2015年1月16日金曜日

小野田さんのもう一人の戦友

30年に亘り投降を拒否して戦ひ続けた小野田寛郎さんを、フィリピン・ルバング島まで探しに行き、帰国を決意させたことで一躍有名になつた鈴木紀夫さん。以後、自己紹介の際にかう言つて人を笑はせたさうです。
「小野田さんを発見に行き、逆に小野田さんに発見された、鈴木です」
そんな鈴木さんとのジャングルでの出遭ひを、ご著書『たった一人の30年戦争』の中で小野田さんはかう書き記してゐます。当時、小野田さん51歳、鈴木さんは24歳。昭和49年2月20日の事です。
 私の〝終戦記念日〟は、昭和四十九年、元上官の谷口義美少佐から「任務解除命令」を受け、フィリピン空軍司令官に投降した三月十日である。
 この季節になると、私はもう会うこともできなくなった一人の青年を思い出す。鈴木紀夫君(昭和六十一年十二月、ヒマラヤで遭難死)。私の運命を百八十度転換させた男である。
「 おいッ」
 私は男の背後から声をかけた。
 炊事のため火を燃やしていた男は立ち上がってこちらを見た。大きな丸い目、長髪、青黒いズボン(ジーパン)でサンダルをつっかけている。
「ボク、日本人です。ボク、日本人です」と繰り返し、彼はぎこちなく軍隊式の挙手の敬礼を二度した。手が震えていた。
 私は腰だめの姿勢で銃を構えていた。安全装置をはずし、右人差し指が引き金にかかっている。顔を男の真正面に向けたまま、眼球だけを左右に走らせた。人の気配がすれば男を射殺する。
「小野田さんですか?」
 男はうわずった声で聞いた。
「そうだ、小野田だ」
「あっ、小野田少尉殿デアリマスカ」
 急に軍隊調になった。
「長い間、ご苦労さまでした。戦争は終わっています。ボクと一緒に日本に帰っていただけませんか」
 私は彼を怒鳴りつけた。
「オレには戦争は終わっていない!」

小野田さんはこの時より四日も前から、ジャングルの中で一人キャンプをする鈴木青年を、山の斜面から監視してゐたのださうです。この青年を、てつきり敵が放つたオトリとみなして、正体を探る為に自分から近づいたのでした。
「小野田さん、陛下や国民が心配しています」
「お前はだれの命令を受けてきたのか?」
「いえ、単なる旅行者です」
(怪しい男だ。敵が日本語のできるやつをオトリに送り込んできた)私は警戒心を強めていた。
 ただ一つ、男には私に銃の引き金を引かせることをためらわせた点があった。サンダル履きのくせに、毛の靴下を履いていた。軍人ではない。もし住民だとしても、靴下を履く階層は靴を履く。
 一年四カ月前、小塚金七一等兵が〝戦死〟したことで、フィリピン空軍は私が一人だということを確認していた。私を射殺する最も効果的な戦術は、私の行動地点に少人数の狙撃兵を潜伏させることである。鈴木紀夫君はその通り、私の前に現れた。
 彼はポケットから米国製たばこのマールボロを取り出し、私にすすめた。
(米国製たばことは、ますます怪しいやつだ)
 火をつけた。久しぶりのたばこだった。
「小野田さん、いろいろ話をしたいのですが」
 私はすでに話しすぎていた。この正体不明の〝日本語をしゃべる男〟と話す気になったのは、小塚の戦死以後、独り言を除いて人と話したことがなかったせいかもしれない。
「山へ行け!」

この後、二人は山の斜面に場所を移し、腰を下ろし話を再開しました。
「ところで君の名前は? 聞くのを忘れていた」
「鈴木紀夫です。紀州の紀に、オットの夫です。で、小野田さんの下の名前(寛郎)はカンロウと呼ぶんですか」
「ヒロオだ」
「ヒロオ? ヘーぇ、日本語ってむずかしいですね」
 私の神経がピンととがった。
(この野郎「日本語はむずかしい」だと? 外国人の感覚じゃないか)
 彼は疑われていることを気にした様子はない。
「小野田さん、写真撮らしてください」
「ああ、いいよ」
 私には計算があった。彼に写真を撮らせれば、私の実在が証明され、敵側にも日本にもやがて何か反応が表れるだろう。一つの賭けであった。
この時撮つたものは全て失敗してゐて、翌朝改めて撮られ、小野田さんの身元確認の根拠となつたのが下の有名な写真です。左腕をわざと裏返してゐるのは、本人であることの証明である傷跡を見えるやうにする為だつたさうです。


