2017年10月23日月曜日

政始に百官将士に賜はりたる詔

(明治二年一月四日)


チンオモンミルニ、在昔ムカシ神皇ジンノウモトヰハジメシヨリ、列聖レツセイ相継アヒツキ、モツチンオヨフ。チン否徳ヒトク夙夜シユクヤ兢業キヨウゲフ先皇センノウシヨオトサンコトヲ之懼コレオソル。曩者サキニ兇賊キヨウゾクメイカウシ、億兆オクテウ塗炭トタンクルシム。サイハヒナンヂ百官ヒヤククワン将士シヤウシチカラリ、スミヤカ戡定カンテイコウソウシ、万姓バンセイヤスンスルニイタル。今茲コトシトシ在己巳キシサン三元ゲンケイ啓端タンニアリ上下シヤウカ乂寧ガイネイ遠邇ヱンジ来賀ライガス。チンナンヨロコビコレシカン。オモフニ天道テンダウ靡常ツネナク一治イツチ一乱イチラン内安ウチヤスケレハカナラズソトウレヒアリ。戒慎カイシンセサルベケンヤ。チンマスマス祖業ソゲフ恢弘クワイコウシ、ヒイ中外チユウグワイカウムラシメ、モツナガ先皇センノウ威徳ヰトク宣揚センヤウセンコトヲ庶幾シヨキス。ナンヂ百官ヒヤククワン将士シヤウシ勉励ベンレイ不懈オコタラズオノオノ其職ソノシヨクツクシ、アヘ忌憚キタンナクチン闕漏ケツロウ匡救キヤウキウセヨ。ナンヂ百官ヒヤククワン将士シヤウシソレ勉旃コレヲツトメヨ

オモンミルニ 「思ひみるに」である。「惟」は「思」と同じ。深く思ふといふ場合に「惟」の文字を用ゐる。

神皇ジンノウ 天照大神と神武天皇とを仰せられてあるものと拝察する。

モトヰハジ 皇国の基をはじめて開きたまうたこと。

列聖レツセイ 御歴代の天皇。

夙夜シユクヤ兢業キヨウゲフ 朝夕おそれいましめる。「夙夜」は、「朝早く起き夜おそく寝る」といふ意味の文字である。「終日」といふ意味に多く用ゐられる。「兢業」は、「兢々」と同じく、おそれ戒める有様をいふ語である。

先皇センノウシヨ 先の天皇の遺したまうた御事業。「先皇」は、先代の天皇であるが、必ずしも先代と限らず、御先祖の天皇といふ意味に用ゐられる場合もある。

兇賊キヨウゾクメイカウ 「悪人どもが大命に反抗した」といふこと。「兇賊」は「凶賊」と同じ。不逞なことを企てる乱暴な悪人をいふ。「梗」は「抗」と同じ。「反抗」の意味。

億兆オクテウ塗炭トタンクルシム 「万民が非常に苦しんだ」といふこと。

戡定カンテイコウ 「敵を討ち滅ぼして乱を平定した手がら」といふこと。「戡定」は、「戦に勝つて乱を定める」といふ意味の文字である。「書経」の康王之誥に「戡定厥功(ノ功ヲ定ム)。」とある。

万姓バンセイヤスンスル 「万民が安心する」といふこと。「万姓」は「百姓」と同じ。多くの民をいふ。「堵ニ安スル」は、「安堵」即ち「安心」である。

己巳キシ つちのとみの年。「己」は十干の第六位、「巳」は十二支の第六位。明治二年は、己巳の年に当つてゐた。

三元啓端サンゲンケイタン 「正月元日早々」といふこと。「三元」は、正月元日の称。年・月・日の三つの始めといふ意味。「元」は「はじめ」である。「玉燭宝典」に曰ふ。「正月ヲ瑞月ト為シ、其ノ一日ヲ上日ト為シ、マタ三元ト曰フ、歳之元、時之元、月之元ナリ。」この「三元」といふ語は、また「上元」(一月十五日)・「中元」(七月十五日)・「下元」(十月十五日)の総称にも用ゐられ、天・地・人の三才を称することもある。「啓端」は、その文字のとほり、「ひらけはじめ」である。

上下シヤウカ乂寧ガイネイ 「上に在る者も下の者もみな安らかである」といふこと。「天下太平」の意味。「乂寧」は、世の中が安らかによく治まつてゐることを意味する文字である。「元史」刑法志に曰ふ。「百年之間、天下乂寧。」

遠邇ヱンジ来賀ライガ 遠いところの者や近いところの者が祝ひを述べに来ること。「遠」は、外国のことであらう。明治元年に外交の新方針が定まり、諸外国公使に入京参朝を仰せ付けられたので、この年にもフランス、オランダその他の公使が朝賀に列したことと思はれる。

天道テンダウ靡常ツネナク 自然に行はれる世の移り変りは、豫め定まつてゐないといふこと。「天道」は、自然の道即ち自然の道理である。

祖業ソゲフ恢弘クワイコウ 「御先祖から承けついだ業を更に一そうひろめる」といふ意味の語。「天業恢弘」と同じ。

闕漏ケツロウ匡救キヤウキウセヨ 及ばないところを補ひ助けるやうにせよ。「闕漏」は、その文字のとほり、「かけてもれる」こと。「手落」の意味。諸葛亮の出師表に、「闕漏ヲ裨補ヒホス。」とある。

