2019年1月18日金曜日

国語改革四十年――3 当用漢字の字体②筆写字と印刷字

筆写字と印刷字


筆写字体と印刷字体とをおなじものにしようとしたのが戦後新略字であった(中国の簡体字も同様の考え)が、これがまちがいであった。

筆写体(手書き文字。おなじことです)は文章のなかの文字であり文脈でよまれるものであるから、他の文字に類似していてもかまわない。印刷字体は一つ一つが独立してその字でなければならない。手書きの字では筆先はなるべく紙をはなれまいとし、点や線はつながりやすいから、たとえば、「火」はしばしば「大」によく似た姿になる。しかし筆写字がそうであるからといって、印刷字体を筆写字に近づけて「火」の二つ点をつないだ字にする必要はない。

上にも言ったように、魚、馬、鳥、およびこれをふくむ鮮、駅、鳩などの四つ点は手書きではふつうつながる。だから中国の簡体字では、鱼、马、鸟等と四つ点部分を一にした。これを偏旁に持つ字ももちろんそうである。いまみなさんは、鱼、马、鸟などの字を見ると、なんだかヘンテコリンな、みっともない字だなあ、と思うでしょう? 対して「売」だの「伝」だの「毎」だのという字を見てもヘンテコリンだとは思わないでしょう? でもおなじことなのです。みなさんは学校でそういう字を教わってこれが正しい字だと思いこんでいるからヘンテコリンだと思わないだけなのです。

東、棟、凍等の右部分は「東」である。練、煉、諫等は「柬」である。手書きでは点はつながるから練の右部分の二つ点はつながって「東」にちかくなる。であるからとて練は練に、煉は煉󠄁に、諫は諌にしたのもヘンテコリンなのである。のみならず文字の組織をみだしてしまったのである。

「母」の二つ点は手書き字ではつながる。每、海、などの母部分もおなじである。そこで每は毎に、海は海に、は毒にした。もっとも母を毋にしてはあんまり変だと思ったのか、母だけはもとのままである。これも文字の組織をみだしたのである。

手書き字では、字の一部分を符号で代替することがしばしばある。昔からそうであり、いまもそうである。符号としては、丶、㐅、又、〻、云、寸などがよくもちいられる。省略することもある。手書き字は文脈でよまれるから、部分が符号であっても、あるいは省略されていても、わかればそれでさしつかえないのである。省略というのは「米國」(戦後略字なら米国)を「米囗」と書き、「公園」を「公囗」と書くようなのである。あるいは点を一つ入れて「米」「公」と書くこともある。前後の関係で十分わかる。

この本には「漢字」という語がよく出てくる。わたしの原稿ではたいてい「汉字」と書いてある。「 」の部分を「又」で代替してあるわけである。無論わたしは「漢」の字を知らないのではない。「漢」の画数が多いから「汉」にせよ、と主張しているのでもない。わたしの本では「漢字」と書かず「汉」の字をつくって「汉字」と印刷せよ、と要求しているのでもない。そんなことは当然だから印刷する人は「漢字」となおして打ってくれる。「區」を「区」と書いたり「轉」を「転」と書いたりするのも、これと同様の符号による代替だった。それが正式の字に昇格してしまったのである。

こうした「簡単な符号による部分代替」はむかしからひろくおこなわれていたし、いまもおこなわれている。筆写字は手早く書けることが生理的要求であり、何の字であるかが前後からわかればよいからである。

「品」を、なし、丶、〻、㐅などで代替することもむかしから一般におこなわれている。右にあげた「区」もそうだし、ちかごろよく問題になる森鷗外の「鷗」もそうである。これは、この名が何度も出てくる文章を書くばあい、いちいちキチンと「鷗」と書く必要はなく、森外でも森外でも森鴎外でもかまわない。前後関係でわかる(もちろん右がわの「鳥」もこんなにキチンと書くのではなく、もっと手早く書くのです)。たとえば「森外」と書く人は、「鷗」の字体は「」であるべきだと主張しているわけではない。印刷字体では「鷗」であることを十分承知でそう書いているのである。

以上かなりくどくのべたからたいていわかっていただけたと思うが、手書き字と印刷字とは別のものなのである。筆写字は、書きやすくて、前後関係でその字であることがわかればよい。

ところが戦後略字は(中国の簡体字もおなじだが)筆写字と印刷字とをおなじものにしようとした。それも印刷字のほうを変えて筆写字にあわせようとした。

かくして、たとえばおなじ「專」が、專は専になり、傳、轉は伝、転になり、團は団になって、縁が切れてしまった。実はこれらは「まるい」「まるい運動」という共通義を持った家族(ワードファミリー)なのである。あるいは、さきに言ったように假を仮にしたから暇や霞との縁が切れた。賣を売としたから買や販や購との縁が切れた。母と毎、海などの毋部分は別のもののようになった。氣の米も區の品もおなじ㐅になった。廣の黃も佛の弗もおなじ厶になった。單の上部も榮の上部も學の上部もおなじ「⺍」になった。これらは、手書きの際の臨時の符号を恒久的な文字にしてしまったためのあやまりである。印刷字は活字をひろうなりキーボードをたたいて打ち出すなりするのだから、点が切れていても筆画が外へむかっていても、そのために手間がかかるということはない。そしてそのほうが見やすく、美しい。部分は符号ではなく正しい部分であるほうがよいのは言うまでもない。手で品の字を書くのは手間だから㐅でもよい、つまり区、欧、殴、鴎等であってもよいが、印刷字体では、㐅などという符号ではなく、區、歐、毆、鷗と、ちゃんと品がはいっているほうがよいにきまっているのである。

(高島俊男『漢字と日本人』、文春新書、平成13年)

2019年1月17日木曜日

国語改革四十年――3 当用漢字の字体①

3 当用漢字の字体


こんにち一般におこなわれている漢字の印刷字体、すなわち教科書、新聞、雑誌、一般書籍などでもちいられている字体は、戦後文部省と国語審議会がさだめ、昭和二十四年に内閣が告示・訓令をもって公布した「当用漢字字体表」によっている。もっとも、内閣の告示・訓令が出たとたんに日本中の活字字体が一ぺんに全部かわったわけではない(それは技術的に無理である)から、もしみなさんが、昭和三十年代前半ごろまでに出た本や雑誌を見るならば、みなさんが知っている字体とかなりちがいがあることに容易に気づかれるはずである。

いま例として、右の一段に出てきた文字のうちのいくつかについて、戦後字体とそれまでおこなわれていた正字体とをならべてみるなら左のごとくである(上が戦後新字体、下が正字)。

漢漢、体體、教敎、雑雜、戦戰、国國、会會、当當、来來、気氣……。

右のごとく、一目見てすぐわかるほどちがうのもあれば、よく見ないとわからぬのもある。よく見ないとわからない例をもうすこしあげれば、左のようなのがある。

都都、涙淚(点が一つ減少)、徳德、徴徵(棒が一本減少)、急急、掃(棒がみじかくなった)、習、消 (画のむきをかえた)、毎每、憎憎(点二つを棒一本にかえた)等々。

これら戦後の新しい字体は何にもとづいてこうさだめたのであるかというと、筆写体にもとづいたのである。つまりそれまでの、ということは戦前の日本人が、日記、手紙、証文、その他種々の文書にしるす手書き文字で一般にもちいていた字体にもとづいている。

とは言っても、手書きの字は各人各様である。統一字体があるはずがない。むかしはことにそうであった。またそれをまんべんなく調査することは不可能である。たとえば戦前の日本では毎日数百万通の手紙が家族や知人にあてて書かれ郵送されていたが、それらは通常受取人一人によってよまれるだけであり、そこでもちいられている文字を点検することは政府といえども不可能である。筆写体にもとづいて印刷字体をつくったといっても、結局のところ、実際に参照され得たのは、新字体を考案した人たち自身、もしくはその周辺でおこなわれていた字体のみであろう。

もっとも、一般的な傾向はたしかにあった。

一つは、よくもちいられるが筆画の多い文字についてはたいていの人が略字を書いていた、そしてその略字はかなりの範囲で同一、あるいは類似だったということである。たとえば「體」を「体」と書くことはひろくおこなわれ昭和十年代には学校の教科書にも一部採用されていた。その他「醫」を「医」と書き、「聲」を「声」と書き、「變」を「変」と書くなども一般的であった。

