2019年1月31日木曜日

表音的假名遣は假名遣にあらず②

  二


それでは假名遣といふものは何時から起つたであらうか。

普通の假名、卽ち平假名片假名は、平安初期に發生したと思はれるが、それ以前にも漢字を國語の音を表はす爲に用ゐた事は周知の事實であつて、之を假名の一種と見て萬葉假名又は眞假名と呼ぶのが常である。この萬葉假名の時代に於ては、國語の音を表はす爲に之と同音の漢字を用ゐたのであるから、當時は表音的假名遣が行はれたといふやうに考へられるかも知れないが、しかしこの時代には假名として用ゐられた漢字は同音のものであれば何でもよかつたのであつて、それ故、同じ音を表はすのに色々の違つた文字を勝手に用ゐたのである(それは、諸書に載せてある萬葉假名の表に、同じ假名として多くの文字が擧げられてゐるのを見ても明かである)。その結果として、同じ語はいつも同じ文字で書かれるのでなく、さまざま違つた文字で書かれて、文字上の統一は無かつたのである(例へば「君」といふ語は「岐美」「枳瀰」「企弭」「耆瀰」「吉民」「伎彌」「伎美」のやうな、色々の文字で書かれて文字に書かれた形は一定しない)。處が、現代の表音的假名遣に於ては、同じ音はいつも同じ文字で書き、違つた音はいつも違つた文字で書くのが原則であり、從つて文字の異同によつて直に音の異同を知る事が出來るのであるが、上述の如き萬葉假名の用法によつては、異る音は異る文字で書かれてゐるが、同じ音も亦異る文字で書かれる故、文字の異同によつて直に音の異同を判別する事は出來ない。又、萬葉假名の時代には同じ音の文字なら、どんな字を用ゐてもよいのであるから、もし之と同じ原則によるならば、現代に於て、「い」「ゐ」、「え」「ゑ」、「お」「を」はそれぞれ同じ音をあらはしてゐる故、「犬」を「いぬ」と書いても「ゐぬ」と書いても、「家」を「いえ」と書いても「いゑ」と書いても(又「いへ」と書いても)、「奧」を「おく」と書いても「をく」と書いても宜しい筈であるが、今の表音的假名遣では、かやうな事を許さない。さすれば、この時代の萬葉假名の用ゐ方は、現代の表音的假名遣とは趣を異にするものであるといはなければならない。

勿論萬葉假名の時代に於ても、或種の語に於ては、それに用ゐる文字がきまつたものがある。地名の如きは、奈良朝に於て國郡鄕の名は佳字を撰んで二字で書く事に定められたのであつて、その中には「紀伊」、「土佐」、「相模」、「伊勢」等の如く、萬葉假名を用ゐたものがあり、又、姓や人名にもさういふ傾向がかなり顯著であるが、これは特殊の語に限られ、一般普通の語に於ては、同音ならばどんな漢字を用ゐてもよいといふ原則が行なはれたものと思はれる。かやうに、同音の文字が萬葉假名として自由に用ゐられ何等の制限もなかつた時代に於ては、どの假名を用ゐるべきかといふ疑問の起る事もなく、假名遣といふやうな事は全然問題とならなかつたと見えて、さういふ事の考へられた痕跡もないのである。

平安朝に入つて萬葉假名から平假名片假名が發生して、次第に廣く流行するに至つたが、これらの假名に於ても同音の假名として違つた形の文字(異體の假名)が多く、殊に平假名に於ては多數の同音の文字があつて、それから引續いて今日までも行はれ、變體假名と呼ばれてゐる。片假名もまた初の中は、同音で形を異にした文字がかなりあつて、鎌倉時代までもその跡を斷たなかつたが、これは比較的早く統一して室町江戶の交にいたれば、ほゞ一音一字となつた。

この片假名平假名に於ても、亦萬葉假名に於けると同樣、同音の假名はどれを用ゐてもよく、同語は必ずしもいつも同一の假名では書かれなかつたのであつて、從つて、假名の異同によつて直にそれの表はす音又は語の異同を知る事は出來ないのである。しかし、平安朝の初期には「天地アメツチの詞」が出來、其の後、更に「伊呂波歌」が出來て、之を手習の初に習つたのであつて、これ等のものは、アルファベットのやうに、當時の國語に用ゐられたあらゆる異る音を表はす假名を集めて詞又は歌にしたものであるから、これによつて、當時多く用ゐられた種々の假名の中、どれとどれとが同音であり、どれとどれとが異音であるかが明瞭に意識せられ、同音の假名は、たとひちがつた文字であつても同じ假名と考へられるやうになつて今日の變體假名といふやうな考が生じたであらうと思はれる。とはいへ、かやうなものが行はれても、假名の使用に關して或制限や或特別の規定が出來たのでなく、同音の假名ならどれを用ゐてもよかつたのであるから、やはり假名遣の問題は起らなかつたものと思はれる。現に平安朝初期に起つた音變化によつて、ア行のエとヤ行のエとが同音となり、その爲「天地の詞」の四十八音が一音を減じて「伊呂波歌」では四十七音になつたけれども、もと區別のあつた音でも、それが同音となつた以上は、もと各異る音をうつした假名も、同音の假名として區別なく取扱はれたものらしく、その假名の遣ひ方については何等の問題も起らなかつたやうである。
〔引用者註〕ヤ行の[エ]を表す平假名は「江」を崩した「𛀁」であるが、これがア行のエと同音とされるやうになつてからは[エ]の音を書くべき箇所には「え」と「𛀁」のどちらを書いても好いことになつたといふ意味である。
橋本進吉博士と云へば、なんと言つても萬葉假名に於ける[キ、ケ、コ、ソ、ト、ヒ、ヘ、ノ、ミ、メ、モ、ヨ、ロ]に甲類と乙類の區別と、前七者には淸濁の嚴然たる區別があることを解明した『古代國語の音韻に就いて』といふ著書が有名なのである。甲乙類の區別は假名文字が成立する以前に無くなつてゐたらしいのであるが、後の同音を表す多彩な假名文字の中にも、元々は甲乙類の區別に由來する異體の假名(=變態假名)もあつたのであらうと思はれるのである。例へば[コ]は、甲類が「(古)」、乙類が「こ(己)」等である。

(『國語國字敎育史料總覽』、國語敎育硏究會、昭和44年)

2019年1月30日水曜日

表音的假名遣は假名遣にあらず①

表音的假名遣は假名遣にあらず


橋本進吉

昭和十七年十月『國語と國文學』に發表されたもので、假名遣の發生を歷史的に考察し、語を寫すといふ假名遣の本質を破壞した表音的假名遣の非を論じたもの。橋本は國語學者。東大敎授。

  一


假名遣といふ語は、本來は假名のつかひ方といふ意味をもつてゐるのであるが、現今普通には、そんな廣い意味でなく、「い」と「ゐ」と「ひ」、「え」と「ゑ」と「へ」、「お」と「を」と「ほ」、「わ」と「は」のやうな同音の假名〇〇〇〇〇の用法に關してのみ用ゐられてゐる。さうして世間では、これらの假名による國語のの書き方が卽ち假名遣であるやうに考へてゐるが、實はさうではない。これ等の假名は何れも同じ音を表はすのであるから、その音自身をどんなに考へて見ても、どの假名で書くべきかをきめる事が出來る筈はない。それでは假名遣はどうしてきまるかといふに、實にによつてきまるのである。「愛」も「藍」も「相」も、 その音はどれもアイであつて、そのイの音は全く同じであるが、「愛」は「あ」と書き「藍」は「あ」と書き「相」は「あ」と書く。同じイの音を或は「い」を用ゐ或は「ゐ」を用ゐ或は「ひ」を用ゐて書くのは、「愛」の意味のアイであるか、「藍」の意味のアイであるか、「相」の意味のアイであるかによるのである。單なる音は意味を持たず、語を構成してはじめて意味があるのであるから、假名遣は、單なる音を假名で書く場合のきまりでなく、語を假名で書く場合のきまりである

この事は古來の假名遣書を見ても明白である。たとへば定家假名遣といはれてゐる行阿の假名文字遣は「を」「お」以下の諸項を設けて、各項の中にその假名を用ゐるべき多くの語を列擧してをり、所謂歷史的假名遣の根元たる契沖の和字正濫抄も亦「い」「ゐ」「ひ」以下の諸項を擧げて、それぞれの假名を用ゐるべき諸語を列擧してゐる。楫取魚彥の古言梯にいたつては、多くの語を五十音順に擧げて、一々それに用ゐるべき假名を示して、假名遣辭書の體をなしてゐるが、辭書はいふまでもなく語を集めたもので、音をあつめたものではない。これによつても假名遣といふものが語を離れて考へ得べからざるものである事は明瞭である。

表音的假名遣といふものは、國語の音を一定の假名で書く事を原則とするものである。その標準は音にあつて意味にはない。それ故、如何なる意味をもつてゐるものであつても同じ音はいつも同じ假名で書くのを主義とするのである。「愛」でも「藍」でも「相」でもアイといふ音ならば、何れも「あい」と書くのを正しいとする。それ故どの假名を用ゐるべきかを定めるには、どんな音であるかを考へればよいのであつて、どんな語であるかには關しない。勿論表音的假名遣について書いたものにも、往々語があげてある事があるが、それは只書き方の例として擧げたのみで、さう書くべき語の全部を網羅したのではない。それ以外のものは、原則から推して考へればよいのである。然るに古來の假名遣書に擧げた諸語は、それらの語一つ一つに於ける假名の用法を示したもので、そこに擧げられた以外の語の假名遣は、必ずしも之から推定する事は出來ない。時には推定によつて假名をきめる事があつても、その場合には、音を考へていかなる假名を用ゐるべきかをきめるのではなく、その語が旣に假名遣の明かな語と同源の語であるとか、或はそれから轉化した語であるとかを考へてきめるのであつて、やはり箇々の語に於けるきまりとして取扱ふのである。

以上述べた所によつて、古來の假名遣は(定家假名遣も所謂歷史的假名遣も)假名による語の書き方に關するきまりであつて、語を基準にしてきめたものであり、表音的假名遣は假名による音の書き方のきまりであつて、音を基準としたものである事が明白になつたと思ふ

(『國語國字敎育史料總覽』、國語敎育硏究會、昭和44年)

2019年1月29日火曜日

〔字統〕から〔字訓〕へ ④〔字訓〕の意図するもの

〔字訓〕の意図するもの


国語表記の方法としての漢字は、まずそれを国語におきかえること、すなわち翻訳することからはじめられた。そしてこの翻訳という作業において、漢字の原義と、国語の本来の意味とが、しばしばみごとな対応を示していることがある。漢字を国語表記として用いることの適合性は、おそらくそのような対応のうちに存したものであろう。

たとえば、里は「佐刀(さと)」とよむ。
吾が里に大雪()れり大原の()りにし(さと)()らまくは(のち) 〔万葉、一〇三〕
において、里は「我家(わぎへ)佐刀(さと)〔万葉、八五九〕であり、(さと)は行政区の名で、用義の上で区別されている。この里について、〔説文〕一三下には「居なり」とあって田と土との会意とし、〔説文繫伝〕に「土聲なり」とするが、声が合わない。それで字を士に従い、士居の地とする説がある。

古い時代の文字には、一般に土が土地一般を示すという表示のしかたはない。土は社の初文(初形)である。たとえば地の初文は墜とかかれるが、神梯の形である𨸏の前に社神を祀り、そこに犬牲をそなえる形である。里の字形に含まれる土も社の意であり、農耕地には必ずこれを祀った。のちに里社というものがそれである。それは一種の祭祀共同体であり、古くは血縁的な社会であったであろう。その支配者は里君とよばれているが、古い氏族社会の族長を意味する語であった。君は古くは女君であり、もとはヒミコのような女の巫祝者であったかも知れない。

国語の「さと」の語源については「狭処(せと)」とする説もあるが、「霊座(さと)」の意とする高崎正秀説がよいように思う。里は山から野に広がるところであるから、狭処とはいえない。「さと」とは「吾家の里」、すなわち「うぶすな」の地である。

この考えからによると、「さか」もあるいは「霊処(さか)」であるかも知れない。柳田説では「さか」は「裂く」ですべて分岐するところをいうとするが、「磐境(いわさか)」のような語があって、それは高みのところに設けられた神座である。漢字では坂ではなく、阪という。阪は神の降下する神梯の形である𨸏と、反とに従う。反は高処に手をかける形で、攀援の意を示す。〔書経、立政〕に「阪尹」という語があって、そのような聖処を司る者をいう。里と「さと」、阪と「さか」は、おそらくその字と語の構造の基盤にある意識において共通するものがあり、対応する語としてその訓が定まったものであろう。

「さと」と訓ずる字は、〔名義抄〕によると呂・里・村・公・洛・邑・郛・隣・寰・閈・閻・巷・雒・郷・閭閻などがあり、みなその意をもちうる字である。このうち里と郷とが常訓の字であるが、郷はその字源においては卿の食邑、扶持として与えられるところで、「うぶすな」としての村落の意と異なり、わが国では古くは行政的な呼称として用いた。「さと」に里をあててこれを常用の字としたのは、まことに確訓といいうるのである。

情感に関する語にはニュアンスの繊細なものが多く、語の対応を求めにくいものである。「あなおもしろ」「おもしろし」などには対応する字がなく、〔万葉〕では「𢘟怜」の字をあてるが、それは「可怜」、五感としては「うまし」にあたり、〔万葉〕に「𢘟怜國(うましくに)ぞ」と用いた例もある。

国語には屈折した表現をもつ語が多い。「やさし」は古代語では「恥づかし」の意であるが、語源的にはおそらく「()す」と関係があるらしく「瘦すべくおもふ」がその原義であったかと思われる。〔霊異記〕に「嗚呼(ああ)()づかしきかな、𠫤(やさ)しき哉」とあるのは、〔最勝王経音義〕に「恡也不佐之(やふさし)」とある語、すなわち「やぶさか」の意で、𠫤はまた(りん)(りん)のようにかかれる字である。「やさし」がのち「(やさ)し」となる過程が、これでは説明しがたいようである。

優は憂に従う字で、憂とは憂ある人、その形は(やもめ)が廟中で亡夫を弔う意の字であることから知られるように、愛する人を失った悲しみをいう。すなわち「瘦すべき」人である。そのことを所作事に演じて神霊を慰めるものが優、すなわち俳優の初義であった。愁いある人の姿は、やさしくみえるものである。それで「やさし」に対応する字として、のちには優を用いる。古訓にはみえない字であるが、語義の展開に応じてその字がえらばれるのである。〔名義抄〕に「優アツシ マサレリ メグシ ユタカナリ ユルス マス〱 タハフレヤスシ ウレフ スクル」とあるが、この「やすし」の語義がそれに近いものかも知れない。優を「やさし」とよむのは、室町期の〔和玉篇〕や〔音訓篇立〕などに至って、みえるようである。

語義は単純なものから、次第に複雑化するものである。「おもふ」という語は、千思万慮を含むことばである。しかしはじめは、それは「(おも)ふ」、心が面にあらわれるというほどの意で、きわめて感性的な語であった。〔万葉〕には「おもふ」が七百三十数例あり、半分が仮名、あとは「(おも)ふ」が五、「(おも)ふ」が四の割合である。他に意・憶・想が一、二例、〔記〕〔紀〕には惟・懐・欲・以為などもあり、これは散文的語彙とされたのであろう。

思は細と同じく()に従う字で、囱は脳の形。くさぐさと思いわずらう意である。念は今の形に従い、今は壺の栓の形であるから、念とはひとり(おも)いつめる、念じるような心をいう。〔万葉〕の相聞歌が殆ど念と思を用いているのは、かれらがその字義のもつ位相を、直観的に把握していたからであろう。想はその(すがた)()るように想い浮かべること、憶は音に従う字で、音とは闇の中からあらわれる神の音ないのように、潜在する意識の中から憶い出されることをいう。懐は衣中に(なみだ)をそそぐ褱に従う字で、死者を哀しむ意である。いまの常訓表には「思う」だけがある。もちろん念願・感想・記憶・追懐のような語は表中にみえるが、この念・想・憶・懐を訓でよまずに、どうして理解させようとするのであろうか。またよむならば、どうしてその訓を拒否するのであろうか。これらはすべて、命令することを好む権威主義の病弊であるのではないか。

「はかる」という語も、語義のひろいものであるが、もとは「はか」、すなわち農作業の一定量を動詞とした語であった。
秋の田の穗田(ほだ)(かり)ばかか寄りあはば彼所(そこ)もか人の()を事なさむ 〔万葉、五一二〕
の「刈ばか」とは、その工程をいう。〔名義抄〕には計・量・謀・圖など約百字に近い同訓の字がある。計は占卜の計数で、吉凶の数によってものを決すること。量は(ふくろ)の形に従う字で穀量をはかり、のち重量をはかる意となる。謀は某に従い、某は榊の枝などに申し文の曰をそえた形で、神意を問い謀ることをいう。図(圖)は啚に従い、啚は鄙の初文で穀倉の形。その所在地を図形化したもので、屯倉・荘園の図にあたる。従って地図を原義とするが、その農耕地の経営を(はか)る意ともなった。「はか」は「はかどる」「はかばかし」「はかなし」などの語幹で、もと単純な作業をいう語であったが、百に近い漢字の「はかる」という訓義は、すべてこの一語に吸収、収斂されて、それはひろい語義領域をもつ語となった。

政治行政をつかさどるものを「つかさ」という。「つかさ」は「つか」に接尾語「さ」をそえたもので、小高いところで指揮するものをいう。「小高(こだか)(いち)高處(つかさ)(〔古事記歌謡、一〇一〕)や「野づかさ」(〔万葉、三九一五〕)という語もあって、「つかさ」とは現場の指揮者をいい、小役人の類である。〔名義抄〕に「つかさ」と訓ずる字は工・職・曹・典・院・寮・官・局・全・爵・署・司、「つかさどる」と訓ずるものに使・御・當・賞・掌・主・守・尸・序・管・籍・尙・宰などがあり、それらの字は軍事・祭祀・行政・制作・宮廷の各分野に及ぶ。現場監督の「つかさ」だけでことがすんでいたとすれば、漢字を受容した当時の国語の社会的状況は、そのようなものであったのであろう。

