2017年11月14日火曜日

清国皇帝への国書

(明治四年五月)


大日本国ダイニツポンコク天皇テンノウツツシン大清国ダイシンコク皇帝クワウテイマヲス。方今ハウコン寰宇クワンウアヒダ交際カウサイ日日ヒビサカンナリ。我邦ワガクニスデ泰西タイセイ諸国シヨコクシンツウシテ往来ワウライセリ。イハンヤ隣近リンキン貴国キコクゴトキ、モトヨヨロシク親善シンゼンレイヲサムヘキナリ。シカシテイマ使幣シヘイツウシ、和好ワカウムスフコトアラサルヲ、フカモツウラミス。スナハトク欽差キンサ大臣ダイジン従二位ジユニヰカウ大蔵卿オホクラキヤウ藤原フヂハラ朝臣アソミ宗城ムネナリシ、モツ貴国キコクツカハシテ誠信セイシンタツセシム。ヨツスルニ全権ゼンケンモツテシ、便宜ベンギコトオコナハシム。ネガハクハ、貴国キコク交誼カウギオモヒ、隣交リンカウアツクシ、スナハ全権ゼンケン大臣ダイジンシ、会同クワイドウ酌議シヤクギシ、条約デウヤク訂立テイリツシテ、両国リヤウコクケイカウムリ、永久エイキウカハラサランコトヲ。スナハ名璽メイジソナヘ、ツツシンマヲス。シテイノル、皇帝クワウテイ康寧カウネイ万福バンプクナランコトヲ。


〔史実〕
ここに謹載したのは、明治四年五月、大蔵卿伊達宗城を欽差大臣として清国に遣はされ、修好条約を締結せしめたまうた時、清国皇帝に賜はつた国書である。修好条約の締結については、前勅「伊達宗城を清国に遣はし給へる勅」の中に、その顚末を略述しておいた。本勅は、文辞平易、聖旨も明らかに拝し得られる。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年11月13日月曜日

伊達宗城を清国に遣はし給へる勅

(明治四年五月十五日)


我国ワガクニ清国シンコク壌土ジヤウドトナリス。ヨロシ親交シンカウ往来ワウライスヘシ。ココニ、ナンヂ宗城ムネナリモツテ、欽差キンサ大臣ダイジンシ、清国シンコク隣好リンカウヲサメ、条約デウヤクサダメ、スルニ全権ゼンケンモツテシ、便宜ベンギコトオコナハシム。ナンヂ宗城ムネナリソレ両国リヤウコクヨシミシ、モツチンノゾミヘヨ。

壌土ジヤウドトナリ 「国が隣りあつてゐる」といふこと。「壌土」は、「国土」といふに同じ。この文字は、別に、「農作物に適する土」といふ意味にも用ゐられる。しかし、「壌」は、「つち」(土)の外に、「ところ」(場所)「くに」(国土)を意味する文字であるから、「壌土」を国土の意味に用ゐる場合が多い。

欽差キンサ大臣ダイジン 外交官の名称。当時、勅命を奉じて、対外交渉の任に当つた最高地位の外交官。「欽差」は、「天子の御使」を意味する文字である。「正字通」に曰ふ。「御音ヲ欽勅ト曰ヒ、御使ヲ欽命ト曰ヒ、俗ニ欽差ト曰フ、皆敬意ヲ取レリ。」


〔史実〕
我が国と支那との関係は、古くから国史に伝へられてゐる。隋・唐の頃、既に使節の往復が行はれたことは、本書に謹載した国書によつても明らかである。豊臣秀吉の外征以来、相互の国交は杜絶し、江戸時代に入りても、彼の国の商船が長崎に来て貿易をしたのみに過ぎなかつた。

