2017年11月21日火曜日

文部省雇外国人に下し給へる勅語

米国人フルベッキに下し給へる勅語

(明治四年十月五日)

ナンヂヒサシク我邦ワガクニリ、教導ケウダウホウ生徒セイト訓導クンダウス。チンフカコレヨミス。ナンヂ才学サイガク浩博コウハクニシテ、薫陶クンタウコウソウシ、後進コウシンヲシテソノ成業セイゲフスミヤカナラシム。モツトモ欣喜キンキスルトコロナリ。爾後ジゴ益〻マスマス勉励ベンレイシ、学術ガクジユツサカンニセンコトヲノゾム。


〔史実〕
明治四年十月五日には、明治維新前後に於て、我が国の文化に貢献した多くの外国人に、優渥なる勅語を賜はつた。文部省雇米国人フルベッキ、同ドイツ人ミュルラ、同ホフマン、同ホルツ、工部省雇英国人カーケル、同ブラレトン、同仏国人ウエルニー、同チボジー等は、何れもみなその優詔を拝した人々であつた。これは、米国人フルベッキに下し賜はつた勅語である。

フルベッキは、西暦紀元一八三〇年(天保元年)に、オランダのノゼリストに生れ、アメリカに渡り、アアブルの神学校に学んだ。安政六年に来朝し、幕府の命により、八年間長崎に於て教育に従事し、明治二年、大学南校に聘せられて、語学・学藝の教師となり、明治六年まで在職し、後に政府の翻訳顧問となり、元老院に職を奉じた。ナポレオン法典を紹介し、医学に関する進言をなす等、明治初年の文化に貢献した功労は、頗る著しいものがあつた。就いて学んだ者の中には、新政府の首脳として活躍した者も少くなつた。


独逸国人ミュルラ及びホフマンに下し給へる勅語

(明治四年十月五日)

汝等ナンヂラ独逸ドイツ政府セイフメイホウシ、我邦ワガクニキタリ、東校トウカウ医学イガク教導ケウダウ負任フニンス。ナンヂ学力ガクリヨク精詣セイケイナル、カツコレク。爾来ジライ益〻マスマス教導ケウダウ勉励ベンレイシテ、生徒セイトオツ進歩シンポセンコトヲノゾム。


独逸国人ホルツに下し給へる勅語

(明治四年十月五日)

ナンヂ独逸ドイツ政府セイフメイホウシ、我国ワガクニキタリ、南校ナンカウ生徒セイト教育ケウイクコト負任フニンス。ナンヂ教則ケウソク教導ケウダウチカラツクストキク爾来ジライ益〻マスマス生徒セイト薫陶クンタウシ、ワガ学校ガクカウ隆盛リユウセイナランコトヲノゾム。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年11月20日月曜日

神器及び皇霊遷座の詔

(明治四年九月十四日)


チンウヤウヤシオモンミルニ、神器ジンギ天祖テンソ威霊ヰレイトコロ歴世レキセイ聖皇セイワウホウシテモツ天職テンシヨクヲサタマトコロモノナリ。イマヤ、チン不逮フタイモツ復古フクコウンサイシ、カタジケナ鴻緒コウシヨアラタ神殿シンデンツクリ、神器ジンギ列聖レツセイ皇霊クワウレイトヲコヽニ奉安ホウアンシ、アフイモツ万機バンキマツリゴトントホツス。ナンヂ群卿グンキヤウ百僚ヒヤクレウ斯旨コノムネタイセヨ。


〔大意〕
朕がつつしんで考へて見るのに、神器は、天祖(天照大神)の尊い御霊のやどるところで、御歴代の天皇が御奉仕なされて、天ッ神から承けつがせられた御事業を行ひたまうたところのものである。今、朕は、及ばない身を以て、国の政治が昔にかへつた時に当り、忝くも天皇の御位をついだ。新に神殿を造り、神器と御歴代天皇の御霊とを、ここに奉安し、その威を仰いで、すべての政をしようと思ふ。汝等多くの官人も、この旨を心得ておくやうにせよ。


