがらをたて、多くの民を山の上に住むやうに安心させなければならない。これは、朕が願ひである。決して疑つたり怠つたりしてはならない。
〔史実〕
内外多事の幕末に際して、深く大御心を悩ませたまうた孝明天皇には、御病に罹らせられて、慶応二年(1866)十二月二十五日、三十六歳の御壮齢を以て崩御あらせられたので、翌年(慶応三年)正月九日、明治天皇が御践祚あそばされた。
明治天皇は、孝明天皇の第二皇子にましまし、御諱を
長州征伐に失敗してから、徳川幕府の威信は、全く地に墜ちて、もはや内外の政務を処理する力もなくなった。そこで、諸藩の中には、幕府を廃して、国政の根本的刷新を図らなければ、重大事局に対処することが出来ないと考へる者が現れた。当時、志を得ずして、洛北に蟄居中の岩倉具視は、天性豪邁にして識見に富み、常に時事を慨し、
しかるに、同日(十月十四日)徳川慶喜は、大政奉還を奏請し、その翌日(十五日)勅許あらせられたので、自然に討幕の必要がなくなつたのであつた。
〔追記〕
福地源一郎の「幕府衰亡論」に曰ふ。
「蓋し、この討幕の密勅は、当時、京都に於いて、祕密に組織せられたる討幕党の計画に出で、岩倉少将(具視)・西郷吉之助(隆盛)・大久保市蔵(利通)・桂小五郎(木戸孝允)の諸雄、是れが首領となりて、専ら其の謀を運 らしたるが故に、其の注意の慎密なる、降勅の前後に於いて、啻 に幕府、是れを知らざりしのみならず、朝廷の摂籙・議伝・職事と雖も、其の謀に与 かれる公卿の外は、之れを知らざりしと云へり。されば、余が如きも、幕府滅亡の後数年を経て、始めて其の密勅の写を拝読して、為めに愕然たり。其の後、是れを新聞紙にて公にしたりし時にも、旧幕士の諸人及び史論家は、交〻此の密勅に疑ひを挟み、甚だしきは余を以て、斯かる重大なる詔勅を偽作せるかと、怪しみたる輩もありき。然れども、此の密勅は、爾来史家の筆頭に写し上 せられ、今は明治歴史中の昭然たる一大関節なれば、また毫末も、真偽に於いて疑惑を懐く者は、日本国中、一人も有るべきの理無し。」
三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)
徳川慶喜大政を奉還す
慶応三年十月十四日、徳川十五世将軍正二位内大臣右近衛大将征夷大将軍淳和奨学両院別当左馬寮御監源氏長者徳川慶喜表を以て祖先家康以来二百七十餘年連綿不断の大政を奉還す。其奏聞に曰く、
臣慶喜同十五日朝廷其奏聞を許可し給ふ。其文に曰く、謹而 皇国時運ノ沿革ヲ考ヘ候ニ、昔王綱紐 ヲ解キ相家 権ヲ執リ、保平ノ乱政権武門ニ移テヨリ、祖宗ニ至リ更ニ寵眷 ヲ蒙リ二百餘年子孫相受 、臣其職ヲ奉スト雖モ、政刑当 ヲ失フコト不少 、今日ノ形勢ニ至リ候モ畢竟 薄徳ノ所致 、不堪慚懼 候。況ヤ当今外国ノ交際日ニ盛ナルニヨリ、愈 朝権一途ニ出 テ不申 候テハ綱紀難立 候間 、従来ノ旧習ヲ改メ、政権ヲ 朝廷ニ奉還シ、広ク天下ノ公議ヲ尽シ 聖断ヲ仰キ、同心協力共ニ皇国ヲ保護仕 候ヘハ、必ス海外万国ト可並立 候。慶喜国家ニ所尽 是 ニ不過 ト奉存 候。乍去 猶見込ノ儀モ有之 候ヘハ可申聞 旨諸侯ヘ相達置 候。依之 此段謹テ奏聞仕 候以上。
十月十四日 慶喜
祖宗以来御委任厚 御依頼被為在 候ヘ共 、方今 宇内之形勢ヲ考察シ建白ノ旨趣尤 ニ被思食 候間 、被聞食 候。尚天下ト共ニ同心尽力致シ、皇国ヲ維持シ、可奉安宸襟 、御沙汰候事。
大事件外夷一条ハ、尽衆議 、其外 諸大名伺被仰出 等者 朝廷於両役 取扱 、自餘之儀ハ召 ノ諸侯上京ノ上御決定可有之 、夫迄 ノ処 支配地市中取締 等ハ、先 是迄 之通 ニテ、追テ可及御沙汰 候事。
吉野作造編『明治文化全集 第2巻 正史篇 上巻』(日本評論社、昭和2~5年)
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