また一つは、これは見やすいことをむねとする印刷字体と書きやすいことをむねとする筆写字との性格の相違に由来するのだが、印刷字体が概して直線で構成され、したがってまがる所は角ばって直角にまがり、点や線がはなれ、線の方向が外をむいているのに対して、手書き文字はまるみをおびた線で書かれ、点や線がつながって筆先が紙を離れないように書かれ、線の方向が内をむく(つぎの筆画にむかう方向にむく)。これらはすべて筆写の際の、筆先の経済、あるいは筆先の生理のゆえである。いちいち筆先を紙から持ちあげるより、つづけて先を書いたほうが早いから自然にそうなるのである。言うまでもなく活字にはそういう生理的要求はない。このことはアルファベットの印刷字体と筆写字体とをくらべてみればだれにもわかることである。 aとa、bとb、dとd、fとf、kとkなど。漢字のばあいは印刷字体が直線を基本とするのでこの相違がいっそう顕著である。できれば実物をお目にかけたい。もしわたしが教室で授業をしているのなら、黒板に筆写体の字を書いて見せるのはいともたやすいことなのだが、残念ながらここではそれができない。人の手紙か何か、手書きのものをごらんください。全体に線が曲線的で、直角にまがるところがまるくまがっているでしょう?駐でも駅でも鶏でも鳩でも、四つ点(⺣)のところが印刷字体でははっきり離れているが、手書き字ではたいていつながって波線状になっているか、あるいはただの横棒になっているでしょう?そういうふうに、点と点が、あるいは点と線が、あるいは線と線が、筆写字ではつながる傾向がある。

筆画の外むきと内むきは、戦後略字以前から、印刷字体と筆写字(楷書であっても)との最もはっきりした相違である。曾、僧、 、益、閱などの「八」は、筆写字では、尊、益、閲などと「丷」を書く。、などの「𡭔」は、筆写字では「⺌」を書く。爪(ツメ)をふくむ字、、稻、爲、爭などは「⺤」を書く。要するに、印刷字体と筆写字体とは性格がちがうのである。

(高島俊男『漢字と日本人』、文春新書、平成13年)

2019年1月16日水曜日

国語改革四十年――2 国語改革とは何だったのか⑤中途半端なまま

中途半端なまま


しかし保科孝一や松坂忠則のもくろみは頓挫した。当用漢字は音標文字化(すなわち漢字全廃)という最終目標にむかう道筋の一里塚だったのだが、その一里塚のところで、中途半端なままとまってしまった。

これはたとえば、あの地名改変のようなものだ。地名をわかりやすく合理的に、と主張する人は戦前から数多くあった。戦後二十年ほどのあいだの町村合併や町名変更による新地名はその主張にそっておこなわれた。気がついてみると、日本中で何千何万という地名が消えうせていた。この段階になって、由緒ある地名を守ろう、と訴える組織があちこちにできて役所の暴挙に反対しはじめた。最初役所が地名征伐をはじめた時、これは困ったことだと思った人は数多くいたのだが、どうしていいかわからず、アッケにとられて役所のやることを見ていたのである。やっと組織を作って声をあげはじめた時には、すでにあまたの地名が消されていた。しかし反対の声が大きくなると、いったん失われた地名はもうもどらないが、地名征伐のいきおいはとまった。そうなると、かつて地名の簡易化、合理化を主張していた人たちは、いったいどこへ消えてしまったのかと思うくらい、姿を見せなくなった。

国語改革もこれと同様で、知識人たちが組織をつくって反対の声をあげ、撤回を要求しはじめると、撤回はしないが、進行はとまった。そうすると、漢字全廃、音標文字化を主張していた人たちは、ほとんど姿を見せなくなってしまった。かつて松坂忠則にひきいられていたカナモジカイは、いまもあることはあるが、非常に弱体化して、片手でかぞえるほどの人が何とかささえているらしい。社会的な影響力はゼロと言ってよい。ローマ字会も、あることはあるのだろうが、消息を聞かない。どっちにしても、戦略と、実現の見通しとをもって、本気で日本の文字を音標文字にかえる活動をやっているとは思えない。
〔引用者註〕前にも註で書いたやうに、社会が健全さを取り戻せば、かういふ愚かな流れは食ひ止めることが可能なのである。それと同時に、さういふ運動で盛り上がつてゐた人達も、いつの間にやら姿を消してしまふものである。近年も毎年のやうにさういふ光景が繰り返されたが、我々は、さういふヤカラが跋扈するのは、社会が健全さを失つてゐる証拠であることを銘記しなければならないのである。
しかし、いまはかくも気息奄々たる集団がかつてあげた戦果は、ゆるぎもなく厳存して日本の教育を支配しつづけ、ほとんどの日本人が、ちょうどこれくらいがよい、と思っているのであるから、既成事実というものはおそろしい。おそらく地名についても、もうしばらくすれば、その地名の土地で生れ育った人たちが日本人の大部分をしめ、ちょうどこれくらいがよい、と思うようになるのであろう。
〔引用者註〕この著者にとつては残念なことであらうが、平成の御代も終りに近づき、所謂「揺り戻し」が起きようとしてゐるのである。社会といふものは、たとへ左右どちらかに大きくブレたとしても、そのままの状態では永く保てないで、最も無理のない自然な状態に揺り戻らうとするものなのである。これは、社会の自己治癒力が作用するからなのである。
保科孝一は、一貫して事態のなりゆきを楽観したまま、国語改革反対の声が強くなるすこし前、昭和三十年に死んだ。将来の日本人を過去の日本人から切りはなしてしまった以上、多少時間はかかっても、音標文字化の方向にすすむことはまちがいない、と彼は確信していた。戦後の改革によってわれわれの勝利はさだまった、と彼は書いている。

国語審議会は以後も惰性的に存続したが、ごく微温的な、無力なものになった。前向きに、理想の実現に邁進する気力はない。そもそも国語審議会というのは本来、全面的音標文字化を推進するために政府がもうけた機関なのだということさえ、すっかり忘れ去られているかっこうである。さりとて戦後の改革を根本的に再検討するつもりもさらさらない(わたしは近年国語審議会委員になった人に「戦後改革の理念の破綻はあきらかなのだから根本的に見なおすつもりはないのですか」ときいてみたことがある。答は、「あれはあのかたたちがやったことなのだから、わたしたちがそれを見なおすとか見なおさないとかの問題ではない」ということであった)。ときどき若干の手なおしをする機関になった。たとえば、使用できる文字の範囲はかえないが、うまれた子どもにつける名前については、それ以外にこの範囲の文字なら許容しよう、といくつかの文字を追加する、といったふうな。

使用を許す文字の数も、その後五十年のあいだに、ほんのわずかだがふえた。主として、改革を最も強く支持した新聞が、この範囲では記事が書きにくい、と増加を要求したからである。国語審議会に松坂忠則ががんばっていたあいだは、文字の数をふやせば、かならずそれとおなじ数の文字をへらして総数がかわらないようにしていたが、松坂が昭和三十六年に退任してからは、ふやしてもその分をへらさなくなったので、総数がすこしふえたのである。
〔引用者註〕彼らの自分勝手ぶりは流石としか言ひやうがないのである。全ての主張が自己都合なのである。インターネットの発達のお陰で、この自分勝手ぶりが多くの人に知れ渡つて本当によかつたと思ふ。今やインターネットこそ真の社会の公器と呼ぶに相応しいのではないだらうか。

(高島俊男『漢字と日本人』、文春新書、平成13年)

2019年1月15日火曜日

国語改革四十年――2 国語改革とは何だったのか④時すでにおそく

時すでにおそく


昭和二十一年十一月の当用漢字のあと、同二十三年二月に「当用漢字別表」(いわゆる「教育漢字」)と「当用漢字音訓表」、同二十四年四月に「当用漢字字体表」が公示された。

教育漢字八百八十一字は義務教育の期間にならう(つまり教科書に出てくる)漢字をさだめたものである。

音訓表は許容される音訓をさだめたものである。たとえば、「魚」はギョとウオはみとめるがサカナはみとめない。「百」はヒャクはみとめるがオはみとめない。「生」はセイ、ショウ、イ、ウ、ナマ、キなどはみとめるがフはみとめない、「手」はシュとテはみとめるがズはみとめない、のようなものである。

ただしこれは、いちいち音訓表をしらべてみないと、使っていいのかダメなのかわからないから一般の人には無理である。厳密に守ったのは役所の文書と教科書くらいのもので、新聞等にも、「魚屋」や「八百屋」や「芝生」(しばふ)「上手」(じょうず)などの類は出ることがあった。

当用漢字字体表は、いわゆる戦後新字(略字)、すなわち現在日本でおこなわれている字体をさだめたものである(後述)。

当用漢字というのは、きわめて前向きなものであった。これからの日本人が、これからの生活や思想を文章に書く、ということだけを想定している。背後のことは考えていない。

たとえば、日本はもう軍隊を持たないのであるから、これからの日本人に軍曹や兵曹長などの「曹」の字はもはや不要である、と削除した。しかし実際には、戦後の日本人が、戦争中自分が兵士であった時の経験を書く、あるいは、戦争中の日本社会や軍隊について書く、ということはある。その際には「軍曹」という語も必要なのだが、そういうことは考慮に入れていない。この字が教科書や新聞にあらわれることはないし、もし当用漢字わくを守る場所(新聞等)に文章を書くとすれば「軍そう」などと書くほかないわけである。