〔史実〕
ここに謹載したのは、明治四年九月十四日、宮中の神殿に、神器と御歴代皇霊の遷座奉安を仰せ出された詔である。

御歴代の皇霊が、天神地祇並に八神と共に、神祇官内に鎮祭せられてゐたことは、既に明治三年正月三日の「神霊を鎮祭し給へる詔」の謹解中に述べておいた。しかるに、明治四年八月八日、官制改正の結果、神祇官が廃せられて、神祇省の設置となつた。そこで、皇霊の御遷座となつたのである。翌年(明治五年)三月には、また神祇省が廃せられて、教部省の新設となつた。かくして、神祇官に奉斎せられてゐた御歴代皇霊と、天神地祇及び八神の神霊とは、相次いで宮中の神殿に遷座せられるに至つたのである。
〔追記〕宮地直一氏の「神社綱要」に曰ふ。「上記行政機構の改正(明治四年・五年の改正)は、頗る遠大な目的に出で、今後久しきに亘る方針の樹立を期せんとする意図の許に行はれたもののやうに思はるゝ。それは何故かと云ふに、当時神祇官の管掌した事務は、祭祀と宣教との二者に大別せらるゝ中で、先づ祭祀に就いては、永久に不変の根本的典礼として最高の取扱に出るべきであるとし、仍つて神祇省の廃止とともに、之を式部寮に移して、歳時祀典の執行に当らしめらるゝこととなつたので、之に先立つ左院の建議にも、
 一、斎祀ハ皇上親シク百官トトモニ之ヲ管シ、式部寮ヲ以テ祭享ノ礼式ヲ掌判セシムヘキ事、
とある。以て当局の意向を推知するに足るであらう。因みにいふ、式部寮は当時太政官にあつたが、十年九月より宮内省に隷し、後式部職となつた。祀典のことは職内の掌典部に於て之を掌り今日に至る。」


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年11月19日日曜日

侍従の服制を更正し給へる勅諭

(明治四年九月四日)


チンオモフニ、風俗フウゾクナルモノ移換イクワンモツトキヨロシキニシタガヒ、國體コクタイナルモノ不抜フバツモツソノイキホヒセイス。イマ衣冠イクワンセイ中古チユウコ唐制タウセイ模倣モハウセシヨリ、ナガレ軟弱ナンジヤクフウヲナス。チンハナハ慨之コレヲガイス神州シンシウモツヲサムルヤ、モトヨリヒサシ。天子テンシミヅカコレ元帥ゲンスヰリ、衆庶シユウシヨモツソノフウアフク。神武ジンム創業サウゲフ神功ジングウ征韓セイカンゴトキ、ケツシ今日コンニチ風姿フウシニアラス。アニ一日イチジツ軟弱ナンジヤクモツ天下テンカシメケンヤ。チンイマ断然ダンゼンソノセイアラタメ、ソノ風俗フウゾク一新イツシンシ、祖宗ソソウ以来イライ尚武シヤウブ國體コクタイタテントホツス。ナンヂ近臣キンシンチンタイセヨ。

風俗フウゾク 「増韻」に「上ノ化スル所ヲ風ト曰ヒ、下ノ習フ所ヲ俗ト曰フ。」とある。この「風俗」の文字は、種々の意味に用ゐられてゐる。通常、「風習」と同じく、「世の習はし」即ち「世間に古くから行はれて来た事」といふ意味に用ゐられる場合が多いが、外に、「身ぶり」即ち「動作」といふ意味の用例もあり、「衣服のよそほひ」即ち「身なり」といふ意味の用例もあり、また「風俗歌」の略称ともなつてゐる。本勅諭は、服制の更正を仰せ出されたものであるから、「身なり」といふことを主としてこの語を解してよからうかと思ふ。

移換イクワン 「うつりかはり」または「うつしかへる」といふ意味の語である。

不抜フバツモツソノイキホヒセイ 「その勢を制するに不抜を以てする」といふに同じ。如何なる時の勢も、常に変らぬ態度で、これを抑へることをいふ。「不抜」は、その文字のとほり、「抜くことが出来ない」といふこと。堅くして動かないことの意味。「老子」に曰ふ。「善ク建テタルハ抜ケズ、善ク抱ケルハ脱セズ。」

