2017年10月11日水曜日

江戸を東京と改称し給へる詔

(明治元年七月十七日)


チンイマ万機バンキ親裁シンサイシ、億兆オクテウ綏撫スヰブス。江戸エド東国トウゴク第一ダイイチ大鎮ダイチン四方シハウ輻凑フクソウヨロシク親臨シンリンモツ其政ソノマツリゴトルヘシ。ヨツ自今ジコン江戸エドシヨウシテ東京トウキヤウトセン。コレチン海内カイダイ一家イツカ東西トウザイ同視ドウシスル所以ユヱンナリ。衆庶シユウシヨ此意コノイタイセヨ。

万機バンキ親裁シンサイ すべての政を、天皇が御親ら行はせられること。

億兆オクテウ綏撫スヰブ 多くの民をいたはり治めたまふこと。「億兆」は、「万民」と同じ。「綏撫」は、いたはり愛すること。「呉志」孫瑜伝に曰ふ。「虚心ニ綏撫シ、其ノ歓心ヲ得。」

大鎮ダイチン 大都会の意味。支那では、人口五万以上の市を「鎮」と称した。それから大都市にこの文字が用ゐられるやうになつた。

四方シハウ輻凑フクソウ 「四方から人の集まつて来るところ」といふ意味。「輻凑」は、「輻輳」とも書く。車のこしきにあつまるといふ意味から、物が一所に集まることの意味に転用せられる語である。「四方輻輳」の語は、「漢書」の叔孫通伝に出てゐる。

海内カイダイ一家イツカ 「八紘一宇」と同じく、国内を一家と同じやうに視るといふ宏遠なる聖旨のあらはれた御言葉と拝する。


〔大意〕
朕は、今すべての政を親ら行つて、万民をいたはり治める。江戸は、東国第一の大都会で、四方から人の集まる土地であるから、そこへ親ら臨んで政をするであらう。よつて、これから、江戸を東京といふことにしよう。これは、朕が国内を一つの家のやうに思ひ、東も西も同じやうに見るからである。多くの民もこれをよく心得ておくがよい。


〔史実〕
明治元年(慶応四年)七月十七日、江戸を東京と改称したまひ、且、遷都を仰せ出された詔である。王政維新と同時に、早くも遷都の必要が議に上つた。慶応三年十一月、薩摩の伊地知正治は、難波遷都論を唱へたが、時期尚早のために問題とならなかつた。慶応四年、新政府の成立早々、大久保利通は、正月二十三日の朝議に、難波遷都の必要を主張したが、反対者が多く、決議に至らなかつた。大久保は、初志をげず、木戸孝允を説いて、その賛成を得た。しかるに、前島ひそかは、大久保に書を呈して、江戸遷都論を力説した。維新の戦乱に際し、江戸の事情を偵察してゐた佐賀藩士江藤新平も、帝都の地として江戸の適当なることを認め、同藩の大木民平(喬任)に語り、更に藩主鍋島直正の同意を得、佐賀藩論として、岩倉具視に建白した。木戸孝允は、京都・大阪・東京の三京並置論を立てたが、江戸遷都を建議する者が次第に多くなり、遂にこの詔を拝するに至つたのである。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年10月10日火曜日

救荒の勅語

(明治元年六月二十二日)


曩者サキニ徳川トクガハ慶喜ヨシノブヘイケテケツヲカサントスルヤ、伏見フシミヨドトウ民家ミンカ焚焼フンセウシ、チン赤子セキシ蹂躪ジウリンス。ユヱチンオホイ軍旅グンリヨハツシ、コレ追伐ツイバツス。シカシ軍務グンム繁劇ハンゲキ費用ヒヨウ夥多クワタ今日コンニチイタマデイマサイフノタミ賑恤シンジユツスルコトアタハス。チン宵旰セウカンコレオモフテ、殷痛インツウマコトセツナリ。嗚呼アアチン祖宗ソソウレイリ、億兆オクテウ君臨クンリンシ、畿甸キデンタミスラナホカクゴトシ。シカルヲイハンヤ、東方トウハウ諸州シヨシウアラタ荼毒トドクカカモノナニモツ救助キウジヨセン。コレチンジツ万機バンキルニ不堪タヘズフカミヅカチ、ミヅカカナシトコロナリ。庶幾コヒネガハクハ、主者シユシヤチン慈意ジイタイシ、詳議シヤウギ審論シンロンモツ賑恤シンジユツ救助キウジヨスルトコロモノアランコトヲハカレ。

曩者サキニ 「さきの日に」である。「曩」は、「さき」(前)「むかし」(昔)「久し」等の意味を有する文字。「者」は助辞。「左伝」の襄公二十四年に、「曩者サキニハ入ルニ志ス而已ノミ。」とある。

ケツヲカサントスル 「宮城に攻め入らうとする」といふこと。「闕」は、「かける」(缺)といふ意味の文字である。支那では、宮城門外の左右に台を築き、その上に楼観を設け、中央の闕けたところを出入の道とした。それから「闕」の文字が「宮城」の意味に転用せられるやうになつた。「五代史」周太祖徳妃董氏伝に曰ふ。「年十三、劉進超ニ嫁ス、契丹闕ヲ犯シ、進超虜中ニ歿ス、妃洛陽ニ嫠居ス。」