そのように、日本人が背後をふりかえる、という事態は考えていない。敗戦後の日本の、過去はすべてまちがっていたのだからきれいに忘れて、未来だけを見て新しくやりなおそう、という気分は、当用漢字表にも色濃く反映しているのである。
〔引用者註〕もう数へきれないほど繰り返してきたが、やはりここでも繰り返す。「…という気分」とは、エリートの気分であつて、食糧調達に忙しかつた庶民とは関係ないのである。
戦後の国語改革――かなづかいの変更、字体の変更、漢字の制限――がもたらした最も重大な効果は、それ以後の日本人と、過去の日本人――その生活や文化や遺産――とのあいだの通路を切断したところにあった。それは国語改革にかかわった人たちのすべてが意識的にめざしたものではかならずしもなかった――かなり多くの国語審議会委員たちは、技術的なこと程度にしか考えていなかった――けれども、実際には、思いがけなかったほどの強い切断効果を生んだのであった。
〔引用者註〕過去を否定し伝統を破壊することを是とするのは、革命思想である。国語改革に関与した人々は、知らないうちに革命に加担させられたと言はれても仕方がないのである。革命によつて伝統から切り離された人々が如何に不幸になるかは、ソ聯が誕生して以降の歴史が既に証明してゐるのである。
戦災で地方に疎開していた人たちが都会にもどり、社会がある程度おちつき、そして知識人たちが、これはたいへんだ、と事態の重大さに気づいて、まとまって行動するようになったのは、国語改革がおこなわれてから十年以上たってからである。

官庁の文書と学校の教科書と新聞とがかわっても、昭和二十年代のあいだ、あるは三十年代のはじめごろまでは、一般社会もそう急激にかわったわけではなかった。文芸家たちはたいてい従来どおりに書いていたし、雑誌や書物もたいていは従来どおりの字体の活字でつくられていた(これには、印刷所がすっかり新字体の活字と入れかえるのに相当の期間を要した、といったような事情もあった)。

事態がはっきりして、ことの重大性が多くの人にわかってきたのはおおむね昭和三十年代になってからだった。知識人たちはある程度まとまって、国語改革に反対し、撤回を要求しはじめた。――この、まとまる、つまり組織をつくる、わるい言いかたをすれば徒党をくむ、集団的に行動する、ということが知識人たちは不得手であることも、対応がおくれた原因の一つだった。

しかしすでにおそかった。政府が、十年も前にきめたことを撤回するはずがなかったし、何千万人という子どもがそれで教育され、育ちつつあった(かりにある学年の日本中の子どもの数を二百万人とすると、ある年度――たとえば昭和二十五年度――に、日本中の義務教育の学校に在学する子どもの数は千八百万人である。つぎの年度にはまた二百万人がくわわり、そのつぎの年度にはまた二百万人くわわる。何千万人というのは誇張ではない)。

知識人たちの戦いは、涙がこぼれるほど悲惨なものだった。いかにその言うことが正しくても、論理的に文部省を打ち破っていても、日本の文化の継承にとって致命的であることを論証しても、何の効果もないのである。勝っても勝っても、敵に傷一つおわせることができない。事態をかえることができない。
〔引用者註〕「何の効果もない」はちよつと言ひ過ぎなのである。漢字のみに関して言へば、昭和56年に「当用漢字」改め「常用漢字」が公布されたのである。終戦時の「当用漢字」が「国語をローマ字化するまで当分のあひだ使用を許す漢字」だつたのに対し、「常用漢字」は「日常の使用を許す漢字」なのであるから、文部省が正式にローマ字化を諦めたことを意味するのである。漢字の数も「当用漢字」の1850字から、「常用漢字」は1945字、平成22年の改定「常用漢字」に至つては2136字と、当初の「徐々に減らす」方針に逆行してゐるのである。
《常用漢字表の前文では当用漢字表の「制限的な方針は、国語の表現を束縛し、表記を不自然なものにするとの批判もあった」ことを認めたうえで、「常用漢字表は、法令・公用文書・新聞・雑誌・放送等、一般の社会生活で用いる場合の、効率的で共通性の高い漢字を収め、分りやすく通じやすい文章を書き表すための漢字使用の目安となることを目指した」とある。「目安であるというように、規制の度合いをゆるくした点が特徴的である。戦前をひきついだ統制路線が修正された瞬間であった。》(安田敏朗『国語審議会 迷走の60年』、講談社現代新書、平成19年)
日本人が、敗戦で正気を失い、それまでの日本は何もかもいっさいがわるかった、まちがっていたと思いこみ、足が地につかない状態で(それに占領軍の要求や支持もくわわって)きめてしまったことのうち、憲法や学校制度などは、またかえることも、ある程度もとにもどすこともできようが、国語改革だけはもはやいかんともしがたい。
〔引用者註〕どうしても繰り返さざるを得ないが、敗戦で正気を失つたのはエリートであつて庶民ではない。この著者は、当時の国民的な気分云々と繰り返すことで、どうも我々に国語の原状恢復を断念させようとしてゐるやうに思へてならないのである。現行の表記法は、何度も言ふやうに庶民の与り知らぬ所で議論され、終戦のドサクサに紛れて断行されたものである。「民主主義の為に」などと言ひながら、民主的でも何でもなかつたのである。
本書でも再三指摘されてゐる通り、新聞社などは自分達の都合で漢字の制限や仮名遣の変更に賛成し、告示が出されたら一斉にこれに従つて今日に至るのである。彼等は、自分達の判断で内閣告示に従つてゐるに過ぎないのであるが、それを敢て公言しないことで、多くの国民に宛もこれに従ふことが義務であるかのやうに印象づけてゐるのである。謂ふなれば自作自演なのである。 
ところで、我々は「正字体や歴史的仮名遣は難しい」と刷り込まれてゐるが、本当はさうではないのである。少なくとも「どちらも同じくらゐ簡単」といふのが実態なのである。どちらが優れてゐるかになると、もちろん永い歴史の中で徐々に育まれ鍛へられてきたものの方が「より合理的」でしかも「美しい」のである。正字や歴史的仮名遣難しさうに見えるのは、外国語が難しく感じられるのと同じ理屈で、単に慣れてゐないからに過ぎないのである。
我々は、実は意識しない間に普段から歴史的仮名遣に接してゐるのである。和歌などは当然のやうに歴史的仮名遣で新作が生み出されてゐるのである。実際、歴史的仮名遣は読んでみれば無理なく読めるし、書けるやうになるまでに数週間程度しかかからないのである。漢字の正字体は少し努力が必要であるが、今のご時世、変換キーを押すだけなのであるから、OSシステム開発会社が善処すればいいだけの話なのである。多くの国民が望めば、復活することは難しくないのである。

(高島俊男『漢字と日本人』、文春新書、平成13年)

2019年1月14日月曜日

国語改革四十年――2 国語改革とは何だったのか③松坂忠則の要求

松坂忠則の要求


松坂忠則は、昭和十七年に『國字問題の本質』(弘文堂書房)という本を出している。

――またちょっと話が横道にそれますが、昭和十七年というのは戦争中である。アメリカを相手に大戦争をやっているまっさいちゅうに国字問題とは悠暢な、とお思いのかたがあるかもしれないが、そうではない。戦争中というのは、国語問題――というより日本語問題と言ったほうが適当だが――の論議がたいへんさかんな時期だったのである。

と言うのは当時、日本は、フィリピンだとか、マレー、シンガポールだとか、インドネシアだとか、南方のひろい地域を占領して、それを維持してゆくつもりであった。ついてはそれらの地域に日本語をひろめてゆかねばならぬ。それを当時「国語の進出」と言った。そして、その進出のためには日本語をもっとずっと簡易なものにしなければならぬ、東京の「京」も今日明日の「今日」もおなじ発音だのに今日のほうは「けふ」と書くようなことではむずかしすぎてあちらの人たちに学んでもらえない、といったような主張がつよくあったのである。