衣冠イクワン 衣服と冠。「服装」といふに同じ。

中古チユウコ唐制タウセイ模倣モハウセシヨリ 「中古に至り、唐の制度にならつてから」といふこと。「中古」は、明治十五年に「陸海軍軍人に賜はりたる勅諭」の中に出づる「中世」と同じく、大化の改新の頃から、武家興隆の世までを、大凡に仰せられしものと拝する。「唐制」は、唐の制度、「模倣」は、「学びならふ」こと、また「まねる」こと。

ナガレ軟弱ナンジヤクフウヲナス 「軟弱の風に流れ」といふに同じ。おのづから弱々しい風となつて行くこと。「軟弱」は、「剛強」の反対。「弱々しい」こと。劉琨の詩に曰ふ。「咨余軟弱、弗克負荷。」

元帥ゲンスヰ 軍人の最高統率者。「左伝」宣公十二年に、「子元帥ト為リ、師命ヲ用ヰザルハ、誰之罪ゾヤ。」とあり、「職原抄」に「大将ハ之ヲ元帥ト謂フ。」とあり、和漢ともに古くから軍の総大将を意味する語となつてゐる。今日では、専ら陸海軍大将に賜はる称号となり、また天皇を大元帥陛下と申上げ奉る。

神武ジンム創業サウゲフ 神武天皇の御創業。御東征の大業を達成したまうて、御即位あらせられたこと。

神功ジングウ征韓セイカン 神功皇后の三韓御征伐。


〔大意〕
朕がよく考へて見るのに、風俗といふものは、その時々に都合のよいやうに移しかへて行き、國體といふものは、如何なる時勢にならうとも決して動揺すべきでない。衣冠の制度は、中古に唐の制度にならつたので、だんだんと弱々しい風に流れて来た。朕は、これを大いに慨いてゐる。我が国が武力を政治に用ゐてゐるのは、まことに久しいことである。天皇が御自身に軍の統率者とならせられ、多くの民は、その風を仰いだ。神武天皇の御創業や、神功皇后の三韓御征伐のことを考へても、決して今日のやうな身なりではなかつた。かうした弱々しい風は、一日も天下に示しておけない。朕は、今きつぱりと服制を改めて、その風俗を一新し、祖宗から今日まで伝はつた武を尚ぶ國體を立てようと思ふ。汝等近臣よ、朕がこころを体せよ。

〔史実〕
我が国では、古来、服装といふことが重んぜられて、雄略天皇の御遺詔の中にも、「ただ朝野みやこひな衣冠みそつものいま鮮麗あざやかなることを得ず」と仰せられてあり、その後、しばしば服装に関する詔を拝してゐる。本書の中に謹載した詔も少くない。

明治天皇には、明治四年九月四日、ここに謹載した勅諭を侍従に賜はり、服制の更正を仰せ出された。当時の服制が軟弱に流れてゐたことについて、「朕太タ之ヲ慨ス」と仰せられ、「今断然其服制ヲ更メ、其風俗ヲ一新シ、祖宗以来、尚武ノ國體ヲ立ント欲ス」と仰せられてある。服制御更正の聖旨をこの御言葉によつて拝察することが出来る。
〔追記〕「岩倉公実記」によれば、「上、侍従ニ勅シ、平常洋式ノ服ヲ用フルコトヲ暁諭シ給フ。」とある。また「翌壬申歳五月、車駕西巡シ給フノ時ニ於テ、始メテ新式ノ御軍服ヲ着御シ、其ノ九月七日ニ及ンテ、陸軍元帥ノ服制ヲ定メ、聖上大元帥トナリ給フトキノ御服制モ亦之ヲ設ケラル。後ニ十一月十二日ニ至リ、文官並ニ有位者及ヒ一般ノ礼服ヲ更メ、従前ノ衣冠ヲ以テ祭服ト定メラル。」とある。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年11月18日土曜日

兵部大少輔及び御親兵少佐以上に賜はりたる勅語

(明治四年九月三日)


