2019年11月12日火曜日

大嘗祭(和田英松)――四、大嘗祭の儀式②

四、大嘗祭の儀式②


(5)奉幣 次に諸社の奉幣は、八月下旬に伊勢に奉幣使を派遣する。五畿七道の祈年祭に与かる所の各神社へも奉幣する。更に十一月に至りまして、また伊勢には特別に由の〇〇奉幣〇〇と申して御奉告の奉幣があります。一条天皇以来は、石清水、賀茂にも由の奉幣があつたのです。

(6)大祓及荒見河祓 それから大祓をするのでありますが、最も重大なる御祭典を執行せられるのであるから穢があつてはならぬ。天下を浄めなければならない。昔は大祓と云ふことを非常に利用して、穢悪あいあく祓除ばつぢよしたのであります。今申した斎田なども、御決定になつてからは、必ず其の土地で大祓をするのである。それで一般に浄めると云ふので、大祓の使を左右京及び五畿七道に派遣せられるのです。地方は八月初旬に一度大祓するのみでありますが、左右京五畿内、近江、伊勢は、同月下旬にも大祓使を出すのである。殊に在京諸司は八九十の三箇月は、月末毎に大祓の式を行ふ。浄めた上に一層浄めると云ふ訳でございます。別して祭典に与かる所の人々検校行事以下の輩は、紙屋川に行つて御禊の祓をする。九月の晦にするので、これを荒見川〇〇〇の祓〇〇と申します。

(7)御禊 此の如くすでに諸国、京畿及び官省諸司の官吏は、式典に関係する人々まで祓をするのであるが、天皇もまた十月下旬、みづから河原に出でゝ、御禊の祓を行はせられるのであります。之れを豊御禊〇〇〇とも河原〇〇の禊〇〇とも云ひ、また御禊〇〇とも申します。淳和天皇の御代までは、葛野川、佐比川、及び大津などで場所が一定して居らぬが、仁明天皇以来、賀茂川に定まつたのであります。

其の時には皇太子以下百官悉く供奉するのであるから非常な御行列です。節旗〇〇と云ふ旗を押立てゝ行く。是れは大臣大将の人の旗です。之を大カシラ〇〇〇〇とも申しまして、それに八咫烏が附いて居る。形は今遺つて居りませぬが、其の旗も押立てゝ行く。行列の前後に供奉する者は騎馬でありますが、馬具でも装束でも非常に華美を競ふと云ふことであります。女官も多人数は車に乗つて御供をする。車の後の方に簾が下がつて居つて、其処へ袖口を出す。それが非常に綺麗である。後世の所謂十二単で、いろいろ其の季節に相当した色の袖口を出す。さう云ふ有様であるから、市民がみな拝観に出る。一つのお祭として此の御禊と云ふことを、京都市民は非常に楽みにして居る。道の傍らに桟敷を拵へたり、或は物見車に乗つて拝観する。

河原には百子帳〇〇〇と云ふものが出来ます。御帳の四方に帷子を懸けて、前後を開いて出入する様に出来て居ります。陛下が着御あらせられると、御手水を御遣ひになつて、其処で御禊を行はせられる。御禊の御式が済むと、其の附近の神社に奉幣がある。其の外いろいろな御式がありますが、大体だけに留めて置きます。

(8)斎戒 大祓御禊がすめば、清浄になつたのであるが、祭典の結了するまで清浄を持続する為に斎戒するのであります。十月の下旬から十一月の末まで一箇月の間は散斎あらいみと云ひまして、一般に最も謹慎する。それから三日の間、殊に大嘗祭の当日は、致斎まいみと云つて、是れは一層念を入れて身を浄める。物忌をする。

その忌むべき箇条が延喜式其の他の書に書いてありますが、それを見ると、餘程慎重を加へたことが分ります。例へば病室に行くことが出来ない。其の一箇月の間は、罪人を判決したり、処刑することはならぬ。音楽をすることは出来ぬ。それからいろいろの穢れに触れることは絶対に禁ずる、仏法の事を行うてはならぬ。忌服に掛かる者は一切遠慮する。其の他の穢れとか産の穢れに触れると云ふことを慎む。

言葉も慎まなければならぬ。譬へば、死ぬると云ふことを言つてはならぬ。或は病と云ふことを言つてはならぬ。病は「やすむ」と云ふ、泣くと云ふこともいはれぬ。血と言ふこともいつてはならぬ。血は「あせ」と言ふ。さう云ふ風に言葉までも替言葉を用ひる。坊主と言ふこともいつてはならぬ。それであるから、僧侶が宮中に出入すると云ふ事は勿論梵鐘を撃つ事も禁制である。殊に武家時代には、医者は皆坊主であつたけれど、医者の出入することをとゞめる事はむづかしいから、そこで附髪をしたかつらを被つて出入する。宮中の屛風なども、坊主の描いてあるのは、取除けてしまふか張紙する。

陛下は古今集以下の歌集を御覧なさらない。何となれば、歌集には坊主の詠んだ歌がある。或は哀傷の歌があると云ふので、さう云ふことも禁ずると云ふやうな次第でありまして、慎重に慎重を加へて、一点の穢れのない様にする。祭典の式場に与かる者でも、之を区別して大忌〇〇小忌〇〇としてある。小忌と云ふ方は最も慎むのです。是れは小忌衣と云つて肩衣の様なものを着る。大忌と云ふ方は、其れよりも少し軽い。小忌は大嘗宮までも入ることが出来るが、大忌は其処までは行かれない。

(9)習礼 神饌を供せらるゝ儀の御練習であります。此のほか御調度御覧は、御挿頭花かざしばな、和琴、屛風等の御調度を御座所に於いて、天覧に供する儀であります。

これで祭日前に於ける、いろいろの御儀式は終つたのであります。これから御儀式のことを述べる筈ですが、其の前に順序として、大嘗宮の事を述べて置きます。

(10)大嘗宮 祭典を御執行になります大嘗宮は、大極殿と紫宸殿とにては、各殿舎の配置が変つて居ります。先づ大極殿にては、南庭なる龍尾道の前に大嘗宮が出来るのでありますが、大凡う云ふ形(左の第一図)でございます。


廻立殿は、悠紀主基殿に渡御の際、御沐浴ありて、祭服を着御あらせらるゝ所であります。膳屋は神饌料理の所で、面積が東西廿一丈、南北十五丈で、外部は垣を繞らし、内の隔ては屛籬で、四方に小門があります。建物は皆丸木を用ひ、屋根は青草で葺き、黒葛を以て結び付けるので釘は用ひない。所謂古式で、全く神代の遺風に倣ふのです。用材も吟味して、八月上旬之れを卜定し、十月上旬伐木して京都に運ぶ。十一月上旬祭日より七日前に、鄭重なる地鎮祭を行ひ、直ちに起工して五日の内に竣成するのであります。

中世以降、大極殿焼亡して再造もなく、其の旧趾で行はれたのであるが、江戸時代に大嘗祭を復興せられた頃は、其の旧趾も畑になつて、肥料などをして不潔であるから、とても行ふことが出来なかつた。そこで、紫宸殿の南庭で行はせられたが、場処が狭い。紫宸殿の前には古式の通りに建て並べて造ることが出来ませぬ。そこで紫宸殿から廊下を造つて、廻立殿を東に、膳屋を西に移したのである。(右の第二図)殊に紫宸殿は節会にも使用せらるゝのであるから、親祭がすむと大急ぎで破壊し、たゞちに節会の儀を行はせられたのであります。


(和田英松『國史國文之硏究』、雄山閣、大正十五年)





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