勉旃コレヲツトメヨ 「旃」(せん)は、「これ」と訓む。「せん」の音は、「」・「えん」二字の合音である。「勉旃」は、人を激励する語。高適の詩に曰ふ。「行矣各勉旃、吾当挹餘烈。」


〔大意〕
朕がよく考へて見るのに、昔、神皇がこの国をお肇めになつてから、御歴代の天皇がこれをつがせられて、さうして朕の身に及んだのである。朕は、徳のない者で、毎日、いましめつつしんで、先皇の御事業を保ち得ないやうなことがあつてはならぬとおそれてゐる。先に、悪人どもが大命にそむいて、万民が大いに苦しんだ。幸ひに汝ら多くの文武官の力によつて、速に乱を平げることが出来て、万民も安心するやうになつた。今年は、己巳の年であつて、正月元日早々、天下太平にして、遠近の者が祝賀に来た。朕にとつて、これほど喜ばしいことはない。考へて見るのに、自然の道理といふものは、人の思ふやうにならず、よく治まることもあれば、また乱れることもあり、国内が平安になれば、外国との間に憂ふべきことを生ずるものである。深くいましめつつしまなければならない。朕は、ますます祖先から承けついだ大業をひろめ、それを国の内外に及ぼし、さうして永く先代の天皇の御威徳を高めるやうにと願つてゐる。汝ら多くの文武官も勉励して怠らずに、その職務をつくし、少しも憚るところなく、朕の及ばないところを補ひたすけるやうにせよ。汝ら多くの文武官、これをつとめよ。


〔史実〕
ここに謹載したのは、王政復古第二年の初頭に当る明治二年一月四日の政始まつりごとはじめに、文武百官に賜はり、戒慎と自重とを促したまうた詔である。「政始」は、また「政事始」ともいふ。新年にはじめて政治を行はせたまふ時の御儀式である。毎年一月四日と定められてある。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年10月17日火曜日

松平容保等を寛典に処し給へる詔

(明治元年十二月七日)


賞罰シヤウバツ天下テンカ大典タイテンチン一人イチニンワタクシスヘキニアラス。ヨロシ天下テンカ衆議シユウギアツメ、至正シセイ公平コウヘイ毫釐ガウリンアヤマキニケツスヘシ。イマ松平マツダヒラ容保カタモリハジ伊達ダテ慶邦ヨシクニゴトキ、百官ヒヤククワン将士シヤウシヲシテセシムルニ、オノオノ小異同セウイドウアリトイヘドモツミヒトシク逆科ギヤククワニアリ、ヨロシク厳刑ゲンケイシヨスヘシ、就中ナカンヅク容保カタモリツミ天人共テンジントモイカトコロ死尚シナホ餘罪ヨザイアリトソウス。チンツラツコレアンスルニ、政教セイケウアマネク、名義メイギ人心ジンシンアキラカナレハ、モトヨリ乱臣ランシン賊子ゾクシナカルヘシ。イマチン不徳フトクニシテ、教化ケウクワミチイマタタス。加之シカノミナラズ七百年来シチヒヤクネンライ紀綱キカウ不振フシン名義メイギ乖乱クワイラン弊風ヘイフウヨツキタトコロヒサシ。ソモソモ容保カタモリゴトキハ、門閥モンバツチヤウシ、人爵ジンシヤク仮有カイウスルモノ今日コンニチ逆謀ギヤクボウ彼一人カレイチニントコロアラス、カナラ首謀シユボウシンアリ。チンヨツダンシテイハク其実ソノジツスヰシテ、其名ソノナジヨシ、其情ソノジヤウアハレンテ、ソノハフユルシ、容保カタモリ死一等シイツトウユルシテ、首謀シユボウモノチユウシ、モツ非常ヒジヤウ寛典クワンテンシヨセン。チンマタマサ自今ジコンミヅカ励精レイセイ図治チヲハカリ教化ケウクワ国内コクナイキ、徳威トクヰ海外カイグワイカガヤカサンコトホツス。ナンヂ百官ヒヤククワン将士シヤウシコレタイセヨ。

天下テンカ衆議シユウギ 国中の多くの者の一致した意見。「輿論」といふ意味。

毫釐ガウリン 「ほんの少しばかり」といふこと。「釐」は尺度の単位、一の十分の一。また目方の単位、一ぷんの十分の一。また銭の単位、一せんの十分の一。「りん」ともいひ、略して「厘」とも書く。「毫」は一釐の十分の一。「毫釐」の文字は、極めて少量のもの、また極めて微細のものの意味に転用せられる。「史記」太史公自序に曰ふ。「之ヲ毫釐ニ失スレバ、タガフニ千里ヲ以テス。」