汝等ナンヂラ積年セキネン苦労クラウシ、モツ今日コンニチイタル。所謂イハユル実力ジツリヨクナルモノマツタ汝等ナンヂラ服役フクエキスルニリ。チンハナハコレトス。コトニ、方今ハウコン外交グワイカウ内務ナイム日新ニツシントキアタリ、邦家ハウカ盛衰セイスヰジツヘイ強弱キヤウジヤクソンス。汝等ナンヂラフカチンタイシ、イヨイヨモツテ紀律キリツ厳明ゲンメイ衆心シユウシン一致イツチシ、励精レイセイ尽力ジンリヨクセヨ。


〔史実〕
明治四年九月三日、兵部大輔・兵部少輔及び少佐以上の御親兵に、この勅語を賜はり、積年(多年)の苦労を嘉みせられ、外交も内務も日々に進んで行く時勢に、その任務の重大を自覚して、ますます励精尽力するやうにと御諭告あらせられた。兵部大輔及び同少輔は、何れもみな当時の職名である。明治二年七月の官制によれば、兵部省は、海陸軍・郷兵・招募・守衛・軍備・兵学校等に関する事務を所管とし、卿一人、大輔たいふ一人、少輔一人、外に大丞・権大丞・少丞・権少丞・大録・権大録・少録・権少録・史生・省掌・使部等の職員を置いた。「御親兵」といふのは、兵部省に直隷し、宮城の護衛に当つた軍隊の名称である。明治四年二月、この御親兵の制度が設けられ、鹿児島・山口・高知の三藩から、総数約一万人の御親兵を徴せられた。御親兵は、後に改称して、近衛兵といつた。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年11月17日金曜日

海陸軍律頒布の上諭

(明治四年八月二十八日)


チンオモフニ、兵民ヘイミンミチワカ寛猛クワンマウコトニス。ソノリツサダハフマウクルニオイテ、アニ斟酌シンシヤク商量シヤウリヤウモツソノヨロシキセイセサルケンヤ。コノゴロ海陸カイリク軍律グンリツ撰輯センシフヲハリグ。チンコレケミスルニ、損益ソンエキエウ軽重ケイチヨウガツセリ。ヨツ頒布ハンプシ、有司イウシヲシテ遵守ジユンシユシ、軍人グンジンヲシテ懲誡チヨウカイスルトコロアラシム。

兵民ヘイミンミチワカ 軍人と一般国民とは、職分が異なつてゐるといふこと。

寛猛クワンマウコトニス 寛大に治めるのと厳格に治めるのとのちがひがあるといふこと。「寛猛」は、「寛厳」と同じ。

リツサダハフマウ 「律」は、刑罰を定めた規則即ち刑法、「法」は、その他の法令である。

斟酌シンシヤク商量シヤウリヤウ 事情を考へてはかり定めること。「斟酌」は、「参酌」と同じ。いろいろな情実をくみとつて事をきめることをいふ。「周語」に曰ふ。「耆艾キガイ之ヲ修メ、而ル後ニ王斟酌ス焉。」

撰輯センシフ 文または詩歌等を撰びあつめることをいふ。「撰集」と同じ。

ケミスル 「けみ」は、「けむ」の音の転じたもの。「あらためて見る」ことをいふ。

損益ソンエキエウ 「繁簡要を得」といふに同じ。詳しく説く必要のあるところは、これを詳しく説き、簡単でよいところは、簡単にしてあつて、よくその趣意が徹底してゐること。

軽重ケイチヨウガツセリ 大切なところとさほど大切でないところを見分けて、適度に取扱つてあること。

頒布ハンプ 多くの者に分けてひろめる。

有司イウシ それぞれの係の者。

懲誡チヨウカイ こらしめいましめる。不正な行為に対して制裁を加へること。「懲戒」の文字が用ゐられることもある。


〔史実〕
ここに掲げ奉つたのは、新に撰輯した海陸軍律の草案を御親閲あそばされて、明治四年八月二十八日、これを頒布せしめたまうた時の上諭である。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年11月16日木曜日

廃藩置県の詔

(明治四年七月十四日)