焚焼フンセウ 火を放つて焼くこと。「荀子」に曰ふ。「餘ハ丘山ノ若ク、時ニ焚焼セザレバ、之ヲ蔵スル所無シ。」

赤子セキシ蹂躪ジウリン 「赤子」は、古来、天皇が万民をさして仰せられた御言葉。「書経」の中にも、「赤子ヲ保ツガ如シ。」といふ文字がある。「蹂躪」は、「ふみにじる」といふ意味の語である。多くの民を殺したり傷けたりして苦しめたことを仰せられたものと拝する。「漢書」に、「百姓奔走シテ、相蹂躪ス。」といふ文字がある。

軍旅グンリヨ 「軍隊」と同じ。昔、支那では、軍兵五百を「旅」と称した。それから転じて、「軍旅」は、「軍隊」を意味する語となつた。「論語」の衛霊公篇に、「軍旅之事ハ、未ダ之ヲ学バザル也。」とある。

賑恤シンジユツ 「にぎはしめぐむ」といふ字義の文字。窮民に食物その他の物資を施与して救助することの意味に用ゐられてゐる。御歴代の詔勅に最も多く拝する文字である。

宵旰セウカンコレオモフテ 「朝から夜までこれを思うて」といふこと。「宵旰」は、「宵衣旰食」の略語として用ゐられることが多い。「宵衣旰食」は、未明に起きて衣を、日ぐれて食膳につくことから、天皇が御政務に精励したまふことに転用せられる語。ここでは、ただ「朝から夜まで」の御意に拝せられる。

殷痛インツウ 「大いにかなしむ」といふこと。「殷」は、「大いに」「盛に」等の意味を有する文字である。

畿甸キデン 「畿内」と同じ。支那の周代には、王城の周囲五百里以内の地を、「畿」といひ、「甸」ともいつた。それから「畿甸」の文字は、「畿内」と同じ意味に用ゐられてゐる。我が国では、古くから、山城・大和・河内・和泉・摂津を畿内五箇国と称した。

荼毒トドク 「害毒」と同じ。「荼」は「苦菜ニガナ」である。「苦菜の毒」を喩として、「害毒」の意味に転用したものであらう。「書経」の湯誥に曰ふ。「其ノ凶害ニ罹リ、荼毒ニ忍ビズ。」


〔史実〕
王政復古の新政を喜ばない徳川譜代の諸大名や旧幕臣に擁せられて、一旦大政を奉還した徳川慶喜は、明治元年正月、討薩を標榜して入京を企て、鳥羽・伏見の戦を惹起し、大敗して江戸に逃れ帰り、謹慎の意を表し、三月十四日、幕臣勝安芳と官軍の参謀西郷隆盛との会見により、江戸城の明渡しとなつた。しかし、この叛乱のために、畿内の民が少からぬ戦禍を蒙つたのみならず、慶喜が謹慎した後にも、なほ幕府の残党が各地に於て官軍に反抗してゐたので、諸国の民がその害毒に苦しんだ。新政府の樹立、叛乱の鎮定等、政務極めて御多忙にあらせられた明治天皇には、その間にも、万民の苦しみを深くあはれみたまうて、明治元年(慶応四年)六月二十二日、ここに謹慎した詔を賜はり、救荒賑恤を仰せ出されたのであつた。政府に於ては、聖旨を奉体して、同日、左のとほり、諸道府県に布告した。

方今、王化天下ニアマネカラント欲ス、此年ニ当リ、無辜ノ生民、兵燹ヘイセンノ災ニ罹リ、加之シカノミナラズ、洪水暴漲、惨毒之イタリ、近畿最甚シ、且東北諸路、賊徒平定ニ至ラス、生民ノ塗炭、一端ニアラス。皇上深ク難被為忍シノバセラレガタク、救恤阜財之道、被為尽度ツクサセラレタキ勅旨、痛切ニ被仰出オホセイデラレ候付テハ、至仁之聖意ヲ体認シ、其民ヲシテ安堵セシムルハ、今日府県ノ責ナリ。即今創建ノ初、救荒ノ典未タ立スト雖トモ、一日斯民ニノゾム者、即一日此道ヲ講セスンハアラス。況ヤ今日眼前ノ窮厄ヲヤ。故ニ賑救ノ急務、左ニ記ス。
一 兵燹之厄、洪水之害、窮民流離、路頭ニ立者、一村ニ幾人、且其破産・蕩家等、一一細詳ニ査点シ、救助其宜ヲ得ヘシ。若兵厄水害ヲ被ムル地ト雖トモ、捜択其宜ヲ得ス、徒ニ金穀ヲ給スレハ、却テ蠧弊トヘイヲ生シ、下民ノ怨望ヲ起シ、宜シカラサル事。
一 没田之民ハ、全ク其租賦ヲ免シ、其他漲溢ノ田畑ハ、荒敗ノ軽重ヲ量リ、蠲免ケンメン其宜ヲ得ヘキ事。
一 堤防・橋梁之破壊、急急修理可致イタスベキ事。
但、普請等、私利ヲ営マサル廉吏ヲ択ヒ、水理ニクハシキ者ニ任シ、人夫等ハ、其地ノ窮民ニ賃シテ、相用ヘキ事。
一 厄害ノ等ヲ辨シ、救恤ノ道ヲ立ツ、今日ノ事ハ、奏可ヲ待タス、府県ヘ専任ス。宜ク可得其道ソノミチヲウベキ事。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年10月9日月曜日