明治維新後、開国の国是によつて、諸外国と交通をするに及び、おのづから支那との国交も考慮せられるに至つた。明治三年六月、外務権大丞柳原前光さきみつは、命を受けて、支那の上海に赴いて、通商を求めた。当時、支那は、国号を清と称してゐた。外務卿沢宣嘉のぶよしから、清国の総理外国事務大臣に送れる書には、
大日本従三位外務卿清原宣嘉・従四位外務大輔藤原宗則ら、謹みて書を大清国総理外国事務大憲台下に呈す。方今、文明の化おほいに開け、交際の道に盛に、宇宙の間遠邇ゑんじあることなし。我が邦近歳泰西諸国と互に盟約をかはし、共に有無を通ず。況んや、隣近貴国の如き、宜しく最先に情好を通じ、和親を結ぶべし。而かるに、たゞ商船の往来あるのみにして、未だ嘗て交際の礼を修めず、また一大闕典けつてんならずや。さきに我が邦政治一新の始め、即ち欽差公使を遣はして盟約を修めんと欲す。内地多事に因りて、遅延して今に至る。深く此れをうらみと為す。ここに奏准を経て、特に従四位外務権大丞柳原前光・正七位外務権少丞藤原義質・従七位文書権正鄭永寧ていえいねい等を貴国に遣はす。豫前に通信事宜を商議し、以て他日我が公使と貴国と和親条約を定むるの地と為す。伏してねがはくは、貴憲台下、右官員等を歓接し、其の陳述する所を取載せよ。謹白。明治三年庚午七月。
これによつて明らかなるが如く、柳原前光等は、修好通商条約締結の豫備協議に派遣せられたものであつた。前光等は、上海より天津に至り、十月、清国政府の回答を得た。清国政府は、我が要求を容れ、他日、我が国より特派した使節と商議して、条約を締結し、両国の親善を進めるといふのであつた。そこで、前光等は、使命を果して帰朝した。

かくの如く、既に交渉が成立したので、明治四年四月、朝廷に於かせられては、大蔵卿伊達宗城を欽差全権大臣に任じたまうて、清国へ遣はされた。外務大丞柳原前光・権大丞津田真道は、副として随従した。宗城等は、五月、東京を発して、清国に至り、彼の国の欽差全権大臣李鴻章と会見して、修好条約を議し、七月二十九日に調印ををはつた。条約本文は、十八条より成り、別に通商章程を定めた。

ここに謹載したのは、明治四年五月二十五日、欽差大臣を拝命して清国に赴く伊達宗城に賜はつた勅である。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年11月10日金曜日

新律綱領頒布の上諭

(明治三年十二月二十日)


チン刑部ギヤウブミコトノリシテ律書リツシヨ改撰カイセンセシム。スナハ綱領カウリヤウ六巻ロククワン奏進ソウシンス。チン在廷ザイテイ諸臣シヨシンシ、モツ頒布ハンプユルス。内外ナイグワイ有司イウシコレ遵守ジユンシユセヨ。


〔備考〕明治二年九月二日「新刑律選定に就き集議院に下し給へる御下問」謹解参照。


〔史実〕
既に述べたとほり、明治維新の直後には、江戸時代の刑法を改めて、暫定的にこれを適用した。しかし、新刑法の制定を急務とする者も少くなかつたので、明治二年、刑部省に勅してこれが選定を命ぜられたことは、「新刑律選定に就き集議院に下し給へる御下問」の謹解中に略説しておいた。刑部省に於ては、勅命を奉じて、新刑法の選定に着手し、明治三年十二月、「新律綱領」の草案を奏進した。そこで、十二月二十日に、この上諭を賜はり、これを頒布せしめたまうたのである。

「新律綱領」は、大宝の古律に、明及び清の刑律を参酌し、寛恕軽減の聖旨を体して、時代に適応するやうに立案したものである。六巻より成り、律名を掲げて、(一)名例律(上下)、(二)職制律、(三)戸婚律、(四)賊盗律、(五)人命律(上下)、(六)闘殴律、(七)罵詈律、(八)訴訟律、(九)受贓律、(一〇)詐偽律、(一一)犯姦律、(一二)雑犯律、(一三)捕亡律、(一四)断獄律の十四律とし、八図・一百九十二条とした。正刑を死・流・徒・杖・笞の五種に分ち、別に閏刑じゆんけいとして、謹慎・閉門・禁錮・辺戍・自裁を挙げ、士族に科するものとし、官吏及び華族には、贖金の制を設けたが、更に笞・杖以下に懲役法を設け、一定の場所に於て、苦役に服せしめることとした。この「新律綱領」六巻は、未だ欧米の法制の影響を受けない純然たる東洋風の刑法典であつた。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年11月9日木曜日

惟神の大道を宣揚し給へる詔

(明治三年一月三日)