近ごろ、エミール・バンヴェニストの〔インド=ヨーロッパ諸制度語彙集〕Ⅰの訳書が出て、ソシュール以後の言語的著作の中で最も注目すべき書であるという。そこにはインド・ヨーロッパ語系のなかでの語形の相違によって、その社会の基底にある意識構造の問題が、その言語の形態を通じて比較研究されている。しかしもしこのような比較研究を試みるとすれば、同じ語系中の単なる語形の変化のうちにこれを求めるのでなく、たとえば孤立語と膠着語との語意識の全面的な対応の関係のうちにこれを求めてこそ、はじめてそのような問題意識にこたえうるものとなるであろう*1。私の〔字訓〕は、究極においては、そのような比較研究の場として、漢字と古訓の全体的対応の問題を提出しようとするものであり、そのような問題意識の上に、その解説を試みたものである。

〔字統〕における文字学的な課題、また〔字訓〕におけるこのような比較言語学的な問題は、従来のヨーロッパの言語学には全く存在しなかったものといってよい。この豊沃な土壌の上に、多くの人々が、それぞれの営みを試みられることを願っている。それは豊穣な国語を生み育てるためにも、必ずや役立つであろうことを信ずるのである。


*1――孤立語である中国語と、膠着語である国語との間には、語系が異なるものであるから、従って語としての関係は何もない。オノマトペのように、本源的に類似しうるものを除いては、語形の類似ということもありえない。しかしそのなかで、たとえば国語において、「まねぶ」と「まなぶ」とは一系をなす語であるが、漢字においては「(まね)す」と「学ぶ」は效 heô、学 heukのように音の系列をなす語であった。また国語において「()る」と「習ふ」は一系をなす語であるが、漢字では翫・習はともに習の形をもち、習とは祝詞を入れた器の形である曰の上を羽で()って、神がその祈りを受け入れることをしきりに求める意で、「しばしばくりかえす」意をもつ字である。それが「なれる」ことであった。このように、それぞれのもつ語の系列の間に、相互に対応の関係をもつということが、語の比較研究を可能にする、最も重要な条件である。
 
(白川静『文字遊心』、平凡社ライブラリー、平成8年)

2019年1月28日月曜日

〔字統〕から〔字訓〕へ ③〔字訓〕から〔字統〕へ

〔字訓〕から〔字統〕へ


敗戦後の惨憺たる生活のなかで、私はまた作業をはじめた。甲骨文・金文をノートに写しとって、資料の整理をする。慣れるにつれて自然に手が動き、ときにはその字が話しかけてくれるようになる。文字の間の親類、縁者の関係も見当がつき、素性もはっきりしてきて、文字の系列的な関係がわかるようになった。〔段注本〕でよんでいた〔説文解字〕に相ついで疑問が生まれ、文字学の体系を考え直そうと思うようになった。許慎や段玉裁も、甲骨文や金文を知らないのである。章炳麟や馬叙倫は、この新しい資料を用いようともしない。清代の文字学の伝統に立ちながら、この新資料をもとり入れた孫詒譲や楊樹達は、さすがにすぐれた文字研究を残したが、王念孫らの文字学の方法を踏襲するだけでは、古代文字への十分な通路を開くことはできない。そこには現代の文字学の方法として、古代学的な、文化諸科学の方法を導入することが必要であった。清代の文字学の方法では、もはやこの新資料に適応する条件を欠くのである。

漢字は語を形で示す文字である。それでまず字の形を正すことが基本である。しかし字形は、時代とともに変化している。(てん)(れい)(かい)・草は、すでに字の初形を伝えるものではない。甲骨文・金文にまで遡って、はじめてその初形がえられるのである。篆文をよりどころとした〔説文〕の字説が、甚だしく誤りにみちたものであったとしても、少しもふしぎではない。

私が漢字を文字学的に、体系として把握しえたと思うようになったのは、たぶん昭和二十年代の終り頃のことであろうと思う。昭和三十年三月から三十三年十二月までに〔甲骨金文学論叢〕九集を出して、「釈史」「釈文」「釈師」などを書き、また「釈南」や「蔑暦解」を書いた。いずれも字を孤立的にでなく、その関連字を系列的な字群としてとらえ、そこから動かしがたい解釈を帰納するという方法をとった。

そのころからまた〔説文〕の再検討をはじめ、その講本は〔説文新義〕十六巻として、昭和四十四年七月から約五年を要して刊行した。その途中の四十五年四月、岩波新書の一冊として〔漢字〕を出した。「当用漢字表」の施行によって、漢字はその字形や用義法の上に著しい制約が加えられ、国語が危機的な状況にあるなかで、とりあえず所見を述べておく必要を感じたからである。さきに刊行した〔字統〕は、そのような作業の一つの収束をなすものであった。

〔字統〕は、漢字民族である中国の文化に奉仕するために書いたものではない。漢字を国字として用いるわが国の国字政策に寄与することを念頭において、その研究を進めたものであった。すでに〔字統〕においてその字形構造が明らかとなるならば、次には国字として、字の訓義的用法に及ぶのでなければならない。これによって〔字統〕において試みたところが、はじめて意味をもちうることになろう。

学問にはすべて、ある価値体系のなかで、自己完結的なものを追究するという性格がある。それで私の〔字統〕や〔字訓〕が、現実の問題を考慮においてそれへの対処を用意したものであるとしても、学術としての目的をその根柢におくものであることはいうまでもない。〔字統〕は、いま存する唯一の象形文字の体系としての文字文化の研究に、基礎的な方法を与えるものとしての意味をもつはずである。甲骨文・金文として、祭祀儀礼的な世界で成立したその文字体系は、その共時性において、その世界をそのまま反映している。また三千数百年にも及ぶその比類のない通時性において、語彙の歴史、その精神史を展開する。その史的な出発点を与えるという意味で、字源の研究は欠くことのできないものである。

(白川静『文字遊心』、平凡社ライブラリー、平成8年)

2019年1月27日日曜日

〔字統〕から〔字訓〕へ ②国語学管見

国語学管見


私ははじめ、わが国の古代文学を学ぶつもりであった。私の故郷福井には橘曙覧(たちばなあけみ)のような万葉歌人が出ており、その話をしてくれる万葉調の歌を作る老人もあった。それで故郷を出て、はたらきながら独学をするつもりで、いくらか用意ができると専門の雑誌をとりはじめた。〔国語と国文学〕〔国語国文の研究〕〔国漢研究〕などであった。〔国語国文の研究〕は創刊号からよんだが、小倉進平と土田杏村両氏との間に、新羅の郷歌をめぐるながい論争がつづいて、雑誌はやがて廃刊となった。当時の私の理解をこえる内容のものであったが、古代仮名の問題にいくらかの知見を加えたかも知れない。〔国漢研究〕は名古屋の岡田稔氏らの研究誌で、片々たる小冊であったが、附録として稀覯書の翻刻がそえられることがあり、鈴木(あきら)の〔雅語音声考〕〔言語四種論〕などもそれでよんだ。

当時はいわゆる円本時代で、改造社の〔日本文学全集〕にはじまり、有朋堂から〔有朋堂文庫〕が出ており、また早く〔岩波文庫〕も発刊されていて、テキストにはこと欠かぬほどであった。そのうち岩波から講座〔日本文学〕二十函(昭和六年)、新潮社から〔日本文学講座〕十五巻(昭和七年)が出て、独学のものにはこの上ない恩恵であった。〔日本文学〕では春日政治の「仮名発達史序説」と、ただ目録を列しただけの吉沢義則の「点本書目」が、なぜか深く印象に残った。当時点本の翻読はまだ殆どなかった時代であった。

私が岡田希雄先生の国語学史の講義を受けたのは、昭和九年のことであったかと思う。作家の水上勉氏がその回想録のなかでしばしばふれられている、京都御所の清和門前にあった立命館大学の、専門部の古い校舎であった。四角いセメント箱を伏せて、それに窓をあけたような何の飾りもない教室で、私はときどき先生の講義を聞いた。ときどきというのは、私は他に仕事があり、また当時文部省教員検定試験を受けるため、あまり登校していなかったからである。先生はその頃から病弱で、腰かけのまま講義をされ、時おり咳をされていた。学生は資格をとるためのものが多く、格別熱心な受講者がいるわけでもなかったが、先生は毎回必ず数枚の自筆のプリント資料を用意して、自説を述べられた。そのプリントは、概ね山田孝雄など、他の研究者の説を駁するためのものであった。先生は時には、そのプリントをふりかざすようにして示しながら、熱心に講義された。

〔類聚名義抄〕は先生の最も得意とされるところで、大正十一年に〔芸文〕に発表されて以来多くの論文があり、のち単行本となった。私が講義を受けたころには、先生の主題は〔和玉篇〕にあったらしく、創刊後まもない〔立命館文学〕には、その系統論に関する八篇ほどの論文が連載された。あくまでも資料に即して、精密を極めたその研究は、忍耐強さのゆえに人をおそれさせるほどのものであった。何の名利をも求めがたいであろうこの学問に、これほどの情熱を傾けさせるものは何かという、そのような思いがあった。これが私の国語学との最初の出会いであった。

私が中国に職をえて、中国の古典をよみ、金文をよみ、甲骨文に手をそめたころ、高畑彦次郎氏の〔周秦漢三代の古紐(こちゆう)研究〕三冊(昭和十二年)が油印で出された。カールグレンの試みた復原音によって、切韻音と古音とを併記する古紐別の字書と、音韻法則の研究篇二冊は、私がかつて筆写したことのある大矢透の〔周代古音考〕などとかなり異質のもので、改めて推古期遺文や古代の仮名表記資料に対する関心を加えた。そののち中国の古典や文字資料をよみつづけながらも、わが国古代の漢字受容の状況について、注意を怠ることはなかった。

橋本進吉博士の〔古代国語の音韻に就いて〕が出されたのは、昭和十七年のことであった。この百数十ページにすぎない片々たる小冊ほど、国語学史の上で大きな衝撃を与えたものはなかろうと思う。いわゆる特殊仮名の問題は、語構造の法則、語源の研究、文献の本文批判的研究などの諸領域にわたって、古代の国語研究の上に決定的な影響を与えた。私も早速その甲乙の仮名表に、韻鏡音や等位、また高畑氏の古紐研究によって古音・切韻音などを加え、両者の音型の相違などを確かめようとした。またその語彙資料として、当時すでに総索引があった〔万葉〕を除いて、〔記〕〔紀〕や〔法王帝説〕、その他の仮名表記資料の一字索引を作り、その本文批判的な適用の試みとして、〔紀〕における仮名の偏倚現象をしらべ、若干の覚え書きを用意したりした。その頃菊沢季生氏がすでにその問題に関心を示しており、また特殊仮名については、さきに〔音韻論〕によってヨーロッパの音韻法則の研究を進めていた有坂秀世が、特殊仮名の問題にも精緻な研究を展開していた。

まもなく、あのおろかしい戦争のるつぼの中に、すべてが消えていった。アジア的、あるいは東洋的という名で考えられていた文化概念、価値概念は、全く虚しいものとなった。すべてが失われたなかに、救いともいうべきものが、ただ一つだけ残されていた。それは漢字を通じての、一縷のつながりであった。しかしその文字も、体制の相違をこえて両者を結びつけるほどの紐帯とは、もはやなりえないであろう。

このような状況のなかで、国語の国際的孤立をおそれる声がある。そして性悪説の根元は、もとより漢字にある。将来の国語のありかたを決するには、おそらく二者択一のほかにないであろう。すなわち漢字を棄てて国語の国際性を志向するか、それとも漢字の生態を徹底的に究めて、十分な説得力を与え、何ぴとにも理解しやすい情報の手段とするか、その何れかである。もし漢字を放棄するとならば、千数百年に及ぶわが国の比類のない文化遺産は、これを維持することが困難となるであろう。またそれによってかりに表記の問題を回避しうるとしても、意味的な表記法を失った国語本体の問題は、一そう深刻なものとなるであろう。

かなで書かれた〔源氏物語〕がそれでわかるかといえば、そうではない。〔湖月抄〕などが試みているように、かなの傍に「漢字ルビ」をそえることによって、ようやくその理解が助けられるのである。それは硬質の文章に「かなルビ」が必要であるのと同じである。

国語の統一性、純一性ということでは、わが国では話しことばと書きことばという系列の異なる二様式の存在することが、やはり第一の問題であろう。この問題が解決されない限り、漢字を廃することはできない。また漢字を国字として用いる限り、字義と字訓という問題を避けることはできない。ここに国語の最も基本的な問題がある。私の〔字統〕と〔字訓〕とは、そのことを考える上に、いくらか寄与するものでありたいと思う。

(白川静『文字遊心』、平凡社ライブラリー、平成8年)

2019年1月26日土曜日

〔字統〕から〔字訓〕へ ①国語性悪説

国語性悪説


〔字統〕の刊行につづいて、〔字訓〕を世に送ることになった。〔字訓〕は、漢字をわが国のことばの表記法として受容した時代の国語的状況を、古語辞典の形式でまとめようとしたものである。そしてそこにどのような適合性があったのかを、両者の語源の意識や語義、用法の対応のうちに探ろうとした。国語と漢字との出会いが、かりに歴史の偶然であったとしても、それを歴史の必然とするような諸契機が、必ずやあったであろうと考えるからである。これはかねてから私の意図する、東アジア的な古代のなかでわが国の古代を考えようとする、基本的な志向のうちから生まれたものであり、その一つの収束である。 しかしこのような問題を、どうして今、この時期において提出することを必要とするかについて、少しく私の考えを述べておきたいことがある。わが国の文章は、漢字を用いた交え書きが、古今を通じての形式であった。この〔字訓〕で扱ったような時期にほぼ確立された漢字の音訓的使用法が、ゆるぎない表記法であり、また国語のありかたとしても、かつて疑われることはなかった。ときには王朝期のような「かな文字」、また禅林・儒家の徒のような硬質の文章があったとしても、国語はその振幅のなかで、それぞれの時代の文章を残してきている。特に明治以後の文章は、次第にその硬軟を整えながら、十分に知的な論述、また情感的な表現にふさわしいそれぞれの文体を創出してきたとみてよい。国語に対する信頼を一そう深めてよい傾向にあると、私は考えている。
〔引用者註〕「東アジア的な古代」といふと、すぐに勘違ひして批判する人が今も昔も多いのである。けれども大陸や半島では歴史的に何度も異民族が流入して従来の民族と入れ替つたり混淆したりして、原初の民族、ひいては漢字が発明された頃の原初の民俗が殆ど遺つてゐない。一方で我が列島ではそのやうな民族の入れ替りや混淆が大規模に起つたことがなく、従つて原初からさほど変質してゐない民俗をいまだに多く保持し、また古い資料も数多く遺つてをり、大陸や半島の現在の文化からでは到底解明できないやうな、漢字に反映されてゐる古い時代の民俗や思想を、我が国の国語と漢字の関係を研究すればよく解明できる、といふのが白川博士の学問姿勢なのである。即ち、ここで言はれる「東アジア的な古代」は、漢字を発明した民族がまだ実在してゐた時代の、我が国を含めた同地域の非常に古く多くの共通性を具へた文化のことと理解すれば、『字訓』といふ辞書の高い価値が理解できると思ふのである。
しかしまた、たとえばヨーロッパ諸国などのことばと比較すると、国語の表現法は甚だしく多様複雑であるとする批判が多く、他国の人が学習するのには最も困難なことばの一つであるという。文字の上からいえば、中国語などの方がはるかに厄介なものであろうが、しかし中国語には音訓の区別がなく、その意味で統一的な語である。国語はその意味で統一語でないとするような認識が語学者の中にあって、国語のためにそのことを遺憾とする国語学者も少くない。それが漢字廃止論、制限論の、大きな論拠となっているのも事実である。

そのような基盤の上に、最近のような情報関係の機械化、また経済・文化の国際化という問題が起こってくると、漢字の負担が一そう大きく感じられるようである。国語を国際社会に解放するためには、まず漢字からの解放が必要であり、漢字を廃止すべきであるというのが、カナ論者、ローマ字論者の立場であった。さらに進んでは、このような国語自体が国際性を望みがたいものであるから、日本語そのものを廃止しようとする論者さえあった。明治初年に洋学の雑誌〔明六雑誌〕を出した森有礼は、のち文部大臣になった人であるが、列国の文運の進化に伍するために、外国語を採用すべしとする論者であったことは、よく知られていることである。

このように国家的見地からするものではないが、敗戦後まもない頃、志賀直哉が、国語をやめてフランス語にしてはどうかと提案したことは、人を驚かせるに十分であった。あのすぐれて美しい文章をかいた作家直哉、谷崎潤一郎がその〔文章読本〕において、わが国の文章を源氏派と非源氏派とに分ち、その非源氏派の硬質の文章家の一人に列した志賀が、ひそかに日本語を不満としていたとすれば、やはり漢字まじりの国語を統一性を欠くものとして、快しとしない潔癖さがその心のどこかにあったのであろう。

柳田国男は、常民的な語りくちを好み、談話風の文体を愛した人である。また折口信夫は、古いやまとことばを、この上なく愛する人であった。しかしこの二人の文章をよむと、漢字の使いかたがいかにも無雑作で、無頓着なのに驚かされる。柳田は好んでフランス語の学習をしていたという。この人たちには、国語のなかに立ちまじる漢字に対して、一種の疎外感的なものがあって、ことさらに漢字に対して無頓着を装っていたのではないかと思う。

若い研究者は、ときに潔い言いかたを好むものである。すぐれた蒙古語学者である田中克彦は、このような逆説的な方法ではなく、もっと率直に語ってくれる。世界のことばは、次第にすぐれた大言語のもとに統一されるべきであるとする進化論的な立場から、次のようにいう。
日本の秀才たちが好んで専門とする外国語であるところの英語やフランス語のような大言語の専攻者たちは、おおむねこの路線への潜在的な共感者である。大言語への支持や共感なしに、どうして「愛する祖国のことば」日本語をさしおいて、こうした言語の専攻に生涯をかける決心がつくだろうか。(〔言語の思想〕一六ページ)
しかしこのような主張が、必ずしもこの世代の人の統一的見解でないことは、たとえばこれもすぐれた英語学者である渡部昇一の〔国語のイデオロギー〕をよむと、すぐにわかることである。渡部はむしろ、日本語における漢語・洋語の区別もない語彙混乱の現象を、日本語のたぐいのない抱擁力と生命力のあかしであるという。そして英語もかつては、あのノルマン・コンクェスト以降五百年にわたって、国語性悪説になやまされつづけていたという、その歴史を回顧している。

文字の好き嫌いをいう人は多いが、漢字はすべてよろしくないという人は少いようである。しかし時勢の動きがいかにも急速で、やがてコンピューターは世間に氾濫し、わが国の国際性はあらゆる面で一そう要求されてくるであろう。日本語も、世界に向かって開かれた言語となることが求められるであろう。国語国字の政策は、今や喫緊の要務となっているのである。国語はまさに国難の時代である。