明治維新の宸翰

(明治元年三月十四日)


ちん幼弱えうじやくもつて、にはか大統たいとうき、爾来じらいなにもつ万国ばんこく対立たいりつし、列祖れつそつかたてまつらんやと、朝夕てうせき恐懼きようくたへさるなりひそかかんがふるに、中葉ちゆうえふ朝政てうせいおとろへてより、武家ぶけけんもつぱらにし、おもて朝廷てうてい推尊すゐそんして、じつけいしてこれとほざけ、億兆おくてう父母ふぼとして、たえ赤子せきしじやうることあたはさるやうはかりなし、つひ億兆おくてうきみたるも、ただのみにはてそれために、今日こんにち朝廷てうてい尊重そんちようは、いにしへにばいせしかごとくにて、朝威てうゐますますおとろへ、上下しやうか相離あひはなるゝこと霄壌せうじやうごとし。かゝる形勢けいせいにて、なにもつ天下てんか君臨くんりんせんや。今般こんぱん朝政てうせい一新いつしんときあたり、天下てんか億兆おくてう一人いちにん其処そのところさるときは、みなちんつみなれは、今日こんにちことちんみづから身骨しんこつらうし、心志しんしくるしめ、艱難かんなんさきたちいにしへ列祖れつそつくさせたまひしあとみ、治蹟ちせきつとめてこそ、はじめ天職てんしよくほうして億兆おくてうきみたるところそむかさるへし。往昔わうせき列祖れつそ万機ばんきみづからし、不臣ふしんのものあれは、みづかしやうとしてこれをせいたまひ、朝廷てうていまつりごとすべ簡易かんいにして、如此かくのごとく尊重そんちようならさるゆへ、君臣くんしん相親あひしたしみて、上下しやうか相愛あひあいし、徳沢とくたく天下てんかあまねく、国威こくゐ海外かいぐわいかがやきしなり。しかるに近来きんらい宇内うだいおほいひらけ、各国かくこく四方しはう相雄飛あひゆうひするのときあたり、ひとり我邦わがくにのみ世界せかい形勢けいせいにうとく、旧習きうしふ固守こしゆし、一新いつしんかうをはからす、ちんいたづらに九重中ここのへのうち安居あんきよし、一日いちじつやすきをぬすみ、百年ひやくねんうれひわするゝときは、つひ各国かくこく凌侮りようぶけ、かみ列聖れつせいはづかしめたてまつり、しも億兆おくてうくるしめんことおそる。ゆゑに、ちん、こゝに百官ひやくくわん諸侯しよこうひろ相誓あひちかひ、列祖れつそ御偉業ごゐげふ継述けいじゆつし、一身いつしん艱難かんなん辛苦しんくとはす、みづか四方しはう経営けいえいし、なんぢ億兆おくてう安撫あんぶし、つひには万里ばんり波濤はたう拓開たくかいし、国威こくゐ四方しはう宣布せんぷし、天下てんか富岳ふがくやすきにおかんことをほつす。なんぢ億兆おくてう旧来きうらい陋習ろうしふれ、尊重そんちようのみを朝廷てうていこととなし、神州しんしう危急ききふをしらす、ちんひとたひあしあぐれは、非常ひじやうおどろき、種々しゆじゆ疑惑ぎわくしやうし、万口ばんこう紛紜ふんうんとして、ちんこころざしをなささらしむるときは、これちんをしてきみたるみちうしなはしむるのみならす、したがつ列祖れつそ天下てんかうしなはしむるなりなんぢ億兆おくてう能々よくよくちんこころざし体認たいにんし、相率あひひきゐ私見しけんり、公議こうぎり、ちんげふたすけて、神州しんしう保全ほぜんし、列聖れつせい神霊しんれいたてまつらしめは、生前せいぜん幸甚かうじんならん。

にはか大統たいとう 急に天皇の御位をつがせられたことを仰せ出された語。「大統」は、「皇統」と同じ。天皇の御系統をいふ。

列祖れつそ 「皇祖皇宗」と同じ。御歴代の天皇の御事。

中葉ちゆうえふ 「中世」と同じ。武家が政権を左右した時代のことを仰せられてあるものと拝する。

推尊すゐそん すすめ尊ぶこと。即ち尊んでおしすすめること。麻九疇の詩に曰ふ。「画史推尊為第一。」

億兆おくてう 「万民」と同じ。多くの国民をいふ。「億」も「兆」も非常に大いなる数である。それから転じて多くの民をいふ語となつたものと思はれる。

霄壌せうじやう 「天地」と同じ。天と地ほどのへだたりといふ場合即ち非常に大いなる差を喩へていふ語として多く用ゐられる。

君臨くんりん 天皇として天下を統治したまふこと。「国語」に曰ふ。「赫赫たる楚国にして、之に君臨す。」

其処そのところさる それぞれ適当な地位に安定し得ないこと。安定した生活の出来ないことの意味。

あと 同じやうに行ふこと。

治蹟ちせきつと 国家がよく治まるやうにつとめるといふこと。

天職てんしよく 最も尊い職。天神から承けつがせられた天皇の御地位を称したまうたものと拝する。

不臣ふしんのもの 臣にあらざる者といふこと。臣道に反する行をした不忠の臣の意味。「漢書」の王尊伝に、「倨慢不臣」といふ語がある。

宇内うだい 「天下」と同じ。「史記」の秦紀に曰ふ。「天下ヲ席巻シ、宇内ヲ包挙ス。」今日では、「世界」といふ意味にこの文字が多く用ゐられてゐる。ここに仰せられてあるのも、「世界」の意味に拝せられる。