これに対しては、「やさしくしますから学んでください、というような卑屈な態度でどうするか。南方の人たちが学ぶかどうかを左右するのは日本語の難易ではない。日本の国力だ」という反対論もあった。無論このほうが正しい。英語は非常に不規則なむずかしいことばだが、それをちっとも簡易化しないでも、むかしから世界中の人が学んでいる。かつてのイギリス、その後のアメリカの、軍事力、経済力、政治力、つまり国力がつよいからである。いくら「むすこのsonもお日さまのsunもおなじ発音だのに、片方はson、片方はsunと書かねばならぬというのはたしかにむずかしすぎますね。sunに統一しますから習ってくださいね」などと低姿勢で簡易化につとめたって、英米が弱い国だったらだれも英語を学ぼうとはしないにきまっている。知れきったことだが、まあそういうわけで、戦争中は国語論議がさかんだったのである。季節はずれの悠暢な談義、というわけでもなかったのだ。
〔引用者註〕昭和17年6月、国語審議会は文部大臣に対し「標準漢字表」を答申した。常用漢字1134字、準常用漢字1320字、特別漢字74字の計2528字であつた。
《それぞれの漢字の選択基準は、常用漢字は「国民ノ日常生活ニ関係ガ深ク、一般ニ使用ノ程度ノ高イモノ」、準常用漢字は「常用漢字ヨリモ国民ノ日常生活ニ関係ガ薄ク、マタ一般ニ使用ノ程度モ低イモノ」、特別漢字は「皇室典範、帝国憲法、歴代天皇ノ御追号、国定教科書ニ奉掲ノ詔勅、陸海軍軍人ニ賜ハリタル勅諭、米国及英国ニ対スル宣戦ノ詔書ノ文字デ、常用漢字、準常用漢字以外ノモノ」であった。》
《たとえば、頭山満とうやまみつるなど十二名の連署による文部大臣あての標準漢字表反対の建白書では、「国語の問題は鞏固なる国体観念に照らして講究」すべきであるとしたうえで、反対の理由を「国語審議会決定答申案にいふ特別漢字七十ママ字を以てかしこあたりの御事をも限定し奉」ることになる点、「国民ノ日常生活ニ関係ガ薄」い準常用漢字のなかに「国民が日常奉体すべき教育勅語を始め皇室典範、帝国憲法、歴代天皇御追号、勅諭、詔書の文字多数を含む」点、「漢字の否定、仮名遣の変革」をくわだてる団体である国語協会に国語審議会が「私党化」されている点などをあげている。そして「エスペランチスト、ローマ字論者、カナモジ論者の過去及び現在の思想言動を調査し国語運動に名をりて行はれたる非国家思想の有無、思想謀略の存否如何を明確にせんことを要す」というように思想問題にまで発展させてこの答申の廃棄を求めている(平井昌夫『国語国字問題の歴史」、一九四八年)。》(安田敏朗『国語審議会 迷走の60年』、講談社現代新書、平成19年)
安田氏は「思想問題にまで」と仰るが、前にも見たやうに大正時代から既に良からぬ目論見を以て国語改革運動をする者が現に居たのだし、終戦後にGHQの強い要請によつて行はれた改革は正に共産革命の臭ひがプンプンするほど、我が国の国語問題は既に思想問題となつてゐたのである。頭山翁の建白書の中で特に光るのは「国語審議会の私党化」を指摘した点と「非国家思想の有無、思想謀略の存否如何」の調査を求めた点である。気づいてゐる人は居たのである。
昭和17年と言へば大東亜戦争の真最中である。国家の存亡を賭した戦争なのであるが、先に見たやうに明治期の国語改革案といふものも、日清日露の戦争と相前後して出されたのである。昭和の改革論者達が今次の戦争を改革断行のチャンスと看做さない方が寧ろをかしいのである。「むずかしすぎてあちらの人たちに学んでもらえない」といふのは取つて附けたウソである。
《ちよつと余談ですが、澤柳大五郎さん、あの成城大学の設立などに功績のあつたギリシア美術史の大家ですが、この人が昭和三十八年、國語問題協議會といふ私も関係してゐる団体主催の講演会で面白いことを言つてをられる。日本語を学ぶ多くの外国人から、新かなはおぼえにくい、歴史的仮名遣の方がはるかによくわかるといふ話を聞くといふのです。》(荻野貞樹『旧かなづかひで書く日本語』、幻冬舎新書、平成19年)
例へば、歴史的仮名遣だと「言ふ」の活用語尾は「い い い い い」のハ行で綺麗に揃ふ。対して現代仮名遣だと「い い い い い い」とワ行が混ざつてきて寧ろ学習者を混乱させる、と荻野氏は解説してゐる。よく考へてみれば、戦前は国内に日本語を母語としない国民が沢山ゐたのである。台湾人と朝鮮人である。彼等が「歴史的仮名遣は難しいので変へてくれないか」と言つたことがあつたのだらうか? 当時の台湾や朝鮮の小学生の書いた作文を読んだことがあるが、実に立派に文章を書いてゐる。「占領地の人々の為に」の主張が如何にマヤカシであるか、ただの屁理屈に過ぎないのかが判るであらう。
あの戦争は、日本国が生きるか死ぬか、それが本質であるのに、改革論者達にとつてはどう理窟をつけてこの「非常時」を活用するかが問題だつたのである。しばらく前のことになるが、東南アジアから看護師の実習生を受け入れ、何年か実地訓練をしながら勉強させ、最終的に我が国の国家試験を受けさせて正式な看護師として採用しようといふ政策が実施された。その時、メディア等では「漢字の多い日本語がネックとなつて合格率が極めて低い、何とかしなければならない」と騒いでゐた。これなんかも人手不足といふ「非常時」にかこつけた国語改良論だつたのではないか。いま問題になつてゐる外国人の高度人材等も日本語の能力が要求されるので、また再び「非常時」を口実にした国語改良論が提起されるかも知れない。「非常時」活用手法はまだ健在なのである。
そういうわけでこの松坂忠則の本にも、「それがどの程度に學ばれるか、百萬千萬の人間の手に行きわたるかは、日本語がいかなる文字づかいであるかによって決せられる。いま日本は、アジヤの先達たる使命をはたすうえからもまた、日本語の海外進出をヒツヨウとしている」「日本のカナが、あたかも西洋におけるローマ字のように、アジヤの國際文字として用いられる時代が、もうすでに、やって來ているのである」というようなくだりが散見する。
〔引用者註〕この男も「非常時」に便乗してゐたのである。抑も私怨から漢字を無くさうと企むやうな人が、こんな雄大な理想を本心に持つてゐる訳がないのである。「活動家」も、自己の目的達成に役立つものなら何でも利用して恥ぢないのである。
この『國字問題の本質』のおしまいに「政府當局に望む」と題する部分がある。政府に対する十項の要求をならべ、それぞれに説明をつけたものである。これと、昭和二十一年十一月の内閣訓令告示、およびその後の経過を見あわせると、昭和十七年当時においては夢想にちかいものであった松坂忠則の要求が、敗戦ののちにはほとんど実現していることにおどろく。敗戦が日本人にあたえたショックがいかに大きかったか、また敗戦直後からの審議の過程で松坂の影響力がいかにつよかったかを示すものである。
〔引用者註〕もう繰り返すのは嫌だが、やはり繰り返さざるを得ない。「新しい日本をつくる為には国語を変へなければならない」などといふ、宛も敗戦責任を国語に転嫁するが如き愚かな考へを抱いたのは、エリートであつて庶民ではないのである。戦争に負けた理由を庶民から一言で言はせてもらふと、さういふバカが国家を指導してゐたから、に尽きるのである。
各条項の要求のところだけを左に列挙する。それにわたしのかんたんな説明をつけくわえる。
〈第一 政府は、國民常用の文字として漢字を用いない時代を、なるべく早く實現するとゆう目あてを明らかにしめすこと。そして、今後この目あてに向って一切のことがらを、おし進めてゆく……とゆう、大きなハタ印をかかげること。〉
松坂の主張で、戦後実現しなかったこともすこしはある。右の「ゆう」がその一つである。あとはたいてい実現したから、松坂の文章は現在の表記に非常にちかい。
〈第二 この目あてを、文化の受けつぎをさまたげることなしに實現するさし當りの方法として、「國定文字」を定めること。この中には、漢字を一千字以上二千字どまり入れる。さらにこれを、第一級と第二級に分ける。第一級は五百字、それ以外を第二級とすること。〉
この「国定文字」が戦後の「当用漢字」千八百五十字である。第一級は「教育漢字」にあたる。実際には八百八十一字になった。五百字というのはカナモジカイがえらんだ漢字の数で、これに「旗」がふくまれないから「ハタ印」と書いているのである。なお一般には「文化の継承」と言うところを、和語の連用形(その名詞的用法)によって「文化の受けつぎ」とするのはわたしも賛成。ただし漢字を使わず「文化のうけつぎ」としたいけれど。
〔引用者註〕「継承」といふ最も人口に膾炙した良い熟語があるのに、何故わざわざ大和言葉に言ひ換へなければならないのか、全く以て理解し難いのである。もし「うけつぎ」に換へたとして、「継承」や「伝承」等の語感の違ひを今度はどう表現し分けるのか。言葉を簡単にして社会の発展を促進すると言ひながら、却つて言葉を貧しくして必要以上の口数を費さなければ伝へたいことも伝はらないやうにしてゐるのである。答へは簡単、文脈に合はせて漢語と大和言葉を使ひ分ければ良いだけの話であり、実社会では現にさういふ風に行はれて何の支障もないのである。現実を無視した原理主義や設計主義は結局のところ、社会の自然な発展を阻害するものなのである。
〈第三 國民學校では、八年間に、この國定文字の中の第一級文字を書取りさせ、第二級は讀めるだけに敎えること。〉
国民学校は、初等科六年、高等科二年。義務教育は初等科のみだが、中等学校にすすまないものはほぼ全員が高等科にすすんだので、事実上八年義務教育にちかくなっていた。
〈第四 全國の地名を國定文字のみに改めること。この際、たとい國定文字でも、特別な讀み方のものは改めること。(神戶、大分など)〉
これは実行されなかったが、市町村合併や新住居表示などで新しい地名をつくる際に規制力としてはたらいた。
〈第五 國民の名の字を、國定文字でなければ受けつけないこととする。〉
これはこのとおり実行された。ただし非常に評判がわるかったので、のちに「人名用漢字」が追加された。当用漢字は千八百五十字あると言っても、そのなかで名に使える字は知れたものだから、これは当然であった。死、殺、犯、罪などはもちろん、入、口、下、切などのやさしい字でも、子どもの名前に使う人はめったになかろう。
〈第六 ホウリツを國定文字に書き改めること。〉
これは現在も法改定のつどおこなわれている。
〈第七 學術用語を、各學界に改めさせる。〉
これは各学界で自主的におこなわれているようである。函数を関数に、両棲類を両生類になど。
〈第八 政府は、國定文字だけで自由に文章の書ける字引を發行する。〉
これは国語審議会の「同音の漢字による書き換え」で一部実現した。
〈第九 インサツ物を取りしまること。國定文字の以外は使わせない。〉
新聞が自主的に実行した。教科書や官庁の文書はもちろんである。災害の際の「り災証明」など。
〈第十 カンバンを、このインサツ物と同じに取りしまること。〉
これは無理である。文部省の役人が日本中の看板を見て歩いて、一字でも当用漢字外の字がふくまれていたら「とりはずせ」と命令するわけにはゆかない。
〔引用者註〕同じく文字改革を行なつた中華人民共和国では、国定の簡体字以外の文字を商店の看板等に使用したら罰則があるのである。抑も文字等の国民文化を権力が「ああせい、かうせい」指図するといふ発想は、レーニンやスターリン、毛沢東や金日成と同じく独裁者の論理であり、自由主義に反するものなのである。
以上、第二から第十までの要求の大部分を、松坂忠則は戦後、政府をつうじて実現した。しからばこれら第二から第九までの個々の要求は何なのかと言えば、第一の、漢字を用いない時代を実現する、という大目的のための布石であり、道程なのである。