話し始めて既に何時間も経ち、辺りは真暗になつてゐたさうです。鈴木さんが「写真がちやんと撮れたかどうか自信がないから明日もう一度来てください」と言ふのですが、小野田さんの居ない間にフィリピン軍に通報されてはかなはないから、それならばいッその事、鈴木青年のキャンプで夜を明かさうといふ事になりました。
「では、今晩はゆっくり飲み明かしましょう」
 彼はジンのびんを持ち、紙のコップを差し出した。
「オレは酒は飲めないんだ。戦前、中国で商社員をやってたころさんざん練習したんだが」
 彼は「残念だなあ」と一人で飲み始め、「小野田さんは甘党ですか」と豆の缶詰を開けた。
 私は彼が先に口にするのを待った。毒殺を警戒したからだ。私の疑いには頓着なく彼は食べ始めた。私も豆をひとさじ、口に含んだ。三十年ぶりの祖国の味だった。
「ところで、君が島へきた本当の目的は?」
「小野田さんに会うためですよ。ボクは戦後生まれだけど、いまの日本と戦前では人間まで変わってしまっているんですよね。新聞で見て本当に陸軍の将校さんが残っているなら、戦前の日本人の考え方を生で聞いてみたい……と」
 なんだけわけのわからない話である。
「オレは民主主義者だよ。いや、自由主義者の方がいいな。だから兵隊になる前は中国で随分勝手気ままに遊んだものだ」
小野田さんは英雄です」と、彼はだし抜けにいった。私は当惑し「英雄とは文武両道に秀でた男をいう」と辞書のような解釈を持ち出し、「オレは英雄じゃない。軍人として与えられた任務をただ忠実に遂行しているだけだ」と説明した。
「一億玉砕、百年戦争を叫んで日本は戦争に突入した。でも現実は、二発の原爆で無条件降伏です。小野田さんは当然のことをしていると簡単にいうけど、ほかの日本人はあっさり手を上げてしまったんですよ。やっぱり英雄だと思うな」
このお二人の出遭ひこそ、戦前日本と戦後日本との突然の、そして極めて劇的な出遭ひだつたと思ふのです。

以下は小野田さんの帰国会見の動画です。2:45~、鈴木さんとのジャングルでのやり取りを、小野田さんが紹介してゐます。感動的です。



日本は戦後占領政策によつて、よく言はれるやうに「茹で蛙」の如く知らない間に平和ボケさせられて行きました。戦前を知る世代といへども、何時の間にか所謂「平和」に慣らされてしまつて、本来の姿を思ひ出せなくなつてゐたかも知れません。そんな時に、それこそピンピンと活きの好い野生の蛙の如き、戦前をそのまゝ真空パックした様な小野田さんが、その「茹で汁」の中へ跳び込んで来たのでした。

小野田さんが生還されなかつたら、現在の日本はもしかすると、もつとどうしようもない日本になつてゐたかも知れません。鈴木さんこそ、小野田さんを帰国させたことで、日本を窮地から救つた英雄の様な気もします。ご家族が呼びかけても姿すら現さなかつた小野田さんの気持ちを、戦後世代で見ず知らずの鈴木さんが変へさせたのでした。何か大いなる力が、小野田さんを生還させ日本を救ふ為に、お二人の出遭ひを演出したのだと思へてなりません。

とは言へ、小野田さんによると鈴木青年は当初、日本に連れ戻す為に小野田さんを探しに行った訳ではないさうです。(笑)
私は、おいおい、この男はいったいどうなっているのか、と思った。殺されるかもしれない危険を冒してやってきて、私から戦前の話を聞き、いくらかでも自分の疑問を解消したらまた日本へ帰っていく気なのだろうか。この男、何が目的なのか?
 無鉄砲で常識破りの鈴木君らしく、こんな大胆な提案もした。
「小野田さんは日中国交回復(昭和四十七年九月)を知っていますか。いままで仲良くしていた台湾を切って、中共(中国)とつながるのは人間の信義に反する。小野田さんの写真を撮って日本政府に見せ、居場所を教えることを条件に日台関係を改善させる。小野田さん、人質になってもらえませんか
〝人質〟はともかく、私も「信義に反する」という彼の考えには同意見だった。しかし鈴木君は、私とひと晩語り明かしたあと「ひたむきに戦っている小野田さんを利用するのはやめよう」と考え直したという。

帰国直前、マニラの空港で
戦前が戦後を見つめる眼差しは、斯くも優しい

小野田さんと鈴木さんの友情は、鈴木さんが昭和六十二年に亡くなるまで続きました。
…昭和六十二年五月、ブラジルのわが家へ衝撃的な知らせが届いた。
「鈴木紀夫君、ヒマラヤで遭難死か」――。
 あの鈴木紀夫君が死んだ!?――信じられない思いと、不吉な予感が交錯した。私が東京で鈴木君と会ってから、まだ一年しかたっていなかった。
 昭和六十一年四月、久しぶりに帰国し、長兄敏郎の家にくつろいでいると、鈴木君は二人の子供と京子夫人の一家で駆けつけてくれた。
 食卓を囲み、陽気に話が弾んだ。帰りぎわ、私は鈴木君にいった。
「こんなかわいい二人の子供の親になったんだから、少しは考えなければね、鈴木君」
 彼はうなずいたように、私には見えた。
 だがその五カ月後、彼は「これが最後だ」といい残して、六年ぶりに六度目のネパールへ旅立ったという。
小野田さん(右)と鈴木さん(中)
最後の団欒