雄飛ゆうひ 大いに活動するといふこと。雄鳥の雄々しく飛ぶやうな勢を以て事を行ふといふ字義の語である。「後漢書」の趙典伝に、「丈夫マサニ雄飛スベシ、 イヅクンゾク雌伏セン」とある。

九重中ここのへのうち 「九重」は、宮中の別称。支那に於て、王城の門を九重に作つたことから出た語である。

一日いちじつやすきをぬす ほんの一日の安全をむさぼるといふこと。目前寸時の安心に満足する意味。次にある「百年の憂を忘るる」に対する語である。「偸み」は、「むさぼる」ことの意味。賈誼新書に、「夫レ火ヲ抱キ之ヲ積薪之下に措キテ其ノ上ニ寝、火未ダ燃エ及バズ、因リテ之ヲ安キト謂フハ、安キヲ偸ム者ナリ。」

凌侮りようぶ 「かろんじあなどる」こと。「晋書」斉王攸伝に曰ふ。「酒ヲ使ヒシバシバ凌侮ス。」

万里ばんり波濤はたう拓開たくかい 遠い海のはての地方までもひらくといふこと。「万里の波濤」は、前に述べたとほり。「拓開」は、「開拓」と同じ。荒蕪の土地をひらいて耕地とすることをいふ。

富岳ふがくやすきにおか 富士山のやうに安定した地位に置くといふこと。最も基礎が鞏固で安全なことの喩。「富岳」は、富士山である。乃木希典の詩に曰ふ。「崚嶒富岳聳千秋、赫灼朝睴照八洲。」

神州しんしう 神の国といふ意味の語。日本の異称。

万口ばんこう紛紜ふんうん 多くの者が口々にやかましくわめきたてること。「紛紜」は、「盛なること」や「乱れたること」の有様をいふ語である。「楚辞」の九歎に、「腸紛紜以繚転兮」とあり、班固の賦に、「万騎紛紜」とある。

体認たいにん 道理をよく理解して実行に力めること。


〔史実〕
ここに謹載した宸翰は、明治元年(慶応四年)三月十四日、天神地祇に五箇条の御誓文を御親告あらせられた明治天皇が、広く天下に宣布したまうたものである。五箇条の御誓文に仰せ出された新らしい国是は、久しい封建制度に慣れた国民に、あまりにも急激な大改革であつたから、これに驚き疑惑を生ずる者がないやうに、この宸翰により、懇々と御諭しあそばされたものと拝する。故に、これは、宸翰の形式で発せられたが、詔勅と同じ性質の聖訓である。「今般朝政一新の時に膺り、天下億兆、一人も其処を得さる時は、皆朕が罪なれは」と仰せられ、また「列祖の御偉業を継述し、一身の艱難辛苦を問す、親ら四方を経営し、汝億兆を安撫し」と仰せられ、まことに宏遠なる皇謨の中に、優渥なる聖旨が溢れてゐる。この宸翰を拝した公卿諸侯は、総裁輔弼の名を以て、次の如く一般国民に諭示した。
右御宸翰之通のとほり、広く天下億兆蒼生を思食おぼしめさせ給ふ深き御仁恵の御趣意につき、末末の者に至る迄、継承し奉り、心得違こころえちがひ無之これなく、国家の為に精精其分そのぶんを尽すべき事。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年10月8日日曜日

天神地祇を祭り給へる御祭文

(明治元年三月十四日)


かけまくもかしこ天神あまつかみ地神くにつかみ大前おほまへに、今年ことし三月十四日を生日いくひ足日たるひ撰定えらびさだめて、禰宜ねぎまをさく。いまより天津神あまつかみ御言寄みことよさしまにまに、天下あめのした大政おほきまつりごと執行とりおこなはむとして、親王みこたち卿臣まへつきみども国国くにぐにの諸侯みこともちども百寮つかさつかさの官人ひとども引居連ひきゐつらねて、神床かみどこ大前おほまへうけひつらくは、ちかころほひ、邪者よこしまもの是所ここ彼所かしこすさたけびて、天下あめのした佐夜藝さやぎ佐夜藝さやぎひとこころ平穏おだひならず、かれ是以ここをもて天下あめのした諸人等もろびとどもちからあはせ、こころひとつにして、すめら我政わがまつりごと輔翼奉あななひまつり、令仕奉給つかへまつらしめたまへと、請祈申こひのりまをす礼代ゐやしろは、横山よこやまごと置高成おきたかなしたてまつかたち聞食きこしめして、天下あめのした万民よろづたみ治給をさめたま育給はぐくみたまひ、谷蟆たにぐく狭渡さわたきはみ白雲しらくも堕居おりゐ向伏むかぶすかぎりさからひ敵対者あたなふもの令在給あらしめたまはず、遠祖尊とほつみおやのみこと恩頼みたまのふゆかうむりて、無窮とこしへ仕奉つかへまつれる人共ひとども今日けふ誓約うけひたがはむものは、天神あまつかみ地祇くにつかみ倐忽たちまち刑罰給つみなひたまはむものぞと、皇神等すめがみたちみまへに、うけひ吉詞よごとば申給まをしたまはくとまをす。