ちんうやうやしくおもんみるに、天神てんじん天祖てんそきよくとうれ、列皇れつくらう相承あひうけ、これこれぶ。祭政さいせい一致いつち億兆おくてう同心どうしん治教ちけうかみあきらかにして、風俗ふうぞくしもうるはし。しかるに、中世ちゆうせい以降いかうとき汙隆をりゆうり、みち顕晦けんくわいり。治教ちけうあまねからざるやひさし。いま天運てんうん循環じゆんくわんし、百度ひやくどあらたなり。よろしく治教ちけうあきらかにして、もつ惟神かむながら大道たいだう宣揚せんやうすべきなり。つてあらた宣教使せんけうしめいじ、天下てんか布教ふけうせしむ。なんぢ群臣ぐんしん衆庶しゆうしよむねたいせよ。

天神てんじん天祖てんそ 皇室の遠い御先祖にまします神々や天皇を仰せられたものと拝する。明治二年五月二十一日の「皇道興隆等に関する御下問」謹解参照。

きよくとう 皇位を確立してそれを後世にお伝へなされること。

とき汙隆をりゆう 時代によつて衰へたり盛になつたりすることがある。「汙隆」は、「盛衰」と同じ。

みち顕晦けんくわい 道が明らかになつたり暗くなつたりすることがある。固有の道がよく行はれる時と行はれない時とがあるといふ意味。「顕晦」は、「明暗」と同じ。転じては、「世にあらはれると隠れる」ことの意味にも用ゐられる。「晋書」隠逸伝にある「君子之オコナヒミチコトニス、顕晦之イヒ也。」は、この用例である。

惟神かむながら大道たいだう 神代から伝はれる大いなる正しい道。天照大神の遺したまうた皇道の意味。前出。

宣教使せんけうし 神道布教のために任命せられた者。


〔大意〕
朕がつつしんで考へて見るに、我が遠い御先祖にまします神々や天皇は、皇位を定めて後の世にお伝へになり、御歴代の天皇は、これをうけつがせられた。祭祀と政治とは一致し、万民はみな心をあはせ、上の御政治や御教化が正しく行きわたり、下の風俗がまことに美はしかつた。しかるに、中世このかた、世の中が衰へたり盛になつたりして、道の明らかによく行はれることと暗くなつて行はれないこととがあつた。今では、自然に時節がめぐつて来て、すべてのことがみな新らしくなつた。この際政治教化のことを明らかにして、さうして神代から伝はつて来た大道を大いに広く知らせなければならない。そこで、新に宣教使を任命して、天下に布教せしめるのである。汝等多くの臣も一般国民も、よくこの旨を心得よ。


〔史実〕
神霊鎮祭の詔を賜はつたその日、即ち、明治三年正月三日、明治天皇には、この祭祀尊重の御精神を広く一般国民の間に宣布したまふために、宣教使を任命して布教せしむべき旨仰せ出された。ここに謹載したのが、その詔である。これは、大教宣布の詔とも申上げてゐる。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年11月8日水曜日

神霊を鎮祭し給へる詔

(明治三年一月三日)


ちんうやうやしくおもんみるに、大祖たいそげふはじむるや、神明しんめい崇敬すうけいし、蒼生さうせい愛撫あいぶす。祭政さいせい一致いつち由来ゆらいするところとほし。ちん寡弱くわじやくもつて、つと聖緒せいしよけ、日夜にちや怵惕じゆつてきして、天職てんしよくあるひけむことをおそる。すなはつつしみて天神てんじん地祇ちぎ八神はつしんおよ列皇れつくわう神霊しんれいを、神祇官しんぎくわん鎮祭ちんさいし、もつ孝敬かうけいぶ。庶幾こひねがはくは、億兆おくてうをして矜式きようしよくするところらしめむことを。

大祖たいそ 「皇祖」と同じ。大祖といふのは、初代の帝王の称である。しかし、本詔に「大祖」と仰せられてあるのは、遠い祖先にまします天皇の御意かと拝察する。

神明しんめい崇敬すうけい 神々を敬ひたふとぶ。「神明」は、「かみ」といふに同じ。「左伝」の中にも、「之ヲ敬フコト神明ノ如ク、之ヲ畏ルルコト雷霆ライテイノ如シ。」とある。

蒼生さうせい愛撫あいぶ 万民を深く愛すること。「蒼生」は、「多くの民」である。古語では、「おほみたから」とも「あをひとぐさ」とも訓んだ。「愛撫」は、「撫でるやうに愛する」こと即ち深く愛することをいふ。