敗戦直後の昭和二十一年十一月に当用漢字表が出され、のち数次の改定を経た。内閣告示、訓令の形で出されたこの政令は、わが国のどのような法律よりも迅速に、かつ徹底的に遵守された。新聞社や出版界が、その忠実な遵奉者であったからである。字形についてはわけのわからぬ、造字の本来に反するような変形が多く加えられ、字訓の使用は副詞を全廃し、同訓の動詞は一字だけ残すという、壊滅的な制限を加えた。その結果、たとえば現行の表示文字一九四五字のうち、訓のないものが大半を占め、それらはすべて国語として翻訳されることのない記号として、音だけで暗記することを強いられているのである。

文字は理解することによってのみ、知識となりうる。文字の構造的な意味が理解されれば、これを知識として吸収することは容易であろう。また文字の訓義的使用が保証されるならば、文字は国語としての生命をもちつづけ、新しい造語力を生み出すこともできるであろう。そのようなことを念願して、さきに〔字統〕をかき、今また〔字訓〕を世に送るのである。

(白川静『文字遊心』、平凡社ライブラリー、平成8年)

2019年1月25日金曜日

国語雑感③国語問題の原点

国語問題の原点


われわれの遠い先祖たちが、はじめてみずからの言語表記を試みたのは、〔万葉〕においてであった。近江朝から百年あまりの間に、万葉びとは、漢字だけをたよりにして、それぞれの心情を托した歌の表記を試みたのである。

漢字の仮名的な用法は、すでに半島においても行なわれていたことであるが、音訓を合わせ用い、ときには漢文の訓読法をも併用するという多彩な方法は、おそらく万葉びとの成就したものであろう。そのような表記法は、人麻呂の時期に、すでに一般化していたと思われる。〔人麻呂歌集〕や〔古歌集〕、あるいは憶良の〔類聚歌林〕などは、歌集としても行なわれていたものであるから、一般の読者にも、よむことのできたものである。

〔記〕〔紀〕の歌謡が、その成書のときまでに、どういう形で伝えられていたものかは知られない。歌謡であるから伝承によったともいえるが、すでに文字が行なわれる時期に入っていて、筆録されていたとも考えられる。いまの〔記〕〔紀〕には、それらはすべて一字一音形式、すなわち仮名書きされている。また〔万葉〕のうちでも、東歌や防人歌のように自己の表記をもたなかったもの、あるいは旅人、憶良、家持など、中国の文学に親しんだ人の歌に、その形式が多いことも注目される。

〔万葉〕の歌の表記は、たぶんその作者のものであろう。すなわちそこには、単なる表記として以上に、表現としての意識がはたらいていたとみてよい。これに対して仮名表記のものは、その音を写すだけのもので、いわば無記的な方法である。漢詩人たちが、ことさらにそういう表記を好んだのは、おそらくは漢詩文に対して、特に国ぶりを示そうとしたものか、漢字のもつ表意、表象の介入を拒否したものか、あるいは字数を五・七に整えることによって、漢詩に近い詩形をうることを喜んだものか、そのいずれかであろう。いずれにしても、国語としての表現を放棄したものとみてよい。音訓を併用するいわゆる万葉形式が、当時の表現意識の上からは、一般的な方法であり、国民的な方法であった
〔引用者註〕「音訓併用」即ち「漢字を音読みさせるものと訓読みさせるものとを混在せしめる」やり方は、実に万葉以来の伝統なのである。
人麻呂のよく知られている歌に
東の野にかぎろひのたつ見えてかへりみすれば月かたぶきぬ 〔万四八〕
というのがある。その原歌は
東 野炎 立所見而 反見爲者 月西渡
であるが、いまのよみ方に達するまでには、契沖以来のながい研究を必要とした。「炎」に「かぎろひ」の訓があるのを指摘したのは契沖であるが、契沖もなお〔玉葉〕と同じく「けぶり」とよんでいる。後の時代の人がよみがたしとするこのような表記法を、当時の人はおそらく正しくよみとることができたのであろう。それは字の音訓に対する知識として、おどろくべき水準の高さである。
〔引用者註〕だとすれば、先人達が国語を文字で書き表さうとし始めた時期は、一般に考へられてゐるよりも遙かに時代を遡るものと考へる方が自然なのである。
この表記法には、助詞などを加えていない。「立所見而」のような自然的可能を所で示し、「反見爲者」という条件形、また「月かたぶきぬ」を「月西渡」のようにかくのは、みな漢文の訓読法からえたものと思われるが、それは音を示しているのではなく、ことばをしるしているのであり、ことばの律動を伝えているのである。そこには歌のリズムが感じられる。表記法がそのまま、表現としての意味をもつものであった。表現というのは、本来そういうものである。少なくとも当時の人びとは、その歌を、このように表現されたものとして理解したのであろう。
足引之 山河之瀨之 響苗爾 弓月高 雲立渡 〔万一〇八八〕
にも同じように、詩想の中心をなす名詞や動詞には、正訓の字が用いられている。形式語は宛字や仮名書きでひかえめにしてある。助詞の省略や形式語を軽くすることによって、歌の律動は字句の間にひびきわたるのである。

〔万葉〕において、このような摂受を示した漢字は、その後にも音と訓とを通じて、国語の発展に寄与してきた。漢字を訓してよむという方法は、おそらくわが国の独自の受容のしかたであり、多くの同訓異字によって、国語は語の内包をゆたかにしてきたのである。「ゆく」「かえる」というような動詞にも、漢字にはそれぞれ十字を超える訓義の字があって、それが国語の語感を多様にした。そのような万葉以来の集積が、いまの国語を形成してきたのである。

明治以後、国語は急速に近代化したが、その基盤に、このながい集積があったことは、疑問の余地がない。西洋の文化を容易に受容しえたのも、漢字による新しい語の創出が、これを助けている。カールグレンは、そのときわが国が漢字によって新訳語を作ったことを、日本の国語問題にとって運命的な失敗であったというが、私はそうは思わない。あのおびただしい用語を、漢字なしでさばき切れるものではない。カールグレンのような考えは、外国語をそのままで自国語にすることができるヨーロッパ人の妄想にすぎない。漢字は日本の近代化を助けた。そして近代的な思惟を可能にした。いまでも思想的問題を考えるのに、どれだけ漢字を必要とするか、一冊の哲学書を開いてみれば、すぐにわかることである。国語では、ものは一般であり、ことは特殊である。特殊は一般でありえないということを、「そんなことがあるものか」といいかえることはできよう。しかし「そんなことがあるものか」という哲学論議は、どうも精妙の論に入りがたいようである。

明治以後の文章は、非常に好ましい展開をしていたように思う。特に文学の分野で、それが推進されていた。多くの作家たちがそれぞれの様式をもって活動し、多彩なうちに、全体として一つの流れが生まれていた。戦争の影響も、あまりなかったように思う。漢字は自在に消化され、有効な表現の方法であった。魯迅のあのような文体さえも、漱石の影響が著しいように思われる。われわれは、もっと現代の日本語に自信をもち、誇りをもってよかったのである。内閣告示がなくても、文章はその大きな流れを改めることはなかったであろう。そして内閣告示があっても、文章の展開はあまり影響を受けぬであろう。いま、内閣告示に最も忠実なものは、新聞と、出版社の校正係である。料理の書など、この告示を無視すること甚だしいが、一般の主婦たちは、十分にそれを消化している。それは、ノモス社会における、戯画的な場面であるといえよう。

四十数年前の、未来のことばに対する私のおそれが、いまこのような形であらわれていることに、私はいささかの驚きと滑稽とを感じている。新聞にはときどき、乱暴とも失礼とも思われる品格のないことばづかいを見かけるが、市井の人たちの折り目ただしいことばづかいに接するのは、すがすがしいものである。ことばは、対話によって生まれた。神と語り、人と語り、また自らと語るためである。そういうことばは、人間の自由な精神のうちに、いまも生きているのである。ことばの自律性を信頼してほしい。ことばを、ノモスの世界から解放してほしい。そのことを訴えようとするのが、この一文を草した私の趣旨である。

(白川静『文字逍遥』、平凡社ライブラリー、平成6年)

2019年1月24日木曜日

国語雑感②ノモス的言語

ノモス的言語


人為的に設定された規範を、ノモスとよぶことにしよう。ノモス的に制限されたことばは、歴史と断絶されたことばである。ことばの全体系が制限され、そこから一部が抽出されたようなものは、厳密な意味ではすでに歴史的なものではない。ことばは本来ロゴスであったが、人為的なものはもはやロゴスではない。ノモスは巨大な社会、類型化された人間の世界である。この社会的超越者は歴史を拒否し、理性を拒否する。過去からの深い流れをもたず、新しい流れの源泉となることもない。すべてが現象的なものに左右される。慣習と原則とが混在していて、そのいずれをも貫くことを知らない。八百長が社会の問題になると、いそいで八百長ということばが追加される。ついでに八百屋も加えておこうといった具合である。音訓表は、いくたびか改訂された。そういう進運にこたえて、教科書は年ごとに改訂される。人はその都度に、頭脳のコンピュータの設定をかえなければならない。簡略を目的としながら、かえって複雑となる。文化的なものを簡略化しうると思うのが、そもそもおごりの甚だしいものである。それには、原則化が唯一の方法である。特定のものだけが対象になるというのは、無原則というにひとしい

ノモスは社会的超越者である。それは「甚だしくおごれるもの」であるにとどまらず、ときに残酷な破壊者となる。法は遡及力をもつものではない。告示以前の文章や作品にまで、その破壊を及ぼすべきではないと思う。美しい漢詩が、傷つき果てた字形と、現代仮名づかいで読み下されているのをみるのは、かなしいことである。漢詩の場合、一つ一つの字が、作品を構成する素材である。その素材をはなれた作品というものがありえようか。ノモスの非歴史性は、自らの非歴史性のみに満足することなく、歴史の破壊を企てて恥じないのである。しかし現代の課題は、われわれの責任においてなすべきであり、それ以外に及ぼすべきでない。

現代の課題として、文字を簡略にし、表現を平易にすることは、もちろん必要であり、略字体などはもっと積極的に検討してよい。文字はそのようにして展開し、カナはそのうえに成立した。略字にはなお歴史があり、約束もある。以前にも、教科書で扱われたことがある。しかし字形の変改というのは、話がちがう。それは略体ではなく、奇形である。恣意的な変改である。字に外科手術を施して、みえをよくしようとしたのであろうが、目鼻をけずって奇形化したにすぎない。字が泣いているようで、いたましい。それはささいなことのようであるが、こういう問題に対するそのような意識のうちに、何か重大なものが欠けているように思う。

読者は試みに、字体の変改された有()・亡()・及( )・急()・臭(臭)・器(器)・教(敎)・直()・巨()・契()・舎(舍)・害()・尋()などの諸字について、どこがどう改められているかを、しらべてほしい。ルーペで拡大でもしないかぎり、その相違点は発見されないほどである。次に何のために変改が加えられているのか、その理由を考えてほしい。私には全く見当もつかぬことである。文字構造の上からも、これでは説明のしようがない。文字は構造的に理解するのが、最も記憶しやすい。有は肉を持ってすすめる意、亡は屍体の骨の屈折している形。及は後から人に追いつく形、急はその心情をいう。器は祝詞の器である さいを列して犬牲をそえ、明器であることを示す。従って大は犬でなければならぬ。舎、害はのりとの器である を針で突き通す形であるから、針は の上に達していなければならぬ。変改を加えた字では、てることにも害することにもならぬのである。尋は左右を組み合わせた字である。左右は神に接することをいう字で尋とは神をたずねる意である。どこを改めたのか判らぬほどのなおし方であるが、全くつまらぬことをしたものである。昭和の同時代人として、恥じ入るほかない。

私の教え子が、よく正しい板書をして生徒が納得せず、私に相談にくる。私は決して「かのノモスに従え」とはいわない。真実を教えるべきであり、それをためらってはならぬと思うが、そういう態度はしばしば反動扱いされるという。ノモスに従うのが民主的であるという程度のイデオロギーは、無視してよろしいと、私は教えるのである
〔引用者註〕内閣告示には強制性はないのである。これに従ふことが「正しい」と、お節介にも他人の書いた文章に手を加へる人をしばしば見かけるが、もつと柔軟な頭を持つてほしいと思ふのである。
内閣告示が出てすでに四半世紀になり、それで教えられた人は四千五百万にも達しているという。今後十年、十五年もすれば、すべて完了することになろう。しかしそれで問題が解決されるわけではない。国民教育として扱われる言語生活と、サブ言語、メタ言語までを含む言語生活とはちがう。その表記法においても幅がちがうのである。書物をよむほどの人は、告示圏外の多くの知識をもっている。しかしその人たちは、筆を執るときにはその知れる権利を放棄し、表現することを許されざる義務に従わなければならない。矛盾はつねに再生産され、拡大再生産されている。そしてそれは、未来永劫解決されることはない。

ことばは整理しうるものであり、おきかえうるものであるという発想が、その政策の根本にあるように思う。私の考えでは、無用なことばというものはなく、また無用なものは滅びてゆく。ことばにはそういう自己浄化の作用があると思う。ことばは歴史のなかで、また社会のなかで生きていて、数字の一のように、時間と空間とを超えてつねに一であるというようなものではない。ことばの一は、他の一によって容易にとりかえうるものではない。おきかえというのは、最も横着な思想である。「暗誦」は「暗唱」とかかねばならぬという。両者は同じであってよいのだろうか。「衣裳」は「衣装」とかかねばならぬという。それはものがちがうのである。誦や裳は音訓表にはない。それで唱や装で間に合わせようというのである。ただ二字だけのことにすぎないが、そのために誤りを規範とする必要があるのであろうか。

さきの字形の変改といい、おきかえの文字といい、そこにはことばと文字との厳密な一致を求めるという態度がない。内閣告示で教育を受けた人たちも、やがて社会に出て、一向に規範らしくないその実態に気づくであろう。あるいは、それが本来何の規範でもなかったことに気づくであろう。ノモスは空洞化しやすいものである。それを救うものは、自律の自由を回復するほかにないと、私は思う。そしてわが国のことばは、いつの時代においても、そのすぐれた能力を示していたと考える。
〔引用者註〕学校教育では、内閣告示から外れた表記を「×」にして減点する。入学試験でこれに従はない者は、教育の機会まで奪はれてしまふのである。内閣告示は本来なんの規範でもない上に、これに従ふ法的義務もないことを、文字を扱ふ言論人こそ自覚して、大衆に由緒正しい国語表記といふものを示し続ける使命を負つてゐることを忘れないでほしいのである。

(白川静『文字逍遥』、平凡社ライブラリー、平成6年)

2019年1月23日水曜日

国語雑感①未来のことば

未来のことば


昭和のはじめころのことであったと思う。ある夕刊紙上に、「緑の札グリーン・カード」という、五十年後の社会をかいた未来小説が連載されたことがある。古いことで話の筋などは大かた忘れてしまったが、主人公は太平洋航空の会社を経営する女社長と、その子の若い科学者で、この若い科学者は人間の生命の神秘に挑戦している。女社長は企業の鬼であり、金権主義者であるが、太平洋上でその巨人機が雷撃を受けて墜落し、会社が破産して、はじめて人間性を回復する。また若い科学者は、恋人を実験台にして、電流による生命の与奪の可能性を試みて、恋人を仮死に陥らせてしまう。重厚な研究者であるその恩師が、恋人の命を救う。生命の神秘は、なお克服しがたい問題として残されている。――そのような話であったと思う。それからすでに、四十数年になる。いまでは、現実のどこかに、このような話がありそうな気がする時代となった。

このような古い話をもち出すのは、この小説が、五十年後のことばの生活を扱っていたことを、思い出したからである。この小説では、五十年後の人物の会話は、すべてカタカナでかかれていた。そのことばは、幼児語のようにたどたどしく、舌たらずで、ときには電報のように味気ないものであった。五十年ののちに、わが国では漢字は滅びているのであろう。ことばは極度に簡略化され、人間と同じように、ほとんど記号化しているであろう。おそらく作者は、そのような設定のもとに、その時代のことばの表現を試みたものと思われる。ことばが、甚だしい退化現象を起こすであろうというこの想定が、特に私の関心をさそった。そのころ、私は中国の古典に心を寄せはじめており、その研究に志していたときであった。漢字が滅びるとすると、これは私にとっても容易ならぬ問題であると思われたからである。

ことばを簡略化し、制限することは、人間の精神の営みを均質化し、支配を容易にする最も深刻な方法なのである。「緑の札」の作者が、あのように極度に貧困な退化語を用いたのは、おそらく資本主義的な体制の極限にある人間性の解体を、その言語的表現を通してするどく指摘していたのかも知れない。そしてその小説をよむ私のおそれも、ただ漢字が滅ぼされてゆくということだけでなく、それがやがて歴史の忘失に連なり、有機的な人間機能の解体に連なるものではないか、そういう運命の予感にも似たおそれであったのかも知れない。もっとも私は、当時まだ二十歳前後の年齢であったから、それがどんなにおそろしい問題提起を含むものであったかについては、深く考えてみることもなかった。ただふしぎに、未来のことばに対するおそれを、そのときひそかに抱いたであろうことはまちがいない。それでいまも、その小説のことを記憶しているのである。
〔引用者註〕人間性を解体するのは、資本主義とか統制主義とかの経済体制の別とは関係なくて、全体主義なのである。
幸いにして、その小説にかかれた五十年後の世界を数年後にひかえた現在、漢字はなお生きのびている。もっともその数は著しく制限され、使用法も限られ、そのうちの若干の同族者は、無慙に目や鼻をけずりとられ、いたましい姿となったが、それによって生きることを許されているのは、やはり幸いというべきであろう。しかし原状への復帰は、もはや困難となっている。歴史は、復帰を許さないのである。人は歴史の上で誤りをおかした場合、永劫の呵責を負うべきであるが、わが常用漢字表には、永劫と呵責という文字は、つとにけずられている。

国語政策が決定されたのは、生きることのほか考えようもないという戦後の混乱のただなかであった。そして新聞や雑誌が、まず無条件にこれを歓迎し、いまでは辞書はもとより、戦前の出版物さえ改版されている状態である。おそらく、どのようなわが国の法律でも、これほど完全に施行され、関係者の精神の世界をまで規制したという例を、私は知らない。その意味で、それはすばらしい成功であった。しかしその成功は、同時にさきに述べたような、私のおそれに連なる。歴史のなかで、昭和は孤立するのではないかというおそれである。