生日いくひ足日たるひ その当日を賀する語。「吉日」の意。「生日」は生ひ栄ゆる日、「足日」は足り満つる日である。「出雲国造神賀詞」に曰ふ。「八十日やそかびはあれど、今日の生日の足日に、出雲国造、かしこかしこみも申したまはく、」

御言寄みことよさし お任せになること。「御委任」と同じ。前出。「みことよさし」は、「ことよさし」に「み」の敬語の加はつたもの、「ことよさし」は、「ことよす」の敬称、「ことよす」は、「事を委ねる」即ち委任・任命等の意味を含める語である。「大祓祝詞」に曰ふ。「我が皇御孫すめみまみことは、豊葦原の水穂の国を安国やすくにたひらけく知食しろしめせと、事依ことよさまつりき。」

天下あめのした佐夜藝さやぎ 「天下がさわがしく」といふこと。動乱勃発の意味。「さやぎ」は、「さやさや」(喧々)の活用。「騒騒さわさわと鳴る」といふ意味の語である。「古事記」上巻に曰ふ。「豊葦原の水穂の国は、いたくさやぎてありけり。」

輔翼奉あななひまつ 「あななひ」は、現代語の「助ける」である。古代の詔勅や、宣命にしばしばこの語を拝してゐる。

礼代ゐやしろ 御礼のための贈物。「礼物」と同じ。また「ゐやじり」ともいふ。「古事記」下巻に曰ふ。「然れども言以こともまをこと礼无ゐやなしとおもほして、すなはいも礼物ゐやしろて、押木之おしぎの玉縵たまかづらたしめて貢献たてまつりき。」

谷蟆たにぐく狭渡さわたきはみ 「谷蟆たにぐくが通つて行く限りのところ」といふこと。「どんな狭い隅の方までも」の意味。「谷蟆」は、「ひきがへる」の古名である。「祈念祭祝詞」の中に、「皇神すめがみきますしま八十島やそしまは、谷蟆たにぐくのさわたきはみ塩沫しほなはとどまかぎりくにひろく、さがしきくにたひらけく、」とあり、「万葉集」巻五・巻六の長歌にも、「谷蟆のさわたる極」といふ語が出てゐる。

白雲しらくも堕居おりゐ向伏むかぶすかぎり 「白雲が地におりて伏してゐるやうに見えるかぎりのところ」といふこと。極めて遠方を意味する語である。「祈年祭祝詞」に、「皇神すめがみ見霽みはるかします四方国よものくには、あめ壁立かべたきはみくに退かぎり青雲あをぐもたなびきはみ白雲しらくも堕居をりゐ向伏むかぶかぎり青海原あをうなばら棹柁さをかぢさず、」とある。また「万葉集」巻三の長歌には、「天雲あまぐも向伏国むかぶすくにの」といふ語がある。

恩頼みたまのふゆ 御霊の恩恵。神恩の辱けなさを感謝していふ語。「日本書紀」には、しばしばこの語が用ゐられてゐる。神代紀に曰ふ。「是を以て百姓今に至るまでことごと恩頼みたまのふゆかかぶれり。」


〔史実〕
前述の如く、明治元年(慶応四年)三月十四日、明治天皇には、天神地祇を祭りたまうて、五箇条の御誓文を誓御親告あそばされた。ここに謹載したのは、その当日の御祭文である。

なほ当日の御祭式次第は、次のとほりであつた。

一 午ノ刻、群臣着座、公卿・諸侯母屋モヤ、殿上人南廂、徴士東廂
一 塩水行事 神祇輔勤之コレヲツトム 吉田三位侍従
一 散米行事 神祇権判事勤之コレヲツトム 植松少将
一 神祇督着座 白川三位
一 神於呂志オロシ神歌 神祇督勤之コレヲツトム
一 献供 神祇督・同輔・同権判事等立列リフレツ拝送ハイソウ、同輔 津和野侍従 点検
一 天皇出御
一 御祭文読上ヨミアゲ 総裁職勤之コレヲツトム 三条大納言
一 天皇御神拝 シタシ幣帛ヘイハクノ玉串ヲ奉献シタマフ
一 御誓書読上ヨミアゲ 総裁職勤之コレヲツトム
一 公卿・諸侯就約 但一人ヅツ中央ニ進ミ、先ツ神位ヲ拝シ、御座ヲ拝シ、而後シカルノチ執筆加名
一 天皇入御
一 撒供 拝送如初ハジメノゴトシ
一 神阿計アゲ神歌 神祇督勤之コレヲツトム
一 群臣退出


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年10月7日土曜日

五箇条の御誓文

(明治元年三月十四日)


一 ヒロ会議クワイギオコシ、万機バンキ公論コウロンケツスヘシ。
一 上下シヤウカココロイツニシテ、サカン経綸ケイリンオコナフヘシ。
一 官武クワンブ一途イツト庶民シヨミンイタマデオノオノ其志ソノココロザシケ、人心ジンシンヲシテマラサシメンコトヲエウス。
一 旧来キウライ陋習ロウシフヤブリ、天地テンチ公道コウダウモトヅクヘシ。
一 智識チシキ世界セカイモトメ、オホイ皇基クワウキ振起シンキスヘシ。