十項の要求を列挙したあと、松坂はこう書いている。
〈以上はすべて、すぐなすべきことである。これからユックリ案を作るなどと言ってもらいたくない。(…)どうせカリの物である。何も何百年さきまで使うとゆうのではない。バラックで十分である。早いことが大事だ。それに、どうせ、どのように決めたところで、どの文字をどれだけのネウチと見立てるかとゆうことは、結局は主觀の問題である。しいてハッキリ言えばどの漢字も常用文字としては、三文のネウチもない。この點をしっかりのみこんで手をつけるべきである。〉
当用漢字の選定作業を松坂が嘲笑していたというのがよくわかる。どうせカリ物であり、バラックなのである。

「結局は主觀の問題」というのは松坂の言うとおりである。当用漢字千八百五十字を決めた際、難航したというのは、どの字を必要と思うか不必要と思うかは主観の問題だからである。「犬」はよく使うから入れる、「猫」はあまり使わないからはずす、今後は「ネコ」と書く、「馬」はよく使うから入れる、「猿」はあまり使わないからはずす、今後は「サル」と書く……というふうにしてきめて行ったのだが、犬と猫の差、馬と猿の差をどれだけのものと見るかは個々の人の主観なのである。どの漢字にせよ「三文のネウチもない」というのも松坂の主観である。
〔引用者註〕終戦後の文字改革を主導した中心人物が一体どんな人物だつたのか、心ある人士はよく知つておく必要があるのである。抑もの始まりは、幕末~明治時代に、厳しい国際社会の生存競争を生き抜く為に、即ち西洋列強に植民地にされない為に、如何に日本国を強くするか思ひ悩む中から生まれてきた文字改革の発想だつた訳である。しかし現実は、西洋文化を採り入れる際に日本人は漢字といふ利器を最大限に活用しながら近代化を実現して来たのである。その時点で、漢字を減らさう漢字を無くさう等といふ考へは無意味であつたことが証明されてゐたのである。然るに現実は、現実に即して方針を変更できないエリートによつて漢字廃止運動は続行された為に、その後いつの間にやら過激な「活動家」に乗つ盗られ、これに新聞社も単に己れの業務上の都合から加担し、終戦に際してGHQに紛れ込んだ革命勢力によつて、混乱に乗じて全く無意味どころか有害な「漢字の改悪」と「仮名遣の改悪」といふ『国語の敗戦革命』が断行されてしまつたのである。

(高島俊男『漢字と日本人』、文春新書、平成13年)

2019年1月13日日曜日

国語改革四十年――2 国語改革とは何だったのか②当用漢字

当用漢字


一年後の昭和二十一年十一月五日に「当用漢字表」千八百五十字を答申、同月十六日に内閣訓令および告示公布――内閣訓令第七号「当用漢字表の実施に関する件」、内閣告示第三十二号「当用漢字表」。いずれも内閣総理大臣吉田茂の名で出されている。訓令には「従来、わが国で用いられる漢字は、その数がはなはだ多く、その用いかたも複雑であるために、教育上また社会生活上、多くの不便があった。これを制限することは、国民の生活能率をあげ、文化水準を高める上に、資するところが少くない」と趣旨をのべてある。「制限」の語を用いていることに注意。同日これとあわせて、内閣訓令第八号「「現代かなづかい」の実施に関する件」および内閣告示第三十三号「現代かなづかい」も公布された。

従来ならば、答申が公表され社会一般の討議に付される(その結果として実施にいたらずつぶされる)のが例であったのだが、このたびは答申から内閣告示公布までわずか十一日、電光石火の早業であった。官庁の文書と学校教育はこれによらねばならぬこととなった。新聞はただちにこれにしたがった。政府機関と学校と新聞、この三つを制圧して、明治初め以来の大問題はあっけなく勝負がついてしまった。

この時の国語審議会委員は七十人いた。なかで主導的な役割をはたした人物が二人いる。一人は明治の国語調査委員会以来の最古参保科孝一である(明治五年うまれだからこの年七十五歳)。もう一人がカナモジカイ理事長松坂忠則(マツサカ・タダノリ)であった。明治三十五年秋田県のうまれ。高等小学校中退で少年のころよめない漢字が多く、漢字に対してふかいうらみをいだき、漢字撲滅のためカナモジ運動に投じた。声が大きく、押しがつよく、国語審議会でこの人が強く主張すると、たいていのことはそのとおりにきまった。
〔引用者註〕「活動家」によくあるタイプの、単なる私怨がその動機だつたのである。
使用を許容する漢字の数は千八百五十字ときまった。どの字をこのわくに入れるかがなかなかの問題であった(一、二、人、手、山、川など最常用の字はだれがえらんでもはいるにきまっているが、最後の百字くらいがいつでも問題になる)。漢字の制限というのは、英語で言えば、使用してよい単語の数を三千か四千程度政府が法令でさだめ、それ以外の単語は使用を禁ずる、というようなものである。日本では文字がことばなのであるから、文字が使えなければことばが使えないのである

委員の一人であった山本有三が、いったんはずされかかっていた「魅」の字を復活させたというエピソードはよく知られる。「み力」では意味がわからないから、「魅」の字がなくなれば事実上「魅力」ということばがなくなるわけである。それを山本は、「魅力ということばがなくなったら日本語の魅力がなくなるからね」というような半分冗談みたいな言いかたでうまく制限わくに入れもどしたらしい(その分ほかの字が何か一つ追い出されたわけだが)。
〔引用者註〕かういふ全体から見たらどうでもいい事に、やたら熱心になり、その成果を殊更にひけらかすのもエリートの特徴なのである。
この作業を、松坂忠則はいつも嘲笑していた。どの字を入れようと、近い将来さらにそれをへらし、いずれは全廃にもってゆくのである。どの字がはいろうとはみ出そうと大差はない、早くやれ、と松坂は言った。ただ、千八百五十字より一字でも二字でもふやしたいと言う者があると、彼は「愚かもの」とどなりつけ、絶対に許さなかった。「わたしはほえたてた」と彼は書いている。
〔引用者註〕自分と違ふ意見を絶対に認めない独裁者タイプの人だつた訳である。

(高島俊男『漢字と日本人』、文春新書、平成13年)

2019年1月12日土曜日

国語改革四十年――2 国語改革とは何だったのか①

2 国語改革とは何だったのか


昭和二十年の敗戦は、文部省と国語審議会とに、文字通り千載一遇の機会を提供した。

敗戦後の日本の一般的精神情況は、明治初年のそれにはなはだよく似ていた。あるいは、もっと徹底的であった。明治初年の日本人は、これまでの日本は無価値である、と考えたのだが、昭和の敗戦後の日本人は、これまでの日本はいっさいが邪悪でありまちがっていた、と思った。
〔引用者註〕何度も繰り返すが、著者の言ふ「日本人」「日本」とは当時の「エリート」のことであり、庶民とは何の関係もないのである。
ふたたび「新日本」ということばがしきりにとなえられた。「日本はすっかり白紙から出なおすのだ」という論調が全国をおおった。
〔引用者註〕「論調が全国をおおった」のではなくて、マスコミが一斉にさういふ論調を書き散らかしたので、一見さう見えるといふに過ぎないのである。
戦争にやぶれたのは、軍事力、経済力の敗北であったのみでなく、文化の敗北なのだ、と識者たちは言った。さらにせんじつめれば言語と文字がおとっていたというのである。

