2017年10月14日土曜日

明治改元の詔

(明治元年九月八日)


太乙たいいつたいしてくらゐのぼり、景命けいめいけてもつげんあらたむ。まこと聖代せいだい典型てんけいにして、万世ばんせい標準へうじゆんなり。ちん否徳ひとくいへども、さいはひ祖宗そそうれいり、つつしみて鴻緒こうしよけ、万機ばんきまつりごとみづからす。すなはげんあらためて、海内かいだい億兆おくてうともに、更始かうし一新いつしんせむとほつす。慶応けいおう四年よねんあらためて、明治めいぢ元年ぐわんねんす。いまより以後いご旧制きうせい革易かくえきし、一世いつせい一元いちげんもつ永式えいしきす。主者しゆしや施行しかうせよ。

太乙たいいつたい 「皇祖皇宗の御遺訓を奉体して」といふ御意の御言葉であらうと拝察する。「太乙」は、星の名である。顧炎武の「日知録」に曰ふ。「太乙ハ、北辰ノ神名ナリ。下テ八卦之宮ヲ行キ、四毎ニ中央ニ還ル、漢ハ太乙祠ヲ甘泉泰畤ニ立ツ。宋ノ時ニ尤モ之ヲ崇祀シ、東太乙・西太乙・中太乙ノ各祠ヲ建テ、以テ太乙九宮ニ飛ビ、四十餘年毎ニ一徙イツシス。臨ム所ノ地ハ、兵役興ラズ、水旱不作ナリ。」また「二占要略」(上)に曰ふ。「太乙星ハ其本位北天ニアリテ八方ニ遊行シ、兵乱・禍災・生死ヲ掌ル霊妙不可思議ノ一星ナリ。」故に、最も尊き祖宗の御遺訓を、この霊妙なる星の名によつて仰せられてあるものかと拝察する。「太乙星」は、一名を「太一」とも書く。「太一」は、太初・太始を意味する文字であり、また天帝のゐます場所の名称であるから、それを「太乙」と混同し易い。

景命けいめい 「大いなる命をうけて」といふ意味の語である。御歴代を一貫してゐる恒例を仰せられたものと拝する。

げんあらた 年号をかへること。「元」は「年号」である。新らしき年号の第一年をいふこともある。

聖代せいだい典型てんけい よく治まつた御代の定まつたおきて。「聖代」は「聖世」と同じ。聖の御代である。天下太平の世をいふ。「典型」は、日常用語の「かた」「てほん」である。

万世ばんせい標準へうじゆん いつまでも変らない目じるし。韓愈の伯夷頌に曰ふ。「聖人スナハチ万世之標準ナリ。」

鴻緒こうしよ 皇位を承けつぎたまうたこと。「鴻緒」は、大いなる事業即ち国家統治の大業といふことから、転じて皇位を意味する語となつてゐる。「後漢書」順帝紀に曰ふ。「鴻緒ヲ奉遵シ、郊廟ノ主ト為リ、祖宗無窮之烈ヲ承続ス。」

更始かうし一新いつしん 旧きものを改めて新しくはじめること。

永式えいしき 永久に守るべきおきて。「恒例」と同じ意味の語である。


〔大意〕
祖宗の御遺訓を奉じて皇位に登り、御歴代を通ずる大命によつて年号を改める。まことにそれはよく治まれる御代のおきてであり、永久に変らない標準である。朕は、徳の薄い者であるが、幸ひに祖宗の御霊のお蔭をもつて、謹んで皇位をつぎ、みづからすべての政を行ふに当り、年号を改めて、国内の万民とともに、何事も一新してはじめようと思ふ。そこで、慶応四年を改めて、明治元年とする。これから旧い制度をかへて、一世一元とし、それを永久の例と定める。当局の者は、これを行ふやうに計らへ。


〔史実〕
明治天皇には、御即位の大礼を挙げさせたまうた翌年即ち慶応四年九月八日に、この詔を下し賜はり、慶応四年を明治元年と改元の旨、仰せ出された。第三十六代孝徳天皇の御代に、はじめて年号を大化と定めたまうてから、御歴代の天皇は、多くその例に従はせられたが、古来、瑞祥や災異によつて改元を仰せ出されたので、御一代の中に、幾度も年号が変り、一年の中に再三の変更を見るといふやうな例もあつた。明治天皇は、この詔に於て、一世一元の制を定めたまひ、後に「皇室典範」第十二条に、「践祚ノ後年号ヲ建テ一世ノ間ニ再ヒ改メサルコト明治元年ノ定制ニ従フ」と規定せられるに至つて、一世一元が永久の定例となつた。


〔追記〕
「明治」の文字は、「易経」の説卦伝に出てゐる。「聖人南面聴天下、嚮明而治。」これは、ただ参考として附記しておくだけに止める。典拠を他国の古典に求めて、その意味を詮索する必要はない。「明治」は、その文字のとほり、「明らかに治まる」御代を意味する国語として解することを妥当と思ふ。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年10月13日金曜日

御即位の宣命

(明治元年八月二十七日)


現神あきつみかみ大八洲国おほやしまぐにろしめす天皇すめら詔旨おほみことらまとりたまふ勅命おほみことを、親王みこたち諸臣おほきみたち百官人等もものつかさのひとたち天下あめのした公民おほみたからもろもろ聞食きこしめさへとりたまふ。