ともかく、表現の平易化は進んでいる。漢字の使用度は、年々著しい減少を示している。ある調査者の報告によると、この傾向がつづけば、「あと二二〇年後には、漢字は滅亡してしまうほどの勢である」(安本氏、本誌〔言語生活〕七月号)という。私のしているようなしごとは、いまでも困難の多いものであるが、今後いっそう困難になるのではないかと、心配である。漢字が通用しなくては、私のしごとはその基盤を失うからである。そのことをある友人に話したところ、科学者であるかれは、たちどころに明快な答えを与えてくれた。「君は、少なくとも百七十五年以後のことは、考えなくてよろしい。いまの地球汚染がこの勢いで進めば、そのころ酸素の絶対量が欠乏して、人類はみな死滅するはずである」。歴史はもはや永遠ではない。遠い過去をも、また未来を考えることもない。ましてやイデオロギーなどは、もはや問題ではないというのである。なるほど、古人を相手にすることは、いまでは愚かしいことのようである。そして未来も、少しもあてにならない。その立場に立つかぎり、現在を支配する内閣告示は絶対である。

しかし人類が百七十五年後に滅亡し、漢字が二百二十年後に消滅するとしても、それにしてもことばはやはり重大である。あの未来小説にあらわれたような貧困なノモス的言語を、最後の文化として現前せしめてはならない。ことばはやはり、過去と未来とをつなぐものでなければならない。ことばの上でも、歴史を回復しなければならない。現在の振幅が、過去の共鳴をよび起こす。そしてまた、未来を導き出すのである。現在の振幅をゆたかにすることは決してむつかしいことではない。ことば自身の自律性を信じてよいのである。それはまた、人間の自由な精神を回復し、未来のことばに対する責任を回復することになるのではないかと思う。

(白川静『文字逍遥』、平凡社ライブラリー、平成6年)

2019年1月22日火曜日

国語改革四十年――4 新村出の痛憤

4 新村出の痛憤


新村出博士は「國語問題の根本理念」という講話筆記がある。昭和十四年五月二十八日に京都国文学会で話したものである。明治三十年代の政府国語調査委員会の根本方針、およびその方針をみちびいた西洋言語学まるのみの思想を批判し、その思想と方針とをそのままうけついでいる昭和十年代の国語審議会の改革思想を批判し、言語表記における伝統主義、保守主義を主張し、しかしながら今後の日本語表記はかなを主とし漢字を従とすべきことを説いている。わたくしの深く共鳴するところであるので、以下にややくわしく御紹介申しあげよう。

当時、新村博士は国語審議会の委員であった。このころの国語審議会の委員というのは――その七年後に国語改革を強行した国語審議会もおなじことであるが――その人選がはなはだ当を得ていなかった。主として社会的な有力者――政治家、官僚、新聞社の幹部、あるいは小学校や中学校の校長など、国語問題に見識があるわけではなく、文部省の主張に賛同してくれそうな人が選ばれている。国語学者は一人もはいっていない(新村博士は言語学者である)。新村博士はこのはなはだかたよった国語審議会のなかでただ一人、全体の流れに対する反対者なのであるが、会議で反対意見をのべても孤立無援でだれも賛成してくれない。それで京都の国文学会で、国語審議会の内情を公開して、あわせて自分の考えをのべたのがこの講話である。

まず委員の人選についてはこう語っている(以下引用のなかのカッコつきふりがなは原文にはなく、いまの読者のためにわたくしがつけたもの)。
實は國語審議會の人的組織がどうも(かたよ)つて居つて當を得てないやうに思ふ。(…)ところが段々國語問題の處理につきましても政治的工作が巧妙になつて參りまして、まあ三十五人ばかりの委員の顏觸れを見渡しますると、過半は今日の社會を動かす最も强い勢力たる人々が多數を占めて居る。(…)斯の如く今日國語調査の事業と云ふものは、よく組織だつて參つたか如何(どう)かと云ふと、私はよく組織だつて參つたとは決して云ひ(き)れない。段々巧妙に政治的巧妙さを以つてよく組織されて來たと云ふだけに過ぎないのであります。
そして、その国語審議会がやろうとしていることは、その出発点からして、根本的にまちがっている。すなわち明治三十五年に国語調査委員会が、音標文字を採用する、という根本方針をきめて出発した、その根本がまちがっている。ことばを道具と考え、道具は簡単で便利なものであればよい、という考えで出発したのであるが、そうではない。新村博士はくりかえし「伝統」と言う。たとえば、
……吾々の衣服とか飮食物とか云ふやうな物質的なものと同じやうに國語や國字を考へてはならないのであつて、どこまでもその傳統を一貫尊重し、千古の上から萬世の後までも此の傳統の根幹を傷つけてはならないものだと私は信じて疑はないのであります。多少の不便、――多少所でない、少からざる不便もありませうが此の不便は此の傳統を保存すると云ふ上に於て忍んで行かなければならぬと思ひます。傳統主義と合理主義との對立對峙ママがあります場合、どちらを取らむと云ふことに迷つた時に於ては精神的である場合には決然として傳統の一路に向つて進まなければならないものではないかと考へるのであります。
この「伝統」ということばは誤解されやすいことばだが、このばあいは、「過去と将来を一貫する」「過去の日本人と将来の日本人とを切断しない」という意味である。それは決して、過去の日本が偉大だからではない。偉大であろうと卑小であろうと、われわれが立つところはそこしかないからである。われわれは空虚の上に立つことはできないのである。
一言すれば、(そもそ)も其の出發點が間違つて居る。この假名遣の問題にしても國語の問題にしても之を一つの敎育上の便宜問題、印刷上の便宜問題と云ふ風にのみ考へて出發したのであります。(…)倂しながら日本の國民の將來の敎養の爲に唯この簡易、簡便と云ふ主義で國語問題を處理すると云ふことは、國家百年の、否千年の大計を誤ることになりはしないかと云ふことが憂慮されるのであります。
これら國語問題の根本方針は、明治初期に於きまして舊物破壞、傳統破壞といふやうな主義の餘弊から出て居るものであつて、明治の初年、卽ち十年代、二十年代の初め位までは相當其の必要もありましたでせうし、一應はさう云ふ態度に出ることも文化の歷史上の意味から諒としてもよいだらうと思はれます。卽ち種々の國語問題の根本精神の誤は明治三十年頃までに至る歐化主義全盛時代に育まれた思想の名殘であつて、それに捉はれてそれを脫却することの出來ない先進者或は吾々の後輩者が皆同一思想の餘弊を持つて居るものであります。
明治前半に、過去の日本をすべて否定し、全面的に西洋化しようとしたこと、そこから国語問題の根本的なまちがいがはじまっている。しかも当時の人たちは、文字というものを非常に安易に考えていた。この点につき、新村博士は、早く大正二年、すなわち明治を終ったつぎの年に左のようにのべていた(「國字の將來」)。
一般の言語乃至は日本の國語を取扱ふ人々でも、言語と思想との關係の密なるを知り、國語と國民性との因緣の深きを悟りながら、時には言語と文字との連結は極々疎な者であり、國語と國字との緣故は至つて淺い者だと思ひ過ごした事もあつたやうである。
ちょっと途中で切って説明をくわえます。西洋の科学を学んだ科学者や、工学を学んだ工学家が、文字というものを安易に考えただけではない。言語一般をとりあつかう人たちすなわち言語学者、日本語をとりあつかう人たちすなわち国語学者、これらはもとより西洋の学問を学んだ人たちであるのだが、この人々もまたしばしばそうであった。この人たちは、西洋の言語学を学んだのであるから、言語と思想とが切りはなすことのできない深い関係にあることは十分に知っている。――この「思想」というのは、「カントの思想」とか「ヘーゲルの思想」とかの特殊かつ高度の「思想」の意ではない。ふつうの人のものの考えかた、世界観、の意である。すなわち、一般に、地球上のある種族(たとえば日本人)の話す言語と、その種族に属する人々のものの見かた考えかたとは深い関係がある、ということである。フランス人のものの考えかたとフランス語とは深いかかわりがある、ドイツ人のものの考えかたとドイツ語とは切り離せない。これは言うまでもない当然のことだから、西洋の言語を学んだ者ならだれでもわかっている。国語と国民性の因縁の深きは当然である。それはわかっていながら、言語と文字とのかかわりについては、なんら必然的なものではなく、ごくごく疎なものであると考える傾向があった。これもまた当然であった。西洋の言語学は(特に明治の日本人が学んだロマン主義的言語学は)人類が話す言語はこれをきわめて重大視するが、文字については、これをただ言語のかげとみなしてすこしも問題にしなかった。
一方の關係をば言語學上の所說に據りて非常に深密だと考へた餘りに、他方の關係をママ外に淺疎だと過信して、人身の衣服冠履の如く直に文字を言語から引離して、存外容易に脫ぎ更へさせる事が出來ると輕ママに考へたらしい。(…)文字を單純な機械の樣に考へ、或は國字問題を其根柢たる他の重要なる問題から引離して定めようとした明治時代の舊夢は繰返したくないものである。
西洋の言語学は、言語を、種族の精神と深くかかわるものとして、きわめて重視する。反して、文字を軽視、あるいはほとんど無視する。実際西洋の言語において文字のしめる位置はごく軽いものである。西洋の言語学は西洋の言語を研究対象としてうまれかつ発達したものであるから、西洋諸言語を標準として「言語における文字とはかかるものなり」と観念するのは当然である。明治の言語学は「日本語における文字もまたかかるものなり」と考えたのであった。しかしたびたび言うごとく、日本語においては、その語彙の過半をしめる字音語では、文字が語の本体であり裏づけである。そして日本語は、それら字音語を排除しては、現水準を維持し得ないのである
〔引用者註〕その字音語の本体たる漢字を実際に排除してしまつた国が隣にあるのである。南北朝鮮である。両国の近代言語事情は、我が国が嘗て統治して近代化させた関係上、我が国と同じであつた筈なのであるが、その近代朝鮮語から漢字を排除し、我が国の仮名文字論者が夢想した如く全て諺文書きにした結果、日本統治時代と同じ水準を維持し得てゐないのである。図らずも、仮名文字論者の主張は隣国で実験され、その缺陥が見事に実証されたのである。
西洋直輸入の明治の言語学にはそれがわからなかった。ゆえに文字を、かんたんに廃止ないしとりかえできるものと考えた。新村博士はそれを「明治時代の旧夢」と呼んでいるのである(さきにも言ったごとく新村がこう書いたのは大正二年の一月であって、「明治時代」と言っても、つい半年前までのことなのである)。

もとの「國語問題の根本理念」にもどる。

日本人が漢字をもちいて日本語を書きあらわしていることは、支那人が漢字をもちいているごとく理想的な状態ではない。しかしこれまでずっとこれでやってきた以上、しかたがないのである。
倂しながらかう云ふ風に運命づけられて今日に至り、或る點に於ては我々はその辯護にも躊躇しませぬが、一般的に云ひますと決して是が最優良とは云へませぬ。倂しながらかう云ふものが實際行はれて居る以上は我々は之を運命として甘受して、その範圍內に於て最もよい方法を考へなければならないと私は思ふのであります。
決して最優良のものではない。けれどもこれまでそれでやってきたのだからしかたがない。今後もそれでやってゆくほかない。その「運命の甘受」が、「伝統を守る」ということなのである。伝統はよいものだから伝統を守る、という、過去の賛美ではないのである。

とは言え、過去の日本人は、聖人を崇拝し聖人の教えをのべた(と称する)支那思想を崇拝し、したがって漢籍を崇拝し漢字を崇拝した。純然たる日本語もみな漢字で書くをよしとした。これはあらためなければならない。
倂しながら漢字、假名と云ふ二元的のもので主從とか、本副とか、或は主客の或は本末ともいふべきけぢめを置いて、假名を本位にして、漢字も相當に交ぜて使ふ所の假名本位の文體にして、假名交り若しくは漢字交りの文體といふものを本格的のものとして之を永久に守つてゆきたい。
漢字を主とする文体から、かなを本位とする文体にかえてゆくのがよい、というのが新村博士の考えである。かなこそ、日本人がつくり出した日本の文字であり、当然日本語に最もよくあうものだからである(したがってまた当然、漢語にはあわないのであるが)。ついては「假名」というこの名称を何か別のよびかたにしたい、と「國語運動と國語敎育」ではのべている。
以前には、今も尙殘るが、漢字を本字●●と呼び、假名を假字●●とも書いたやうな始末である。發生史的にいふと仕方がないが、今日は假名を國字●●と稱し――古くさう呼び、さう書いた學者もあつた――少くとも「假名」といふ文字を廢止し、又その稱呼をも改めたいと思つてゐる。有效な改字または改稱の方法がないものかと、常住思つてゐるが、名案がない。「國字こくじ」を從來の假名の稱にすべて代へてしまつても不都合であり、又コクジと音讀しないでカナと訓讀するやうにさせることも不可能であらう。名稱や文字が禍することもあらうが、精神は普通の文章では假名を主位本位にするやうにしたいと思ふ。又實際にも、成るべく假名を多く使ふ、宛字は成るべく避ける方針にする、といふ樣にして進みたい。
わたしも、「假名」はよくないと思う。本来はまさしく「假名」(ほんとうでない字)の意で命名されたのであり、また実際一段価値のひくい文字とされたのであるから「假名」でいたしかたなかったのであるが、これこそが日本の字なのであるから、「假名」(「仮名」と書いてもおなじこと)ではまずい。さりとて新村の言うごとく新名称をつけるのもむずかしいから、わたくしはかならずかなで「かな」と書くことにしている。
〔引用者註〕学者即ちエリートといふのは、やはりどうでもいいことが気になる人なのである。何百年間も「かな(假名)」と呼んできたのだから、それでいいのである。また「かな」は別に一段価値の低い字とは考へられてゐなかったといふのが真相なのである。さうでなければ「源氏物語」や「枕草子」等が平安時代に大ヒットする訳がないのである。因みに朝鮮では、確かに「漢字=上等、諺文=下等」の区別があつたのである。さういふ歴史の反動で、愚かにも南北朝鮮では頑なに漢字を廃止してしまつたのである。ああいふのこそ本当の劣等感の現れなのである。
あて字をやめるべきであることは言うまでもない。本来、和語に漢字をあてること、すなわち「訓よみ」はすべてあて字なのであるが、「山」「水」「人」「家」のごとく、字もやさしく、またその意によってあてているものは、ながく習慣にもなっていることだからやむを得ない。特に「手」「目」「戸」「田」「根」「木」など一音のものはかながきするとまきれやすいのでしかたがない。それ以外は極力、和語に漢字をあてるのはやめたほうがよい。右の新村の文で言えば「今も尙殘る」は「いまもなおのこる」でよく、「仕方がない」は「しかたがない」でよく、「宛字は成るべく避ける」は「あて字はなるべくさける」でよいはずである。
〔引用者註〕宛字も立派な伝統なのである。我が先人達は、さういふ表記を互ひに面白がる文字文化を発達させてきたのである。因みに漢字の母国たる支那においても、わざと宛字を用ゐて楽しむ文化はあるのである。特に共産党の言論弾圧の下では、それは当局の監視を掻い潜つて情報を伝へる手段としても利用されてゐるのである。
新村博士の言う「假名を主体本位にする」とはどういうことか。

漢字は、支那語を書きあらわすためにできた支那字なのであるから、なるべく使わぬようにする。これが基本である。しかし漢字で書かねば意味の通じないことば――すなわち字音語――は漢字で書かねばならぬ。これも当然である。「こうえん」では意味をなさない。「公園」「公演」「後援」「講演」「高遠」等とかならず漢字で書かなければいけない。これをかながきしたり、あるいは「こう演」「後えん」などと半分かなにする(これを「まぜがき」と言う)のはバカげている――ただし、コーエンという音を持つ多くの語のうち、最もポピュラーな語である「公園」は「こうえん」と書くもよしとする。すなわち「こうえん」とかながきしてあればこれは「公園」のこととして、それ以外のコーエンは「公演」「後援」等と漢字で書くこととするようなやりかたはあり得るだろう。しかし漢字を制限して「講筵に列する」を「講えんに列する」と書くがごときはおろかなことである。
〔引用者註〕そんなややこしいことをすれば、益々混乱するだけなのである。
したがって、漢字を制限してはならない。字を制限するのは事実上語を制限することになり、日本語をまずしいものにするから――。制限するのではなく、なるべく使わないようにすべきなのである。たとえば、「止める」というような書きかたはしないほうがよい。これでは「やめる」なのか「とめる」なのかわからない。やめるは「やめる」と、とめるは「とめる」と書くべきである。あるいは、「その方がよい」では「そのほうがよい」のか「そのかたがよい」のかわからない。しかし「中止する」とか「方向」とかの語には「止」「方」の漢字がぜひとも必要なのであるから、これを制限してはならないのである。あるいは「気が付く」とか「友達」とかの書きかたをやめるべきなのである。ここに「付」の字をもちい「達」の字をもちいることに何の意味もない。こうした和語に漢字をもちいる必要はないのである。しかし「交付する」とか「達成する」とかの字音語は漢字で書かねばならない。すなわち「あて字はなるべくさける」というのは、和語にはなるべく漢字をもちいぬようにする、ということである。漢字はなるべく使わぬようにすべきであるが、それは、漢字を制限したり、字音語をかながきしたりすることであってはならぬのである。
〔引用者註〕「制限するのではなく、なるべく使わないようにすべきなのである」? やはりこの著者は隠れ制限論者だつたのである。「なるべく使はないやうにする」とは「制限する」といふ意味なのである。人それぞれ書きたいやうに書けば済む話なのである。通じない書き方は自然淘汰されてゆくから、一個人がいちいち心配する問題ではないのである。

(高島俊男『漢字と日本人』、文春新書、平成13年)

2019年1月21日月曜日

国語改革四十年――3 当用漢字の字体⑤文字は工業規格ではない

文字は工業規格ではない


こんにちのごとく、多くの人が機械(ワープロ、パソコン、等々)を使って文章を書くようになると、人がどういう字を「書く」かをきめるのはその人の知識でも手でもなく、機械にあらかじめくみこまれている文字である。それを一手ににぎっているのがJIS(日本工業規格)である。たとえば人が「川幕府」と書きたいと思ってもJISには「徳」しかないのだから「徳川幕府」でがまんするほかない。西盛と書こうと思ってもJISには「郷」「隆」しかないから「西郷隆盛」と書くほかない。上に言ったごとく、德、鄕、隆は徳、郷、隆に「包摂」されている、とJISは言うのである。現在の機械の能力をもってすれば正字を入れることは容易なのだが、JISはそれを拒否しているのである。