逆科ギヤククワ 叛逆の罪。

厳刑ゲンケイ きびしい刑罰。「極刑」と同じ。「死刑」の意味。

天人共テンジントモイカ 「天も怒り人も怒る」といふこと。何者もこれを許さない悪の意味。

死尚シナホ餘罪ヨザイアリ 「死刑に処してもなほ罪が消えてしまはない」といふこと。死刑以上の罪といふ意味。

名義メイギ 「大義名分」と同じ。最も重大なる人間の道。君臣の道父子の道の如し。

乱臣ランシン賊子ゾクシ 国を乱す臣や家を傷つける子。君臣父子の道に外れた人非人。君を弑する臣や父を害する子を罵りていふ語になつてゐる。「孟子」滕文公篇に曰ふ。「孔子春秋ヲツクリテ、乱臣賊子オソル。」

七百年来シチヒヤクネンライ 政権が武門に移つてから、明治維新の当時までのことを仰せられたものと拝する。

名義メイギ乖乱クワイラン 君臣父子の道が乱れて本義にもとつてゐること。

門閥モンバツチヤウ 「名門の家柄に成長する」といふこと。松平氏は、徳川氏祖の姓であり、徳川時代に最も社会的地位の高い家柄であつた。

人爵ジンシヤク仮有カイウスル 「最も高い官位を有する」といふこと。「人爵」は「天爵」に対する語である。人の定めた官位といふ意味。「孟子」の告子篇に、「公卿コウケイ大夫タイフ、此レ人爵ナリ。」とある。


〔大意〕
謹約。「賞罰は、最も公平にして、少しの間違ひもないやうにきめなければならない。松平容保・伊達慶邦等の罪を議せしめたところ、百官将士は、厳刑に処すべきものであるといふ。朕がよく考へて見るのに、多くの民が大義名分を辨へてゐれば、不忠者や不孝者はないわけである。朕が不徳で教化の道がまだ立たず、その上、七百年以来、政道が衰へて、君臣父子の道が乱れてゐて、かうした弊風の生ずるやうになつたのも、その起りは古いことである。容保の如きは、よい家柄に生れて、高位高官の地位に在る者、今回の叛逆も、一人でなしたものでなく、必ず首謀の臣があらう。その事情をよく調べて、死一等を減じ、寛大な取計らひをするがよい。朕もこれから政をはげんで、国内の民を教化に浴せしめ、国威を諸外国に輝かさうと思ふ。」


〔史実〕
会津藩主松平容保を中心として、奥羽の二十餘藩が連盟し、薩・長を憎んで、官軍に反旗を翻へしたことは、「奥羽に下し給へる詔」の謹解中に述べておいた。有栖川宮熾仁親王を大総督に戴く官軍は、越後口と奥州口の両方面から進んだ。奥州口に向つた官軍は、白河・棚倉・二本松・三春の諸城を陥れて、明治元年(慶応四年)八月二十三日、遂に若松城に迫つた。越後に於ては、長岡藩が頑強に抵抗したが、増援隊の柏崎上陸により、官軍の勢力が大いに加はり、賊軍も長岡城を支へることが出来なくなつた。かくして、官軍の一隊は、庄内に進撃し、他の一隊は、会津・米沢に向つて、若松城に肉薄した。米沢藩は九月四日に、仙台藩は同十五日に、官軍の軍門に降つた。会津城は、包囲の裡に在ること三旬、老幼婦女に至るまで、剣戟を取つて奮戦したが、城内の糧食も弾薬も尽き、明治元年九月二十二日、遂に降を乞ふに至つた。次いで庄内藩も降り、奥羽・越後の地は、悉く平定した。

ここに謹載したのは、その年(明治元年)十二月七日、叛逆の臣松平容保等を寛典に処すべき旨を仰せ出された優詔である。過去に如何なる功労があつたにもせよ、大義名分を誤つた叛臣に対して、かくの如き深厚なる御仁心を注がせたまうた聖恩は、これを拝誦する者に深い感激を生ぜしめる。「朕不徳ニシテ教化ノ道未タ立ス」と仰せられてあるのは、洵に恐懼の至りである。

かくして、松平容保は、死一等を減ぜられて、永禁錮に処せられ、仙台侯伊達慶邦・米沢侯上杉斉憲等は、みな退老謹慎を命ぜられた。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年10月16日月曜日

氷川神社御親祭の詔

(明治元年十月十七日)


神祇しんぎたふとひ、祭祀さいしおもんずるは、皇国くわうこく大典たいてん政教せいけう基本きほんなり。しかるに、中世ちゆうせい以降いかう政道せいだうやうやおとろへ、祀典してんあがらず、つひ綱紀かうき不振ふしん馴致じゆんちす。ちんふかこれがいす。方今はうこん更始かうしあきあらた東京とうきやうき、したしくのぞみてまつりごとる。まさ祀典してんおこし、綱紀かうきり、もつ祭政さいせい一致いつちみちふくせむとす。すなは武蔵国むさしのくに大宮駅おほみやえき氷川ひかは神社じんじやもつて、当国たうごく鎮守ちんじゆし、したしくみゆきしてこれまつる。いまより以後いごとしごとに奉幣使ほうへいしつかはし、もつ永例えいれいせ。