敗戦の三か月後、昭和二十年十一月十二日の読売新聞(当時の紙名は「讀賣報知」)社説が「漢字を廢止せよ」と題して左のごとく論じたのは当時の気分を代表するものである。
漢字を廢止するとき、われわれの腦中に存する封建意識の掃蕩が促進され、あのてきぱきしたアメリカ式能率にはじめて追隨しうるのである。文化國家の建設も民主政治の確立も漢字の廢止と簡單な音標文字(ローマ字)の採用に基く國民知的水準の昂揚によつて促進されねばならぬ。
当時の読売新聞が極端な進歩主義の立場をとっていたことは『読売新聞百年史』に「左傾紙面」と題してくわしく記述してある。いま読売新聞の題号が横書きであるのはその時のなごりである。「横書き題字は独創的だったが、これは、当時、日本語のローマ字化論まででていたころで、多分にこうした風潮に影響されたものだった。題号にとどまらず本文まで横組みにしてみよう、との案もあったが、これは実現しなかった。横書き題字は、GHQも推奨し、いわば日本語改革の一端を示す意味があった」とある。
〔引用者註〕「多分にこうした風潮に影響されたものだった」。言ひ訳と責任転嫁、そしてマッチポンプは新聞社の得意技なのである。では同時期にあの有名な工作機関はどう書いてゐたのだらうか?
《……我々は、あくまで良き国語の設定とその普及とを切望する。……日常用語における漢字漢語の制限、仮名交り口語文の馴致その他、技術的、専門的には研究を重ねた上で選定せられるべきことも要請せられるであらう。口に称へて滑らかに、耳に聞いて快く、その上、読み書きするに不便不自由のないやうな新時代にふさはしい新国語の普及がこの際、特に望ましい。偏狭固陋な国語万能論の正反対な動機からこのことを提唱したいのである。》(朝日新聞、昭和20年10月4日社説「良き国語の普及を計れ」)(安田敏朗『国語審議会 迷走の60年』、講談社現代新書、平成19年)
日附を見れば朝日の方が先なのである。讀賣のと較べると一見抑制的で良識がありさうに見えるのである。讀賣の社説が出された後の11月16日の「天声人語」では
《気の早い人々の中には平和日本、世界的日本の建設のため一足飛びに、ローマ字の普及を計るべしと主張するものもないとは限るまい▼然しせいては事を仕損じるのであつて》(安田敏朗『国語審議会 迷走の60年』、講談社現代新書、平成19年)
などと逆に讀賣を戒めてゐたさうだ。さすが経験豊富な工作員なのである。「急激な変革は却て強い反撥を惹起するから、気づかれないやうに徐々にやるべきだ」(サラミスライス論)といふ訳である。
昭和二十一年四月、志賀直哉が『改造』に「國語問題」を発表してフランス語を国語にしてはどうかと提唱したことはよく知られる。志賀は、日本の国語ほど不完全で不便なものはない、これを解決せねば日本はほんとうの文化国にはなれない、とのべてこう書いている。
私は六十年前、森有禮が英語を國語に採用しようとした事を此戰爭中、度々想起した。若しそれが實現してゐたら、どうであつたらうと考へた。日本の文化が今よりも遙かに進んでゐたであらう事は想像出來る。そして、恐らく今度のやうな戰爭は起つてゐなかつたらうと思つた。吾々の學業も、もつと樂に進んでゐたらうし、學校生活も樂しいものに憶ひ返す事が出來たらうと、そんな事まで思つた。
そこで私は此際、日本は思ひ切つて世界中で一番いい言語、一番美しい言語をとつて、その儘、國語に採用してはどうかと考へてゐる。それにはフランス語が最もいいのではないかと思ふ。六十年前に森有禮が考へた事を今こそ實現してはどんなものであらう。不徹底な改革よりもこれは間違ひのない事である。森有禮の時代には實現は困難であつたらうが、今ならば、實現出來ない事ではない。
意見としてはばかばかしい、あるいはたわいないものだが、これも当時の日本の一般的な気分を知るにはよい材料である。
〔引用者註〕何度でも繰り返すが、「当時の日本の一般的な気分」ではなくて、気の動顚した一小説家の妄言に過ぎないのである。
昭和二十一年三月にアメリカから教育使節団が来て日本政府に、漢字を廃止してローマ字を採用せよ、と勧告した。もっとも使節団は最初からそういう勧告をたずさえて来日したのではなく、彼らに接触した文部省の国語官僚や新聞の代表が使節団にうったえてそういう勧告を出してもらったのであるらしい。
〔引用者註〕《GHQは、日本の教育に関する問題について日本の教育者に助言および協議するためにアメリカの教育者グループを派遣するよう、米国陸軍省に要請した。この要請にしたがってアメリカ教育使節団二十七名が一九四六年三月いっぱい日本に派遣され、『アメリカ教育使節団報告書』を同年に刊行した。/この報告書にしたがい、日本政府内に教育刷新委員会が設置され、文部省およびGHQとともに、報告書の勧告の方向のうえに、戦後教育改革がおこなわれた。そのなかで教育基本法(一九四七年)や六三制、教育委員会制度などが実施されていく。》(安田敏朗『国語審議会 迷走の60年』、講談社現代新書、平成19年)
《ここで気にかかるのは、教育使節団の団員がどれほど日本語が出来たか、われわれの言語生活についてどの程度知つてゐたのかといふことだが、齋藤襄治の談話によれば、二十七名の団員中、日本語を解したのは国務省東洋課長ゴードン・T・ボウルズ(文化人類学者)ただ一人であつた。どうやら彼らは、占領軍情報教育局のロバート・キング・ホール大尉(のちに中佐)なるローマ字論者の意見を鵜呑みにして報告書を作成したものらしい。》(丸谷才一編著『国語改革を批判する』、丸谷才一「言葉と文字と精神と」、中公文庫、平成11年)
このホール大尉は終戦前、カリフォルニア州モントレイにあつた軍政要員準備機関において日本占領企画本部の教育部長であつたといふ。昭和20年6月23日附で「公式表記文字をカタカナに改定」と題する秘密覚書を執筆し、占領後に日本の国語から漢字を無くし全てカタカナ書きに改めるべきだと主張してゐた。その覚書の中で
《ローマ字化の利点は明瞭であるが、実用的ではない。その理由は、日本で一般的に読まれていないからである。それ故、性急なローマ字化は日本を事実上、無能国家にしてしまう。それは軍事占領政府にとり、敵性宣伝に曝されるよりも一層危険である。文書による意思疎通ができない近代国家は混乱に陥る。》(西鋭夫『國敗れてマッカーサー』、中央公論社、平成10年)
と、わざわざローマ字化の危険性まで訴へてゐた。それがどういふ訳か、昭和20年11月20日には既に、文部省教科書局の面々をCIE(民間情報教育局)に呼びつけて、教科書をローマ字にしろと高圧的に命令してゐたことが、『昭和戦後史 教育のあゆみ』(讀賣新聞社刊)に載つてゐるといふ。因みにこのCIEは、かの悪名高きWGIP(War Guilt Infomation Prgam=日本国民に戦争贖罪意識を植ゑつける計画)を主に担当した機関でもある。
《(ホール少佐は)、いやがる日本人にローマ字を強制することが親切になると信じている単純な男で、反対側にとっては迷惑千万だが、ローマ字論者にとっては頼もしい男ということになったらしい。》
《結局、教科書のローマ字化ということは、ホール少佐の個人的意見にすぎなかったようである。彼はハーバード大学、コロンビア大学などで教育学やアジア問題を学び、自分なりの意見を持っていたので、ローマ字化についても自信をもって主張したのだが、周囲の同意を得るに至らず、まもなく教科書の担当からはずされて、他の部署へ移された。》(丸谷才一編著『国語改革を批判する』、杉森久英「国語改革の歴史(戦後)」、中公文庫、平成11年)
しかし彼は、終戦前は性急なローマ字化は良くないと言つてゐたのである。GHQでの彼の上司達は「国語のローマ字化など考へてもゐない」と否定してゐたことを、当時の日本側関係者が証言してゐるが本当にさうなのだらうか。「ローマ字ではなくカタカナにすべき」と言つてゐた男が、日本にやつて来て間もなくローマ字強行論者に転身してゐるのである。軍隊は命令服従が絶対である。上司の意向と違ふことをホール大尉が独断で行なつてゐたとは到底考へにくいのである。或いは彼の覚書にある《性急なローマ字化は日本を事実上、無能国家にしてしまう》の部分がGHQの気に入る所となつたのかも知れない。何れにしても当時のGHQ担当者の中で、彼一人だけ熱心にローマ字化を推進したことを示す数々の証拠や証言が残されてゐるのは如何にも不自然なことなのである。しかし真相がどうだつたにせよ、この男の影響は教育使節団の『報告書』の随所に見られるのである。
《日本の子供達に對して我々が責任を感じさへしなければ、これに觸れずにゐた方が愼み深くもあり、氣樂でもあつていゝと思ふ問題に、こゝに當面するのである。言語は國民生活に極めて密接な關係をもつた一つの有機體であるから、外部からそれに近よることは危險なのである。……何事にも中間の行き方があるが、この場合それは立派な中庸の道になるであらう。國語の改良はどんな方面から刺戟を受けて着手してもいゝが、その完成は國內でするより外にないことを、我々は知つてゐる。我々が與へる義務があると感ずるのは、この好意の刺戟であつて、それと共に、未來のあらゆる世代の人々が感謝するにちがひないと思はれるこの改良に、直ちに着手するやう現代の人々に大いに勸める次第である。深い義務の觀念から、そしてだゞそれだけの理由で、我々は日本の國字の徹底的改良を勸めるのである。『聯合國軍最高司令部に提出されたる米國敎育使節團報吿書』、東京都教育局、昭和21年)
要するに「外国人が他国の国語に介入するのは危険なことであり、本来これを慎むべきであるものの、その国語改良の早急な実行の為、我々にはそれに敢て勧告をする義務がある、それは必ずや将来の世代から感謝されるに違ひない」と言つてゐるのである。まるで宣教師のやうな口ぶりである。読んでゐるこちらが恥づかしいのである。
《國語改良問題は明かに根本的な、急を要するものである。それは小學校から大學に至るまで、敎育計畫のほとんどあらゆる部門に、その影を投げかける。この問題を滿足に解決できなければ、意見の一致を見た多くの敎育目的の達成は、極めて困難になるであらう。例へば、他の諸國民の理解の促進や、自國における民主主義の助成がさまたげられるであらう。》『聯合國軍最高司令部に提出されたる米國敎育使節團報吿書』、東京都教育局、昭和21年)
「国語を改良しなければ今後の教育行政は立ち行かなくなるぞ、民主主義の発展も阻害されるぞ、さうなつたら困るのは誰だ」と結局は恫喝してゐるのである。
《日本の國字は學習の恐るべき障害になつてゐる。廣く日本語を書くに用ひる漢字の暗記が、生徒に加重の負擔をかけてゐることは、ほとんどすべての有識者の意見の一致するところである。……漢字の讀み書きに過大の時間をかけて達成された成績には失望する。小學校を卒業しても、生徒は民主的公民としての資格に不可缺の語學能力を持つてゐないかも知れない。彼等は日刊新聞や雜誌のやうなありふれたものさへなかなか讀めないのである。槪して、彼等は現代の問題や思想を取扱つた書物の意味をつかむことができない。殊に、彼等は卒業後讀書を以て知能啓發の樂な手段となし得る程度の修得さへでき兼ねるのを常とする。》『聯合國軍最高司令部に提出されたる米國敎育使節團報吿書』、東京都教育局、昭和21年)
デタラメもいいとこであるが、これもホール大尉の影響と思はれるのである。
《進駐軍のある士官が、日曜日にジープを駆って、いなかに出かけて行った。そして、畑で働いている農民に新聞を出して読ませてみた。第一面はほとんど読めない。社説はなおさらである。社会面はどうやらわかる者と、それさえ読めない者もあった。この事実をまのあたりに見たその士官は、日本では国民をめくらにしておくつもりかと言ったという。(山本有三『もじと国民』、昭和21年)