チンオモフニ、更始カウシトキサイシ、ウチモツ億兆オクテウ保安ホアンシ、ソトモツ万国バンコク対峙タイヂセントホツセハ、ヨロシ名実メイジツ相副アヒソヒ、政令セイレイイツセシムヘシ。チンサキ諸藩シヨハン版籍ハンセキ奉還ホウクワン聴納チヤウナフシ、アラタ知藩事チハンジメイシ、オノオノ其職ソノシヨクホウセシム。シカルニ数百年スウヒヤクネン因襲インシフヒサシキ、アルヒ其名ソノナアリテ、其実ソノジツアガラサルモノアリ。ナニモツ億兆オクテウ保安ホアンシ、万国バンコク対峙タイヂスルヲンヤ。チンフカコレガイス。ヨツ今更イマサラハンハイケンス。ツトメジヨウカンキ、有名イウメイ無実ムジツヘイノゾキ、政令セイレイ多岐タキウレヒナカラシメントス。ナンヂ群臣グンシンチンタイセヨ。

更始カウシトキサイ 「すべてのことを改めて新にはじめる時に当つて」といふこと。「維新の際」といふに同じ。

万国バンコク対峙タイヂ 諸外国と対等の地位を保つこと。「対峙」は、「対立」と同じ。「むかひ合つて高く立つ」こと。楊炯の賦に曰ふ。「擘波心、而対峙。」

名実メイジツ相副アヒソ 名と実際とが一致すること。世の評判がよくなり、その世評のとほりに内容が充実することの意味。「名実」といふ語は、また「名誉と実功」の意味にも用ゐられ、「孟子」の告子章に、「夫子三卿の中に在リ、名実未ダ上下ニ加ハラズ。」とある。

政令セイレイイツセシム 「政府の命令がすべてみな同じところから出るやうにする」といふこと。一つの中央政府からすべての命令が発せられるやうにすることの意味。「政令」は、「政府の命令」であるが、また「政治上のおきて」といふ意味に用ゐて、憲法をはじめとし、すべての法律命令を総称することもある。

版籍ハンセキ奉還ホウクワン 諸侯が私有してゐた土地と人民を朝廷に還し奉ること。

聴納チヤウナフ その文字のとほり、「きき入れる」といふ意味の語である。「唐書」劉洎伝に曰ふ。「虚心聴納。」

知藩事チハンジ 諸侯が版籍を奉還した後、諸藩に置かれた官名。主として諸侯に旧領地を統治せしめられたもの。

因襲インシフヒサシ 「久しき因襲」といふに同じ。「ながくつづいてゐる習慣」といふこと。「因襲」は、従来のしきたりに従ふこと。「習慣」と同じ意味の語。劉歆の移譲太常博士書に曰ふ。「仲尼之道又絶エ、法度因襲スル所無シ。」

其名ソノナアリテ其実ソノジツアガラサル 後に出づる「有名無実」と同じ。一般にいはれてゐることが、実際には行はれてゐないこと。「名実相副ひ」の反対。名と実とが副はぬこと。版籍を奉還したとはいへ、旧藩主が知藩事となつて、その藩を統治してゐれば、実際は、もとのやうに版籍を私有してゐるのと同じことである。「その名ありてその実挙らざるもの」とは、これを仰せられたのであらう。

ジヨウカン 無駄なことを省いて簡単にする。

政令セイレイ多岐タキウレヒ 政府の命令が多方面から出る心配。各藩を知藩事が支配してゐるために、中央政府の命令が徹底せず、知藩事の命令と対立することもあることの意味。


〔大意〕
朕がよく考へて見るのに、すべての事を改めて新らしくはじめるに当り、内に於て万民を安らかにをさめ、外に於て諸外国と対等の地位を保つて行かうと思へば、先づ名と実際とが一致し、政府の命令がすべて同じところから出るやうにしなければならない。朕は、さきに諸藩が私有の土地や人民を奉還すると申して来たことをきき入れ、新らしく知藩事を任命し、それぞれその職につとめさせた。しかるに、数百年の久しい間つづいた習慣のために、ただ版籍を奉還したといふ名ばかりで、実際は、そのとほりに行はれず、もとの政治と変りのないものもある。それで、どうして、万民を安らかにし、諸外国と対等の地位を保つことが出来ようか。朕は、ふかくこれを慨いてゐる。よつて、今また藩を廃して県とすることにした。これは、出来るだけ、政治上の無駄を省いて簡単にし、名のみあつて実のないやうな悪い習慣を去り、政府の命令が多方面から出る心配のないやうにするためである。汝等多くの臣下の者も、朕がおもふところをよく心得ておくやうにせよ。