かけまくもかしこ平安宮たひらのみや御宇あめのしたしろしめ倭根子やまとねこ天皇すめらみことりたまふ天日嗣あまつひつぎ高御座たかみくらわざを、かけまくもかしこ近江あふみ大津宮おほつのみや御宇あめのしたしろしめしし天皇すめらみこと初賜はじめたま定賜さだめたまへるのりまにまつかまつれと仰賜おほせたま授賜さづけたまひ、かしこ受賜うけたまへる御代みよ御代みよ御定おんさだめのるがうへに、方今いま天下あめのした大政おほみまつりごといにしへかへたまひて、橿原宮かしはらのみや御宇あめのしたしろしめしし天皇すめらみこと御創業はじめたまへるわざいにしへもとづき、大御世おほみよ弥益益いやますます御代みよ個成賜かためなしたまはむ大御位おほみくらゐつかたまひて、すすむも不知しら退しりぞくも不知しらかしこさくとりたまふ大命おほみことを、もろもろ聞食きこしめさへとりたまふ。

しかるに、天下治あめのしたしろしめたまへるきみは、良弼よきたすけて、たひらけくやすらけく治賜をさめたまものりとなむきこしめす。ここ朕浅劣あれをぢなしいへども、親王みこたち諸臣おほきみたちあひあななひたすまつらむことよりて、仰賜おほせたま授賜さづけたまへる食国をすくに天下あめのしたまつりごとは、たひらけくやすらけく仕奉つかへまつるべしとおもほしめす。ここいよよ正直しやうぢきこころいだきて、天皇すめら朝廷みかどもろもろたす仕奉つかへまつれとりたまふ天皇すめら勅命おほみことを、もろもろ聞食きこしめさへとりたまふ。

〔註解〕
平安宮に御宇す倭根子天皇は孝明天皇、大津宮に御宇しし天皇は天智天皇、橿原宮に御宇しし天皇は神武天皇の御事と拝せられる。


〔史実〕
明治元年(慶応四年)八月二十七日、明治天皇には、紫宸殿に於て、即位の大礼を挙げさせたまうた。その御儀式には、従来の流例を改めたまひ、専ら古制に則らせられた。内外多事の折とて、大嘗祭は、特に御延期仰せ出され、東京へ御遷都の後に挙行あらせられた。

ここに謹載したのは、その御即位の宣命である。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)


2017年10月12日木曜日

奥羽に下し給へる詔

(明治元年八月七日)


朝綱テウカウヒトタヒユルミシヨリ、政権セイケンヒサシク武門ブモンス。イマヤ、チン祖宗ソソウ威霊ヰレイリ、アラタ皇統クワウトウキ、大政タイセイイニシヘフクス。コレ大義名分タイギメイブンソンスルトコロニシテ、天下テンカ人心ジンシン帰向キカウスルトコロナリ。サキ徳川トクガハ慶喜ヨシノブ政権セイケンカヘス、マタ自然シゼンイキホヒ、イハン近時キンジ宇内ウダイ形勢ケイセイヒラツキサカンナリ。サイアタツテ、政権セイケン一途イツト人心ジンシン一定イツテイスルニアラサレハ、ナニモツ國體コクタイシ、紀綱キカウフルハンヤ。ココオイテ、オホイ政法セイハフ一新イツシンシ、公卿コウケイ列藩レツパンオヨ四方シハウトモニ、ヒロ会議クワイギオコシ、万機バンキ公論コウロンケツスルハ、モトヨリ天下テンカコト一人イチニンワタクシスルトコロアラザレハナリ。シカルニ奥羽アウウ一隅イチグウイマ皇化クワウクワフクセス。ミダリ陸梁リクリヤウシ、ワザハヒ地方チハウク。チンハナハダコレヲウレフ。ソレ四海シカイウチイヅレチン赤子セキシニアラサル。率土ソツドヒンマタチン一家イツカナリ。チン庶民シヨミンオイテ、ナン四隅シグウベツヲナシ、アヘ外視グワイシスルコトアランヤ。タダチン政体セイタイサマタケ、チン生民セイミンガイス。ユヱヤムス、五畿ゴキ七道シチダウヘイクダシ、モツソノ不廷フテイタダス。オモフニ奥羽アウウ一隅イチグウシユウアニコトゴト乖乱クワイラン昏迷コンメイセンヤ。其間ソノアヒダカナラ大義タイギアキラカニシ、國體コクタイベンスルモノアラン。アルヒ其力ソノチカラオヨハス、アルヒイキホササフルアタハス、アルヒ情実ジヤウジツツウセス、アルヒ事体ジタイ齟齬ソゴシ、モツ今日コンニチイタル。カクゴトキモノ、ヨロシ此機コノキウシナハス、スミヤカソノ方向ハウカウサダメ、モツ素心ソシンアラハセハ、チンシタシクエラトコロアラン。縦令タトヒソノ党類タウルヰイヘドモ、其罪ソノツミ悔悟クワイゴシ、改心カイシン服帰フクキセハ、チンアニコレヲ隔視カクシセンヤ。カナラシヨスルニ至当シタウテンモツテセン。玉石ギヨクセキ相混アヒコンシ、薫蕕クンイウトモオナジウスルハ、シノハサルトコロナリ。ナンヂ衆庶シユウシヨヨロシク此意コノイ体認タイニンシ、一時イチジアヤマリニヨツテ、千載センザイハヂノコスコトナカレ。

朝綱テウカウ 「朝憲」「朝紀」と同じ。朝廷ののり即ち朝廷に於てお定めになつた種々の御法度を概括していふ語。

武門ブモン 「武家」と同じ。武士の家すぢをいふ。

祖宗ソソウ威霊ヰレイ 御先祖にまします天皇の御霊の御威光。「祖宗」は、「皇祖皇宗」と同じ。

大義名分タイギメイブン 最も大いなる人間の本分といふことで、君に対する臣民の道を称する語となつてゐる。「大義」は、義の大いなるもの。「左伝」の隠公四年に、「君子曰ク、石碏セキサクハ純臣ナリ、州吁シウクニクミテコウアヅカル。大義シンヲ滅ストハ、其レ是ヲ之謂フカ、ト。」「名分」は、その身分によつて定まれる人倫上の分限をいふ。臣は臣の道を守り、子は子の道を守るといふやうに、臣・子の身分によつて定まれる本分を、名分といふのである。「荘子」の天下篇に曰ふ。「易ハ以テ陰陽ヲヒ、春秋ハ以テ名分ヲフ。」