我国ワガクニ未曾有ミゾウ変革ヘンカクナサントシ、チンモツシユウサキンシ、天地テンチ神明シンメイチカヒ、オホイコノ国是コクゼサダメ、万民バンミン保全ホゼンミチタテントス。シユウマタコノ旨趣シシユモトヅキ、協心ケフシン努力ドリヨクセヨ。

万機バンキ公論コウロンケツ 「すべての政をだれが考へても正しいと思ふ意見によつてきめる」といふこと。

経綸ケイリンオコナ 「国を治めととのへるやうにする」こと。「経綸」は、糸のみだれををさめととのへるといふことから、天下を治めることの意味に転用せられてゐる語である。「易経」屯卦に、「君子以テ経綸ス。」とある。

官武クワンブ一途イツト 官吏も軍人も同じ道に向ふこと。「一途」は、一すぢの道である。

庶民シヨミン 多くの民。「万民」と同じ。

旧来キウライ陋習ロウシフ ふるくから伝はつてゐる悪いならはし。「陋習」は、「陋俗」と同じく、いやしい習はし即ち悪習慣である。

天地テンチ公道コウダウ 天地に恥ぢない正しい道。如何なる時と如何なるところに於ても、常にあやまりのない正しい道。

智識チシキ世界セカイモト 世界中から新らしい智識を採り入れること。「智識」の説明。

皇基クワウキ振起シンキスヘシ 天皇の御統治なされる国の基を一そう鞏固ならしめること。「皇基」は、「皇室の基」「皇業の基」「皇国の基」である。「振起」は、その文字のとほり、「ふるひおこす」こと。なほ一そう盛にし、なほ一そう鞏固にするといふ意味。

未曾有ミゾウ変革ヘンカク 昔から未だ一度もなかつたほど、その模様をかへる。非常なる大改革を意味する語。「未曾有」は、その文字のとほり、「未だかつてあらざる」こと。昔から一度もないことの意味。「観無量寿経」に曰ふ。「歎未曾有、郭然大悟。」

国是コクゼ 国家の大計。国家統治の根本方針をいふ。


〔大意〕
一、広く会議を起し、すべての政を、だれが考へても正しいと思ふ意見によつてきめることにする。
一、上にある者も下の者も、心を一つにして、一そうよく国を治めととのへることにする。
一、官吏と軍人との区別なく、一般国民に至るまで、それぞれ志すところを成し遂げ、心を倦ましめないやうにする(仕事を怠らないやうにする)ことが大切である。
一、昔からの悪い習慣を改めて、天地の間の何処にも行はれる正しい道に基づいて、何事も行ふやうにする。
一、世界中の新しい知識を採り入れて、大いに皇国の基礎を振ひ起すやうにする。

我が国には、未だ曾てなかつた大改革を行はうとするに当り、朕は、みづから多くの国民に先立ち、天地の神々に誓つて、大いにこの国の根本方針を定め、万民の安全を保つ道を立てようとするのである。多くの国民も、この精神に基づいて、心をあはせ、つとめはげむやうにせよ。


〔史実〕
明治元年(慶応四年)三月十四日、明治天皇は、紫宸殿に出御あそばされて、天神地祇を祭りたまひ、五箇条の御誓文を御親告あらせられた。この御誓文は、新政の大方針を明らかにしたまうたものである。特に神明に対する御誓文の形式をとらせられたのは、祭政一致の御精神に出でさせたまうたものと拝察せられる。御誓文の中の五箇条には、いづれもみな宏遠雄深なる皇謨があらはれてゐる。その一には、「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」と仰せられてある。立憲政治の淵源をここに拝することが出来る。またその中には、「智識ヲ世界ニ求メ、大ニ皇基ヲ振起スヘシ」と仰せられてある。我が国が、明治維新以来、諸外国の新知識を摂取醇化して、短時日の間に著しき文化の発展を遂げたのは、この国是に基づくものに外ならぬ。この御誓文は、明治新政の黎明を照らして、皇国の進路を明らかにし、永遠に万丈の光芒を放つ燈明台であつた。

この御誓文に対して、有栖川宮熾仁親王は、次の如き奉答文を奏せられ、三条総裁以下の公卿諸侯がこれに署名して闕下に上つた。
勅意宏遠、誠ニ以テ感銘ニ不堪タヘズ、今日ノ急務、永世之基礎、此他ニ出ヘカラス。臣等謹テ叡旨ヲ奉戴シ、死ヲ誓ヒ、黽勉ビンベン従事コトニシタガヒ、冀クハ以テ宸襟ヲ安シ奉ラン。


