〔史実〕
ここに謹載したのは、明治四年五月、大蔵卿伊達宗城を欽差大臣として清国に遣はされ、修好条約を締結せしめたまうた時、清国皇帝に賜はつた国書である。修好条約の締結については、前勅「伊達宗城を清国に遣はし給へる勅」の中に、その顚末を略述しておいた。本勅は、文辞平易、聖旨も明らかに拝し得られる。
三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)
大日本従三位外務卿清原宣嘉・従四位外務大輔藤原宗則ら、謹みて書を大清国総理外国事務大憲台下に呈す。方今、文明の化これによつて明らかなるが如く、柳原前光等は、修好通商条約締結の豫備協議に派遣せられたものであつた。前光等は、上海より天津に至り、十月、清国政府の回答を得た。清国政府は、我が要求を容れ、他日、我が国より特派した使節と商議して、条約を締結し、両国の親善を進めるといふのであつた。そこで、前光等は、使命を果して帰朝した。大 に開け、交際の道日 に盛に、宇宙の間遠邇 あることなし。我が邦近歳泰西諸国と互に盟約を訂 し、共に有無を通ず。況んや、隣近貴国の如き、宜しく最先に情好を通じ、和親を結ぶべし。而かるに、たゞ商船の往来あるのみにして、未だ嘗て交際の礼を修めず、また一大闕典 ならずや。曩 に我が邦政治一新の始め、即ち欽差公使を遣はして盟約を修めんと欲す。内地多事に因りて、遅延して今に至る。深く此れを憾 みと為す。茲 に奏准を経て、特に従四位外務権大丞柳原前光・正七位外務権少丞藤原義質・従七位文書権正鄭永寧 等を貴国に遣はす。豫前に通信事宜を商議し、以て他日我が公使と貴国と和親条約を定むるの地と為す。伏して冀 はくは、貴憲台下、右官員等を歓接し、其の陳述する所を取載せよ。謹白。明治三年庚午七月。
宥典録(明治二年「太政官日誌」百三より)
法律ハ国家之重事ニ候処、昨年犯逆之罪ニ於テハ、名義紊乱ノ後ヲ承ケ、政教未洽 ノ際ニ付 、聖上深ク御反躬被為在 、専ラ非常寛典ニ被処 候次第、就テハ、今度深キ思食 ヲ以テ、詔書之通 、更ニ被仰出 候間、名義ヲ明ニシ、順逆ヲ審 ニシ、反省自新、盛意ニ対膺 可致 候事。
徳川慶喜先般謹慎被仰付 置候処、深キ叡慮ヲ以テ、被免 候事。
静岡藩知事 徳川家達徳川慶喜儀、別紙之通被仰付 候条、此段可相達 事。
飯野藩知事 保科正益松平容保儀、先般城地被召上 、父子永預 被仰付 置候処、深キ叡慮ヲ以テ、今度家名被立下 候間、血脈之者相撰 、可願出 事。
各通 鳥取藩知事 池田慶徳久留米藩知事 有馬頼威松平容保儀、先般城地被召上 、父子永預 ケ被仰付 置候処、深キ叡慮ヲ以テ、今度家名被立下 候間、血脈之者相撰 、可願出 旨被仰出 候間、此段為心得 相達 候事。