この将校はおそらくホール大尉だらうが、日本人全体の国語力のテストとして果して適当なものかどうか、かなり疑問がある。アメリカ軍の将校に畑でとつぜん新聞をつきつけられては、占領下の庶民はきつとドギマギしたらうし、あのころの新聞は漢字を使ひすぎてゐたし(しかし、だからと言つて漢字そのものがいけないことにはならない)、社説といふのはどこの国でもむづかしいものだし(アメリカだつてこれは同じはず)、それに、テストされる者が片よつてゐて、数もあまり多くなささうである。》
(丸谷才一編著『国語改革を批判する』、丸谷才一「言葉と文字と精神と」、中公文庫、平成11年)
こんなずさんな調査や偏見に基いて『報告書』は起草され、次のやうな勧告を出したのである。
《必然的に幾多の困難が伴ふことを認めながら、多くの日本人側のためらひ勝ちな自然の感情に氣付きながら、また提案する變革の重大性を十分承知しながら、しかもなほ我々は敢て以下のことを提案する。
一、ある形のローマ字を是非とも一般に採用すること。
二、選ぶべき特殊の形のローマ字は、日本の學者、敎育權威者、及び政治家より成る委員會がこれを決定すること。
三、その委員會は過渡期中、國語改良計畫案を調整する責任を持つこと。
四、その委員會は新聞、定期刊行物、書籍その他の文書を通じて、學校や社會生活や國民生活にローマ字を採り入れる計畫と案を立てること。
五、その委員會はまた、一層民主主義的な形の口語を完成する方途を講ずること。
六、國字が兒童の學習時間を缺乏させる不斷の原因であることを考へて、委員會を速かに組織すべきこと。餘り遲くならぬ中に、完全な報吿と廣範圍の計畫が發表されることを望む。》『聯合國軍最高司令部に提出されたる米國敎育使節團報吿書』、東京都教育局、昭和21年)
有無を言はさぬ命令なのである。しかもその重大なる「変革」は全て日本側の責任においてやれと言ふのである。憲法典を押しつけたのと同じやり口なのである。抑もGHQが日本政府に無理矢理やらせた諸改革のことを想起してほしい。彼等は日本人から軍隊を奪ひ、宗教を奪ひ、憲法を奪つたのである。それら改革と称する略奪行為は、日本の弱体化が目的だつたことは周知の事実なのである。それと同時期に行はれた国語改革が日本人の学習力を向上する為のものなどと、どうして言へるだらうか。著者も引用者もたびたび触れてきた如く、日本の近代化、即ち日本の富国強兵に多大な貢献を為してきたのは漢字である。仮名書きにしろローマ字化にしろ、どちらにしても漢字が廃止されるのであるから、GHQの意図する所は自づと明らかであらう。
《今は國語改良のこの重要處置を講ずる好機である。恐らくこれ程好都合な機會は、今後幾世代の間またとないであらう。日本國民の眼は將來に向けられてゐる。日本人は國內生活においても、國際的關係においても、新しい方向に動きつゝある。そしてこの新しい方向は文書通信の簡單にして效果的な方法を必要とするであらう。また同時に、戰爭が多くの外國人を刺戟し、日本の國語と文化を硏究せしめてゐる。この感興を持續せしめ、育くまうとすれば、新しい書記法を見出さなくてはならぬ。國語は廣い公道たるべきもので、障壁であつてはならない。世界に永き平和をもたらさんとする各國の思慮ある男女は、國民的な孤立と排他の精神を支持する言語的支柱は、できる限り打ちこわす必要のあることを知つてゐる。ローマ字採用は、國境をこえて知識や觀念を傳達する上に偉大なる寄與をなすであらう。》
これが『報告書』の「国語改革」の章の締めくくりなのである。これを読んで戦慄を覚えない人があるだらうか。国内生活や国際関係における「新しい方向」とは何であらうか。「文書通信の簡單にして效果的な方法を必要とする」とはどういふ意味であらうか。
《階級的な敬語その他の封建的伝習の色濃い日本の国語が大いに民主化されねばならぬのはいふまでもない》(安田敏朗『国語審議会 迷走の60年』、講談社現代新書、平成19年)
先に紹介された讀賣報知の昭和20年11月12日附の社説「漢字を廃止せよ」には上のやうなくだりもあつたのである。安田敏朗氏によると、この社説は《社会の変化にともなって言語のありかたも変化するという論である。これは、言語は上部構造に属し、下部構造が変化すればそれにともなって上部構造も変化する、という議論とおなじである。ソ連の言語学者ニコライ・ヤコヴレヴィチ・マール(一八六四~一九三四)が中心となって「ヤフェート言語学」(セム・ハム・ヤペテのヤペテからくる)として唱えたこの議論は、日本では一九三〇年代からソビエト言語学として受容されたものであり、社会の発展段階論と国際共通語としてのエスペラントの達成という文脈で論じたプロレタリア・エスペラント論として一時期流行した》(安田敏朗『国語審議会 迷走の60年』、講談社現代新書、平成19年)
のださうだ。その我が国では昭和14年6月、国語ローマ字化を訴へたプロレタリア・エスペランティストや一部ローマ字論者が、治安維持法違反容疑で検挙されたのであつた(左翼ローマ字運動事件)。彼等の目指すところが共産主義社会であるので当然である。エスペラント理論では、社会は「封建社会→資本主義社会→共産主義社会」と進み、これに伴ひ言語も「民族語→民族語+国際補助語→世界語」と発展するといふ。従つて民族語と国際補助語(エスペラント)とが併用されるべき資本主義社会にあつては、ローマ字表記であるエスペラントに合せて民族語もローマ字表記でなければならない、といふのがその主張である。そして当然、前時代の「敬語」も消滅すべきだとするのである。『報告書』にある「新しい方向」と「文書通信の簡單にして效果的な方法」とが何を意味するのか、なにゆゑにローマ字化にここまで固執するのか、これで明らかであらう。しかも報告書は更に「國語は障壁であつてはならない」とも言ひ、「精神を支持する言語的支柱は、できる限り打ちこわす」とも言つてゐる。そして、その絶好の機会が訪れたと言つてゐるのである。GHQ内の赤い勢力は日本の国力を削ぐ為に国語を貧困化しようとしたのみならず、国語こそ日本人一人一人が自らの精神や国柄を護る為の楯であると看做して、きたるべき革命に向けてこれを徹底的に破壊しようとしてゐたのである。
《コミンテルンは、世界各国に共産党を設立するだけでなく、その別動隊を構築することで、大衆の組織化を図ったのだ。…(中略)…もう一つの別動隊が、エドキンテルン(Educational Workers International, 略称EducIntern:教育労働者インターナショナル)であり、こちらは、教職員を対象とした教職員労働組合の世界組織である。…(中略)…日本でも戦前、エドキンテルン日本支部がひそかに結成されており、その中核メンバーが戦後、GHQのニューディーラーと称する社会主義者と組んで設立したのが、日教組(日本教職員組合)である。》(江崎道朗『アメリカ側から見た東京裁判史観の虚妄』、祥伝社新書、平成28年)
教育使節団とは、日本の弱体化と赤化の一貫たる教育改革を権威づけ正当化する為のダシであつたのと同時に、その有力な協力者でもあつたのである。主要なメンバーはその目的を充分に理解した上でこれに協力したのである。その他のメンバーは単なるお飾りとして利用されただけだつたのである。
《私は、一九七八年(昭和五十三)年三月八日、アメリカ教育使節団の団長だったジョージ・ストッダード博士と、彼のニューヨークはマンハッタンの自宅で対談した。
 使節団の来日から、ちょうど三十二年後の三月八日だ。
 「誰が教育使節団の報告書を書いたのですか」
 「殆ど私が書いた。国語改革の部分を書いたのは私ではない」
 その三カ月前、一九七七年十一月二十一日、同使節団の団員であり、スタンフォード大学の教育心理学教授アーネスト・R・ヒルガードに同じ質問をした。
 「報告書の執筆者はジョージ・D・ストッダードと私、それに今、名前を思い出せないがもう一人の三人だった」
 「それでは、教育使節団の他の二十四人の団員は何をしていたのですか」
 「あちこち観光旅行に行ったり、夜の街に遊びに出かけていた。ストッダード氏の団長ぶりは独裁的ともいえた。誹謗の意味で独裁的といっているのではない。彼は、まず自分で物事を決定し、その後で、団員の同意を取り付けるという具合に処理していたからである」》
一九七八年(昭和五十三)、ストッダード元団長は、私と対談中に、「報告書」は自分が執筆したと言ったが、「国語改革の部分を書いたのは、自分ではなく、ジョージ・カウンツだった」と付け加えるのを忘れなかった。(西鋭夫『國敗れてマッカーサー』、中央公論社、平成10年)
アレクサンダー・J・ストッダードの当時の肩書はフィラデルフィア市教育長、ジョージ・S・カウンツはコロンビア大学教育学教授にしてアメリカ教職員連盟副会長であつた。何をか言はんやである。更に西鋭夫氏が同書で挙げてをられるもう一人の国語改革担当は、コロンビア大学比較教育学教授のアイザック・カンデルである。そして「大活躍」したホール大尉は、グゲンハイム奨学研究員として帰国後、昭和24年には「新しい日本のための教育」といふ日本語ローマ字化の利点を論つた書籍をエール大学出版会から刊行し、その後、カウンツとカンデルが教鞭を執つてゐたコロンビア大学教育学部に比較教育学の助教授として迎えられてゐるのである。
戦後の国語改革は、単に日本の改革論者が虎の威を借りて行なつたと言ふだけでは充分ではないのである。占領軍の側にも、積極的に日本人の国語を破壊しようと企んだ者がゐたのである。その最終的な目的は日本国民を丸裸の奴隷にすることだつた、と言つても言ひ過ぎではないだらうと思ふ。引用者はこれを「国語の敗戦革命」と呼びたいと思ふのである。
日本の主要な都市はすべて焼かれて、かつて文部省に反対した知識人たちの多くはそれぞれ地方にのがれて孤立していた。いまや文部省に反対するまとまった勢力はどこにもなかった。
〔引用者註〕謂はゆる火事場泥棒なのである。しかもそれは、上で見たやうに、日本人をその伝統から切り離して魂を奪ひ、言語を単純化して管理し易くすることが期待されてゐたのである。まるで奴隷の作り方のレシピを見るかのやうである。抑も戦争に負けたからといつて、どうして国語を変へなければならないのか、生れた時から「当用漢字」「新仮名遣」を当り前と思つてきた戦後世代は、もつと考へてみる必要があるのである。GHQが憲法典を押しつけた事実は、改憲論議が活撥化するのに伴つて段々と浸透してきてゐるが、国語改革の罪悪については未だ広く認知されてゐるとは言ひ難い。無理矢理に憲法典を改変させられたことと、無理矢理に国語を壊されたこと、一つの民族にとつて一体どちらがより深刻な問題なのだらうか。
以下、漢字にかかわることのみを略述する。