由来ゆらいするところ よつて来れるもと。「原因」といふに同じ。

寡弱くわじやく 徳のすくない力の弱い者といふ御謙遜の御言葉である。この「寡弱」の文字は身よりのない年の若い者といふ意味にも用ゐられる。

聖緒せいしよ 「皇緒」と同じ。天皇の御系統即ち皇統のこと。また天皇の御事業といふ意味にも用ゐられる。

怵惕じゆつてき 「おそれうれふる」こと。心に大いなる不安を感ずることを称する語。

天神てんじん地祇ちぎ八神はつしん 前に謹載した「天神地祇鎮座の宣命」の謹解中に述べてある。「天神」は天ッ神、「地祇」は国ッ神、「八神」は、「祈年祭祝詞」に出づる八柱の神である。

およ 「及び」と同じ。「及」の古字。

列皇れつくわう神霊しんれい 御歴代の天皇の尊い御霊。

神祇官しんぎくわん鎮祭ちんさい 神祇官に鎮座してお祭りすること。「神祇官」は、明治初年に於ける中央政府の一官庁である。明治元年閏四月二十一日の官制では、太政官を七官に分ち、神祇官をその一官としたが、明治二年七月の官制改革により、二官六省を置き、太政官と神祇官とを二官とし、祭典・諸陵・宣教・祝部・神戸等の監督を、神祇官の所管とした。

孝敬かうけい 孝心をもつて神を敬ふこと。「敬神崇祖」といふに同じ。

矜式きようしよく 「つつしんで則る」こと。まごころをつくしてそのとほりに行ふことの意味。「孟子」の公孫丑章に曰ふ。「諸大夫国人ヲシテ皆矜式スル所ラシム。」


〔大意〕
朕が恭しく考へて見るのに、遠い祖先の方々が、この国を治める大業をおはじめなさつた時には、神々を敬ひたふとび、万民を深く愛したまうたのである。祭政一致のおこりといふものは、甚だ遠い。朕は、徳もすくなく力も弱い身をもつて、皇統をうけついだので、日夜心配して、この尊い天職にかけるやうなことはないかとおそれてゐる。そこで、つつしんで天神・地祇・八神及び御歴代の天皇の御霊を、神祇官の中に鎮めまつり、さうして神を敬ひ祖先を崇ぶ心をあらはさうと思ふ。天下の万民にも、みなこれにならふやうにさせようと思つてゐる。


〔史実〕
明治天皇には、敬神崇祖を非常に重んじたまひ、祭政一致の御政道を御回復あらせられて、明治新政の基礎を定めたまうたのであつた。この敬神崇祖の御精神から、明治元年十月、東京に行幸あらせられるや、十七日に勅書を下し賜はり、武蔵国大宮駅氷川神社を当国の鎮守として御親祭の旨仰せ出されて、二十七日に行幸御参拝あらせられた。その勅書は、前に謹載してある。

官制の変遷を顧みるに、明治元年正月十七日の官制では、三職・七科を置き、神祇科をその一科とし、同年二月三日、七科を改めて七局とし、神祇科を神祇事務局とし、同年閏四月二十一日、更に太政官官制を公布し、太政官を分ちて七官とし、神祇官をその一官とした。その後、二回の小改正が行はれたが、神祇官は、常に太政官の管下に属する一官となつてゐた。しかるに、明治二年七月八日、また官制の大改革が行はれて、二官六省の制度となつた。この制度は、大宝の古制に則り、従来の七官中の行政官を太政官と改めて、神祇官を太政官以外に独立せしめ、この太政官・神祇官を二官とし、他の五官を廃して民部・大蔵・兵部・刑部・宮内・外務の六省を設置したものであつた。かくして、明治の政府は、神事尊重の聖旨を奉じて、新政の緒に就いたのである。

この年(明治二年)十二月、明治天皇には、新に神殿を神祇官内に御建立あらせられて、天神地祇並に八神と共に、御歴代の皇霊を鎮祭したまうた。翌年(明治三年)正月三日に渙発あらせられたのが、ここに謹載した鎮祭の詔である。神祇官人は、この詔を奉じて、天神地祇並に八神及び御歴代天皇の神霊に奉仕することになり、祭祀の根基がここに確定したのであつた。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年11月2日木曜日