東京大学の坂村健先生が、文字を「どこかでだれかが仕切るというのはよくない」「コンピュータの文字セットを決めているのが工業規格ではあまりではないでしょうか? 文化規格なのです。今や工業規格ではないのです」と言っていらっしゃる。まことにそのとおりである。

コンピューターの文字に関するかぎり、ガンはJISである。わたしは以前あるところにJIS漢字を批判する文章を書いたことがある。そうしたらJISから長い手紙が来た。その内容は、要するに「JISの規格票を精読もしないでJIS漢字に対して批判がましいことを言うな」というのである。「規格票」とは何か伝票かカードみたいな名前だが、いったい何なのだろう?「規格票も精読しないで」と言うからには、見たいと思えばだれでも見られるものかと思ったら、それがそうではなかった。わたしは人にたのんでやっとのことでコピーを一部手に入れた。伝票やカードどころか、電話帳のような部厚い大きな本である。無論JISが作ったもので、一種の内部文書――すくなくとも一般の人には容易に見る機会も、またその必要もないものである。まさしく「工業規格」で、文字に数字をあてて処理し、管理するための手引書だ。そういう、JISの人ないしJISに近いところにいる人(経済産業省の工業規格関係の人など)でもなければ用のないものを、名前だけ持出して「規格票を見もしないでJIS漢字に対して文句を言うな」と言うのである。「日本の文字はおれたちが仕切るのだ」という傲慢まる出しだ。機械にくみこまれている文字はすべて、その一つ一つに長い数字があたえられており、その数字をつうじて画面上によび出されるようになっているのであるらしい。その数字をにぎっているからこわいもの知らずなのである。

しかし、文化としての文字をこんな連中にまかせておいてはならない。だいたいが工業技術者であるから、ことばや文字に見識があるわけでも愛情があるわけでもない。工業技術の対象としてしか見ない。拡張新字体をどんどんつくって番号をあたえ、正字を抹殺してしまったのがこの連中である。

文字は過去の日本人と現在の日本人とをつなぐものであるのだが、こうした人たちはそんなことはすこしも意に介しない。いま文字を使う人、それも官庁や会社の実務で使う人のことだけを念頭において文字を管理している。文化遺産としての文字をJISの手から解き放つことが緊急の課題である。

(高島俊男『漢字と日本人』、文春新書、平成13年)

2019年1月20日日曜日

国語改革四十年――3 当用漢字の字体④藝と芸、缺と欠

藝と芸、缺と欠


さきごろ日本文藝家協会が「漢字を救え!――文字コード問題を考えるシンポジウム」という会合を開いた。その際の江藤淳理事長のあいさつのなかに、「依然として旧字体をそのまま使っている台湾」とあった。これは、はなはだしい認識不足である。「依然として」と言い、「旧字体をそのまま」と言うと、まるで世界から見捨てられた廃物にしがみついているようではないか。

いったい「旧」とは、何に対して「旧」なのか。日本の戦後略字に対してか。それとも中華人民共和国の簡体字に対してか。それらは他人(日本の文部省、中華人民共和国の文字改革委員会)が勝手にやったことであって、台湾(中華民国)の人たちのあずかり知るところではない。台湾(中華民国)の人たちは、先人がもちいてきた文字をそのままもちいているだけである。「依然として旧字体をそのまま」と、あたかも立ちおくれたみたいに言われる筋合いはない。日本人がむかしから日本列島に住み、今もひきつづき住んでいるからといって、「依然として旧国土にそのまま住んでいる日本人」と言う人があるであろうか。
〔引用者註〕戦前の事柄に何でも「旧」を附けるのは、一種の印象操作なのである。「旧」を附けて「それは古臭いものなんですよ」「使はないやうにしませうね」と人々の無意識に働きかける作用があるのである。正字を「旧字」と謂ひ、正仮名を「旧仮名」と呼ぶのは、後継の新しいものが現に存在するので仕方がないとしても、「旧日本軍」「旧日本兵」等は「自衛隊は軍隊ではありません」「自衛官は兵士ではありません」と政府が言つてゐるのだから、つまりは「新日本軍」「新日本兵」など存在しないのだから不当な「旧」扱ひなのである。
理事長の発言は、たとえば、日本のたばこハイライトがその箱にhi liteと書いているからといって、英国でおなじ語をhigh lightと書いているのをさして、「依然として旧綴りをそのまま使っているイギリス人」と言うようなものである。認識不足のうえに失礼である。

戦後略字(当用漢字新字体)がおこなわれて五十年以上がすぎた。いまでは、新字体実施以前の書物も、そのほとんどが新字体に変えて刊行されている。古典文学作品や歴史資料もそうである。そのために不都合がおこっている。もともと新字体は、それ以後の人が文章を書く時に依拠すべきものとして制定されたものであって、それ以前の書物や文書のことは考慮のうちにはいっていない。ところが実際に学校教育が新字体のみでおこなわれると、その教育を受けた人は正体の字がよめない。すくなくともよみにくい。そこで営利を求める出版社は、「若い人たちにすこしでもよみやすいように」などとおためごかしの理由をつけて、過去の書物や文書を新字体に変えて刊行するのがごくふつうのことになってしまったのである。
〔引用者註〕国語学者の荻野貞樹氏は、戦前の著作を「新字体」「新仮名遣」に改編して出版するのは「改竄」だと主張されてゐるのである。戦後の我々は、過去の名作を読んだつもりになつてゐても、実は原著を読んではゐないのである
《ある年の筑摩書房版高校国語教科書には、芥川龍之介『羅生門』が出てゐました。この作品のホンモノはこんな書き出しになつてゐます。
 或日あるひの暮方の事である。一人の下人が、羅生門らしやうもんの下で雨やみを待つてゐた。
 廣い門の下には、この男のほかに誰もゐない。唯、所々丹塗にぬりの剝げた、大きな圓柱まるばしらに、蟋蟀きりぎりすが一匹とまつてゐる。
教科書では次の通り。 
 ある日の暮方のことである。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待た。
 広い門の下には、この男のほかだれない。ただ、所々丹塗げた、大きな円柱に、きりぎりすが一匹とまる。
 漢字の字体のこととルビについてはここでは仮に無視することにしても、太字の部分は原作にない文字です。作者芥川龍之介はかうは書かなかつた。それが、九十四字のうち二十三字。ほぼ四分の一は芥川が「書かなかつた」文字です。
 こんな贋造品を生徒に与へて芥川作品だと言つてだますのは、私は犯罪だと思ひますが、文部科学省および教育界・学界・ジャーナリズム、また多くの文化人はこれを「よいこと」と考えへてゐるわけです。まさか「悪いこと」と考へたらやらないでせうから。》 (荻野貞樹『旧かなづかひで書く日本語』、幻冬舎新書、平成19年)
 その際最も不都合なのは、二つ(ないしそれ以上)の字をあわせて一つにした文字である。

たとえば「芸亭」という語が出てきたとする。「芸」という字はもともとある。音はウン。意味は二つあり、一は一種の香草、一は「草をかる」の意の動詞である。芸閣うんかく芸亭うんていのばあいの芸は香草で、これはむかしの図書館である(芸香を虫よけにもちいるのでそう呼ぶ)。

しかるに「藝」の字の略字を「芸」とした。そこでむかしの人名なり号なりに「藝亭」「藝軒」などというのがあれば「芸亭」「芸軒」になる。本来の芸亭や芸軒も無論「芸亭」「芸軒」である。どちらなのかわからない。

あるいは、「欠」という字はもともとある。音はケン。これも意は二つあり、一つは不足、もう一つは人が「のびをする」ことである(たとえば欠伸(けんしん)はあくびのこと)。ところが「缺」の略字を「欠」とした。つまり「欠」はケンでもありケツでもあることになった。「缺」は「決」とおなじで、ものの一部がかけることである(「決」は堤防の一部が水圧でかける。「缺」は缶つまり土器の一部がこわれてかける)。そうすると、戦後刊行の本に「欠典」という語が出てきたばあい、もともと「欠典」(ケンテン)なのかそれとも「缺典」(ケツテン)が略字で「欠典」になったものなのかわからない。

「余」と「餘」、「予」と「豫」、「台」と「臺」などもそうである。いずれももともと「余」「予」「台」があるところへ、それをまた「餘」「豫」「臺」の略字としたのである。現代の生活はそれでもよいが、むかしの書物では、いっしょにするのは不都合である。たとえば「余は」は「わたくしは」であり、「餘は」は「そのほかは」である。
〔引用者註〕「濱」と「浜」の関係も「藝/芸」や「臺/台」と同じなのである。一般に「浜」は「濱」の略字だと受け止められてゐるが、本来「濱(ひん)」と「浜(はう)」は別字である(字形、字音、字義が全て違ふ)。「濱」の当用漢字を「浜」としたのは、大間違ひなのである。その証拠に、中華人民共和国では「濱」の簡体字は「滨」で字音は「bīn」、一方「浜」はそのまま「浜」で、その字音も「bāng」と異なり、別の字であることが判るのである。だから、浜田さんや浜崎さんは、中華人民共和国に行くと、「滨田」「滨崎」と書かなければ正しく読んでもらへないのである
三つ以上の字をあわせて一つにしたものに「弁」がある。「弁」という字はもともとある。そこへ「辨」も「辯」も「瓣」も「辮」も「辦」もみな「弁」にした。つまり古典を新略字になおした本では、どれもみな「弁」になる。こんにちの生活においてはこれらの字の多くは用がないが、むかしの本では使いわけられている(意味がちがうのだから使いわけてあるのは当然だ)。ところがそれを全部「弁」になおしてしまっては、もとのことばがわからなくなる。たとえば「弁言」は序文である(「弁」はかんむり)。「辯言」は口達者である。ところがこれも「弁言」に変えてしまうのである。

古典文学や歴史資料などを戦後字体に変えて本にするというのがそもそもまちがいなのだが、どうしてもやるなら、すくなくともこうした問題にだけでも注意し適切に処理しなければならぬのだが、それをやっていない。
〔引用者註〕我が家には簡体字に直された司馬遷の『史記』があるのである。本当は中華書局のものが欲しかつたのだが膨大な量なので、全文が1冊にまとめられた簡体字版のを購入し手軽に参照したいと思つたのである。が、読みにくい上に、古典の味はいも全く感じられないのである。

(高島俊男『漢字と日本人』、文春新書、平成13年)

2019年1月19日土曜日

国語改革四十年――3 当用漢字の字体③「拡張新字体」という不当

「拡張新字体」という不当


山田忠雄先生が言っておられるように、戦後の新字体づくりとその強制は一種のクーデターであった(『当用漢字の新字体』)。しかもこれは、この字体で今後ずっとやってゆこう、ということできめられたものではない。漢字全廃が実現するまで当分のあいだこれでゆこうという、ごく短期のことだけを考えた、まにあわせの粗雑なものである。

しかしいま、ちかい将来における漢字全廃を前提として文字のことを考えている人はまずないであろう。ならば、当用漢字字体(戦後略字)も、その目で見なおさなければならない。

いまや、ワープロやパソコンが普及して、文字は手で書くよりたたいて打ち出すほうが多いくらいになっている。打ち出すのであれば筆画が多かろうとすくなかろうと手間はおなじである。「海」と打ち出すのも「海」を打ち出すのもおなじであること言うまでもない。「独」と「獨」も、打ち出すなら手間はおなじである。

しかるにコンピューター文字を考える人たちがみな、戦後略字を規範として考えているようであるのは認識不足である

JIS漢字で「包摂」ということを言う。たとえば、社、德、突、靑、鄕、 、漢、隆、賴、練、海等々の字が、JIS漢字にはすべてない。これらはそれぞれ、社、徳、突、青、郷、聖、漢、隆、頼、練、海に「包摂」されるというのである(画数の相違が二つ以下のものは無視するのだそうだ)。これではワープロやパソコンで、ついこのあいだまでの文学作品さえ正確に引用できない。

略字が正字を包摂するというのが本末顚倒である。もしどうしても包摂するのなら、正字を立ててそれに略字を包摂すればよい。いまは略字を正字として学校で教えているから略字を立てぬわけにはゆかない、というのなら正字と略字とをどちらも立てるがよい。

さらに最近は「拡張新字体」と称して常用漢字以外の文字についてまで新字体をつくることがおこなわれているが、これはいよいよ不当である。

「拡張新字体」というのは、戦後略字の方式を常用漢字外にまで拡張してつくった印刷字体である。上にあげた「鴎」がそうである。區が区になり毆が殴になったのだからそれにあわせて鷗も鴎にする。あるいは、龍が竜になったから籠も篭にするというのである(しかし襲を「竜」と「衣」をかさねた字にするかというとそうはしない。襲は常用漢字内でこれは文部省がきめたものだから手を出さないのである)。国語審議会は平成十二年十二月に、この拡張新字体を「簡易慣用字体」と称して二十二字だけみとめることにした。本来国語審議会は常用漢字以外の字については一般に使用をみとめないのであるのに、みとめないものについて新略字をつくって使用することをみとめるというのは筋のとおらぬことである(二十二字は、唖、頴、鴎、撹、麹、鹸、噛、繍、蒋、醤、曽、掻、痩、祷、屏、并、桝、麺、沪、芦、猟、弯)。

(高島俊男『漢字と日本人』、文春新書、平成13年)

2019年1月18日金曜日

国語改革四十年――3 当用漢字の字体②筆写字と印刷字

筆写字と印刷字


筆写字体と印刷字体とをおなじものにしようとしたのが戦後新略字であった(中国の簡体字も同様の考え)が、これがまちがいであった。

筆写体(手書き文字。おなじことです)は文章のなかの文字であり文脈でよまれるものであるから、他の文字に類似していてもかまわない。印刷字体は一つ一つが独立してその字でなければならない。手書きの字では筆先はなるべく紙をはなれまいとし、点や線はつながりやすいから、たとえば、「火」はしばしば「大」によく似た姿になる。しかし筆写字がそうであるからといって、印刷字体を筆写字に近づけて「火」の二つ点をつないだ字にする必要はない。

上にも言ったように、魚、馬、鳥、およびこれをふくむ鮮、駅、鳩などの四つ点は手書きではふつうつながる。だから中国の簡体字では、鱼、马、鸟等と四つ点部分を一にした。これを偏旁に持つ字ももちろんそうである。いまみなさんは、鱼、马、鸟などの字を見ると、なんだかヘンテコリンな、みっともない字だなあ、と思うでしょう? 対して「売」だの「伝」だの「毎」だのという字を見てもヘンテコリンだとは思わないでしょう? でもおなじことなのです。みなさんは学校でそういう字を教わってこれが正しい字だと思いこんでいるからヘンテコリンだと思わないだけなのです。

東、棟、凍等の右部分は「東」である。練、煉、諫等は「柬」である。手書きでは点はつながるから練の右部分の二つ点はつながって「東」にちかくなる。であるからとて練は練に、煉は煉󠄁に、諫は諌にしたのもヘンテコリンなのである。のみならず文字の組織をみだしてしまったのである。

「母」の二つ点は手書き字ではつながる。每、海、などの母部分もおなじである。そこで每は毎に、海は海に、は毒にした。もっとも母を毋にしてはあんまり変だと思ったのか、母だけはもとのままである。これも文字の組織をみだしたのである。

手書き字では、字の一部分を符号で代替することがしばしばある。昔からそうであり、いまもそうである。符号としては、丶、㐅、又、〻、云、寸などがよくもちいられる。省略することもある。手書き字は文脈でよまれるから、部分が符号であっても、あるいは省略されていても、わかればそれでさしつかえないのである。省略というのは「米國」(戦後略字なら米国)を「米囗」と書き、「公園」を「公囗」と書くようなのである。あるいは点を一つ入れて「米」「公」と書くこともある。前後の関係で十分わかる。

この本には「漢字」という語がよく出てくる。わたしの原稿ではたいてい「汉字」と書いてある。「 」の部分を「又」で代替してあるわけである。無論わたしは「漢」の字を知らないのではない。「漢」の画数が多いから「汉」にせよ、と主張しているのでもない。わたしの本では「漢字」と書かず「汉」の字をつくって「汉字」と印刷せよ、と要求しているのでもない。そんなことは当然だから印刷する人は「漢字」となおして打ってくれる。「區」を「区」と書いたり「轉」を「転」と書いたりするのも、これと同様の符号による代替だった。それが正式の字に昇格してしまったのである。

こうした「簡単な符号による部分代替」はむかしからひろくおこなわれていたし、いまもおこなわれている。筆写字は手早く書けることが生理的要求であり、何の字であるかが前後からわかればよいからである。

「品」を、なし、丶、〻、㐅などで代替することもむかしから一般におこなわれている。右にあげた「区」もそうだし、ちかごろよく問題になる森鷗外の「鷗」もそうである。これは、この名が何度も出てくる文章を書くばあい、いちいちキチンと「鷗」と書く必要はなく、森外でも森外でも森鴎外でもかまわない。前後関係でわかる(もちろん右がわの「鳥」もこんなにキチンと書くのではなく、もっと手早く書くのです)。たとえば「森外」と書く人は、「鷗」の字体は「」であるべきだと主張しているわけではない。印刷字体では「鷗」であることを十分承知でそう書いているのである。

以上かなりくどくのべたからたいていわかっていただけたと思うが、手書き字と印刷字とは別のものなのである。筆写字は、書きやすくて、前後関係でその字であることがわかればよい。

ところが戦後略字は(中国の簡体字もおなじだが)筆写字と印刷字とをおなじものにしようとした。それも印刷字のほうを変えて筆写字にあわせようとした。

かくして、たとえばおなじ「專」が、專は専になり、傳、轉は伝、転になり、團は団になって、縁が切れてしまった。実はこれらは「まるい」「まるい運動」という共通義を持った家族(ワードファミリー)なのである。あるいは、さきに言ったように假を仮にしたから暇や霞との縁が切れた。賣を売としたから買や販や購との縁が切れた。母と毎、海などの毋部分は別のもののようになった。氣の米も區の品もおなじ㐅になった。廣の黃も佛の弗もおなじ厶になった。單の上部も榮の上部も學の上部もおなじ「⺍」になった。これらは、手書きの際の臨時の符号を恒久的な文字にしてしまったためのあやまりである。印刷字は活字をひろうなりキーボードをたたいて打ち出すなりするのだから、点が切れていても筆画が外へむかっていても、そのために手間がかかるということはない。そしてそのほうが見やすく、美しい。部分は符号ではなく正しい部分であるほうがよいのは言うまでもない。手で品の字を書くのは手間だから㐅でもよい、つまり区、欧、殴、鴎等であってもよいが、印刷字体では、㐅などという符号ではなく、區、歐、毆、鷗と、ちゃんと品がはいっているほうがよいにきまっているのである。