鈴木さんは小野田さんを発見したことで「冒険家」と呼ばれるやうになり、それが本人にとつて重荷になつたさうで、昭和五十年から「雪男を発見する」為にヒマラヤに出かけるやうになりました。遭難時、鈴木さんは37歳でした。

昭和63年1月、鈴木さんの遺体発見から3ヶ月後、小野田さんはブラジルから日本経由でネパール・カトマンズに向かはれました。ヘリコプターで標高2800㍍の集落まで上り、その後、シェルパと共に3晩かけてダウラギリⅣ峰(3900㍍)を目指されました。
 三十年間のルバング島ジャングルからブラジルへ、熱帯生活に体が適応してしまっている私は、とくに肺炎と高山病に注意しなければならなかった。帰還直後、和歌山の実家で桜が満開なのに三日間振った雨のため肺炎になったり、初夏に出かけた北海道では寒冷ジンマシンにかかってしまい、不覚にも病院の診察室のドアの前で意識を失ったこともある。だが、このヒマラヤ行きだけは、中途で挫折しては鈴木君に合わす顔がない。
 こんな過酷な大自然の中で、鈴木君はじっと雪男が現れるのを待っていたのだろうか。
 彼はルバング島でも、密林を歩くでもなく私に呼びかけるでもなく、川のほとりにテントを張って私が出現するのを何日間も待ち続けていた。
 やっと鈴木君のベースキャンプが見える氷の稜線にたどり着いた。ここから四五度はある谷の急斜面をトラバースして、向こうの斜面に渡らねばならない。シェルパを見倣って、私は雪の中から露出している岩に手をかけながらトラバースした。深いクレバスの底で、粉雪が渦巻いていた。
 天候が急激に悪化してきた。眼下に鈴木君が雪崩とともにのみ込まれた谷が落ち込んでいた。
 鈴木君はなぜ、食糧補給のため下山したシェルパの帰りを待たずに、急にこんな危険な場所にテントを移動したのだろうか。
 きっと彼は、雪男を見たのだ。夢を実現したのだ。そうでなければ、慌ただしく一人でベースキャンプを離れて、雪崩に遭遇するような現場へ行くはずがない――私は、そう信じたかった。
 私はリュックからウイスキーとたばこを取り出して供えた。あの日、鈴木君が震える手で私にすすめた米国製たばこ「マールボロ」である。

小野田さんと鈴木さん、お二人は正に、それぞれのやり方で「戦後」と闘つた戦友だと思ひます。 

2015年1月15日木曜日

小野田さんのご先祖


16日は小野田寛郎さんの一回忌です。フィリピン・ルバング島で30年近くに亘り、最後の一人になつても戦ひ続けた、世界に誇るべき軍人の鑑は、戦後の日本にとつても大切な方でした。

昨年読んだ小野田さんのご著書に興味深いご先祖様のお話が載つてゐたのでご紹介します。
 こんな小野田家には、実は先祖代々伝わる一つの口伝がある。小野田家の負けじ魂のルーツに関わる話である。少し余談になるが、ここで紹介したい。今はもう、私がそれを継承する最後の一人になってしまった。
 中身は古代の神武天皇にまで遡るが、ひとことで言えば、小野田家は名草戸畔なぐさとべという古代の首長の子孫だということだ。名草戸畔は『日本書紀』にただ一か所「神武に殺された」と出てくる。
 私が聞いた口伝によれば、神武が全国を支配していく過程(神武東征)で、他の諸族は次々に屈服したにもかかわらず、和歌山の名草(現在の海草郡)の人々だけは名草戸畔がリーダーとなって迎え撃ち、神武軍を撃退した。それでやむなく神武軍は紀伊半島を迂回して熊野に入らざるを得なかった。
 実はこのとき名草戸畔は戦死したのだが、土地の人々はその死をいたんで、遺体を頭、胴体、足の三つに分断し、それぞれ別の神社に埋めてお祀りした。そのこうべを祀っているのが宇賀部うかべ神社(海南市、通称おこべさん)で、私の実家である。神社といっても、実は小野田家の先祖のお墓でもあるのだ。
 だから、名草の人々は最後まで神武に屈服したとは思っていない。負けん気が強いのである。やがて神武が初代天皇として日本を統治するようになり、役人がこの地へやってきても、結局、治めきれなかったという。
 こういう反骨精神は、今でも紀州人の中に流れているし、私も確実にそれを受け継いでいる。ジャングルでの戦いやブラジルでの牧場開拓は、こうした私の負けず嫌いの成せるわざだったかもしれない(『生きる』、小野田寛郎、PHP研究所、p.213)
最後まで天皇に服従しなかつた者の子孫が、2000年餘り後、今度は皇國の為に聨合国に対し絶対に降伏しようとしなかつた、といふのは何かとても示唆的な気がします。