神祇しんぎ 天地の神々。「天神地祇」の略。古語では、「神祇」の文字を「あまつかみくにつかみ」と訓み、また「あまつやしろくにつやしろ」と訓んでゐる。

祭祀さいし 「祭」も「祀」も「まつり」と訓む。期日を定めず、供物を捧げてまつる場合には、「祭」の文字を用ゐ、期日の定まれるまつりには、「祀」の文字を用ゐる。しかし、今日では、さうした区別なく並用せられてゐる。「孝経」の疏に、「祭ハ際ナリ、人神相接シ、故ニ際ト曰フナリ。」とある。「書経」の洪範には、「八政、三ニ祀ト曰フ。」とある。「事物紀原」に曰ふ。「包犠鬼物ヲ使ヒ以テ羣祠ニ致シ、犠牲ヲ以テ百神ニ登薦スルハ、則チ祭祀之始ナリ。」

皇国くわうこく大典たいてん 我が国に於て最も重んぜられてゐる儀式。

政教せいけう基本きほん 政治や教育のもと。

中世ちゆうせい以降いかう 中世このかた。「中世」は、明治十五年「陸海軍軍人に賜はりたる勅諭」の、「中世なかつよに至りて文武の制度皆唐国風に傚はせ給ひ」の「中世」と同じく、大化の新政頃から平安朝の末期までを、大凡に仰せられたものと拝する。故に、「中世以降」は、それ以後のこと、即ち、政権が武門に移つてからのこと。同じく軍人勅諭にも、「再中世以降の如き失体なからんことを望むなり。」と仰せられてある。

祀典してん 「祭典」と同じ。まつりの儀式である。「礼記」に曰ふ。「此ノ族ニ非ザレバ、祀典ニ在ラズ。」

綱紀かうき不振ふしん 治国の基礎となるおきてが十分に行はれないこと。

馴致じゆんち 「おのづから招いた」といふこと。「馴致」は、「次第にうつりかはる」といふ意味の文字である。「易経」の坤卦に曰ふ。「履霜リサウ堅冰ケンピヨウ、陰始メテ凝ルナリ。其ノ道ヲ馴致スレバ、堅冰ニ至ルナリ。」

更始かうし 旧きものを改めて新しく始めること。

祭政さいせい一致いつち 政事と神事の一致。我が国に於ては、古来、祭祀を通じて政治が行はれ、政治のことを「まつりごと」ともいつてゐる。我が國體の本義に基づく特殊の政道である。

鎮守ちんじゆ その土地を鎮め守ります神またはその社。「源平盛衰記」の一院女院厳島行幸事の中に曰ふ。「是れ当国第一の鎮守に御座す。」

永例えいれい いつまでも守るべき定め。「永式」と同じ。


〔大意〕
天地の神々をうやまひ、そのまつりを重んずるは、我が国の大切な儀式で、政治教育のもとである。しかるに、中世このかた政治の道が衰へて、祭の儀式がおろそかになり、国のおきてもだんだんと行はれないやうになつた。朕は、これを深く慨いてゐる。今、すべてのことを改めようといふ時、新しく東京に都を定めて、親しく政をすることになつた。これから、先づ祭の儀式をおこし、国のおきてを引きしめ、祭と政とが一致してゐた昔の道にかへさうと思ふ。そこで、武蔵国大宮駅の氷川神社を、その国の鎮守とし、親ら行幸してこれを祭ることにする。今後は、毎年、奉幣使を遣はすやうにして、それを永くかはらぬ例とせよ。


〔史実〕
明治元年十月十七日、武蔵国氷川神社の御親祭を仰せ出されたのが、ここに謹載した詔である。氷川神社の創設は、その年代が甚だ古く、孝昭天皇の勅願によつて建立せられたものともいひ、日本武尊が御東征に際して勧請せられたものともいふ。由緒ある古社の一である。東京に遷幸後、直ちに御親祭を仰せ出されたのは、厚き敬神の大御心のあらはれと拝し奉る。詔の中には、「祭政一致の道を復せむとす。」と、固有の政道を明らかに宣示あらせられてある。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年10月15日日曜日

東京行幸の詔

(明治元年十月十七日)


皇国くわうこく一体いつたい東西とうざい同視どうしちんいま東府とうふみゆきして、したしく内外ないぐわいまつりごとく。なんぢ百官ひやくくわん有司いうし同心どうしん戮力りくりよくもつ鴻業こうげふたすけよ。およこと得失とくしつ可否かひは、よろしく正議せいぎ直諫ちよくかんして、ちんこころ啓沃けいよくすべし。

皇国くわうこく一体いつたい 「皇国」は、天皇の統治したまふ国即ち我が大日本帝国の別名。「一体」は、一つの体の如く、統一したまふことを仰せられてあるものと拝する。

啓沃けいよく 心をひらいて君の御心にそそぐといふ意味の文字。「書経」に出づ。


〔史実〕
明治元年九月、明治天皇には、東幸を仰せ出され、賢所を奉じて御発輦、途中、石部駅前に於て、農事をみそなはし、庶民の辛苦を偲ばせたまひ、また始めて渺茫たる太平洋を叡覧あそばされ、十月十三日、東京に御著、江戸城を皇居として東京城と称せしめたまひ、十月十七日、ここに謹載した詔を賜はつたのである。「皇国一体、東西同視」と仰せられ、百官有司に正議直諫を求めたまうてある。この優渥なる聖旨は、封建制度に苦しんでゐた官民に、まことに大いなる衝撃を与へたであらう。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年10月14日土曜日