(高島俊男『漢字と日本人』、文春新書、平成13年)

2019年1月17日木曜日

国語改革四十年――3 当用漢字の字体①

3 当用漢字の字体


こんにち一般におこなわれている漢字の印刷字体、すなわち教科書、新聞、雑誌、一般書籍などでもちいられている字体は、戦後文部省と国語審議会がさだめ、昭和二十四年に内閣が告示・訓令をもって公布した「当用漢字字体表」によっている。もっとも、内閣の告示・訓令が出たとたんに日本中の活字字体が一ぺんに全部かわったわけではない(それは技術的に無理である)から、もしみなさんが、昭和三十年代前半ごろまでに出た本や雑誌を見るならば、みなさんが知っている字体とかなりちがいがあることに容易に気づかれるはずである。

いま例として、右の一段に出てきた文字のうちのいくつかについて、戦後字体とそれまでおこなわれていた正字体とをならべてみるなら左のごとくである(上が戦後新字体、下が正字)。

漢漢、体體、教敎、雑雜、戦戰、国國、会會、当當、来來、気氣……。

右のごとく、一目見てすぐわかるほどちがうのもあれば、よく見ないとわからぬのもある。よく見ないとわからない例をもうすこしあげれば、左のようなのがある。

都都、涙淚(点が一つ減少)、徳德、徴徵(棒が一本減少)、急急、掃(棒がみじかくなった)、習、消 (画のむきをかえた)、毎每、憎憎(点二つを棒一本にかえた)等々。

これら戦後の新しい字体は何にもとづいてこうさだめたのであるかというと、筆写体にもとづいたのである。つまりそれまでの、ということは戦前の日本人が、日記、手紙、証文、その他種々の文書にしるす手書き文字で一般にもちいていた字体にもとづいている。

とは言っても、手書きの字は各人各様である。統一字体があるはずがない。むかしはことにそうであった。またそれをまんべんなく調査することは不可能である。たとえば戦前の日本では毎日数百万通の手紙が家族や知人にあてて書かれ郵送されていたが、それらは通常受取人一人によってよまれるだけであり、そこでもちいられている文字を点検することは政府といえども不可能である。筆写体にもとづいて印刷字体をつくったといっても、結局のところ、実際に参照され得たのは、新字体を考案した人たち自身、もしくはその周辺でおこなわれていた字体のみであろう。

もっとも、一般的な傾向はたしかにあった。

一つは、よくもちいられるが筆画の多い文字についてはたいていの人が略字を書いていた、そしてその略字はかなりの範囲で同一、あるいは類似だったということである。たとえば「體」を「体」と書くことはひろくおこなわれ昭和十年代には学校の教科書にも一部採用されていた。その他「醫」を「医」と書き、「聲」を「声」と書き、「變」を「変」と書くなども一般的であった。

また一つは、これは見やすいことをむねとする印刷字体と書きやすいことをむねとする筆写字との性格の相違に由来するのだが、印刷字体が概して直線で構成され、したがってまがる所は角ばって直角にまがり、点や線がはなれ、線の方向が外をむいているのに対して、手書き文字はまるみをおびた線で書かれ、点や線がつながって筆先が紙を離れないように書かれ、線の方向が内をむく(つぎの筆画にむかう方向にむく)。これらはすべて筆写の際の、筆先の経済、あるいは筆先の生理のゆえである。いちいち筆先を紙から持ちあげるより、つづけて先を書いたほうが早いから自然にそうなるのである。言うまでもなく活字にはそういう生理的要求はない。このことはアルファベットの印刷字体と筆写字体とをくらべてみればだれにもわかることである。 aとa、bとb、dとd、fとf、kとkなど。漢字のばあいは印刷字体が直線を基本とするのでこの相違がいっそう顕著である。できれば実物をお目にかけたい。もしわたしが教室で授業をしているのなら、黒板に筆写体の字を書いて見せるのはいともたやすいことなのだが、残念ながらここではそれができない。人の手紙か何か、手書きのものをごらんください。全体に線が曲線的で、直角にまがるところがまるくまがっているでしょう?駐でも駅でも鶏でも鳩でも、四つ点(⺣)のところが印刷字体でははっきり離れているが、手書き字ではたいていつながって波線状になっているか、あるいはただの横棒になっているでしょう?そういうふうに、点と点が、あるいは点と線が、あるいは線と線が、筆写字ではつながる傾向がある。

筆画の外むきと内むきは、戦後略字以前から、印刷字体と筆写字(楷書であっても)との最もはっきりした相違である。曾、僧、 、益、閱などの「八」は、筆写字では、尊、益、閲などと「丷」を書く。、などの「𡭔」は、筆写字では「⺌」を書く。爪(ツメ)をふくむ字、、稻、爲、爭などは「⺤」を書く。要するに、印刷字体と筆写字体とは性格がちがうのである。

(高島俊男『漢字と日本人』、文春新書、平成13年)

2019年1月16日水曜日

国語改革四十年――2 国語改革とは何だったのか⑤中途半端なまま

中途半端なまま


しかし保科孝一や松坂忠則のもくろみは頓挫した。当用漢字は音標文字化(すなわち漢字全廃)という最終目標にむかう道筋の一里塚だったのだが、その一里塚のところで、中途半端なままとまってしまった。

これはたとえば、あの地名改変のようなものだ。地名をわかりやすく合理的に、と主張する人は戦前から数多くあった。戦後二十年ほどのあいだの町村合併や町名変更による新地名はその主張にそっておこなわれた。気がついてみると、日本中で何千何万という地名が消えうせていた。この段階になって、由緒ある地名を守ろう、と訴える組織があちこちにできて役所の暴挙に反対しはじめた。最初役所が地名征伐をはじめた時、これは困ったことだと思った人は数多くいたのだが、どうしていいかわからず、アッケにとられて役所のやることを見ていたのである。やっと組織を作って声をあげはじめた時には、すでにあまたの地名が消されていた。しかし反対の声が大きくなると、いったん失われた地名はもうもどらないが、地名征伐のいきおいはとまった。そうなると、かつて地名の簡易化、合理化を主張していた人たちは、いったいどこへ消えてしまったのかと思うくらい、姿を見せなくなった。

国語改革もこれと同様で、知識人たちが組織をつくって反対の声をあげ、撤回を要求しはじめると、撤回はしないが、進行はとまった。そうすると、漢字全廃、音標文字化を主張していた人たちは、ほとんど姿を見せなくなってしまった。かつて松坂忠則にひきいられていたカナモジカイは、いまもあることはあるが、非常に弱体化して、片手でかぞえるほどの人が何とかささえているらしい。社会的な影響力はゼロと言ってよい。ローマ字会も、あることはあるのだろうが、消息を聞かない。どっちにしても、戦略と、実現の見通しとをもって、本気で日本の文字を音標文字にかえる活動をやっているとは思えない。
〔引用者註〕前にも註で書いたやうに、社会が健全さを取り戻せば、かういふ愚かな流れは食ひ止めることが可能なのである。それと同時に、さういふ運動で盛り上がつてゐた人達も、いつの間にやら姿を消してしまふものである。近年も毎年のやうにさういふ光景が繰り返されたが、我々は、さういふヤカラが跋扈するのは、社会が健全さを失つてゐる証拠であることを銘記しなければならないのである。
しかし、いまはかくも気息奄々たる集団がかつてあげた戦果は、ゆるぎもなく厳存して日本の教育を支配しつづけ、ほとんどの日本人が、ちょうどこれくらいがよい、と思っているのであるから、既成事実というものはおそろしい。おそらく地名についても、もうしばらくすれば、その地名の土地で生れ育った人たちが日本人の大部分をしめ、ちょうどこれくらいがよい、と思うようになるのであろう。
〔引用者註〕この著者にとつては残念なことであらうが、平成の御代も終りに近づき、所謂「揺り戻し」が起きようとしてゐるのである。社会といふものは、たとへ左右どちらかに大きくブレたとしても、そのままの状態では永く保てないで、最も無理のない自然な状態に揺り戻らうとするものなのである。これは、社会の自己治癒力が作用するからなのである。
保科孝一は、一貫して事態のなりゆきを楽観したまま、国語改革反対の声が強くなるすこし前、昭和三十年に死んだ。将来の日本人を過去の日本人から切りはなしてしまった以上、多少時間はかかっても、音標文字化の方向にすすむことはまちがいない、と彼は確信していた。戦後の改革によってわれわれの勝利はさだまった、と彼は書いている。

国語審議会は以後も惰性的に存続したが、ごく微温的な、無力なものになった。前向きに、理想の実現に邁進する気力はない。そもそも国語審議会というのは本来、全面的音標文字化を推進するために政府がもうけた機関なのだということさえ、すっかり忘れ去られているかっこうである。さりとて戦後の改革を根本的に再検討するつもりもさらさらない(わたしは近年国語審議会委員になった人に「戦後改革の理念の破綻はあきらかなのだから根本的に見なおすつもりはないのですか」ときいてみたことがある。答は、「あれはあのかたたちがやったことなのだから、わたしたちがそれを見なおすとか見なおさないとかの問題ではない」ということであった)。ときどき若干の手なおしをする機関になった。たとえば、使用できる文字の範囲はかえないが、うまれた子どもにつける名前については、それ以外にこの範囲の文字なら許容しよう、といくつかの文字を追加する、といったふうな。

使用を許す文字の数も、その後五十年のあいだに、ほんのわずかだがふえた。主として、改革を最も強く支持した新聞が、この範囲では記事が書きにくい、と増加を要求したからである。国語審議会に松坂忠則ががんばっていたあいだは、文字の数をふやせば、かならずそれとおなじ数の文字をへらして総数がかわらないようにしていたが、松坂が昭和三十六年に退任してからは、ふやしてもその分をへらさなくなったので、総数がすこしふえたのである。
〔引用者註〕彼らの自分勝手ぶりは流石としか言ひやうがないのである。全ての主張が自己都合なのである。インターネットの発達のお陰で、この自分勝手ぶりが多くの人に知れ渡つて本当によかつたと思ふ。今やインターネットこそ真の社会の公器と呼ぶに相応しいのではないだらうか。

(高島俊男『漢字と日本人』、文春新書、平成13年)

2019年1月15日火曜日

国語改革四十年――2 国語改革とは何だったのか④時すでにおそく

時すでにおそく


昭和二十一年十一月の当用漢字のあと、同二十三年二月に「当用漢字別表」(いわゆる「教育漢字」)と「当用漢字音訓表」、同二十四年四月に「当用漢字字体表」が公示された。

教育漢字八百八十一字は義務教育の期間にならう(つまり教科書に出てくる)漢字をさだめたものである。

音訓表は許容される音訓をさだめたものである。たとえば、「魚」はギョとウオはみとめるがサカナはみとめない。「百」はヒャクはみとめるがオはみとめない。「生」はセイ、ショウ、イ、ウ、ナマ、キなどはみとめるがフはみとめない、「手」はシュとテはみとめるがズはみとめない、のようなものである。

ただしこれは、いちいち音訓表をしらべてみないと、使っていいのかダメなのかわからないから一般の人には無理である。厳密に守ったのは役所の文書と教科書くらいのもので、新聞等にも、「魚屋」や「八百屋」や「芝生」(しばふ)「上手」(じょうず)などの類は出ることがあった。

当用漢字字体表は、いわゆる戦後新字(略字)、すなわち現在日本でおこなわれている字体をさだめたものである(後述)。

当用漢字というのは、きわめて前向きなものであった。これからの日本人が、これからの生活や思想を文章に書く、ということだけを想定している。背後のことは考えていない。

たとえば、日本はもう軍隊を持たないのであるから、これからの日本人に軍曹や兵曹長などの「曹」の字はもはや不要である、と削除した。しかし実際には、戦後の日本人が、戦争中自分が兵士であった時の経験を書く、あるいは、戦争中の日本社会や軍隊について書く、ということはある。その際には「軍曹」という語も必要なのだが、そういうことは考慮に入れていない。この字が教科書や新聞にあらわれることはないし、もし当用漢字わくを守る場所(新聞等)に文章を書くとすれば「軍そう」などと書くほかないわけである。

そのように、日本人が背後をふりかえる、という事態は考えていない。敗戦後の日本の、過去はすべてまちがっていたのだからきれいに忘れて、未来だけを見て新しくやりなおそう、という気分は、当用漢字表にも色濃く反映しているのである。
〔引用者註〕もう数へきれないほど繰り返してきたが、やはりここでも繰り返す。「…という気分」とは、エリートの気分であつて、食糧調達に忙しかつた庶民とは関係ないのである。
戦後の国語改革――かなづかいの変更、字体の変更、漢字の制限――がもたらした最も重大な効果は、それ以後の日本人と、過去の日本人――その生活や文化や遺産――とのあいだの通路を切断したところにあった。それは国語改革にかかわった人たちのすべてが意識的にめざしたものではかならずしもなかった――かなり多くの国語審議会委員たちは、技術的なこと程度にしか考えていなかった――けれども、実際には、思いがけなかったほどの強い切断効果を生んだのであった。
〔引用者註〕過去を否定し伝統を破壊することを是とするのは、革命思想である。国語改革に関与した人々は、知らないうちに革命に加担させられたと言はれても仕方がないのである。革命によつて伝統から切り離された人々が如何に不幸になるかは、ソ聯が誕生して以降の歴史が既に証明してゐるのである。
戦災で地方に疎開していた人たちが都会にもどり、社会がある程度おちつき、そして知識人たちが、これはたいへんだ、と事態の重大さに気づいて、まとまって行動するようになったのは、国語改革がおこなわれてから十年以上たってからである。

官庁の文書と学校の教科書と新聞とがかわっても、昭和二十年代のあいだ、あるは三十年代のはじめごろまでは、一般社会もそう急激にかわったわけではなかった。文芸家たちはたいてい従来どおりに書いていたし、雑誌や書物もたいていは従来どおりの字体の活字でつくられていた(これには、印刷所がすっかり新字体の活字と入れかえるのに相当の期間を要した、といったような事情もあった)。

事態がはっきりして、ことの重大性が多くの人にわかってきたのはおおむね昭和三十年代になってからだった。知識人たちはある程度まとまって、国語改革に反対し、撤回を要求しはじめた。――この、まとまる、つまり組織をつくる、わるい言いかたをすれば徒党をくむ、集団的に行動する、ということが知識人たちは不得手であることも、対応がおくれた原因の一つだった。

しかしすでにおそかった。政府が、十年も前にきめたことを撤回するはずがなかったし、何千万人という子どもがそれで教育され、育ちつつあった(かりにある学年の日本中の子どもの数を二百万人とすると、ある年度――たとえば昭和二十五年度――に、日本中の義務教育の学校に在学する子どもの数は千八百万人である。つぎの年度にはまた二百万人がくわわり、そのつぎの年度にはまた二百万人くわわる。何千万人というのは誇張ではない)。

知識人たちの戦いは、涙がこぼれるほど悲惨なものだった。いかにその言うことが正しくても、論理的に文部省を打ち破っていても、日本の文化の継承にとって致命的であることを論証しても、何の効果もないのである。勝っても勝っても、敵に傷一つおわせることができない。事態をかえることができない。
〔引用者註〕「何の効果もない」はちよつと言ひ過ぎなのである。漢字のみに関して言へば、昭和56年に「当用漢字」改め「常用漢字」が公布されたのである。終戦時の「当用漢字」が「国語をローマ字化するまで当分のあひだ使用を許す漢字」だつたのに対し、「常用漢字」は「日常の使用を許す漢字」なのであるから、文部省が正式にローマ字化を諦めたことを意味するのである。漢字の数も「当用漢字」の1850字から、「常用漢字」は1945字、平成22年の改定「常用漢字」に至つては2136字と、当初の「徐々に減らす」方針に逆行してゐるのである。
《常用漢字表の前文では当用漢字表の「制限的な方針は、国語の表現を束縛し、表記を不自然なものにするとの批判もあった」ことを認めたうえで、「常用漢字表は、法令・公用文書・新聞・雑誌・放送等、一般の社会生活で用いる場合の、効率的で共通性の高い漢字を収め、分りやすく通じやすい文章を書き表すための漢字使用の目安となることを目指した」とある。「目安であるというように、規制の度合いをゆるくした点が特徴的である。戦前をひきついだ統制路線が修正された瞬間であった。》(安田敏朗『国語審議会 迷走の60年』、講談社現代新書、平成19年)
日本人が、敗戦で正気を失い、それまでの日本は何もかもいっさいがわるかった、まちがっていたと思いこみ、足が地につかない状態で(それに占領軍の要求や支持もくわわって)きめてしまったことのうち、憲法や学校制度などは、またかえることも、ある程度もとにもどすこともできようが、国語改革だけはもはやいかんともしがたい。
〔引用者註〕どうしても繰り返さざるを得ないが、敗戦で正気を失つたのはエリートであつて庶民ではない。この著者は、当時の国民的な気分云々と繰り返すことで、どうも我々に国語の原状恢復を断念させようとしてゐるやうに思へてならないのである。現行の表記法は、何度も言ふやうに庶民の与り知らぬ所で議論され、終戦のドサクサに紛れて断行されたものである。「民主主義の為に」などと言ひながら、民主的でも何でもなかつたのである。
本書でも再三指摘されてゐる通り、新聞社などは自分達の都合で漢字の制限や仮名遣の変更に賛成し、告示が出されたら一斉にこれに従つて今日に至るのである。彼等は、自分達の判断で内閣告示に従つてゐるに過ぎないのであるが、それを敢て公言しないことで、多くの国民に宛もこれに従ふことが義務であるかのやうに印象づけてゐるのである。謂ふなれば自作自演なのである。 
ところで、我々は「正字体や歴史的仮名遣は難しい」と刷り込まれてゐるが、本当はさうではないのである。少なくとも「どちらも同じくらゐ簡単」といふのが実態なのである。どちらが優れてゐるかになると、もちろん永い歴史の中で徐々に育まれ鍛へられてきたものの方が「より合理的」でしかも「美しい」のである。正字や歴史的仮名遣難しさうに見えるのは、外国語が難しく感じられるのと同じ理屈で、単に慣れてゐないからに過ぎないのである。
我々は、実は意識しない間に普段から歴史的仮名遣に接してゐるのである。和歌などは当然のやうに歴史的仮名遣で新作が生み出されてゐるのである。実際、歴史的仮名遣は読んでみれば無理なく読めるし、書けるやうになるまでに数週間程度しかかからないのである。漢字の正字体は少し努力が必要であるが、今のご時世、変換キーを押すだけなのであるから、OSシステム開発会社が善処すればいいだけの話なのである。多くの国民が望めば、復活することは難しくないのである。