敗戦直後の昭和二十年十一月、文部大臣が国語審議会に対して「標準漢字表」の再検討に関し諮問し、漢字主査委員会が設置された。

昭和十七年に国語審議会が文部大臣に答申した「標準漢字表」というものがある「常用漢字」千百三十四字、「準常用漢字」千三百二十字、「特別漢字」七十四字、計二千五百二十八字よりなる(「特別漢字」というのは、「朕惟フニ」の朕、「天佑ヲ保有シ」の佑、綏靖天皇の綏、嵯峨天皇の嵯と峨など、天皇、皇室にかかわる字で「常用漢字」「準常用漢字」にはいってないもの)。この「常用漢字」をもとにして、公文書、教科書等で使用してよい漢字の範囲を定めようというのである。

いったい敗戦直後の大混乱の時期、何十万何百万の国民が家を焼かれて住むところなく、そこへまた戦地や外地から何十万何百万の人たちが引きあげてくる、食糧が決定的に不足して来年は百万をこえる餓死者が出るのではないかと言われている時に、なんでまた漢字を制限しようかなづかいを変えようというような、文化の根幹にかかわる、本来慎重の上にも慎重を期せねばならぬ問題を大あわてでとりあげねばならぬのか、と思うところだが、それが当時の風潮であった。上にも言ったように、とにかくいままでの日本は何もかも全部わるかった、まちがっていた、いっさいを変えて新しくして再出発だ、という気分がおおっていたから、ことばや文字だけでなく、学校制度などもただちに手がつけられたのであった。
〔引用者註〕シツコイやうだが繰り返す。「それが当時の風潮であった」「…という気分がおおっていた」といふのはウソである。日々の食糧に事缺いてゐる庶民に、「いままでの日本は何もかも全部わるかった、まちがっていた、いっさいを変えて新しくして再出発だ」などと感傷に浸つてゐる暇はないのである。
占領軍もそれを支持した。アメリカは、日本人の毅力、精神的な底力やねばりづよさをまったく見あやまっていた。実際には日本人は、敗戦の一週間後には、廃墟となった銀座でガリ版ずりの粗末な英会話テキストが飛ぶように売れていた(これから日本に大挙上陸してくる米軍兵士と仲良くしようというのである)という、いたって尻の軽い国民なのだが、戦争の時に日本の兵士たちが頑強に戦ったものだから、これをおそろしくしぶとい人種と誤認し、二度と欧米列強に対して刃向わぬよう、その経済力も知力も伝統の力も、極力削いでおとなしい無力な国にしてしまおうとした。つまり、第一次大戦でボロボロにまけて、その二十年後にははやくも欧州第一の強国として復活し、またまた周辺の諸国に戦争をしかけたドイツみたいなことになっては困る、と考えたわけだ。何もそんなに力を削がないでも、ドイツ人とちがって日本人は、臥薪嘗胆力をたくわえてもう一ぺんアメリカにしかえしの戦争をふっかけるような、そんな根性のある国民ではないのに――。
〔引用者註〕申し訳ないが繰り返す。さういふ尻軽の根性無しは、エリートたちのことなのである。また、あれだけ物理的に破壊された挙句に、占領期には日本国民の精神まで破壊しようと工作員たちが色々頑張つたといふのに、その後の我が国の復興と繁栄は文字通り驚異的なものであつた。やはり日本人は聯合国が当初恐れた通り「おそろしくしぶとい人種」だつたのである。
そういう日本全体の気分、占領軍の支持、それに、従来答申を出してはそのたびにつぶされるという屈辱をなめてきた文部省国語官僚と、保科、松坂ら国語審議会の急進実力者たちの執念、それらがあいまって、敗戦直後のドサクサのなかで「こんどこそ」という国語改革のうごきがはじまったわけだ。
〔引用者註〕やはり繰り返す。「そういう日本全体の気分」とは新聞紙面上の話であり、庶民とは何の関係もないのである。

(高島俊男『漢字と日本人』、文春新書、平成13年)