戦後、コロンと占領軍側に呆気なく寝返つてしまつた軽率な方々には、是非、小野田牧場の草でも食んで反省して欲しいものです。


日本書紀巻の三
六月みなづきの乙未朔丁巳の日、軍、名草邑なくさのむらに至りて、則ち名草戸畔なくさとべといふ者をつみなふ。〔戸畔、此をばトベと云ふ。〕(黒板勝美編 『日本書紀』、岩波文庫、p.11)

神皇正統記
天皇舟檝しうしふをとゝのへ、甲兵かふへいをあつめて、大日本洲おほやまとのくににむかひ給。みちのついでの國々をたひらげ、大やまとにりまさむとせしに、其國にあめの神ニギ速日ハヤヒの尊の御すゑ宇麻志間見ウマシマミの命と云神あり。外舅ハヽカタノヲヂ長髓彦ナガスネひこといふ、「天神あまつかみの御子兩種有んや。」とて、いくさをおこしてふせぎたてまつる。其軍こはくして皇軍みいくさしばしば利をうしなふ。又邪神毒氣あしきかみどくききしかば、士卒しそつみなみふせり。こゝに天照太神、健甕槌タケミカヅチの神をめして、「葦原の中つくににさわぐおとす。汝ゆきてたひらげよ。」とみことのりし給。健甕槌の神まをしけるは、「昔國をたひらげし時の劍あり。かれをくださば、おのづからたひらぎなむ。」と申て、紀伊國きのくに名草なぐさの村に高倉下タカクラじノ命と云神にしめして、此劍をたてまつりければ、天皇よろこび給て、士卒のやみふせりけるもみなおきぬ。

2015年1月14日水曜日

パトリオティズム=祖国愛



藤原正彦『祖国とは国語』(平成15年4月、p.90)より
 最近出席した二つの審議会で、愛国心が問題となった。重要性を主張する委員たちと危険性を憂慮する委員たちの間に、深いみぞが見られた。一般の意見も二分されるのだろう。祖国を愛すべきかで国論が割れる様は、おそらく世界に類例がなく、外から見れば喜劇であり、内から見れば悲劇である。
 英語で愛国心にあたるものに、ナショナリズムパトリオティズムがあるが、二つはまったく異なる。ナショナリズムとは通常、他国を押しのけてでも自国の国益を追求する姿勢である。私はこれを国益主義と表現する。
 パトリオティズムの方は、祖国の文化、伝統、歴史、自然などに誇りをもち、またそれらをこよなく愛する精神である。私はこれを祖国愛と表現する。家族愛、郷土愛の延長にあたるものである。
 英米人が「彼はナショナリストだ」と言ったら批判である。一方「あなたはパトリオットですか」と英米人に尋ねたら、怪訝けげんな顔をされるか、怒鳴られるだろう。「あなたは正直者ですか」と尋ねるようなものだからである。
 我が国では明治の頃から、この二つを愛国心という一つの言葉でくくってきた。江戸時代まで、祖国を意識することはさほどなかったから、明治の人々もそういうことに大雑把おおざつぱだったのだろう。これが不幸の始まりだった。愛国心の掛け声で列強との利権争奪に加わり、ついには破滅に至るまで狂奔したのだった。
 戦後は一転し、愛国心こそ軍国主義の生みの親とあっさり捨てられた。かくしてその一部分である祖国愛も運命を共にしたのである。心棒をなくした国家が半世紀たつとどうなるか、が今日の日本である。言語がいかに決定的かを示す好例でもある。
 祖国愛はどの国の国民にとっても絶対不可欠の精神である。正直や誠実などと同じ倫理であり、これなくしてどんな主張も空虚である。これは宗教と無関係である。偉大なるキリスト者であり祖国愛の人でもある内村鑑三は「二つのJ」を愛すと言った。キリスト(JESUS)と日本(JAPAN)である。戦争とも無関係である。日露戦争を支持する圧倒的世論に抗し、断固反対したのもまた内村だった。日露戦争に勝てば、そのおごりがより大きな戦争へ祖国を導く、という理由だった。その通りになった。
 一方、国益主義は一般人にとって不必要なばかりか危険でもある。良識ある人の嫌悪けんおすべきものと言ってよい。ただし外国と折衝する政治家や官僚はこれをもたねばならない必要悪である。他国のそういった人々がそれに凝り固まっているからである。イラク問題で発言する、イラク、米英、独仏中露などの首脳の腹にあるのは、露骨な国益追求のみである。よくぞ臆面おくめんもなくあのような美辞麗句を、とあきれるほどの厚顔無恥である。このような人々に対処し、平和、安全、繁栄を確保するには、こちらにも国益を貫く強い意思が必要である。
 指導層が国益を追うのは当然だが、追い過ぎると、肝心の祖国を傷つける。戦前のように祖国を壊しさえする。国益主義は暴走し、国益を守るに足る祖国そのものを台無しにしやすいから、それを担ぐ指導層は、それが祖国の品格を傷つけぬよう節度をもつ必要がある。国民がそれを冷静に監視すべきことは言うまでもない。
 祖国愛という視座を欠いた言説や行為は、どんなものも無意味である。これの薄弱な左翼や右翼は、日本より日中関係や日米関係を大事にする。これの薄弱な政治家やエコノミストや財界人は、軽々しくグローバリズムに乗ったり、市場原理などという歴史的誤りに浮かれたりして、祖国の経済ばかりか、文化、伝統、自然を損なって恥じない。これの薄弱な教師や父母は、地球市民などという、世界のどこでも相手にされない根無し草を作ろうとする。これの薄弱な文部官僚は、小学校の国語や算数を減らし英語やパソコンを導入する。
 情報化とともに世界の一様化が進んでいる。ボーダーレス社会とはやされる。各国、各民族、各地方に美しく開花した文化や伝統の花は、確固たる祖国愛や郷土愛なしには風前の灯である。この地球をチューリップ一色にしてはいけない。一面の菜の花も野に咲く一輪のすみれもあって地球は美しい。世界の人々の郷土愛、祖国愛こそが美しい地球を守る。
 愛国心という言葉がまったく異質な二つのものを含んでいたことで、この一世紀、我が国はいかに巨大な損失をこうむったことか。戦後はそのおかげで祖国愛まで失った。現在、我が国の直面する困難の大半は、祖国愛の欠如に帰因すると言ってよいだろう。祖国愛と国益主義を峻別しゅんべつし、すべての子供にゆるぎない祖国愛をはぐくむことは、国家再生の急所と考える。