(高島俊男『漢字と日本人』、文春新書、平成13年)

2019年1月14日月曜日

国語改革四十年――2 国語改革とは何だったのか③松坂忠則の要求

松坂忠則の要求


松坂忠則は、昭和十七年に『國字問題の本質』(弘文堂書房)という本を出している。

――またちょっと話が横道にそれますが、昭和十七年というのは戦争中である。アメリカを相手に大戦争をやっているまっさいちゅうに国字問題とは悠暢な、とお思いのかたがあるかもしれないが、そうではない。戦争中というのは、国語問題――というより日本語問題と言ったほうが適当だが――の論議がたいへんさかんな時期だったのである。

と言うのは当時、日本は、フィリピンだとか、マレー、シンガポールだとか、インドネシアだとか、南方のひろい地域を占領して、それを維持してゆくつもりであった。ついてはそれらの地域に日本語をひろめてゆかねばならぬ。それを当時「国語の進出」と言った。そして、その進出のためには日本語をもっとずっと簡易なものにしなければならぬ、東京の「京」も今日明日の「今日」もおなじ発音だのに今日のほうは「けふ」と書くようなことではむずかしすぎてあちらの人たちに学んでもらえない、といったような主張がつよくあったのである。

これに対しては、「やさしくしますから学んでください、というような卑屈な態度でどうするか。南方の人たちが学ぶかどうかを左右するのは日本語の難易ではない。日本の国力だ」という反対論もあった。無論このほうが正しい。英語は非常に不規則なむずかしいことばだが、それをちっとも簡易化しないでも、むかしから世界中の人が学んでいる。かつてのイギリス、その後のアメリカの、軍事力、経済力、政治力、つまり国力がつよいからである。いくら「むすこのsonもお日さまのsunもおなじ発音だのに、片方はson、片方はsunと書かねばならぬというのはたしかにむずかしすぎますね。sunに統一しますから習ってくださいね」などと低姿勢で簡易化につとめたって、英米が弱い国だったらだれも英語を学ぼうとはしないにきまっている。知れきったことだが、まあそういうわけで、戦争中は国語論議がさかんだったのである。季節はずれの悠暢な談義、というわけでもなかったのだ。
〔引用者註〕昭和17年6月、国語審議会は文部大臣に対し「標準漢字表」を答申した。常用漢字1134字、準常用漢字1320字、特別漢字74字の計2528字であつた。
《それぞれの漢字の選択基準は、常用漢字は「国民ノ日常生活ニ関係ガ深ク、一般ニ使用ノ程度ノ高イモノ」、準常用漢字は「常用漢字ヨリモ国民ノ日常生活ニ関係ガ薄ク、マタ一般ニ使用ノ程度モ低イモノ」、特別漢字は「皇室典範、帝国憲法、歴代天皇ノ御追号、国定教科書ニ奉掲ノ詔勅、陸海軍軍人ニ賜ハリタル勅諭、米国及英国ニ対スル宣戦ノ詔書ノ文字デ、常用漢字、準常用漢字以外ノモノ」であった。》
《たとえば、頭山満とうやまみつるなど十二名の連署による文部大臣あての標準漢字表反対の建白書では、「国語の問題は鞏固なる国体観念に照らして講究」すべきであるとしたうえで、反対の理由を「国語審議会決定答申案にいふ特別漢字七十ママ字を以てかしこあたりの御事をも限定し奉」ることになる点、「国民ノ日常生活ニ関係ガ薄」い準常用漢字のなかに「国民が日常奉体すべき教育勅語を始め皇室典範、帝国憲法、歴代天皇御追号、勅諭、詔書の文字多数を含む」点、「漢字の否定、仮名遣の変革」をくわだてる団体である国語協会に国語審議会が「私党化」されている点などをあげている。そして「エスペランチスト、ローマ字論者、カナモジ論者の過去及び現在の思想言動を調査し国語運動に名をりて行はれたる非国家思想の有無、思想謀略の存否如何を明確にせんことを要す」というように思想問題にまで発展させてこの答申の廃棄を求めている(平井昌夫『国語国字問題の歴史」、一九四八年)。》(安田敏朗『国語審議会 迷走の60年』、講談社現代新書、平成19年)
安田氏は「思想問題にまで」と仰るが、前にも見たやうに大正時代から既に良からぬ目論見を以て国語改革運動をする者が現に居たのだし、終戦後にGHQの強い要請によつて行はれた改革は正に共産革命の臭ひがプンプンするほど、我が国の国語問題は既に思想問題となつてゐたのである。頭山翁の建白書の中で特に光るのは「国語審議会の私党化」を指摘した点と「非国家思想の有無、思想謀略の存否如何」の調査を求めた点である。気づいてゐる人は居たのである。
昭和17年と言へば大東亜戦争の真最中である。国家の存亡を賭した戦争なのであるが、先に見たやうに明治期の国語改革案といふものも、日清日露の戦争と相前後して出されたのである。昭和の改革論者達が今次の戦争を改革断行のチャンスと看做さない方が寧ろをかしいのである。「むずかしすぎてあちらの人たちに学んでもらえない」といふのは取つて附けたウソである。
《ちよつと余談ですが、澤柳大五郎さん、あの成城大学の設立などに功績のあつたギリシア美術史の大家ですが、この人が昭和三十八年、國語問題協議會といふ私も関係してゐる団体主催の講演会で面白いことを言つてをられる。日本語を学ぶ多くの外国人から、新かなはおぼえにくい、歴史的仮名遣の方がはるかによくわかるといふ話を聞くといふのです。》(荻野貞樹『旧かなづかひで書く日本語』、幻冬舎新書、平成19年)
例へば、歴史的仮名遣だと「言ふ」の活用語尾は「い い い い い」のハ行で綺麗に揃ふ。対して現代仮名遣だと「い い い い い い」とワ行が混ざつてきて寧ろ学習者を混乱させる、と荻野氏は解説してゐる。よく考へてみれば、戦前は国内に日本語を母語としない国民が沢山ゐたのである。台湾人と朝鮮人である。彼等が「歴史的仮名遣は難しいので変へてくれないか」と言つたことがあつたのだらうか? 当時の台湾や朝鮮の小学生の書いた作文を読んだことがあるが、実に立派に文章を書いてゐる。「占領地の人々の為に」の主張が如何にマヤカシであるか、ただの屁理屈に過ぎないのかが判るであらう。
あの戦争は、日本国が生きるか死ぬか、それが本質であるのに、改革論者達にとつてはどう理窟をつけてこの「非常時」を活用するかが問題だつたのである。しばらく前のことになるが、東南アジアから看護師の実習生を受け入れ、何年か実地訓練をしながら勉強させ、最終的に我が国の国家試験を受けさせて正式な看護師として採用しようといふ政策が実施された。その時、メディア等では「漢字の多い日本語がネックとなつて合格率が極めて低い、何とかしなければならない」と騒いでゐた。これなんかも人手不足といふ「非常時」にかこつけた国語改良論だつたのではないか。いま問題になつてゐる外国人の高度人材等も日本語の能力が要求されるので、また再び「非常時」を口実にした国語改良論が提起されるかも知れない。「非常時」活用手法はまだ健在なのである。
そういうわけでこの松坂忠則の本にも、「それがどの程度に學ばれるか、百萬千萬の人間の手に行きわたるかは、日本語がいかなる文字づかいであるかによって決せられる。いま日本は、アジヤの先達たる使命をはたすうえからもまた、日本語の海外進出をヒツヨウとしている」「日本のカナが、あたかも西洋におけるローマ字のように、アジヤの國際文字として用いられる時代が、もうすでに、やって來ているのである」というようなくだりが散見する。
〔引用者註〕この男も「非常時」に便乗してゐたのである。抑も私怨から漢字を無くさうと企むやうな人が、こんな雄大な理想を本心に持つてゐる訳がないのである。「活動家」も、自己の目的達成に役立つものなら何でも利用して恥ぢないのである。
この『國字問題の本質』のおしまいに「政府當局に望む」と題する部分がある。政府に対する十項の要求をならべ、それぞれに説明をつけたものである。これと、昭和二十一年十一月の内閣訓令告示、およびその後の経過を見あわせると、昭和十七年当時においては夢想にちかいものであった松坂忠則の要求が、敗戦ののちにはほとんど実現していることにおどろく。敗戦が日本人にあたえたショックがいかに大きかったか、また敗戦直後からの審議の過程で松坂の影響力がいかにつよかったかを示すものである。
〔引用者註〕もう繰り返すのは嫌だが、やはり繰り返さざるを得ない。「新しい日本をつくる為には国語を変へなければならない」などといふ、宛も敗戦責任を国語に転嫁するが如き愚かな考へを抱いたのは、エリートであつて庶民ではないのである。戦争に負けた理由を庶民から一言で言はせてもらふと、さういふバカが国家を指導してゐたから、に尽きるのである。
各条項の要求のところだけを左に列挙する。それにわたしのかんたんな説明をつけくわえる。
〈第一 政府は、國民常用の文字として漢字を用いない時代を、なるべく早く實現するとゆう目あてを明らかにしめすこと。そして、今後この目あてに向って一切のことがらを、おし進めてゆく……とゆう、大きなハタ印をかかげること。〉
松坂の主張で、戦後実現しなかったこともすこしはある。右の「ゆう」がその一つである。あとはたいてい実現したから、松坂の文章は現在の表記に非常にちかい。
〈第二 この目あてを、文化の受けつぎをさまたげることなしに實現するさし當りの方法として、「國定文字」を定めること。この中には、漢字を一千字以上二千字どまり入れる。さらにこれを、第一級と第二級に分ける。第一級は五百字、それ以外を第二級とすること。〉
この「国定文字」が戦後の「当用漢字」千八百五十字である。第一級は「教育漢字」にあたる。実際には八百八十一字になった。五百字というのはカナモジカイがえらんだ漢字の数で、これに「旗」がふくまれないから「ハタ印」と書いているのである。なお一般には「文化の継承」と言うところを、和語の連用形(その名詞的用法)によって「文化の受けつぎ」とするのはわたしも賛成。ただし漢字を使わず「文化のうけつぎ」としたいけれど。
〔引用者註〕「継承」といふ最も人口に膾炙した良い熟語があるのに、何故わざわざ大和言葉に言ひ換へなければならないのか、全く以て理解し難いのである。もし「うけつぎ」に換へたとして、「継承」や「伝承」等の語感の違ひを今度はどう表現し分けるのか。言葉を簡単にして社会の発展を促進すると言ひながら、却つて言葉を貧しくして必要以上の口数を費さなければ伝へたいことも伝はらないやうにしてゐるのである。答へは簡単、文脈に合はせて漢語と大和言葉を使ひ分ければ良いだけの話であり、実社会では現にさういふ風に行はれて何の支障もないのである。現実を無視した原理主義や設計主義は結局のところ、社会の自然な発展を阻害するものなのである。
〈第三 國民學校では、八年間に、この國定文字の中の第一級文字を書取りさせ、第二級は讀めるだけに敎えること。〉
国民学校は、初等科六年、高等科二年。義務教育は初等科のみだが、中等学校にすすまないものはほぼ全員が高等科にすすんだので、事実上八年義務教育にちかくなっていた。
〈第四 全國の地名を國定文字のみに改めること。この際、たとい國定文字でも、特別な讀み方のものは改めること。(神戶、大分など)〉
これは実行されなかったが、市町村合併や新住居表示などで新しい地名をつくる際に規制力としてはたらいた。
〈第五 國民の名の字を、國定文字でなければ受けつけないこととする。〉
これはこのとおり実行された。ただし非常に評判がわるかったので、のちに「人名用漢字」が追加された。当用漢字は千八百五十字あると言っても、そのなかで名に使える字は知れたものだから、これは当然であった。死、殺、犯、罪などはもちろん、入、口、下、切などのやさしい字でも、子どもの名前に使う人はめったになかろう。
〈第六 ホウリツを國定文字に書き改めること。〉
これは現在も法改定のつどおこなわれている。
〈第七 學術用語を、各學界に改めさせる。〉
これは各学界で自主的におこなわれているようである。函数を関数に、両棲類を両生類になど。
〈第八 政府は、國定文字だけで自由に文章の書ける字引を發行する。〉
これは国語審議会の「同音の漢字による書き換え」で一部実現した。
〈第九 インサツ物を取りしまること。國定文字の以外は使わせない。〉
新聞が自主的に実行した。教科書や官庁の文書はもちろんである。災害の際の「り災証明」など。
〈第十 カンバンを、このインサツ物と同じに取りしまること。〉
これは無理である。文部省の役人が日本中の看板を見て歩いて、一字でも当用漢字外の字がふくまれていたら「とりはずせ」と命令するわけにはゆかない。
〔引用者註〕同じく文字改革を行なつた中華人民共和国では、国定の簡体字以外の文字を商店の看板等に使用したら罰則があるのである。抑も文字等の国民文化を権力が「ああせい、かうせい」指図するといふ発想は、レーニンやスターリン、毛沢東や金日成と同じく独裁者の論理であり、自由主義に反するものなのである。
以上、第二から第十までの要求の大部分を、松坂忠則は戦後、政府をつうじて実現した。しからばこれら第二から第九までの個々の要求は何なのかと言えば、第一の、漢字を用いない時代を実現する、という大目的のための布石であり、道程なのである。

十項の要求を列挙したあと、松坂はこう書いている。
〈以上はすべて、すぐなすべきことである。これからユックリ案を作るなどと言ってもらいたくない。(…)どうせカリの物である。何も何百年さきまで使うとゆうのではない。バラックで十分である。早いことが大事だ。それに、どうせ、どのように決めたところで、どの文字をどれだけのネウチと見立てるかとゆうことは、結局は主觀の問題である。しいてハッキリ言えばどの漢字も常用文字としては、三文のネウチもない。この點をしっかりのみこんで手をつけるべきである。〉
当用漢字の選定作業を松坂が嘲笑していたというのがよくわかる。どうせカリ物であり、バラックなのである。

「結局は主觀の問題」というのは松坂の言うとおりである。当用漢字千八百五十字を決めた際、難航したというのは、どの字を必要と思うか不必要と思うかは主観の問題だからである。「犬」はよく使うから入れる、「猫」はあまり使わないからはずす、今後は「ネコ」と書く、「馬」はよく使うから入れる、「猿」はあまり使わないからはずす、今後は「サル」と書く……というふうにしてきめて行ったのだが、犬と猫の差、馬と猿の差をどれだけのものと見るかは個々の人の主観なのである。どの漢字にせよ「三文のネウチもない」というのも松坂の主観である。
〔引用者註〕終戦後の文字改革を主導した中心人物が一体どんな人物だつたのか、心ある人士はよく知つておく必要があるのである。抑もの始まりは、幕末~明治時代に、厳しい国際社会の生存競争を生き抜く為に、即ち西洋列強に植民地にされない為に、如何に日本国を強くするか思ひ悩む中から生まれてきた文字改革の発想だつた訳である。しかし現実は、西洋文化を採り入れる際に日本人は漢字といふ利器を最大限に活用しながら近代化を実現して来たのである。その時点で、漢字を減らさう漢字を無くさう等といふ考へは無意味であつたことが証明されてゐたのである。然るに現実は、現実に即して方針を変更できないエリートによつて漢字廃止運動は続行された為に、その後いつの間にやら過激な「活動家」に乗つ盗られ、これに新聞社も単に己れの業務上の都合から加担し、終戦に際してGHQに紛れ込んだ革命勢力によつて、混乱に乗じて全く無意味どころか有害な「漢字の改悪」と「仮名遣の改悪」といふ『国語の敗戦革命』が断行されてしまつたのである。

(高島俊男『漢字と日本人』、文春新書、平成13年)

2019年1月13日日曜日

国語改革四十年――2 国語改革とは何だったのか②当用漢字

当用漢字


一年後の昭和二十一年十一月五日に「当用漢字表」千八百五十字を答申、同月十六日に内閣訓令および告示公布――内閣訓令第七号「当用漢字表の実施に関する件」、内閣告示第三十二号「当用漢字表」。いずれも内閣総理大臣吉田茂の名で出されている。訓令には「従来、わが国で用いられる漢字は、その数がはなはだ多く、その用いかたも複雑であるために、教育上また社会生活上、多くの不便があった。これを制限することは、国民の生活能率をあげ、文化水準を高める上に、資するところが少くない」と趣旨をのべてある。「制限」の語を用いていることに注意。同日これとあわせて、内閣訓令第八号「「現代かなづかい」の実施に関する件」および内閣告示第三十三号「現代かなづかい」も公布された。

従来ならば、答申が公表され社会一般の討議に付される(その結果として実施にいたらずつぶされる)のが例であったのだが、このたびは答申から内閣告示公布までわずか十一日、電光石火の早業であった。官庁の文書と学校教育はこれによらねばならぬこととなった。新聞はただちにこれにしたがった。政府機関と学校と新聞、この三つを制圧して、明治初め以来の大問題はあっけなく勝負がついてしまった。

この時の国語審議会委員は七十人いた。なかで主導的な役割をはたした人物が二人いる。一人は明治の国語調査委員会以来の最古参保科孝一である(明治五年うまれだからこの年七十五歳)。もう一人がカナモジカイ理事長松坂忠則(マツサカ・タダノリ)であった。明治三十五年秋田県のうまれ。高等小学校中退で少年のころよめない漢字が多く、漢字に対してふかいうらみをいだき、漢字撲滅のためカナモジ運動に投じた。声が大きく、押しがつよく、国語審議会でこの人が強く主張すると、たいていのことはそのとおりにきまった。
〔引用者註〕「活動家」によくあるタイプの、単なる私怨がその動機だつたのである。
使用を許容する漢字の数は千八百五十字ときまった。どの字をこのわくに入れるかがなかなかの問題であった(一、二、人、手、山、川など最常用の字はだれがえらんでもはいるにきまっているが、最後の百字くらいがいつでも問題になる)。漢字の制限というのは、英語で言えば、使用してよい単語の数を三千か四千程度政府が法令でさだめ、それ以外の単語は使用を禁ずる、というようなものである。日本では文字がことばなのであるから、文字が使えなければことばが使えないのである