帰向キカウ みな同じやうな方向に向ふこと。向ふ所が一に帰するといふ意味。

宇内ウダイ形勢ケイセイ 世界のありさま。「宇内」は、「天下」と同じ。

國體コクタイ 古来、種々の意味に用ゐられてゐる。「国家の面目」といふ意味にも用ゐられ、「国家の威勢」といふ意味にも用ゐられ、「国家の特色」といふ意味に用ゐられ、また「国柄」といふ意味にも用ゐられた。今日では、国家の本質即ちその成立の精神や体制を総括した語となり、重大な意味を生じて来た。

紀綱キカウ 「綱紀」と同じ。国家の大小の政治。白虎通に曰ふ。「大ハ綱ト為シ、小ハ紀ト為ス。」

公卿コウケイ 「くぎやう」とも「くげ」とも訓む。朝廷に奉仕する高官。もと「三公九卿」から出た語である。太政大臣・左大臣・右大臣を公といひ、これに対して、大納言・中納言・三位以上を卿といひ、参議は、四位の者も特にこの卿の中に入れた。

四方シハウ 無位無官の人々。一般の士民。

陸梁リクリヤウ 「跳梁」と同じ。「ほしいままに跳る」といふ意味の語。大いに勢力を張つて猛威を振ふことの意味に多く用ゐられる。班固の西京賦に、「怪獣陸梁」といふ文字がある。

四海シカイウチ 四方の海の内といふことで、国内を意味する語となつてゐる。「論語」に、「四海之内、皆兄弟也。」とある。

赤子セキシ 天皇が万民を仰せられる御言葉。

率土ソツドヒン 「陸地のつづく限り」といふこと。「天下」または「国家」の意味。「詩経」小雅の「溥天フテンノ下、王土ニ非ザルハク、率土ノ濱、王臣ニ非ザルハ莫シ」から出た語。

五畿ゴキ七道シチダウ 山城・大和・河内・和泉・摂津の畿内五箇国と、東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海の七道をいふ。

不廷フテイ 朝廷の命に従はざる者をいふ。「不庭」に通ずる。「不庭」は、王庭に来朝せざる者といふ意味の語である。「左伝」の隠公十一年に、「王命ヲ以テ不庭ヲ討ツ。」とある。

乖乱クワイラン昏迷コンメイ そむいて乱を起したり、正しい道理がわからずに迷つたりすること。

事体ジタイ齟齬ソゴ 事がらがくひちがふこと。「齟齬」は、上下の歯が悪くて嚙み合せることが出来ないことの意味から、物事のくひちがひといふ意味に転用せられてゐる語である。「太玄経」に、「其志齟齬」とある。

素心ソシン 「本心」と同じ。本来の心をいふ。李白の詩に曰ふ。「素心美酒ヲ愛シ。」また心の潔白を意味する語としての用例もある。顔延之の文に曰ふ。「ワカクシテタハムレヲ好マズ、長ジテ実ニ素心ナリ。」

玉石ギヨクセキ相混アヒコン 「玉と石とがまじつてゐる」といふことで、善悪の区別なきことや、賢愚の区別なきことに喩へられる語。「抱朴子」に曰ふ。「真偽顚倒、玉石混淆。」

薫蕕クンイウトモオナジウスル 善人も悪人も同じやうに取扱ふこと。「薫」は香草、「蕕」は臭草である。善人と悪人、君子と小人等を対照する時に、この「薫蕕」の文字が用ゐられる。

千載センザイ 「千年」と同じ。しかし、ただ千年といふ数字的の歳月を意味せず、非常に永き期間をいふ語となつてゐる。「三国名臣序賛」に「千載一遇、賢智之嘉会。」とある。


〔大意〕
朝廷の政綱が一度び衰へてから、政権が久しい間武家に委せられてあつた。今、朕が御先祖の御霊の御威光によつて、新に皇位をついで、大政が再び昔にかへつた。これは、大義名分の存するところであり、天下の人々の心が同じ方向に向つて来たからである。さきに徳川慶喜が政権をかへしたのもまた自然の勢であつた。殊に近ごろは、世界の形勢が、日に月に開けて進んで行く。かういふ時に当つて、政権が一途に出で、人の心が一定しなければ、どうしてこの國體を保ち、紀綱を振はせることが出来ようか。そこで、大いに政治の方法を一新し、公卿や諸藩や天下の一般士民とともに、広く会議を起し、すべての政を正しい意見によつてきめるのは、もとより天下のために必要なことで、一人の者が自分勝手にするところではない。しかるに、奥羽の隅の方には、まだ皇化にしたがはず、妄りに暴威を振ふ者があり、禍をその地方に及ぼしてゐる。朕はこれをまことに心配してゐる。凡そこの国の中に、だれ一人として朕の赤子でない者があらう。国土のつづく限り、みな朕の一家である。朕は、どうして多くの民の中の、遠い四方の隅々にゐる者だけを区別し、これを他国のやうな扱ひをすることが出来ようか。朕の政治を妨げ、朕の良民を害するから、それで、やむを得ず、五畿七道の兵をさしつかはして、反逆者の過を正すのである。思ふに、奥羽の隅にゐる者とても、悉く道理のわからない反逆者ばかりではあるまい。その間には、必ず君臣の大義を知り、國體といふことをよくわきまへてゐる者もあらう。その力が及ばなかつたり、自然の勢にかつことが出来なかつたり、ほんたうの事情がわからなかつたり、為す事がらがくひちがつたりして、今日のやうになつた者もあらう。さういふ者が、このをりを失はず、早く自分の進むべき方向を定め、さうして本心に立ちかへるならば、朕は、それについて考へるところがあらう。たとへ反逆者の仲間の者でも、その罪を悔い、心を改めて帰順すれば、朕は、これを別け隔てして見るやうなことをしない。必ず相当の恩典を与へるであらう。善人も悪人も一しよにしてしまふのは、忍びないことである。汝多くの民よ。どうかこの意をよく心得て、一時のまちがつた考へのために、ながく辱をのこすやうなことがないやうにせよ。