入 浴 時 報ニューヨークタイムス』などが「安倍晋三はナショナリストだ」といふ時は、「奴は国益主義者、排外主義者だ」と非難してゐる、と云はれる意味がやつと解つた気がします。しかしこの文章からすれば、どの国の政治家も国益主義者であることに変はりはない筈なので、『入浴』等が殊更に安倍晋三だけを叩かうとするのには、もつと別の深い意味があると考へねばなりません。



改めて辞書(『ハイブリッド新辞林』、三省堂、1998年)を引いてみますと、

  • パトリオティズム【patriotism】 愛国主義。

やはり「愛国」としか出てきませんでした。たゞヒントになりさうなのは、

  • パトリズム【patrism】 父親を手本とする行動規範。父親第一主義。

「パトリ」は英語の「father」、独語の「vater」、伊語の「padre」等の語源、「父」といふ意味らしい。つまり「パトリオティズム」とは、何か行動を起こす時に先づ第一に「父祖」を手本にする事、即ち長い歴史をもつ伝統を重んじる事がその原義なのでせう。


因みに同辞書の同じ頁には
【鳩山威一郎】(1918―1993)政治家。東京出身。東大卒。一郎の子……
【鳩山一郎】(1883―1959)政治家。東京生まれ。東大卒。和夫の長男……
【鳩山和夫】(1856―1911)政治家・弁護士。美作(みまさか)の人。東大教授。一郎の父……
【鳩山春子】(1863―1938)明治・大正・昭和期の教育者。長野県生まれ。東京女子師範卒。和夫の妻……
と、鳩山家の人々が載つてゐます。さすが、みな父親に習つて東大を卒業してゐる、素晴らしいパトリオティズムだ。由紀夫も将来同じ頁に載れば親子4代見事なパトリオティズムとなります。
【鳩山由紀夫】(1947―2015)政治家。宇宙出身。東大卒。一郎の孫、威一郎の長男。弟の邦夫と全然似ていない。「最低でも県外」「トラスト・ミー」「日本列島は日本人だけのものじゃない」など数々の迷言を遺した末、北京で歿……
絶対に笑つてはいけない

2015年1月6日火曜日

69年前の詔書(昭和二十一年一月一日詔書)