〔追記〕
慶応三年十月十四日、徳川慶喜が大政を奉還し、ここに王政復古の大御代となつたが、その時、有司の間に国是樹立の議が出た。今日世に現れてゐる国是案には、福井藩参与由利公正の自筆案に、高知藩士参与福岡孝弟の修正加筆したものと、福岡孝弟の浄書したものと、中外新聞外篇に掲載せられたものと、その案に木戸孝允の加筆したものと、都合四通りある。その基礎となつてゐるものは由利公正の案と思はれる。由利公正の案は、左のとほりである。
   議事之体大意
一 庶民志を遂け人心をして倦まざらしむるを欲す
一 士民心を一にして盛に経綸を行ふを要す
一 智識を世界に求め広く 皇基を振起すべし
一 貢士こうし期限を以て賢才に譲るべし
一 万機公論に決し私に論するなかれ
諸侯会盟之御趣意右等之筋に可被 仰出哉大赦の事
これを福岡孝弟が次のやうに修正した。
   会盟
一 列侯会議を興し万機公論に決すべし
一 官武一途庶民ニ至る迄各其志ヲ遂ケ人心をして倦まざらしむるを欲す
一 上下心を一ニし盛に経綸を行ふべし
一 智識を世界ニ求メ大ニ皇基を振起すべし
一 徴士ちようし期限を以て賢才ニ譲るべし
  右等之御趣意可被仰出哉且右会盟相立候処ニて大赦之令可被仰出哉
一 列侯会盟ノ式
一 列藩巡見使じゆんけんしノ式
尚別に中外新聞外篇所載「京都会盟の式」には
   盟約
列侯会議を興し万機公論に決すべし
官武一途庶民に至る迄其志を遂けて人心をして倦まざらしむるを欲す
上下心を一にして盛に経綸を行ふべし
知識を世界に求め大に 皇基を振起すべし
徴士期限を以て賢才に譲るべし
 右の条々公平簡易に基き 朕列侯庶氏協力唯我日本を保全するを要とすちかひつかさどる事如斯かくのごとく背く所ある事勿れ
かくしてこの案を内申するに至つたのであるが、当時副総裁議定三条実美さねとみ、輔弼中山忠能等公卿は、これに対し頗る意平かならざるものがあつた。かかる形勢であつたために、岩倉具視は、徴士参与職内国事務局判事大久保利通を訪うて相談する所があり、徴士参与職総表局顧問木戸孝允は、茲に左の一篇の奏議をたてまつるに至つたのである。
仰願あふぎねがはクハ前途之大方針ヲ被為定さだめさせられ
至尊親敷したしク公卿諸侯及百官ヲ率ヒ神明ニ被為誓ちかはせられ国是之確定アル所ヲシテ速ニ天下の衆庶ニ被為示度しめさせられたく不堪至願しぐわんにたへず
ここに於て会盟の主義は消えて、天皇には天神地祇に御誓祭せいさいあり、群臣盟約に就くの儀が確立し、我が國體は、益〻明らかになつたのである。而して其の盟約の文字は之を抹消して「誓」となし、「徴士期限ヲ以テ賢才ニ譲ルヘシ」の行を抹して「旧来ノ陋習ヲ破リ宇内ノ通義ニ従フヘシ」と加筆、又条々を次第せられたのであつた。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年10月6日金曜日

幕府御親征の詔

(明治元年二月二十八日)


チンツト天位テンヰキ、今日天下一新ノトキアタリ、文武ブンブ一途イツト、公議ヲ親裁ス。国威之立不立リツフリツ蒼生サウセイ安不安アンフアンハ、チン天職テンシヨク尽不尽ツクスツクサザルニ有レハ、日夜不安寝食シンシヨクヲヤスンゼズハハナハダ心思ヲ労ス。チン、不肖ト雖モ、列聖レツセイ餘業ヨゲフ、先帝ノ遺意ヲ継述シ、内ハ列藩レツパン万姓バンセイ撫安ブアンシ、外ハ国威ヲ海外ニ耀カガヤカサン事ヲ欲ス。然ルニ徳川慶喜、不軌フキハカリ、天下テンカ解体カイタイツヒニ及騒擾サウゼウニオヨビ、万民塗炭トタンクルシミオチイラントス。ユヱニチン不得已ヤムヲエズ、断然親征之議ヲ決セリ。且スデニ布告セシ通リ、外国交際モ有之コレアル上ハ、将来之処置、モツトモ重大ニツキ、天下万姓之為ニ於テハ、万里バンリ波濤ハタウシノキ、身ヲ以テ艱苦ニ当リ、誓テ国威ヲ海外ニ振張シンチヤウシ、祖宗先帝之神霊ニコタヘント欲ス。汝列藩、チン不逮フタイタスケ、同心協力、オノオノ其分ヲ尽シ、奮テ国家ノ為ニ努力セヨ。


天位テンヰ 「皇位」と同じ。天皇の御位。

文武ブンブ一途イツト 「文も武も一すぢにして」といふこと。「文と武の区別なく」の意味。「文」は文事、「武」は武事である。「五箇条の御誓文」には、「官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ」とある。「文武」は、庶政を総括していふ語。「一途」は、「一塗」と同じ。一すぢの道といふこと。「後漢書」蔡邕伝に曰ふ。「夫レ求賢之道ハ未ダ必ズシモ一途ナラズ、或ハ得顕ヲ以テシ、或ハ言揚ヲ以テス。」とある。国語では、「一途」を「いちづ」と訓んで「専ら」の意味に用ゐてゐる。

蒼生サウセイ安不安アンフアン 「万民の生活が安らかであるか、安らかでないかは」といふこと。「蒼生」は、万民即ち多くの民である。庶民・百姓・億兆等、みな同義の語である。国語では、「あをひとぐさ」とも訓んでゐる。

天職テンシヨク 最も尊い職。天照大神から承けつがせられた天皇の御地位を称せられた語と拝する。

列聖レツセイ餘業ヨゲフ 「御歴代の天皇の遺しおかれた御事業」といふこと。「列聖」は、御歴代の天皇を称する語。蔡邕の独断に曰ふ。「已故ノ前帝ヲ言ヒ、先朝ノ諸帝ヲ歴挙スルニハ、則チ列聖ト曰ヒ、祖宗ト曰フ。」