〔史実〕
明治二年六月、明治天皇は、諸藩の版籍奉還を聴許あらせられて、その旧藩主を各藩の知藩事に任じ、管内の政務を執らしめたまうたので、ここに全国の地方行政の統一が成り、府・藩・県の三治制度が布かれるに至つた。しかし、旧藩主が知藩事となり、旧藩の重臣がそれぞれの要職に就いてゐるこの制度では、ただ版籍を奉還したといふのみに過ぎず、知藩事と一般士民の間に、依然として主従の関係が残り、因襲的の情実を離れることが出来なかつた。従つて、封建制の名は滅びても、封建の実はなほ存在し、三治の一致を称すれども、全国統一の実は挙らなかつた。全国を統一して、中央政府の勢力を強化し、王政復古の精神を徹底せしめて、新政の基礎を固めるには、断然、藩を廃して県を置く必要があつた。廃藩置県を断行しなければ、画竜点睛の憾みあることは、つとに識者の認めるところであつたが、急にこれを実現すれば、諸藩の不平を誘発して、大乱を醸成するおそれもなしとせず、時機の到るを待つより外はなかつた。この大改革には、明治維新の大業の功労者として最も勢力を有する薩・長の二藩主が先づ同意しなければ、到底実現の可能性がないものと思はれた。しかるに、たまたま木戸孝允と大久保利通の意見が一致し、その頃藩政改革の意見を藩主に提出してゐた土佐の板垣退助もこれに賛同し、鳥尾小弥太こやた・野村靖・山県狂介(有朋)は、西郷隆盛を説いて、共に尽力を誓ふといふやうに、朝廷の重臣に支持者が多くなり、時機が漸く熟したのであつた。その結果、明治天皇には、明治四年七月十四日、在京の知藩事を召したまひ、廃藩置県を仰せ出された。ここに謹載したのがその詔である。かくして、一時に全国二百六十三藩の知藩事の職を解かれ、東京に移住せしめられた。この廃藩置県により、全国府県の数は、旧来の府県を合はせて、三府(東京・京都・大阪)・三百一県となつたが、同年(明治四年)十一月、府県の廃合が行はれて、三府・七十二県となつた。さうして、新に人材を抜擢して、府には府知事、県には県令を任命し、政務を掌らしめられたので、封建の餘習も全くここに消滅して、中央政府の威令が徹底し、郡県の制度が確立して、王政維新の実が挙るに至つた。
〔追記〕「岩倉公実記」に曰ふ。「是日コノヒ(明治四年七月十四日)具視トモミ外務卿ト為ルヲ以テ之ヲ外国公使ニ通報ス。英国公使(サー・ヘンリー・パークス)永歎シテ曰ク、藩ヲ廃シ県ヲ置クハ非常ノ英断ニ出ツ。誠ニ貴国ノ為ニ賀スヘシ。吾カ欧羅巴洲ニ於テ、カクノ如キ大事業ヲ成サント欲セハ、幾年カ兵馬ノ力ヲ用ウルニ非ラサレハ、其成功ヲ期スルコトアタハサルナリ、今マ貴皇帝ハ一紙ノ詔書ヲ以テ、二百餘藩ノ実権ヲ収復ス、宇宙間未曾有ノ盛事ナリ、貴皇帝ハ真神ノ能力ヲ有ス、決シテ人為ノ企テ及フ所ニ非ラサルナリ。」


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年11月15日水曜日

副島種臣を魯国に遣はし給へる勅

(明治四年五月二十二日)