明治改元の詔

(明治元年九月八日)


太乙たいいつたいしてくらゐのぼり、景命けいめいけてもつげんあらたむ。まこと聖代せいだい典型てんけいにして、万世ばんせい標準へうじゆんなり。ちん否徳ひとくいへども、さいはひ祖宗そそうれいり、つつしみて鴻緒こうしよけ、万機ばんきまつりごとみづからす。すなはげんあらためて、海内かいだい億兆おくてうともに、更始かうし一新いつしんせむとほつす。慶応けいおう四年よねんあらためて、明治めいぢ元年ぐわんねんす。いまより以後いご旧制きうせい革易かくえきし、一世いつせい一元いちげんもつ永式えいしきす。主者しゆしや施行しかうせよ。

太乙たいいつたい 「皇祖皇宗の御遺訓を奉体して」といふ御意の御言葉であらうと拝察する。「太乙」は、星の名である。顧炎武の「日知録」に曰ふ。「太乙ハ、北辰ノ神名ナリ。下テ八卦之宮ヲ行キ、四毎ニ中央ニ還ル、漢ハ太乙祠ヲ甘泉泰畤ニ立ツ。宋ノ時ニ尤モ之ヲ崇祀シ、東太乙・西太乙・中太乙ノ各祠ヲ建テ、以テ太乙九宮ニ飛ビ、四十餘年毎ニ一徙イツシス。臨ム所ノ地ハ、兵役興ラズ、水旱不作ナリ。」また「二占要略」(上)に曰ふ。「太乙星ハ其本位北天ニアリテ八方ニ遊行シ、兵乱・禍災・生死ヲ掌ル霊妙不可思議ノ一星ナリ。」故に、最も尊き祖宗の御遺訓を、この霊妙なる星の名によつて仰せられてあるものかと拝察する。「太乙星」は、一名を「太一」とも書く。「太一」は、太初・太始を意味する文字であり、また天帝のゐます場所の名称であるから、それを「太乙」と混同し易い。

景命けいめい 「大いなる命をうけて」といふ意味の語である。御歴代を一貫してゐる恒例を仰せられたものと拝する。

げんあらた 年号をかへること。「元」は「年号」である。新らしき年号の第一年をいふこともある。

聖代せいだい典型てんけい よく治まつた御代の定まつたおきて。「聖代」は「聖世」と同じ。聖の御代である。天下太平の世をいふ。「典型」は、日常用語の「かた」「てほん」である。

万世ばんせい標準へうじゆん いつまでも変らない目じるし。韓愈の伯夷頌に曰ふ。「聖人スナハチ万世之標準ナリ。」

鴻緒こうしよ 皇位を承けつぎたまうたこと。「鴻緒」は、大いなる事業即ち国家統治の大業といふことから、転じて皇位を意味する語となつてゐる。「後漢書」順帝紀に曰ふ。「鴻緒ヲ奉遵シ、郊廟ノ主ト為リ、祖宗無窮之烈ヲ承続ス。」

更始かうし一新いつしん 旧きものを改めて新しくはじめること。

永式えいしき 永久に守るべきおきて。「恒例」と同じ意味の語である。


〔大意〕
祖宗の御遺訓を奉じて皇位に登り、御歴代を通ずる大命によつて年号を改める。まことにそれはよく治まれる御代のおきてであり、永久に変らない標準である。朕は、徳の薄い者であるが、幸ひに祖宗の御霊のお蔭をもつて、謹んで皇位をつぎ、みづからすべての政を行ふに当り、年号を改めて、国内の万民とともに、何事も一新してはじめようと思ふ。そこで、慶応四年を改めて、明治元年とする。これから旧い制度をかへて、一世一元とし、それを永久の例と定める。当局の者は、これを行ふやうに計らへ。


〔史実〕
明治天皇には、御即位の大礼を挙げさせたまうた翌年即ち慶応四年九月八日に、この詔を下し賜はり、慶応四年を明治元年と改元の旨、仰せ出された。第三十六代孝徳天皇の御代に、はじめて年号を大化と定めたまうてから、御歴代の天皇は、多くその例に従はせられたが、古来、瑞祥や災異によつて改元を仰せ出されたので、御一代の中に、幾度も年号が変り、一年の中に再三の変更を見るといふやうな例もあつた。明治天皇は、この詔に於て、一世一元の制を定めたまひ、後に「皇室典範」第十二条に、「践祚ノ後年号ヲ建テ一世ノ間ニ再ヒ改メサルコト明治元年ノ定制ニ従フ」と規定せられるに至つて、一世一元が永久の定例となつた。


〔追記〕
「明治」の文字は、「易経」の説卦伝に出てゐる。「聖人南面聴天下、嚮明而治。」これは、ただ参考として附記しておくだけに止める。典拠を他国の古典に求めて、その意味を詮索する必要はない。「明治」は、その文字のとほり、「明らかに治まる」御代を意味する国語として解することを妥当と思ふ。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年10月13日金曜日

御即位の宣命

(明治元年八月二十七日)