〔史実〕
鳥羽・伏見に於て、官軍に抵抗し、敗れた会津藩主松平容保かたもりは、大阪から江戸に逃れて国に帰つた。そこで、明治元年(慶応四年)三月二日、九条道孝が鳥羽鎮撫総督を拝命して、薩・長の兵若干を率ゐて、大阪から海路仙台に向つた。当時、関東の地が未だ平定せず、大兵を送り難き状態にあつたから、朝廷に恭順せる諸藩の兵を以て、朝命を奉ぜざる諸藩を討伐する方針を立て、道孝は、仙台藩の出兵を促した。しかるに、松平容保は、先非を悔いて謹慎し、仙台・米沢の二藩主に、降服謝罪の歎願を依頼した。仙台侯伊達慶邦よしくに、米沢侯上杉斉憲なりのりは、その願意を諒とし、総督道孝に討伐の中止を請うた。官軍の参謀の中に、頑として肯かず、あくまでも二藩に会津討伐を促す者があつたので、奥羽の人心が激昂し、「薩・長二藩は、王師に名を藉りて、私心を逞しうする者なり」とし、遂に諸藩が連盟して、総督に反抗するに至り、更に南部・秋田・津軽・二本松・棚橋等二十餘藩が悉くこれに応じて起ち、官軍は、施すべき策もなくなつた。その中に関東地方が平定したので、五月十九日、有栖川宮熾仁たるひと親王が会津征伐大総督に任ぜられ、官軍は、越後口と奥州口から、進発することになつた。その八月七日に、奥羽の士民を諭告したまうたのが、ここに謹載した詔である。

新政のはじめに、かうした内乱の生じたことを、深く遺憾におぼしめされた大御心から、この優渥なる詔を下し賜はつたものと拝察せらる。「夫四海ノ内、孰カ朕ノ赤子ニアラサル。率土ノ濱、亦朕ノ一家ナリ。」と仰せられ、「顧フニ奥羽一隅ノ衆、豈悉ク乖乱昏迷センヤ。其間必ス大義ヲ明ニシ、國體ヲ辨スル者アラン。或ハ其力及ハス、或ハ勢ヒ支フル能ハス、或ハ情実通セス、或ハ事体齟齬シ、以テ今日ニ至ル。」と仰せられ、更に、「玉石相混シ、薫蕕共ニ同スルハ、忍ハサル所ナリ」と仰せられてある。八紘一宇の御精神を以て君臨したまふ厚き御仁心が溢れてゐる。反逆の民にもなほこの寛大と温情とを以て悔悟を促したまうたのである。聖恩の優渥なること、まことに筆紙につくし難い。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年10月11日水曜日

江戸を東京と改称し給へる詔

(明治元年七月十七日)


チンイマ万機バンキ親裁シンサイシ、億兆オクテウ綏撫スヰブス。江戸エド東国トウゴク第一ダイイチ大鎮ダイチン四方シハウ輻凑フクソウヨロシク親臨シンリンモツ其政ソノマツリゴトルヘシ。ヨツ自今ジコン江戸エドシヨウシテ東京トウキヤウトセン。コレチン海内カイダイ一家イツカ東西トウザイ同視ドウシスル所以ユヱンナリ。衆庶シユウシヨ此意コノイタイセヨ。

万機バンキ親裁シンサイ すべての政を、天皇が御親ら行はせられること。

億兆オクテウ綏撫スヰブ 多くの民をいたはり治めたまふこと。「億兆」は、「万民」と同じ。「綏撫」は、いたはり愛すること。「呉志」孫瑜伝に曰ふ。「虚心ニ綏撫シ、其ノ歓心ヲ得。」

大鎮ダイチン 大都会の意味。支那では、人口五万以上の市を「鎮」と称した。それから大都市にこの文字が用ゐられるやうになつた。

四方シハウ輻凑フクソウ 「四方から人の集まつて来るところ」といふ意味。「輻凑」は、「輻輳」とも書く。車のこしきにあつまるといふ意味から、物が一所に集まることの意味に転用せられる語である。「四方輻輳」の語は、「漢書」の叔孫通伝に出てゐる。

海内カイダイ一家イツカ 「八紘一宇」と同じく、国内を一家と同じやうに視るといふ宏遠なる聖旨のあらはれた御言葉と拝する。


〔大意〕
朕は、今すべての政を親ら行つて、万民をいたはり治める。江戸は、東国第一の大都会で、四方から人の集まる土地であるから、そこへ親ら臨んで政をするであらう。よつて、これから、江戸を東京といふことにしよう。これは、朕が国内を一つの家のやうに思ひ、東も西も同じやうに見るからである。多くの民もこれをよく心得ておくがよい。


〔史実〕
明治元年(慶応四年)七月十七日、江戸を東京と改称したまひ、且、遷都を仰せ出された詔である。王政維新と同時に、早くも遷都の必要が議に上つた。慶応三年十一月、薩摩の伊地知正治は、難波遷都論を唱へたが、時期尚早のために問題とならなかつた。慶応四年、新政府の成立早々、大久保利通は、正月二十三日の朝議に、難波遷都の必要を主張したが、反対者が多く、決議に至らなかつた。大久保は、初志をげず、木戸孝允を説いて、その賛成を得た。しかるに、前島ひそかは、大久保に書を呈して、江戸遷都論を力説した。維新の戦乱に際し、江戸の事情を偵察してゐた佐賀藩士江藤新平も、帝都の地として江戸の適当なることを認め、同藩の大木民平(喬任)に語り、更に藩主鍋島直正の同意を得、佐賀藩論として、岩倉具視に建白した。木戸孝允は、京都・大阪・東京の三京並置論を立てたが、江戸遷都を建議する者が次第に多くなり、遂にこの詔を拝するに至つたのである。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年10月10日火曜日