詔  書




茲ニ新年ヲ迎フ。顧ミレバ明治天皇明治ノ初国是トシテ五箇条ノ御誓文ヲ下シ給ヘリ。

曰ク、
一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ
一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメンコトヲ要ス
一、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
叡旨公明正大、又何ヲカ加ヘン。朕ハ茲ニ誓ヲ新ニシテ国運ヲ開カント欲ス。須ラク此ノ御趣旨ニ則リ、旧来ノ陋習ヲ去リ、民意ヲ暢達シ、官民挙ゲテ平和主義ニ徹シ、教養豊カニ文化ヲ築キ、以テ民主ノ向上ヲ図リ、新日本ヲ建設スベシ。

大小都市ノ蒙リタル戦禍、罹災者ノ艱苦、産業ノ停頓、食糧ノ不足、失業者増加ノ趨勢等ハ真ニ心ヲ痛マシムルモノアリ。然リト雖モ、我国民ガ現在ノ試練ニ直面シ、且徹頭徹尾文明ヲ平和ニ求ムルノ決意固ク克ク家ヲ愛スル心ト国ヲ愛スル心トハ我国ニ於テ特ニ熱烈ナルヲ見ル。今ヤ実ニ此ノ心ヲ拡充シ、人類愛ノ完成ニ向ヒ、献身的努力ヲ効スベキノ秋ナリ。

惟フニ長キニ亘レル戦争ノ敗北ニ終リタル結果、我国民ハ動モスレバ焦躁ニ流レ、失意ノ淵ニ沈淪セントスルノ傾キアリ。詭激ノ風漸ク長ジテ道義ノ念頗ル衰ヘ、為ニ思想混乱ノ兆アルハ洵ニ深憂ニ堪ヘズ。

然レドモ朕ハ爾等国民ト共ニ在リ、常ニ利害ヲ同ジウシ休戚ヲ分タント欲ス。朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ。

朕ノ政府ハ国民ノ試練ト苦難トヲ緩和センガ為、アラユル施策ト経営トニ万全ノ方途ヲ講ズベシ。同時ニ朕ハ我国民ガ時艱ニ蹶起シ、当面ノ困苦克服ノ為ニ、又産業及文運振興ノ為ニ勇往センコトヲ希念ス。我国民ガ其ノ公民生活ニ於テ団結シ、相倚リ相扶ケ、寛容相許スノ気風ヲ作興スルニ於テハ、能ク我至高ノ伝統ニ恥ヂザル真価ヲ発揮スルニ至ラン。斯ノ如キハ実ニ我国民ガ人類ノ福祉ト向上トノ為、絶大ナル貢献ヲ為ス所以ナルヲ疑ハザルナリ。

一年ノ計ハ年頭ニ在リ、朕ハ朕ノ信頼スル国民ガ朕ト其ノ心ヲ一ニシテ、自ラ奮ヒ自ラ励マシ、以テ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ。

  御 名 御 璽

   昭和二十一年一月一日




昭和20年8月の敗戦後、初めての新年に当たり、先帝陛下(昭和天皇)が国民に向けて発せられた詔書。学校では「人間宣言」と習ひましたが、この詔書のどこを読んでも「朕は実は人間だつたのだ」とか「今後は人間として生きて行きます」等とは書かれてゐません。当然です。

内容をじつくり読んでみれば、これは正に敗戦後の混乱と困窮に苦しむ国民に向けて、「心配するな。こんな状況でも汝ら国民は立派にやつてをる。他に新しい理念を探し求めて迷ふ必要はない。明治天皇の五箇条の御誓文に立ち戻り再出発すれば好いのだよ」と仰つて励まして下さつてゐるものです。

それは即ち、國體は滅んでゐない、といふ御趣旨の「國體護持宣言」だつたのではないでせうか。

同じ正月の歌会始で御詠み遊ばされた御製は
ふりつもる み雪にたへて いろかへぬ
          松ぞをゝしき 人もかくあれ

どんなに辛からうが日本人らしさを忘れるな、と叱咤されてゐる心地がします。

そしてこの詔書と御製が発揮した絶大な影響力は、その後現在までの我が国の発展と繁栄とを見れば一目瞭然だと思ひます。
わが国の たちなほり来し 年々に
          あけぼのすぎの 木はのびにけり

しかしまた、残念ながらまだ完成途上にあることも事実です。
やすらけき 世を祈りしも いまだならず
          くやしくもあるか きざしみゆれど


 以下、詔書の大意

2015年1月5日月曜日

慰霊

平成26年(2014)、テキサス親父ことトニー・マラーノ氏の動画で、特に印象に残つたものがあります。



昭和20年、群馬県のある町に空襲の為に飛来した2機のB29が衝突し墜落、乗組員全員が亡くなつたさうです。当時の住民の方々は、その遺体を火葬して仮安置し、終戦後米軍に引き渡し、遺骨は故郷へと帰還したのださうです。