列藩レツパン 「諸藩」と同じ。諸国の大名即ち多くの藩主を仰せられしものと拝する。

万姓バンセイ 「百姓」と同じ。万民即ち多くの民のこと。

不軌フキハカ 「道ならぬことをたくらむ」こと。朝廷の命に服従しないことの意味に拝する。「不軌」は、国法を守らず謀反を企てることを意味する語。「漢書」の卜式伝にも「不軌之臣」といふ文字がある。

天下テンカ解体カイタイ 「天下の人心がばらばらになる」といふこと。天下不統一の意味。

塗炭トタンクルシミ 「水火の苦」といふに同じ。最も大いなる苦しみを喩へた語である。

万里バンリ波濤ハタウシノ 「万里も隔つた遠い海から押し寄せて来る大波小波をはらひのける」といふこと。外交上の難局を克服することの喩。


〔大意〕
謹約。「朕ははやくから天皇の御位をついで、その責任のまことに重いことを思ひ、日夜寝食を忘れてゐる。不肖ではあるが、御歴代の天皇の御遺志をついで、天下をよく治め、国威を海外に耀かさうと思つてゐる。しかるに、徳川慶喜が道ならぬことを企てたので、天下が乱れ、万民が塗炭の苦に陥らうとしてゐる。そこで、朕は、やむを得ずに、みづからこれを征伐することに決した。既に布告したとほり、外国との交際もあるから、将来の処置は、最も重大である。万民のためには、いかなる外交上の難局も、これを克服して、国威を海外に振張し、祖宗や先帝の尊い御霊に報いやうと思ふ。汝諸藩主たち、朕の及ばないところをたすけ、一致団結して、それぞれの本分を全うし、国家のために力をつくせ。」


〔史実〕
徳川慶喜の大政奉還により、王政が復古すると同時に、朝廷に於かせられては、直に庶政の改革に著手したまうた。しかるに、当時、二条城にゐた慶喜は、少しも新政に与らなかつた。会津・桑名をはじめ、譜代諸藩の藩士や、旧幕臣の中には、徳川の恩誼を思つて、心ひそかに新政を喜ばず、かくの如き処置も、畢竟薩・長二藩の計らひに出づるものとして憤慨し、甚だ穏やかならぬ形勢が見えた。つとめてこれを抑へてゐた慶喜は、事変発生をおそれ、二条城を出て、大阪城に退いたが、激昂した衆情を鎮静することが出来なかつた。明治元年(戊辰の年)正月、会津藩主松平容保かたもり、桑名藩主松平定敬さだあきは、慶喜を擁して、討薩の名目の下に、入京しようとしたが、薩・長・土・藝四藩に拒まれて、鳥羽・伏見の決戦となつた。その結果、幕府の軍の大敗となり、慶喜は、大阪城を脱出して、海路江戸に逃れ帰つた。そこで、朝廷には、慶喜以下の官爵を削り、追討の大命を下したまうた。ここに謹載したのが、その時の詔である。新政への発足に際して、かうした内乱が勃発したので、国交上の問題等をも顧慮したまうた大御心が、文辞の中に拝せられる。

かくして、有栖川宮熾仁たるひと親王が東征大総督に任ぜられ、西郷隆盛が参謀を拝して、東海・東山・北陸の三道から進んだ。慶喜は、上野の寛永寺に屛居して、謹慎の意を表した。さうして、西郷隆盛と勝安芳との会見によつて、江戸城の明渡しとなつたのである。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年10月5日木曜日

開国の御沙汰書

(明治元年一月十五日)


外国之儀ハ、先帝多年之宸憂ニ被為在アラセラレ候処サフラフトコロ、幕府失錯ニヨリ、因循今日ニイタリ候。折柄ヲリカラ世態オホイニ一変シ、大勢誠ニ不被為得止ヤムヲエサセラレズ此度コノタビ朝議之上、断然和親条約被為結ムスバセラレ候。就テハ、上下一致疑惑ヲ不生シヤウゼズ、大ニ兵備ヲ充実シ、国威ヲ海外万国ニ光輝セシメ、祖宗先帝之神霊ニ対答タイタフ可被遊アソバサルベキ叡慮サフラフ間、天下列藩士民ニ至ルマテ、此旨ヲ奉戴、心力ヲ尽シ、勉励可有之コレアルベク候事。

是迄コレマデ於幕府バクフニオイテ取結トリムスビ候条約之内、弊害有之コレアル件件ケンケン、利害得失、公議之上、御改革可被為在アラセラルベク候。猶外国交際之儀、宇内之公法ヲモツテ、取扱可有之コレアルベクアヒダ、此段アヒ心得可申マヲスベク候事。


〔史実〕
これは、明治元年(慶応四年)正月十五日、開国の御沙汰を国内に布告せしめたまうたものである。世態が一変したので、朝議の上、外国と和親条約を結ばせられることになつたから、上下一致、疑惑を起さないやうにして、大いに兵備の充実を図り、国威を諸外国に輝かすやうに、列藩士民に至るまで勉励しなければならぬとある。新政に伴ふ外交の方針を訓示せしめたまうたものと拝せられる。「宇内之公法」とあるは、今日の「国際公法」であらう。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)