救荒の勅語

(明治元年六月二十二日)


曩者サキニ徳川トクガハ慶喜ヨシノブヘイケテケツヲカサントスルヤ、伏見フシミヨドトウ民家ミンカ焚焼フンセウシ、チン赤子セキシ蹂躪ジウリンス。ユヱチンオホイ軍旅グンリヨハツシ、コレ追伐ツイバツス。シカシ軍務グンム繁劇ハンゲキ費用ヒヨウ夥多クワタ今日コンニチイタマデイマサイフノタミ賑恤シンジユツスルコトアタハス。チン宵旰セウカンコレオモフテ、殷痛インツウマコトセツナリ。嗚呼アアチン祖宗ソソウレイリ、億兆オクテウ君臨クンリンシ、畿甸キデンタミスラナホカクゴトシ。シカルヲイハンヤ、東方トウハウ諸州シヨシウアラタ荼毒トドクカカモノナニモツ救助キウジヨセン。コレチンジツ万機バンキルニ不堪タヘズフカミヅカチ、ミヅカカナシトコロナリ。庶幾コヒネガハクハ、主者シユシヤチン慈意ジイタイシ、詳議シヤウギ審論シンロンモツ賑恤シンジユツ救助キウジヨスルトコロモノアランコトヲハカレ。

曩者サキニ 「さきの日に」である。「曩」は、「さき」(前)「むかし」(昔)「久し」等の意味を有する文字。「者」は助辞。「左伝」の襄公二十四年に、「曩者サキニハ入ルニ志ス而已ノミ。」とある。

ケツヲカサントスル 「宮城に攻め入らうとする」といふこと。「闕」は、「かける」(缺)といふ意味の文字である。支那では、宮城門外の左右に台を築き、その上に楼観を設け、中央の闕けたところを出入の道とした。それから「闕」の文字が「宮城」の意味に転用せられるやうになつた。「五代史」周太祖徳妃董氏伝に曰ふ。「年十三、劉進超ニ嫁ス、契丹闕ヲ犯シ、進超虜中ニ歿ス、妃洛陽ニ嫠居ス。」

焚焼フンセウ 火を放つて焼くこと。「荀子」に曰ふ。「餘ハ丘山ノ若ク、時ニ焚焼セザレバ、之ヲ蔵スル所無シ。」

赤子セキシ蹂躪ジウリン 「赤子」は、古来、天皇が万民をさして仰せられた御言葉。「書経」の中にも、「赤子ヲ保ツガ如シ。」といふ文字がある。「蹂躪」は、「ふみにじる」といふ意味の語である。多くの民を殺したり傷けたりして苦しめたことを仰せられたものと拝する。「漢書」に、「百姓奔走シテ、相蹂躪ス。」といふ文字がある。

軍旅グンリヨ 「軍隊」と同じ。昔、支那では、軍兵五百を「旅」と称した。それから転じて、「軍旅」は、「軍隊」を意味する語となつた。「論語」の衛霊公篇に、「軍旅之事ハ、未ダ之ヲ学バザル也。」とある。

賑恤シンジユツ 「にぎはしめぐむ」といふ字義の文字。窮民に食物その他の物資を施与して救助することの意味に用ゐられてゐる。御歴代の詔勅に最も多く拝する文字である。

宵旰セウカンコレオモフテ 「朝から夜までこれを思うて」といふこと。「宵旰」は、「宵衣旰食」の略語として用ゐられることが多い。「宵衣旰食」は、未明に起きて衣を、日ぐれて食膳につくことから、天皇が御政務に精励したまふことに転用せられる語。ここでは、ただ「朝から夜まで」の御意に拝せられる。

殷痛インツウ 「大いにかなしむ」といふこと。「殷」は、「大いに」「盛に」等の意味を有する文字である。

畿甸キデン 「畿内」と同じ。支那の周代には、王城の周囲五百里以内の地を、「畿」といひ、「甸」ともいつた。それから「畿甸」の文字は、「畿内」と同じ意味に用ゐられてゐる。我が国では、古くから、山城・大和・河内・和泉・摂津を畿内五箇国と称した。

荼毒トドク 「害毒」と同じ。「荼」は「苦菜ニガナ」である。「苦菜の毒」を喩として、「害毒」の意味に転用したものであらう。「書経」の湯誥に曰ふ。「其ノ凶害ニ罹リ、荼毒ニ忍ビズ。」


〔史実〕
王政復古の新政を喜ばない徳川譜代の諸大名や旧幕臣に擁せられて、一旦大政を奉還した徳川慶喜は、明治元年正月、討薩を標榜して入京を企て、鳥羽・伏見の戦を惹起し、大敗して江戸に逃れ帰り、謹慎の意を表し、三月十四日、幕臣勝安芳と官軍の参謀西郷隆盛との会見により、江戸城の明渡しとなつた。しかし、この叛乱のために、畿内の民が少からぬ戦禍を蒙つたのみならず、慶喜が謹慎した後にも、なほ幕府の残党が各地に於て官軍に反抗してゐたので、諸国の民がその害毒に苦しんだ。新政府の樹立、叛乱の鎮定等、政務極めて御多忙にあらせられた明治天皇には、その間にも、万民の苦しみを深くあはれみたまうて、明治元年(慶応四年)六月二十二日、ここに謹慎した詔を賜はり、救荒賑恤を仰せ出されたのであつた。政府に於ては、聖旨を奉体して、同日、左のとほり、諸道府県に布告した。