天神地祇鎮座の宣命

(明治二年十二月)


天皇命すめらみこと大御命おほみことせ。天神あまつかみ地祇くにつかみ八百万やほよろづ大前おほまへ正四位しやうしゐかう宮内くない権大丞ごんのたいじよう平朝臣たひらのあそみ信成のぶなり使つかひして、かしこかしこみもまをたまはくとまをさく。今年ことし東京とうきやう新宮にひみや造給つくりたまひ、八柱やはしら神等かみがみまつたまふによりて、大神等おほかみたちをもおな殿とのまねまつり、まつりて、としながゆることなく、くることなく、まつたまはむこと弥高いやたか聞食きこしめして、大朝廷辺おほみかどべ堅磐かきは常磐ときはまもたまひ、百官もものつかさ人等びとたちをもあやまをかことなく、つかまつらしめたまひ、新代あらたよおほ御政みまつりごとくに八十国やそくにいたらぬくまなく、足御代たらしみよ伊加志いかし御代みよさきはへたまへと、宇豆うづ御幣みてぐら称辞たたへごとまつらくと天皇命すめらみこと大御命おほみことうまらに聞食きこしめせとまをす。

天神あまつかみ地祇くにつかみ 前にしばしば述べてある。天にまします神または天から降りませる神を天ッ神(天神)といひ、国土にれませる神を国ッ神(地祇)といふ。

八百万やほよろづ 非常に大いなる数の名である。神々の数の甚だ多いことから、「八百万の神」といふ語が、古くから伝へられてゐる。「古事記」上巻に、「是を以て八百万の神、天安之河原に神集かみつどひ集ひて、高御産巣日神たかみむすびのかみみこ思金おもひかね神に思はしめて」とあり、「万葉集」巻二の長歌には、「天の河原に八百万千万神の神つどひ」とある。

新宮にひみや 新らしいお宮即ち新らしい神殿のこと。

八柱やはしらかみ 高皇産霊たかみむすび神・神皇産霊かみむすび神・玉積産霊たまつめむすび神・生産霊いくむすび神・足産霊たるむすび神・大宮売おほみやひめ神・御食津おほみけつ神・事代主ことしろぬし神の八神。「祈年祭祝詞」の中に出づ。

とし 「年」といふに同じ。としが長くつづくことを、緒に擬していふ語である。「万葉集」巻四に、「わが形見見つつしのばせあらたまの年の緒長く我も思はむ」とあり、その他にも、和歌の中には、用例が頗る多い。

堅磐かきは常磐ときは 「堅磐かきは」は「堅きいは」であり、「常磐ときは」は「とこいは」即ち「常にかはらぬいは」である。「堅磐常磐」は、物事の永久にかはらぬことをいへる語。宣命にも、祝詞にも、多く用ゐられてゐる。

八十国やそくに 「多くの国々」といふこと。「八十」は、「多くの数」を意味する語である。「鎮火祭祝詞」に曰ふ。「くに八十国やそくにしま八十嶋やそしまを生み給ひて」

足御代たらしみよ伊加志いかし御代みよ 何事も充ち足れる盛大な御代をいふ。

宇豆うづ御幣みてぐら 「宇豆」は「うづ」である。「うづ」は「いづ」と通ずる。厳しく、高く、貴く、めでたいこと。「玉篇」に、「珍、貴也、美也、重也。」とある。「御幣」は、「御手座みてぐら」の義ともいひ、「充座」の義ともいひ、「御栲座みたへぐら」の約語ともいふ。もと神に奉る物の総名であつたが、後に絹帛などを串に挟みて神に捧げるものをいふ名となり、更にまた絹帛を紙に代へるやうになつた。「うづの御幣」といふ語は、宣命にも祝詞にも、常に用ゐられてゐる。


〔大意〕
天皇の大御命であると、八百万の天神地祇の御前に、正四位行宮内権大丞平朝臣信成を使として、つつしみつつしんで申上げよと仰せられることを申上げる。今年東京に新らしいお宮をお造りなされて、八柱の神々を祭りたまふによつて、大神をも同じお宮にお招き申して、御鎮座をお願ひして、長い年月の間絶えることなく、闕くこともなく、お祭をなされたいといふことをお聞き入れ下され、朝廷を磐石のやうにお守りなされて、多くの役人どもが過ををかすことなくお仕へするやうになされて、この新らしい御政治が、国内にも至らぬところのないやうにして、すべてのものが十分に足る盛な御代になる幸福を与へたまふやうにと、うづの御幣を捧げて、お願ひごとを申上げよと仰せられる天皇の大御命を、どうぞお聞き入れ下さるやうにと申上げる。