我国ワガクニ魯国ロコク壌土ジヤウドモツトモチカシ。交誼カウギモツトモアツフスヘシ。コト樺太カラフト地方チハウゴトキハ、彼我ヒガ人民ジンミン雑居ザツキヨ往来ワウライオノオノ其利ソノリイトナム。コレ保全ホゼンスルノミチオイテ、アニココロツクサヽルヘケンヤ。サキ嘉永カエイ五年ゴネン魯帝ロテイ全権ゼンケン使臣シシンシ、経界ケイカイサダメンコトヲス。シカレトモタガヒ事故ジコアリテソノラス。爾後ジゴ慶応ケイオウ三年サンネンイタリ、彼得堡ペテルブルグオイリニ雑居ザツキヨヤクムスヘリ。チンヒソカ方今ハウコン樺太カラフト形状ケイジヤウサツスルニ、言語ゲンゴ意脈イミヤクツウセサルヨリ、民心ミンシン疑惑ギワクアルヒ争隙サウゲキシヤウシ、怨讐ヱンシウカモシ、ツヒ両国リヤウコク交誼カウギサイ懇親コンシンウシナフニイタランカ。コレ経界ケイカイサダムルノモツトモ急務キフムニシテ、ヒトリチンフカウレフルノミナラス、魯帝ロテイマタカツオホイココロラウセシ所以ユヱンナリ。ヨツナンヂ種臣タネオミメイシ、スルニ全権ゼンケンモツテシ、ユキ経界ケイカイサダムルヲセシム。ナンヂ種臣タネオミ機宜キギシタガヒ、其事ソノコトタダシ、両国リヤウコク人民ジンミンヲシテソノ慶福ケイフクタモタシメ、モツ交誼カウギマスマスアツク、永久エイキウカハラサランコトヲ。コレチンフカノゾトコロナリ。ナンヂ種臣タネオミアツ此旨コノムネタイセヨ。

魯国ロコク ロシヤ帝国の略称。

壌土ジヤウド 「国土」といふに同じ。

彼我ヒガ人民ジンミン雑居ザツキヨ往来ワウライ ロシヤ人と日本人とが入りまじつて住み互に往つたり来たりしてゐること。

経界ケイカイ 「境堺」と同じ。「さかひ」である。「孟子」の滕文公章に曰ふ。「夫レ仁政ハ必ズ経界ヨリ始マル。」

彼得堡ペテルブルグ 帝政時代のロシヤの首都。セントピータースブルグとも訓んだ。

言語ゲンゴ意脈イミヤク 言葉やその意味のすぢ。

民心ミンシン疑惑ギワク 民の心にうたがひがおこること。

怨讐ヱンシウカモ 「うらみを抱いて敵視するやうになる」といふこと。「怨讐」は、その文字のとほり、「うらみとあだ」をいふのであるが、また「うらみのあるかたき」といふ意味にも用ゐられる。「宋史」孫永伝に、「人トノ交ハリ、終身怨讐無シ。」とあり、「左伝」にも、「我三怨有リ、怨讐スデニ多シ、マサニ何ヲ以テ戦フベキカ。」とある。「カモシ」は、蒸した米を、麴や水に和して醱酵せしめ、酒につくり上げることから、何事かを「おこす」ことや「成しとげる」ことの意味に転用せられる語である。

機宜キギシタガ 「その場合に適したよい方法に従ふ」といふこと。「機宜」は、「機に応じて宜しきを得る」といふ意味の語である。嵆康の絶交書に曰ふ。「人情ヲ識ラズ、機宜にクラシ。」


〔大意〕
謹約。「我が国は、ロシヤ帝国と、国土が最も接近してゐるから、交誼を最も厚うしなければならない。殊に樺太地方の如きは、両国の人民が雑居往来して、それぞれ利を営んでゐるから、これを保全する道に、心をつくさなくてはならない。嘉永五年に、ロシヤ皇帝から、全権使臣を遣はして、国境を定めようとの相談があつたが、事故のために成り立たず、慶応五年にペテルブルグで雑居の仮条約を結んだ。今、樺太の様子を見るに、言語が通じないために、民心に疑ひが起り、争ひを生じ、怨みを抱くやうになり、両国の親善が失はれる。国境を定めることは、急務であつて、朕が深く憂ひてゐるのみならず、ロシヤ皇帝も大いに心を労せられてある。よつて汝種臣に全権を委任して、国境を定めることを協議せしめる。」