方今、王化天下ニアマネカラント欲ス、此年ニ当リ、無辜ノ生民、兵燹ヘイセンノ災ニ罹リ、加之シカノミナラズ、洪水暴漲、惨毒之イタリ、近畿最甚シ、且東北諸路、賊徒平定ニ至ラス、生民ノ塗炭、一端ニアラス。皇上深ク難被為忍シノバセラレガタク、救恤阜財之道、被為尽度ツクサセラレタキ勅旨、痛切ニ被仰出オホセイデラレ候付テハ、至仁之聖意ヲ体認シ、其民ヲシテ安堵セシムルハ、今日府県ノ責ナリ。即今創建ノ初、救荒ノ典未タ立スト雖トモ、一日斯民ニノゾム者、即一日此道ヲ講セスンハアラス。況ヤ今日眼前ノ窮厄ヲヤ。故ニ賑救ノ急務、左ニ記ス。
一 兵燹之厄、洪水之害、窮民流離、路頭ニ立者、一村ニ幾人、且其破産・蕩家等、一一細詳ニ査点シ、救助其宜ヲ得ヘシ。若兵厄水害ヲ被ムル地ト雖トモ、捜択其宜ヲ得ス、徒ニ金穀ヲ給スレハ、却テ蠧弊トヘイヲ生シ、下民ノ怨望ヲ起シ、宜シカラサル事。
一 没田之民ハ、全ク其租賦ヲ免シ、其他漲溢ノ田畑ハ、荒敗ノ軽重ヲ量リ、蠲免ケンメン其宜ヲ得ヘキ事。
一 堤防・橋梁之破壊、急急修理可致イタスベキ事。
但、普請等、私利ヲ営マサル廉吏ヲ択ヒ、水理ニクハシキ者ニ任シ、人夫等ハ、其地ノ窮民ニ賃シテ、相用ヘキ事。
一 厄害ノ等ヲ辨シ、救恤ノ道ヲ立ツ、今日ノ事ハ、奏可ヲ待タス、府県ヘ専任ス。宜ク可得其道ソノミチヲウベキ事。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年10月9日月曜日

明治維新の宸翰

(明治元年三月十四日)


ちん幼弱えうじやくもつて、にはか大統たいとうき、爾来じらいなにもつ万国ばんこく対立たいりつし、列祖れつそつかたてまつらんやと、朝夕てうせき恐懼きようくたへさるなりひそかかんがふるに、中葉ちゆうえふ朝政てうせいおとろへてより、武家ぶけけんもつぱらにし、おもて朝廷てうてい推尊すゐそんして、じつけいしてこれとほざけ、億兆おくてう父母ふぼとして、たえ赤子せきしじやうることあたはさるやうはかりなし、つひ億兆おくてうきみたるも、ただのみにはてそれために、今日こんにち朝廷てうてい尊重そんちようは、いにしへにばいせしかごとくにて、朝威てうゐますますおとろへ、上下しやうか相離あひはなるゝこと霄壌せうじやうごとし。かゝる形勢けいせいにて、なにもつ天下てんか君臨くんりんせんや。今般こんぱん朝政てうせい一新いつしんときあたり、天下てんか億兆おくてう一人いちにん其処そのところさるときは、みなちんつみなれは、今日こんにちことちんみづから身骨しんこつらうし、心志しんしくるしめ、艱難かんなんさきたちいにしへ列祖れつそつくさせたまひしあとみ、治蹟ちせきつとめてこそ、はじめ天職てんしよくほうして億兆おくてうきみたるところそむかさるへし。往昔わうせき列祖れつそ万機ばんきみづからし、不臣ふしんのものあれは、みづかしやうとしてこれをせいたまひ、朝廷てうていまつりごとすべ簡易かんいにして、如此かくのごとく尊重そんちようならさるゆへ、君臣くんしん相親あひしたしみて、上下しやうか相愛あひあいし、徳沢とくたく天下てんかあまねく、国威こくゐ海外かいぐわいかがやきしなり。しかるに近来きんらい宇内うだいおほいひらけ、各国かくこく四方しはう相雄飛あひゆうひするのときあたり、ひとり我邦わがくにのみ世界せかい形勢けいせいにうとく、旧習きうしふ固守こしゆし、一新いつしんかうをはからす、ちんいたづらに九重中ここのへのうち安居あんきよし、一日いちじつやすきをぬすみ、百年ひやくねんうれひわするゝときは、つひ各国かくこく凌侮りようぶけ、かみ列聖れつせいはづかしめたてまつり、しも億兆おくてうくるしめんことおそる。ゆゑに、ちん、こゝに百官ひやくくわん諸侯しよこうひろ相誓あひちかひ、列祖れつそ御偉業ごゐげふ継述けいじゆつし、一身いつしん艱難かんなん辛苦しんくとはす、みづか四方しはう経営けいえいし、なんぢ億兆おくてう安撫あんぶし、つひには万里ばんり波濤はたう拓開たくかいし、国威こくゐ四方しはう宣布せんぷし、天下てんか富岳ふがくやすきにおかんことをほつす。なんぢ億兆おくてう旧来きうらい陋習ろうしふれ、尊重そんちようのみを朝廷てうていこととなし、神州しんしう危急ききふをしらす、ちんひとたひあしあぐれは、非常ひじやうおどろき、種々しゆじゆ疑惑ぎわくしやうし、万口ばんこう紛紜ふんうんとして、ちんこころざしをなささらしむるときは、これちんをしてきみたるみちうしなはしむるのみならす、したがつ列祖れつそ天下てんかうしなはしむるなりなんぢ億兆おくてう能々よくよくちんこころざし体認たいにんし、相率あひひきゐ私見しけんり、公議こうぎり、ちんげふたすけて、神州しんしう保全ほぜんし、列聖れつせい神霊しんれいたてまつらしめは、生前せいぜん幸甚かうじんならん。