〔史実〕
明治二年十二月神祇官中に神殿を建てたまひ、天神地祇・八神及び御歴代の皇霊を鎮祭したまふに当り、宮内権大丞平信成を勅使として遣はされ、天神地祇に告げさせたまうた宣命である。後に掲げ奉る神霊鎮祭の詔の謹解中にこれを述べる。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年11月1日水曜日

徳川慶喜・松平容保等を寛宥し給へる詔

(明治二年九月二十八日)


チンキク明君メイクントクモツシモヒキヒ、庸主ヨウシユハフモツヒトツ。オモフニ乱賊ランゾクツネラス、君徳クントク奈何イカンニアルノミ。イマ北疆ホクキヤウハジメタヒラキ、天下テンカホボサダマル。慶喜ヨシノブ容保カタモリ以下イカゴトキ、オノオノヨロシク寛宥クワンイウスルトコロアツテ、ミヅカラアラタニセシメ、モツ天下テンカ更張カウチヤウセン。


〔大意〕
朕が聞いてゐるところによれば、明君は、徳を修めて下の者を率ゐ、庸主は、法を厳しくして人を扱ふといふことである。思ふに、国を乱す悪人といふものがいつもあるわけではない。君に徳があるかどうかといふことにあるのみである。今は北の境の地方の乱も静まり、国中が大かたをさまつた。慶喜や容保やその外の者も、それぞれどうか寛大にしてやり、自分から心を改めさせて、さうして、天下の者がみな一しよに国の勢を盛にするやうにしよう。


〔史実〕
明治維新の直後、大義名分を誤つて叛臣となつた徳川慶喜・松平容保等は、既に寛刑の恩命に浴してゐる。徳川慶喜は、水戸に謹慎を命ぜられ、松平容保は、死一等を減ぜられて、永禁錮の処刑を受けた。然るに、蝦夷地に拠つて、最後まで抵抗をした榎本武揚等が降服して、天下の平定を見るに至り、重ねてこれらの叛臣を寛宥すべき旨仰せ出された。ここに謹載したのがその詔である。詔の中には、「乱賊常ニ有ラス、君徳奈何ニアルノミ」と仰せられてある。争乱の原因を君徳に帰したまうたのは、誠に恐懼に堪へぬことである。
   宥典録(明治二年「太政官日誌」百三より)
法律ハ国家之重事ニ候処、昨年犯逆之罪ニ於テハ、名義紊乱ノ後ヲ承ケ、政教未洽ミカフノ際ニツキ、聖上深ク御反躬被為在アラセラレ、専ラ非常寛典ニ被処シヨセラレ候次第、就テハ、今度深キ思食オボシメシヲ以テ、詔書之トホリ、更ニ被仰出オホセイダサレ候間、名義ヲ明ニシ、順逆ヲツマビラカニシ、反省自新、盛意ニ対膺タイオウ可致イタスベキ候事。
徳川慶喜
先般謹慎被仰付オホセツケラレ置候処、深キ叡慮ヲ以テ、被免メンゼラレ候事。
静岡藩知事 徳川家達
徳川慶喜儀、別紙之通被仰付オホセツケラレ候条、此段可相達アヒタツスベキ事。
飯野藩知事 保科正益
松平容保儀、先般城地被召上メシアゲラレ、父子永預ナガアヅケ被仰付オホセツケラレ置候処、深キ叡慮ヲ以テ、今度家名被立下タテクダサレ候間、血脈之者相撰アヒエラビ可願出ネガヒイヅベキ事。
各通 鳥取藩知事 池田慶徳
   久留米藩知事 有馬頼威
松平容保儀、先般城地被召上メシアゲラレ、父子永預ナガアヅ被仰付オホセツケラレ置候処、深キ叡慮ヲ以テ、今度家名被立下タテクダサレ候間、血脈之者相撰アヒエラビ可願出ネガヒイヅベキ被仰出オホセイダサレ候間、此段為心得ココロエノタメ相達アヒタツシ候事。

三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)