現神あきつみかみ大八洲国おほやしまぐにろしめす天皇すめら詔旨おほみことらまとりたまふ勅命おほみことを、親王みこたち諸臣おほきみたち百官人等もものつかさのひとたち天下あめのした公民おほみたからもろもろ聞食きこしめさへとりたまふ。

かけまくもかしこ平安宮たひらのみや御宇あめのしたしろしめ倭根子やまとねこ天皇すめらみことりたまふ天日嗣あまつひつぎ高御座たかみくらわざを、かけまくもかしこ近江あふみ大津宮おほつのみや御宇あめのしたしろしめしし天皇すめらみこと初賜はじめたま定賜さだめたまへるのりまにまつかまつれと仰賜おほせたま授賜さづけたまひ、かしこ受賜うけたまへる御代みよ御代みよ御定おんさだめのるがうへに、方今いま天下あめのした大政おほみまつりごといにしへかへたまひて、橿原宮かしはらのみや御宇あめのしたしろしめしし天皇すめらみこと御創業はじめたまへるわざいにしへもとづき、大御世おほみよ弥益益いやますます御代みよ個成賜かためなしたまはむ大御位おほみくらゐつかたまひて、すすむも不知しら退しりぞくも不知しらかしこさくとりたまふ大命おほみことを、もろもろ聞食きこしめさへとりたまふ。

しかるに、天下治あめのしたしろしめたまへるきみは、良弼よきたすけて、たひらけくやすらけく治賜をさめたまものりとなむきこしめす。ここ朕浅劣あれをぢなしいへども、親王みこたち諸臣おほきみたちあひあななひたすまつらむことよりて、仰賜おほせたま授賜さづけたまへる食国をすくに天下あめのしたまつりごとは、たひらけくやすらけく仕奉つかへまつるべしとおもほしめす。ここいよよ正直しやうぢきこころいだきて、天皇すめら朝廷みかどもろもろたす仕奉つかへまつれとりたまふ天皇すめら勅命おほみことを、もろもろ聞食きこしめさへとりたまふ。

〔註解〕
平安宮に御宇す倭根子天皇は孝明天皇、大津宮に御宇しし天皇は天智天皇、橿原宮に御宇しし天皇は神武天皇の御事と拝せられる。


〔史実〕
明治元年(慶応四年)八月二十七日、明治天皇には、紫宸殿に於て、即位の大礼を挙げさせたまうた。その御儀式には、従来の流例を改めたまひ、専ら古制に則らせられた。内外多事の折とて、大嘗祭は、特に御延期仰せ出され、東京へ御遷都の後に挙行あらせられた。

ここに謹載したのは、その御即位の宣命である。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)


2017年10月12日木曜日

奥羽に下し給へる詔

(明治元年八月七日)


朝綱テウカウヒトタヒユルミシヨリ、政権セイケンヒサシク武門ブモンス。イマヤ、チン祖宗ソソウ威霊ヰレイリ、アラタ皇統クワウトウキ、大政タイセイイニシヘフクス。コレ大義名分タイギメイブンソンスルトコロニシテ、天下テンカ人心ジンシン帰向キカウスルトコロナリ。サキ徳川トクガハ慶喜ヨシノブ政権セイケンカヘス、マタ自然シゼンイキホヒ、イハン近時キンジ宇内ウダイ形勢ケイセイヒラツキサカンナリ。サイアタツテ、政権セイケン一途イツト人心ジンシン一定イツテイスルニアラサレハ、ナニモツ國體コクタイシ、紀綱キカウフルハンヤ。ココオイテ、オホイ政法セイハフ一新イツシンシ、公卿コウケイ列藩レツパンオヨ四方シハウトモニ、ヒロ会議クワイギオコシ、万機バンキ公論コウロンケツスルハ、モトヨリ天下テンカコト一人イチニンワタクシスルトコロアラザレハナリ。シカルニ奥羽アウウ一隅イチグウイマ皇化クワウクワフクセス。ミダリ陸梁リクリヤウシ、ワザハヒ地方チハウク。チンハナハダコレヲウレフ。ソレ四海シカイウチイヅレチン赤子セキシニアラサル。率土ソツドヒンマタチン一家イツカナリ。チン庶民シヨミンオイテ、ナン四隅シグウベツヲナシ、アヘ外視グワイシスルコトアランヤ。タダチン政体セイタイサマタケ、チン生民セイミンガイス。ユヱヤムス、五畿ゴキ七道シチダウヘイクダシ、モツソノ不廷フテイタダス。オモフニ奥羽アウウ一隅イチグウシユウアニコトゴト乖乱クワイラン昏迷コンメイセンヤ。其間ソノアヒダカナラ大義タイギアキラカニシ、國體コクタイベンスルモノアラン。アルヒ其力ソノチカラオヨハス、アルヒイキホササフルアタハス、アルヒ情実ジヤウジツツウセス、アルヒ事体ジタイ齟齬ソゴシ、モツ今日コンニチイタル。カクゴトキモノ、ヨロシ此機コノキウシナハス、スミヤカソノ方向ハウカウサダメ、モツ素心ソシンアラハセハ、チンシタシクエラトコロアラン。縦令タトヒソノ党類タウルヰイヘドモ、其罪ソノツミ悔悟クワイゴシ、改心カイシン服帰フクキセハ、チンアニコレヲ隔視カクシセンヤ。カナラシヨスルニ至当シタウテンモツテセン。玉石ギヨクセキ相混アヒコンシ、薫蕕クンイウトモオナジウスルハ、シノハサルトコロナリ。ナンヂ衆庶シユウシヨヨロシク此意コノイ体認タイニンシ、一時イチジアヤマリニヨツテ、千載センザイハヂノコスコトナカレ。