にはか大統たいとう 急に天皇の御位をつがせられたことを仰せ出された語。「大統」は、「皇統」と同じ。天皇の御系統をいふ。

列祖れつそ 「皇祖皇宗」と同じ。御歴代の天皇の御事。

中葉ちゆうえふ 「中世」と同じ。武家が政権を左右した時代のことを仰せられてあるものと拝する。

推尊すゐそん すすめ尊ぶこと。即ち尊んでおしすすめること。麻九疇の詩に曰ふ。「画史推尊為第一。」

億兆おくてう 「万民」と同じ。多くの国民をいふ。「億」も「兆」も非常に大いなる数である。それから転じて多くの民をいふ語となつたものと思はれる。

霄壌せうじやう 「天地」と同じ。天と地ほどのへだたりといふ場合即ち非常に大いなる差を喩へていふ語として多く用ゐられる。

君臨くんりん 天皇として天下を統治したまふこと。「国語」に曰ふ。「赫赫たる楚国にして、之に君臨す。」

其処そのところさる それぞれ適当な地位に安定し得ないこと。安定した生活の出来ないことの意味。

あと 同じやうに行ふこと。

治蹟ちせきつと 国家がよく治まるやうにつとめるといふこと。

天職てんしよく 最も尊い職。天神から承けつがせられた天皇の御地位を称したまうたものと拝する。

不臣ふしんのもの 臣にあらざる者といふこと。臣道に反する行をした不忠の臣の意味。「漢書」の王尊伝に、「倨慢不臣」といふ語がある。

宇内うだい 「天下」と同じ。「史記」の秦紀に曰ふ。「天下ヲ席巻シ、宇内ヲ包挙ス。」今日では、「世界」といふ意味にこの文字が多く用ゐられてゐる。ここに仰せられてあるのも、「世界」の意味に拝せられる。

雄飛ゆうひ 大いに活動するといふこと。雄鳥の雄々しく飛ぶやうな勢を以て事を行ふといふ字義の語である。「後漢書」の趙典伝に、「丈夫マサニ雄飛スベシ、 イヅクンゾク雌伏セン」とある。

九重中ここのへのうち 「九重」は、宮中の別称。支那に於て、王城の門を九重に作つたことから出た語である。

一日いちじつやすきをぬす ほんの一日の安全をむさぼるといふこと。目前寸時の安心に満足する意味。次にある「百年の憂を忘るる」に対する語である。「偸み」は、「むさぼる」ことの意味。賈誼新書に、「夫レ火ヲ抱キ之ヲ積薪之下に措キテ其ノ上ニ寝、火未ダ燃エ及バズ、因リテ之ヲ安キト謂フハ、安キヲ偸ム者ナリ。」

凌侮りようぶ 「かろんじあなどる」こと。「晋書」斉王攸伝に曰ふ。「酒ヲ使ヒシバシバ凌侮ス。」

万里ばんり波濤はたう拓開たくかい 遠い海のはての地方までもひらくといふこと。「万里の波濤」は、前に述べたとほり。「拓開」は、「開拓」と同じ。荒蕪の土地をひらいて耕地とすることをいふ。

富岳ふがくやすきにおか 富士山のやうに安定した地位に置くといふこと。最も基礎が鞏固で安全なことの喩。「富岳」は、富士山である。乃木希典の詩に曰ふ。「崚嶒富岳聳千秋、赫灼朝睴照八洲。」

神州しんしう 神の国といふ意味の語。日本の異称。

万口ばんこう紛紜ふんうん 多くの者が口々にやかましくわめきたてること。「紛紜」は、「盛なること」や「乱れたること」の有様をいふ語である。「楚辞」の九歎に、「腸紛紜以繚転兮」とあり、班固の賦に、「万騎紛紜」とある。

体認たいにん 道理をよく理解して実行に力めること。


〔史実〕
ここに謹載した宸翰は、明治元年(慶応四年)三月十四日、天神地祇に五箇条の御誓文を御親告あらせられた明治天皇が、広く天下に宣布したまうたものである。五箇条の御誓文に仰せ出された新らしい国是は、久しい封建制度に慣れた国民に、あまりにも急激な大改革であつたから、これに驚き疑惑を生ずる者がないやうに、この宸翰により、懇々と御諭しあそばされたものと拝する。故に、これは、宸翰の形式で発せられたが、詔勅と同じ性質の聖訓である。「今般朝政一新の時に膺り、天下億兆、一人も其処を得さる時は、皆朕が罪なれは」と仰せられ、また「列祖の御偉業を継述し、一身の艱難辛苦を問す、親ら四方を経営し、汝億兆を安撫し」と仰せられ、まことに宏遠なる皇謨の中に、優渥なる聖旨が溢れてゐる。この宸翰を拝した公卿諸侯は、総裁輔弼の名を以て、次の如く一般国民に諭示した。
右御宸翰之通のとほり、広く天下億兆蒼生を思食おぼしめさせ給ふ深き御仁恵の御趣意につき、末末の者に至る迄、継承し奉り、心得違こころえちがひ無之これなく、国家の為に精精其分そのぶんを尽すべき事。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年10月8日日曜日

天神地祇を祭り給へる御祭文

(明治元年三月十四日)