そして近年、地元の方々が亡くなつた兵士達の為に追悼碑を建立。追悼碑除幕式には日本駐留米軍と亡くなつた兵士のご遺族も参加したさうです。

驚いたのは、かういふ事、つまり敵兵でも手厚く取り扱ふといふ事は我が国ではそれほど珍しい事ではないにも拘らず、マラーノ氏が痛く感激された様子だつた事です。この動画を見た別の米国人も同じ様に感激し、非常に驚き感動した旨を自身の動画の中で語つてゐました。

下の動画はその追悼碑除幕式の様子です。



この中で、墜落現場の写真を永い間地元の方が保管され、それによつて亡くなつた兵士の身元が判明、式典へのご遺族の招待が実現した経緯が語られてゐます。

確かに言はれてみれば、当時の日本と米国は敵同士、さつきまで日本の街を爆撃してゐた敵兵の遺体を供養し、戦後帰国させたといふ事例は、世界の中で珍しいのかも知れません。

しかし、それでもあの戦争とは無縁の現代の米国人があれほど驚きをもつといふ事は、逆に言へば、日本や日本人に対していまだに或る種特殊な感情を持つてゐたといふ事を顕してゐるのだと、改めて戦争の傷の深さに驚き、さういふ視点で米国人の気持ちなど考へた事がなかつたのだと感じさせられました。(まあ、お互ひ様だとも思ひますが)

更に裏を返せば、あの戦争終結から70年近く経つても、日本人の側からかういふ慰霊行事を提案するといふ事は、我々も心の片隅では何となく、まだ本当の信頼構築を果たしてゐなかつたのではないか、といふ疑問の念があるのかも知れません。(特に最近は米国における日本バッシングが激しさを増してゐますし)

因みに日本各地には同じやうな話が幾つもある様で、上の例と同様に近年は慰霊の行事が活発化してゐる様に思へます。

かういふ行事に、横田駐留の米軍は積極的に協力してくれてゐる様です。米国政府や議会と、陸海空軍等とは、靖國神社問題も含めた過去の両国間の戦争に関する態度がどうも異なる様に思へます。太平洋諸島や硫黄島等での合同慰霊祭の例もありますし、政治家と軍人とは別けて考へた方がいゝのかも知れません。




これに因んで思ひ出したのは、第一次大戦中に日本の俘虜収容所で亡くなつた独逸兵の墓地に関する話でした。昨年は第一次大戦勃発100周年でもありました。

第一次大戦時(1914~)、日本は連合国軍として支那青島の独逸軍と交戦しましたが、投降した独逸将兵約4600人は日本各地の12の俘虜収容所へ送られました。当初は急ごしらへの収容所だつた為、環境や処遇に俘虜の不満が絶えず、後に12の収容所を6つに集約し改善されたさうです。下の記事には、俘虜には外出も認められ、なんと給料まで支払はれてゐた事が載つてゐます。


この6つの収容所の中で現在特に有名なのが坂東収容所です。ベートーベンの『第九』の日本発祥の地と言はれてゐます。各地の収容所でも、俘虜によつて音楽のみならず、様々な独逸文化が伝へられたさうです。

第一次大戦後、殆どの将兵が無事帰国できた一方で、坂東収容所では不幸にも収容中に亡くなつた11人の俘虜の墓が遺されました。時は流れて、第二次大戦後、朝鮮から引き揚げて来た高橋春枝さんといふご婦人が、偶然にも雑草に蔽われた墓を見附け、その後十数年にも亘り清掃を続けられたさうです。1960年(昭和35)に新聞がこの善行を報じたのがキッカケで、その年のうちに、西ドイツ駐日大使ウィルヘルム・ハース夫妻とベーグナー神戸領事夫妻がこの地を訪れました。
町をあげての歓迎の中で、ハース大使は春枝に感謝状を手渡した。ハースは背をかがめ、春枝の小さな手をギュっと握ると、「アリガト……」と日本語で言ったきり絶句した。ひとりの日本人女性がひっそりと続けてきた無償の行為に対し、ドイツ国民を代表してできるだけ丁寧に礼を述べるつもりだったが、表しきれない感動がこみあげて言葉を失ったのである。(四條たか子『世界が愛した日本』、竹書房、p.216)
お墓を発見した当時、この高橋春枝さんのご主人はウズベキスタンに抑留されてをられ、異国の地に遺された独逸兵の墓は、春枝さんにとつても他人事とは思へなかつたさうです。ご主人は、ナボイ劇場を造つた方のお一人なのでせうか。幸ひ、ご主人は無事帰国されたさうです。

かういふ、敵兵を悼み末永く慰霊を続ける伝統は、実は元寇の昔からあるものです。九州北部には敵兵(蒙古兵と高麗兵)を葬つた塚が各所にあり、昔から供養されて来ました。(蒙古塚