朝綱テウカウ 「朝憲」「朝紀」と同じ。朝廷ののり即ち朝廷に於てお定めになつた種々の御法度を概括していふ語。

武門ブモン 「武家」と同じ。武士の家すぢをいふ。

祖宗ソソウ威霊ヰレイ 御先祖にまします天皇の御霊の御威光。「祖宗」は、「皇祖皇宗」と同じ。

大義名分タイギメイブン 最も大いなる人間の本分といふことで、君に対する臣民の道を称する語となつてゐる。「大義」は、義の大いなるもの。「左伝」の隠公四年に、「君子曰ク、石碏セキサクハ純臣ナリ、州吁シウクニクミテコウアヅカル。大義シンヲ滅ストハ、其レ是ヲ之謂フカ、ト。」「名分」は、その身分によつて定まれる人倫上の分限をいふ。臣は臣の道を守り、子は子の道を守るといふやうに、臣・子の身分によつて定まれる本分を、名分といふのである。「荘子」の天下篇に曰ふ。「易ハ以テ陰陽ヲヒ、春秋ハ以テ名分ヲフ。」

帰向キカウ みな同じやうな方向に向ふこと。向ふ所が一に帰するといふ意味。

宇内ウダイ形勢ケイセイ 世界のありさま。「宇内」は、「天下」と同じ。

國體コクタイ 古来、種々の意味に用ゐられてゐる。「国家の面目」といふ意味にも用ゐられ、「国家の威勢」といふ意味にも用ゐられ、「国家の特色」といふ意味に用ゐられ、また「国柄」といふ意味にも用ゐられた。今日では、国家の本質即ちその成立の精神や体制を総括した語となり、重大な意味を生じて来た。

紀綱キカウ 「綱紀」と同じ。国家の大小の政治。白虎通に曰ふ。「大ハ綱ト為シ、小ハ紀ト為ス。」

公卿コウケイ 「くぎやう」とも「くげ」とも訓む。朝廷に奉仕する高官。もと「三公九卿」から出た語である。太政大臣・左大臣・右大臣を公といひ、これに対して、大納言・中納言・三位以上を卿といひ、参議は、四位の者も特にこの卿の中に入れた。

四方シハウ 無位無官の人々。一般の士民。

陸梁リクリヤウ 「跳梁」と同じ。「ほしいままに跳る」といふ意味の語。大いに勢力を張つて猛威を振ふことの意味に多く用ゐられる。班固の西京賦に、「怪獣陸梁」といふ文字がある。

四海シカイウチ 四方の海の内といふことで、国内を意味する語となつてゐる。「論語」に、「四海之内、皆兄弟也。」とある。

赤子セキシ 天皇が万民を仰せられる御言葉。

率土ソツドヒン 「陸地のつづく限り」といふこと。「天下」または「国家」の意味。「詩経」小雅の「溥天フテンノ下、王土ニ非ザルハク、率土ノ濱、王臣ニ非ザルハ莫シ」から出た語。

五畿ゴキ七道シチダウ 山城・大和・河内・和泉・摂津の畿内五箇国と、東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海の七道をいふ。

不廷フテイ 朝廷の命に従はざる者をいふ。「不庭」に通ずる。「不庭」は、王庭に来朝せざる者といふ意味の語である。「左伝」の隠公十一年に、「王命ヲ以テ不庭ヲ討ツ。」とある。

乖乱クワイラン昏迷コンメイ そむいて乱を起したり、正しい道理がわからずに迷つたりすること。

事体ジタイ齟齬ソゴ 事がらがくひちがふこと。「齟齬」は、上下の歯が悪くて嚙み合せることが出来ないことの意味から、物事のくひちがひといふ意味に転用せられてゐる語である。「太玄経」に、「其志齟齬」とある。

素心ソシン 「本心」と同じ。本来の心をいふ。李白の詩に曰ふ。「素心美酒ヲ愛シ。」また心の潔白を意味する語としての用例もある。顔延之の文に曰ふ。「ワカクシテタハムレヲ好マズ、長ジテ実ニ素心ナリ。」

玉石ギヨクセキ相混アヒコン 「玉と石とがまじつてゐる」といふことで、善悪の区別なきことや、賢愚の区別なきことに喩へられる語。「抱朴子」に曰ふ。「真偽顚倒、玉石混淆。」

薫蕕クンイウトモオナジウスル 善人も悪人も同じやうに取扱ふこと。「薫」は香草、「蕕」は臭草である。善人と悪人、君子と小人等を対照する時に、この「薫蕕」の文字が用ゐられる。