かけまくもかしこ天神あまつかみ地神くにつかみ大前おほまへに、今年ことし三月十四日を生日いくひ足日たるひ撰定えらびさだめて、禰宜ねぎまをさく。いまより天津神あまつかみ御言寄みことよさしまにまに、天下あめのした大政おほきまつりごと執行とりおこなはむとして、親王みこたち卿臣まへつきみども国国くにぐにの諸侯みこともちども百寮つかさつかさの官人ひとども引居連ひきゐつらねて、神床かみどこ大前おほまへうけひつらくは、ちかころほひ、邪者よこしまもの是所ここ彼所かしこすさたけびて、天下あめのした佐夜藝さやぎ佐夜藝さやぎひとこころ平穏おだひならず、かれ是以ここをもて天下あめのした諸人等もろびとどもちからあはせ、こころひとつにして、すめら我政わがまつりごと輔翼奉あななひまつり、令仕奉給つかへまつらしめたまへと、請祈申こひのりまをす礼代ゐやしろは、横山よこやまごと置高成おきたかなしたてまつかたち聞食きこしめして、天下あめのした万民よろづたみ治給をさめたま育給はぐくみたまひ、谷蟆たにぐく狭渡さわたきはみ白雲しらくも堕居おりゐ向伏むかぶすかぎりさからひ敵対者あたなふもの令在給あらしめたまはず、遠祖尊とほつみおやのみこと恩頼みたまのふゆかうむりて、無窮とこしへ仕奉つかへまつれる人共ひとども今日けふ誓約うけひたがはむものは、天神あまつかみ地祇くにつかみ倐忽たちまち刑罰給つみなひたまはむものぞと、皇神等すめがみたちみまへに、うけひ吉詞よごとば申給まをしたまはくとまをす。

生日いくひ足日たるひ その当日を賀する語。「吉日」の意。「生日」は生ひ栄ゆる日、「足日」は足り満つる日である。「出雲国造神賀詞」に曰ふ。「八十日やそかびはあれど、今日の生日の足日に、出雲国造、かしこかしこみも申したまはく、」

御言寄みことよさし お任せになること。「御委任」と同じ。前出。「みことよさし」は、「ことよさし」に「み」の敬語の加はつたもの、「ことよさし」は、「ことよす」の敬称、「ことよす」は、「事を委ねる」即ち委任・任命等の意味を含める語である。「大祓祝詞」に曰ふ。「我が皇御孫すめみまみことは、豊葦原の水穂の国を安国やすくにたひらけく知食しろしめせと、事依ことよさまつりき。」

天下あめのした佐夜藝さやぎ 「天下がさわがしく」といふこと。動乱勃発の意味。「さやぎ」は、「さやさや」(喧々)の活用。「騒騒さわさわと鳴る」といふ意味の語である。「古事記」上巻に曰ふ。「豊葦原の水穂の国は、いたくさやぎてありけり。」

輔翼奉あななひまつ 「あななひ」は、現代語の「助ける」である。古代の詔勅や、宣命にしばしばこの語を拝してゐる。

礼代ゐやしろ 御礼のための贈物。「礼物」と同じ。また「ゐやじり」ともいふ。「古事記」下巻に曰ふ。「然れども言以こともまをこと礼无ゐやなしとおもほして、すなはいも礼物ゐやしろて、押木之おしぎの玉縵たまかづらたしめて貢献たてまつりき。」

谷蟆たにぐく狭渡さわたきはみ 「谷蟆たにぐくが通つて行く限りのところ」といふこと。「どんな狭い隅の方までも」の意味。「谷蟆」は、「ひきがへる」の古名である。「祈念祭祝詞」の中に、「皇神すめがみきますしま八十島やそしまは、谷蟆たにぐくのさわたきはみ塩沫しほなはとどまかぎりくにひろく、さがしきくにたひらけく、」とあり、「万葉集」巻五・巻六の長歌にも、「谷蟆のさわたる極」といふ語が出てゐる。

白雲しらくも堕居おりゐ向伏むかぶすかぎり 「白雲が地におりて伏してゐるやうに見えるかぎりのところ」といふこと。極めて遠方を意味する語である。「祈年祭祝詞」に、「皇神すめがみ見霽みはるかします四方国よものくには、あめ壁立かべたきはみくに退かぎり青雲あをぐもたなびきはみ白雲しらくも堕居をりゐ向伏むかぶかぎり青海原あをうなばら棹柁さをかぢさず、」とある。また「万葉集」巻三の長歌には、「天雲あまぐも向伏国むかぶすくにの」といふ語がある。

恩頼みたまのふゆ 御霊の恩恵。神恩の辱けなさを感謝していふ語。「日本書紀」には、しばしばこの語が用ゐられてゐる。神代紀に曰ふ。「是を以て百姓今に至るまでことごと恩頼みたまのふゆかかぶれり。」


〔史実〕
前述の如く、明治元年(慶応四年)三月十四日、明治天皇には、天神地祇を祭りたまうて、五箇条の御誓文を誓御親告あそばされた。ここに謹載したのは、その当日の御祭文である。

なほ当日の御祭式次第は、次のとほりであつた。

一 午ノ刻、群臣着座、公卿・諸侯母屋モヤ、殿上人南廂、徴士東廂
一 塩水行事 神祇輔勤之コレヲツトム 吉田三位侍従
一 散米行事 神祇権判事勤之コレヲツトム 植松少将
一 神祇督着座 白川三位
一 神於呂志オロシ神歌 神祇督勤之コレヲツトム
一 献供 神祇督・同輔・同権判事等立列リフレツ拝送ハイソウ、同輔 津和野侍従 点検
一 天皇出御
一 御祭文読上ヨミアゲ 総裁職勤之コレヲツトム 三条大納言
一 天皇御神拝 シタシ幣帛ヘイハクノ玉串ヲ奉献シタマフ
一 御誓書読上ヨミアゲ 総裁職勤之コレヲツトム
一 公卿・諸侯就約 但一人ヅツ中央ニ進ミ、先ツ神位ヲ拝シ、御座ヲ拝シ、而後シカルノチ執筆加名
一 天皇入御
一 撒供 拝送如初ハジメノゴトシ
一 神阿計アゲ神歌 神祇督勤之コレヲツトム
一 群臣退出


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)