〔史実〕
樺太及び千島の日露両国境界問題は、幕末から明治初年へかけての重大な懸案となつてゐた。著々と東方侵略の歩を進めたロシヤ帝国は、幕末に至つて、我が北辺に魔手を延ばして来た。安政元年にロシヤ使節プーチャーチンが来朝した時、幕府は、国境問題について談判し、「日露両国の境界を択捉エトロフ得撫ウルツプ二島の間とし、樺太は旧に依りて界を分たざること」とした。しかるに、その後、ロシヤの東部シベリヤ総督ムラヴィヨフは、黒竜江一帯の地を領有し、進んで樺太をも全然露領とする意志を以て、安政六年七月、自ら軍艦を率ゐ、品川に来り、宗谷海峡を両国の境界とすべきことを、幕府に迫つた。幕府は、これを拒絶した。その後、文久二年七月に至り、幕府は、外国奉行竹内保徳(下野守)・外国奉行兼神奈川奉行松平康直(石見守)・京極能登守を露都ペテルブルグに派遣して、樺太境界を議せしめた。その結果、北緯五十度を以て、日露両国の境界とし、翌年双方より吏員を派遣し、臨地劃定することに決した。しかるに、次第に国内が多事となつたために、幕府は、北辺を顧みるいとまがなくなり、翌年委員を樺太に派遣しなかつた。そこで、慶応二年十二月、幕府は、また函館奉行小出秀実(大和守)及び目附石川駿河守をペテルブルグに遣はし、国境問題を議せしめた。ロシヤの委員、亜細亜局長スツレモウホフは、得撫近傍の三島を代償として我に譲り、樺太全部を露領とすることを主張したが、我が委員は、これを承諾しなかつたので、旧に依りて、樺太を日露両国の属領とし、同三年二月二十八日に、仮条約の調印ををはつた。その文中には、次のやうにある。

第一条 樺太島ニ於イテ、両国人民ハ睦シク誠意ニ交ハル可シ。万一、争論アルカ、マタハ不和ノ事アラハ、裁断ハ其ノ所ノ双方ノ司人共ニ任スヘシ。若シ其ノ司人ニテ決シ難キ事件ハ、双方近傍ノ奉行ニテ裁断スヘシ。

第二条 両国ノ所領タル上ハ、露西亜人・日本人トモ、全島往来勝手タルヘシ。且、未タ建物及ヒ庭園ナキ所、又ハ総テ産業ノ為メニ用ヒサル場所ヘハ、移住・建物等、勝手タルヘシ。

第三条 島中ノ土民ハ、其ノ身ニ属セル物、並ヒニ附属所持ノ品々トモ、全ク其ノ者ノ自由タルヘシ。又土民ハ、其ノ者ノ承諾ノ上、露西亜人・日本人トモニ、之レヲ雇フコトヲ得ヘシ。若シ日本人又ハ露西亜人ヨリ、土民、金銀或ハ品物ニテ、是レマテ既ニ借リ受ケシカ、又ハ現ニ借財ヲ為スコトアラハ、其ノ者ノ望ミノ上、前以テ定メタル期限ノ間、職業或ハ使行ヲ以テ、之レヲ償フコトヲ許スヘシ。(第四条以下略)

この条約は、大体に於て、安政の条約と同じく、ただ細則を定めたのみに過ぎなかつた。かくの如く、幕府の意図は、北緯五十度以南を以て我が領土とするにあつたが、それを成し遂げない中に滅びて、明治の新政となつたのである。

樺太島が日露両国の所属となつたので、露人は、しきりに南進して来て、従来、我が所属となつてゐたところにまで家屋を建て、我が官吏の制することも聴かなかつた。それがために、両国の人民の間に紛争が絶えなかつた。

それで、明治四年五月二十二日、ここに謹載した勅を、外務卿副島種臣に賜はり、国境決定のために、露都へ御差遣を仰せ出されたのである。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)