千載センザイ 「千年」と同じ。しかし、ただ千年といふ数字的の歳月を意味せず、非常に永き期間をいふ語となつてゐる。「三国名臣序賛」に「千載一遇、賢智之嘉会。」とある。


〔大意〕
朝廷の政綱が一度び衰へてから、政権が久しい間武家に委せられてあつた。今、朕が御先祖の御霊の御威光によつて、新に皇位をついで、大政が再び昔にかへつた。これは、大義名分の存するところであり、天下の人々の心が同じ方向に向つて来たからである。さきに徳川慶喜が政権をかへしたのもまた自然の勢であつた。殊に近ごろは、世界の形勢が、日に月に開けて進んで行く。かういふ時に当つて、政権が一途に出で、人の心が一定しなければ、どうしてこの國體を保ち、紀綱を振はせることが出来ようか。そこで、大いに政治の方法を一新し、公卿や諸藩や天下の一般士民とともに、広く会議を起し、すべての政を正しい意見によつてきめるのは、もとより天下のために必要なことで、一人の者が自分勝手にするところではない。しかるに、奥羽の隅の方には、まだ皇化にしたがはず、妄りに暴威を振ふ者があり、禍をその地方に及ぼしてゐる。朕はこれをまことに心配してゐる。凡そこの国の中に、だれ一人として朕の赤子でない者があらう。国土のつづく限り、みな朕の一家である。朕は、どうして多くの民の中の、遠い四方の隅々にゐる者だけを区別し、これを他国のやうな扱ひをすることが出来ようか。朕の政治を妨げ、朕の良民を害するから、それで、やむを得ず、五畿七道の兵をさしつかはして、反逆者の過を正すのである。思ふに、奥羽の隅にゐる者とても、悉く道理のわからない反逆者ばかりではあるまい。その間には、必ず君臣の大義を知り、國體といふことをよくわきまへてゐる者もあらう。その力が及ばなかつたり、自然の勢にかつことが出来なかつたり、ほんたうの事情がわからなかつたり、為す事がらがくひちがつたりして、今日のやうになつた者もあらう。さういふ者が、このをりを失はず、早く自分の進むべき方向を定め、さうして本心に立ちかへるならば、朕は、それについて考へるところがあらう。たとへ反逆者の仲間の者でも、その罪を悔い、心を改めて帰順すれば、朕は、これを別け隔てして見るやうなことをしない。必ず相当の恩典を与へるであらう。善人も悪人も一しよにしてしまふのは、忍びないことである。汝多くの民よ。どうかこの意をよく心得て、一時のまちがつた考へのために、ながく辱をのこすやうなことがないやうにせよ。


〔史実〕
鳥羽・伏見に於て、官軍に抵抗し、敗れた会津藩主松平容保かたもりは、大阪から江戸に逃れて国に帰つた。そこで、明治元年(慶応四年)三月二日、九条道孝が鳥羽鎮撫総督を拝命して、薩・長の兵若干を率ゐて、大阪から海路仙台に向つた。当時、関東の地が未だ平定せず、大兵を送り難き状態にあつたから、朝廷に恭順せる諸藩の兵を以て、朝命を奉ぜざる諸藩を討伐する方針を立て、道孝は、仙台藩の出兵を促した。しかるに、松平容保は、先非を悔いて謹慎し、仙台・米沢の二藩主に、降服謝罪の歎願を依頼した。仙台侯伊達慶邦よしくに、米沢侯上杉斉憲なりのりは、その願意を諒とし、総督道孝に討伐の中止を請うた。官軍の参謀の中に、頑として肯かず、あくまでも二藩に会津討伐を促す者があつたので、奥羽の人心が激昂し、「薩・長二藩は、王師に名を藉りて、私心を逞しうする者なり」とし、遂に諸藩が連盟して、総督に反抗するに至り、更に南部・秋田・津軽・二本松・棚橋等二十餘藩が悉くこれに応じて起ち、官軍は、施すべき策もなくなつた。その中に関東地方が平定したので、五月十九日、有栖川宮熾仁たるひと親王が会津征伐大総督に任ぜられ、官軍は、越後口と奥州口から、進発することになつた。その八月七日に、奥羽の士民を諭告したまうたのが、ここに謹載した詔である。

新政のはじめに、かうした内乱の生じたことを、深く遺憾におぼしめされた大御心から、この優渥なる詔を下し賜はつたものと拝察せらる。「夫四海ノ内、孰カ朕ノ赤子ニアラサル。率土ノ濱、亦朕ノ一家ナリ。」と仰せられ、「顧フニ奥羽一隅ノ衆、豈悉ク乖乱昏迷センヤ。其間必ス大義ヲ明ニシ、國體ヲ辨スル者アラン。或ハ其力及ハス、或ハ勢ヒ支フル能ハス、或ハ情実通セス、或ハ事体齟齬シ、以テ今日ニ至ル。」と仰せられ、更に、「玉石相混シ、薫蕕共ニ同スルハ、忍ハサル所ナリ」と仰せられてある。八紘一宇の御精神を以て君臨したまふ厚き御仁心が溢れてゐる。反逆の民にもなほこの寛大と温情とを以て悔悟を促したまうたのである。聖恩の優渥なること、まことに筆紙につくし難い。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)