日本は第一次大戦で戦勝した結果、それまで独逸が支配してゐた南洋諸島を委任統治といふ形で統治することになりました。パラオもその委任統治領の一つで、次の大戦で敗れるまで日本が統治し、日米激戦の地となつたのでした。

そのパラオでは、多くの日本軍将兵のご遺体が帰還できずにをられます。パラオの人は「島に眠る日本兵は私たちが守ります」と仰つてくれてゐますが(時を超え眠り続ける「誇り」 集団疎開させ、島民を守った日本兵)、日本国内では米兵の慰霊をしながら、一方で海外の同胞の遺骨は放たらかしといふのはどうにもマズい。今年からは、遺骨収集で米国との協力にも取り組むやうなので、是非一日も早いご帰還が叶ふやうお祈りします。(安倍首相、遺骨帰還の日米共同作業に意欲 「国の責務として取り組む」

本年元日に天皇陛下が発せられた「ご感想」から、
本年は終戦から七十年という節目の年に当たります。多くの人々が亡くなった戦争でした。各戦場で亡くなった人々、広島、長崎の原爆、東京を始めとする各都市の爆撃などにより亡くなった人々の数は誠に多いものでした。この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なことだと思っています。

2015年1月2日金曜日

パラオ、ペリリューの戦ひ(昭和19年9月~11月)

年末から読み始めて、昨日(元日)に読み終はりました。


今年春には、両陛下がパラオを初めて御訪問遊ばされます。

昭和19年、ペリリュー島での日米の戦ひは話には聞いてゐましたが、実際にどんな戦ひだつたのか詳しくは知らなかつたので、両陛下御訪問のニュースを見た後、思ひ立つて読むことにしました。両陛下御訪問の前に読み終へることができて好かつた。

著者の舩坂弘といふ人は、ペリリュー島の生還者ではなく、ペリリュー島の更に南隣のアンガウル島で戦つて生還した人です。戦後、何十年か経つてから、何度もパラオを訪れて御遺骨収集をされるかたはら、自ら日米両国の多くの資料に当たられて何冊もの戦記を著された方でもあります。

「あとがき」にありますが、昭和56年には、パラオ独立後初の大統領就任式にも新政府から招待され出席されてをられます。

図らずも、本日の産経新聞(電子版)に、パラオの記事がありました。

どうか両陛下の御訪問により、パラオで亡くなられた全将兵の御霊が慰められるやうお祈り申し上げます。

2015年1月1日木曜日

平成27年元日 天皇陛下 年頭に当たっての御感想/ 両陛下 御製御歌

【御感想】

 昨年は大雪や大雨、さらに御嶽山の噴火による災害で多くの人命が失われ、家族や住む家をなくした人々の気持ちを察しています。

 また、東日本大震災からは四度目の冬になり、放射能汚染により、かつて住んだ土地に戻れずにいる人々や仮設住宅で厳しい冬を過ごす人々もいまだ多いことも案じられます。昨今の状況を思う時、それぞれの地域で人々が防災に関心を寄せ、地域を守っていくことが、いかに重要かということを感じています。

 本年は終戦から七十年という節目の年に当たります。多くの人々が亡くなった戦争でした。各戦場で亡くなった人々、広島、長崎の原爆、東京を始めとする各都市の爆撃などにより亡くなった人々の数は誠に多いものでした。この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なことだと思っています。

 この一年が、我が国の人々、そして世界の人々にとり、幸せな年となることを心より祈ります。

「新年祝賀の儀」でお祝ひを受け、御退席遊ばされる天皇、皇后両陛下
=1日午前、宮殿・松の間(代表撮影)




 【天皇陛下】(3首)


 《神宮御親拝》
あまたなる人らの支へ思ひつつ白木の冴ゆる新宮(にひみや)に詣づ

 《来たる年が原子爆弾による被災より七十年経つを思ひて》
爆心地の碑に白菊を供へたり忘れざらめや往(い)にし彼(か)の日を

 《広島市の被災地を訪れて》
いかばかり水流は強くありしならむ木々なぎ倒されし一すぢの道

 【皇后陛下】(3首)

 《ソチ五輪》
「己(おの)が日」を持ち得ざりしも数多(あまた)ありてソチ・オリンピック後半に入る

 《桂宮宜仁親王殿下薨去》
み歎きはいかありしならむ父宮は皇子(みこ)の御肩(おんかた)に触れまししとふ

 《学童疎開船対馬丸》
我もまた近き齢(よはひ)にありしかば沁(し)みて悲しく対馬丸思ふ


昨年も例に漏れず数々の災害が発生しましたが、その度に現地に出御遊ばされ、或いは御言葉を御発し遊ばされ、国民を御激励になる両陛下の御姿には、只々恐懼するのみです。