委員の一人であった山本有三が、いったんはずされかかっていた「魅」の字を復活させたというエピソードはよく知られる。「み力」では意味がわからないから、「魅」の字がなくなれば事実上「魅力」ということばがなくなるわけである。それを山本は、「魅力ということばがなくなったら日本語の魅力がなくなるからね」というような半分冗談みたいな言いかたでうまく制限わくに入れもどしたらしい(その分ほかの字が何か一つ追い出されたわけだが)。
〔引用者註〕かういふ全体から見たらどうでもいい事に、やたら熱心になり、その成果を殊更にひけらかすのもエリートの特徴なのである。
この作業を、松坂忠則はいつも嘲笑していた。どの字を入れようと、近い将来さらにそれをへらし、いずれは全廃にもってゆくのである。どの字がはいろうとはみ出そうと大差はない、早くやれ、と松坂は言った。ただ、千八百五十字より一字でも二字でもふやしたいと言う者があると、彼は「愚かもの」とどなりつけ、絶対に許さなかった。「わたしはほえたてた」と彼は書いている。
〔引用者註〕自分と違ふ意見を絶対に認めない独裁者タイプの人だつた訳である。

(高島俊男『漢字と日本人』、文春新書、平成13年)

2019年1月12日土曜日

国語改革四十年――2 国語改革とは何だったのか①

2 国語改革とは何だったのか


昭和二十年の敗戦は、文部省と国語審議会とに、文字通り千載一遇の機会を提供した。

敗戦後の日本の一般的精神情況は、明治初年のそれにはなはだよく似ていた。あるいは、もっと徹底的であった。明治初年の日本人は、これまでの日本は無価値である、と考えたのだが、昭和の敗戦後の日本人は、これまでの日本はいっさいが邪悪でありまちがっていた、と思った。
〔引用者註〕何度も繰り返すが、著者の言ふ「日本人」「日本」とは当時の「エリート」のことであり、庶民とは何の関係もないのである。
ふたたび「新日本」ということばがしきりにとなえられた。「日本はすっかり白紙から出なおすのだ」という論調が全国をおおった。
〔引用者註〕「論調が全国をおおった」のではなくて、マスコミが一斉にさういふ論調を書き散らかしたので、一見さう見えるといふに過ぎないのである。
戦争にやぶれたのは、軍事力、経済力の敗北であったのみでなく、文化の敗北なのだ、と識者たちは言った。さらにせんじつめれば言語と文字がおとっていたというのである。

敗戦の三か月後、昭和二十年十一月十二日の読売新聞(当時の紙名は「讀賣報知」)社説が「漢字を廢止せよ」と題して左のごとく論じたのは当時の気分を代表するものである。
漢字を廢止するとき、われわれの腦中に存する封建意識の掃蕩が促進され、あのてきぱきしたアメリカ式能率にはじめて追隨しうるのである。文化國家の建設も民主政治の確立も漢字の廢止と簡單な音標文字(ローマ字)の採用に基く國民知的水準の昂揚によつて促進されねばならぬ。
当時の読売新聞が極端な進歩主義の立場をとっていたことは『読売新聞百年史』に「左傾紙面」と題してくわしく記述してある。いま読売新聞の題号が横書きであるのはその時のなごりである。「横書き題字は独創的だったが、これは、当時、日本語のローマ字化論まででていたころで、多分にこうした風潮に影響されたものだった。題号にとどまらず本文まで横組みにしてみよう、との案もあったが、これは実現しなかった。横書き題字は、GHQも推奨し、いわば日本語改革の一端を示す意味があった」とある。
〔引用者註〕「多分にこうした風潮に影響されたものだった」。言ひ訳と責任転嫁、そしてマッチポンプは新聞社の得意技なのである。では同時期にあの有名な工作機関はどう書いてゐたのだらうか?
《……我々は、あくまで良き国語の設定とその普及とを切望する。……日常用語における漢字漢語の制限、仮名交り口語文の馴致その他、技術的、専門的には研究を重ねた上で選定せられるべきことも要請せられるであらう。口に称へて滑らかに、耳に聞いて快く、その上、読み書きするに不便不自由のないやうな新時代にふさはしい新国語の普及がこの際、特に望ましい。偏狭固陋な国語万能論の正反対な動機からこのことを提唱したいのである。》(朝日新聞、昭和20年10月4日社説「良き国語の普及を計れ」)(安田敏朗『国語審議会 迷走の60年』、講談社現代新書、平成19年)
日附を見れば朝日の方が先なのである。讀賣のと較べると一見抑制的で良識がありさうに見えるのである。讀賣の社説が出された後の11月16日の「天声人語」では
《気の早い人々の中には平和日本、世界的日本の建設のため一足飛びに、ローマ字の普及を計るべしと主張するものもないとは限るまい▼然しせいては事を仕損じるのであつて》(安田敏朗『国語審議会 迷走の60年』、講談社現代新書、平成19年)
などと逆に讀賣を戒めてゐたさうだ。さすが経験豊富な工作員なのである。「急激な変革は却て強い反撥を惹起するから、気づかれないやうに徐々にやるべきだ」(サラミスライス論)といふ訳である。
昭和二十一年四月、志賀直哉が『改造』に「國語問題」を発表してフランス語を国語にしてはどうかと提唱したことはよく知られる。志賀は、日本の国語ほど不完全で不便なものはない、これを解決せねば日本はほんとうの文化国にはなれない、とのべてこう書いている。
私は六十年前、森有禮が英語を國語に採用しようとした事を此戰爭中、度々想起した。若しそれが實現してゐたら、どうであつたらうと考へた。日本の文化が今よりも遙かに進んでゐたであらう事は想像出來る。そして、恐らく今度のやうな戰爭は起つてゐなかつたらうと思つた。吾々の學業も、もつと樂に進んでゐたらうし、學校生活も樂しいものに憶ひ返す事が出來たらうと、そんな事まで思つた。
そこで私は此際、日本は思ひ切つて世界中で一番いい言語、一番美しい言語をとつて、その儘、國語に採用してはどうかと考へてゐる。それにはフランス語が最もいいのではないかと思ふ。六十年前に森有禮が考へた事を今こそ實現してはどんなものであらう。不徹底な改革よりもこれは間違ひのない事である。森有禮の時代には實現は困難であつたらうが、今ならば、實現出來ない事ではない。
意見としてはばかばかしい、あるいはたわいないものだが、これも当時の日本の一般的な気分を知るにはよい材料である。
〔引用者註〕何度でも繰り返すが、「当時の日本の一般的な気分」ではなくて、気の動顚した一小説家の妄言に過ぎないのである。
昭和二十一年三月にアメリカから教育使節団が来て日本政府に、漢字を廃止してローマ字を採用せよ、と勧告した。もっとも使節団は最初からそういう勧告をたずさえて来日したのではなく、彼らに接触した文部省の国語官僚や新聞の代表が使節団にうったえてそういう勧告を出してもらったのであるらしい。
〔引用者註〕《GHQは、日本の教育に関する問題について日本の教育者に助言および協議するためにアメリカの教育者グループを派遣するよう、米国陸軍省に要請した。この要請にしたがってアメリカ教育使節団二十七名が一九四六年三月いっぱい日本に派遣され、『アメリカ教育使節団報告書』を同年に刊行した。/この報告書にしたがい、日本政府内に教育刷新委員会が設置され、文部省およびGHQとともに、報告書の勧告の方向のうえに、戦後教育改革がおこなわれた。そのなかで教育基本法(一九四七年)や六三制、教育委員会制度などが実施されていく。》(安田敏朗『国語審議会 迷走の60年』、講談社現代新書、平成19年)
《ここで気にかかるのは、教育使節団の団員がどれほど日本語が出来たか、われわれの言語生活についてどの程度知つてゐたのかといふことだが、齋藤襄治の談話によれば、二十七名の団員中、日本語を解したのは国務省東洋課長ゴードン・T・ボウルズ(文化人類学者)ただ一人であつた。どうやら彼らは、占領軍情報教育局のロバート・キング・ホール大尉(のちに中佐)なるローマ字論者の意見を鵜呑みにして報告書を作成したものらしい。》(丸谷才一編著『国語改革を批判する』、丸谷才一「言葉と文字と精神と」、中公文庫、平成11年)
このホール大尉は終戦前、カリフォルニア州モントレイにあつた軍政要員準備機関において日本占領企画本部の教育部長であつたといふ。昭和20年6月23日附で「公式表記文字をカタカナに改定」と題する秘密覚書を執筆し、占領後に日本の国語から漢字を無くし全てカタカナ書きに改めるべきだと主張してゐた。その覚書の中で
《ローマ字化の利点は明瞭であるが、実用的ではない。その理由は、日本で一般的に読まれていないからである。それ故、性急なローマ字化は日本を事実上、無能国家にしてしまう。それは軍事占領政府にとり、敵性宣伝に曝されるよりも一層危険である。文書による意思疎通ができない近代国家は混乱に陥る。》(西鋭夫『國敗れてマッカーサー』、中央公論社、平成10年)
と、わざわざローマ字化の危険性まで訴へてゐた。それがどういふ訳か、昭和20年11月20日には既に、文部省教科書局の面々をCIE(民間情報教育局)に呼びつけて、教科書をローマ字にしろと高圧的に命令してゐたことが、『昭和戦後史 教育のあゆみ』(讀賣新聞社刊)に載つてゐるといふ。因みにこのCIEは、かの悪名高きWGIP(War Guilt Infomation Prgam=日本国民に戦争贖罪意識を植ゑつける計画)を主に担当した機関でもある。
《(ホール少佐は)、いやがる日本人にローマ字を強制することが親切になると信じている単純な男で、反対側にとっては迷惑千万だが、ローマ字論者にとっては頼もしい男ということになったらしい。》
《結局、教科書のローマ字化ということは、ホール少佐の個人的意見にすぎなかったようである。彼はハーバード大学、コロンビア大学などで教育学やアジア問題を学び、自分なりの意見を持っていたので、ローマ字化についても自信をもって主張したのだが、周囲の同意を得るに至らず、まもなく教科書の担当からはずされて、他の部署へ移された。》(丸谷才一編著『国語改革を批判する』、杉森久英「国語改革の歴史(戦後)」、中公文庫、平成11年)
しかし彼は、終戦前は性急なローマ字化は良くないと言つてゐたのである。GHQでの彼の上司達は「国語のローマ字化など考へてもゐない」と否定してゐたことを、当時の日本側関係者が証言してゐるが本当にさうなのだらうか。「ローマ字ではなくカタカナにすべき」と言つてゐた男が、日本にやつて来て間もなくローマ字強行論者に転身してゐるのである。軍隊は命令服従が絶対である。上司の意向と違ふことをホール大尉が独断で行なつてゐたとは到底考へにくいのである。或いは彼の覚書にある《性急なローマ字化は日本を事実上、無能国家にしてしまう》の部分がGHQの気に入る所となつたのかも知れない。何れにしても当時のGHQ担当者の中で、彼一人だけ熱心にローマ字化を推進したことを示す数々の証拠や証言が残されてゐるのは如何にも不自然なことなのである。しかし真相がどうだつたにせよ、この男の影響は教育使節団の『報告書』の随所に見られるのである。
《日本の子供達に對して我々が責任を感じさへしなければ、これに觸れずにゐた方が愼み深くもあり、氣樂でもあつていゝと思ふ問題に、こゝに當面するのである。言語は國民生活に極めて密接な關係をもつた一つの有機體であるから、外部からそれに近よることは危險なのである。……何事にも中間の行き方があるが、この場合それは立派な中庸の道になるであらう。國語の改良はどんな方面から刺戟を受けて着手してもいゝが、その完成は國內でするより外にないことを、我々は知つてゐる。我々が與へる義務があると感ずるのは、この好意の刺戟であつて、それと共に、未來のあらゆる世代の人々が感謝するにちがひないと思はれるこの改良に、直ちに着手するやう現代の人々に大いに勸める次第である。深い義務の觀念から、そしてだゞそれだけの理由で、我々は日本の國字の徹底的改良を勸めるのである。『聯合國軍最高司令部に提出されたる米國敎育使節團報吿書』、東京都教育局、昭和21年)
要するに「外国人が他国の国語に介入するのは危険なことであり、本来これを慎むべきであるものの、その国語改良の早急な実行の為、我々にはそれに敢て勧告をする義務がある、それは必ずや将来の世代から感謝されるに違ひない」と言つてゐるのである。まるで宣教師のやうな口ぶりである。読んでゐるこちらが恥づかしいのである。
《國語改良問題は明かに根本的な、急を要するものである。それは小學校から大學に至るまで、敎育計畫のほとんどあらゆる部門に、その影を投げかける。この問題を滿足に解決できなければ、意見の一致を見た多くの敎育目的の達成は、極めて困難になるであらう。例へば、他の諸國民の理解の促進や、自國における民主主義の助成がさまたげられるであらう。》『聯合國軍最高司令部に提出されたる米國敎育使節團報吿書』、東京都教育局、昭和21年)
「国語を改良しなければ今後の教育行政は立ち行かなくなるぞ、民主主義の発展も阻害されるぞ、さうなつたら困るのは誰だ」と結局は恫喝してゐるのである。
《日本の國字は學習の恐るべき障害になつてゐる。廣く日本語を書くに用ひる漢字の暗記が、生徒に加重の負擔をかけてゐることは、ほとんどすべての有識者の意見の一致するところである。……漢字の讀み書きに過大の時間をかけて達成された成績には失望する。小學校を卒業しても、生徒は民主的公民としての資格に不可缺の語學能力を持つてゐないかも知れない。彼等は日刊新聞や雜誌のやうなありふれたものさへなかなか讀めないのである。槪して、彼等は現代の問題や思想を取扱つた書物の意味をつかむことができない。殊に、彼等は卒業後讀書を以て知能啓發の樂な手段となし得る程度の修得さへでき兼ねるのを常とする。》『聯合國軍最高司令部に提出されたる米國敎育使節團報吿書』、東京都教育局、昭和21年)
デタラメもいいとこであるが、これもホール大尉の影響と思はれるのである。
《進駐軍のある士官が、日曜日にジープを駆って、いなかに出かけて行った。そして、畑で働いている農民に新聞を出して読ませてみた。第一面はほとんど読めない。社説はなおさらである。社会面はどうやらわかる者と、それさえ読めない者もあった。この事実をまのあたりに見たその士官は、日本では国民をめくらにしておくつもりかと言ったという。(山本有三『もじと国民』、昭和21年)

この将校はおそらくホール大尉だらうが、日本人全体の国語力のテストとして果して適当なものかどうか、かなり疑問がある。アメリカ軍の将校に畑でとつぜん新聞をつきつけられては、占領下の庶民はきつとドギマギしたらうし、あのころの新聞は漢字を使ひすぎてゐたし(しかし、だからと言つて漢字そのものがいけないことにはならない)、社説といふのはどこの国でもむづかしいものだし(アメリカだつてこれは同じはず)、それに、テストされる者が片よつてゐて、数もあまり多くなささうである。》
(丸谷才一編著『国語改革を批判する』、丸谷才一「言葉と文字と精神と」、中公文庫、平成11年)
こんなずさんな調査や偏見に基いて『報告書』は起草され、次のやうな勧告を出したのである。
《必然的に幾多の困難が伴ふことを認めながら、多くの日本人側のためらひ勝ちな自然の感情に氣付きながら、また提案する變革の重大性を十分承知しながら、しかもなほ我々は敢て以下のことを提案する。
一、ある形のローマ字を是非とも一般に採用すること。
二、選ぶべき特殊の形のローマ字は、日本の學者、敎育權威者、及び政治家より成る委員會がこれを決定すること。
三、その委員會は過渡期中、國語改良計畫案を調整する責任を持つこと。
四、その委員會は新聞、定期刊行物、書籍その他の文書を通じて、學校や社會生活や國民生活にローマ字を採り入れる計畫と案を立てること。
五、その委員會はまた、一層民主主義的な形の口語を完成する方途を講ずること。
六、國字が兒童の學習時間を缺乏させる不斷の原因であることを考へて、委員會を速かに組織すべきこと。餘り遲くならぬ中に、完全な報吿と廣範圍の計畫が發表されることを望む。》『聯合國軍最高司令部に提出されたる米國敎育使節團報吿書』、東京都教育局、昭和21年)
有無を言はさぬ命令なのである。しかもその重大なる「変革」は全て日本側の責任においてやれと言ふのである。憲法典を押しつけたのと同じやり口なのである。抑もGHQが日本政府に無理矢理やらせた諸改革のことを想起してほしい。彼等は日本人から軍隊を奪ひ、宗教を奪ひ、憲法を奪つたのである。それら改革と称する略奪行為は、日本の弱体化が目的だつたことは周知の事実なのである。それと同時期に行はれた国語改革が日本人の学習力を向上する為のものなどと、どうして言へるだらうか。著者も引用者もたびたび触れてきた如く、日本の近代化、即ち日本の富国強兵に多大な貢献を為してきたのは漢字である。仮名書きにしろローマ字化にしろ、どちらにしても漢字が廃止されるのであるから、GHQの意図する所は自づと明らかであらう。
《今は國語改良のこの重要處置を講ずる好機である。恐らくこれ程好都合な機會は、今後幾世代の間またとないであらう。日本國民の眼は將來に向けられてゐる。日本人は國內生活においても、國際的關係においても、新しい方向に動きつゝある。そしてこの新しい方向は文書通信の簡單にして效果的な方法を必要とするであらう。また同時に、戰爭が多くの外國人を刺戟し、日本の國語と文化を硏究せしめてゐる。この感興を持續せしめ、育くまうとすれば、新しい書記法を見出さなくてはならぬ。國語は廣い公道たるべきもので、障壁であつてはならない。世界に永き平和をもたらさんとする各國の思慮ある男女は、國民的な孤立と排他の精神を支持する言語的支柱は、できる限り打ちこわす必要のあることを知つてゐる。ローマ字採用は、國境をこえて知識や觀念を傳達する上に偉大なる寄與をなすであらう。》
これが『報告書』の「国語改革」の章の締めくくりなのである。これを読んで戦慄を覚えない人があるだらうか。国内生活や国際関係における「新しい方向」とは何であらうか。「文書通信の簡單にして效果的な方法を必要とする」とはどういふ意味であらうか。
《階級的な敬語その他の封建的伝習の色濃い日本の国語が大いに民主化されねばならぬのはいふまでもない》(安田敏朗『国語審議会 迷走の60年』、講談社現代新書、平成19年)
先に紹介された讀賣報知の昭和20年11月12日附の社説「漢字を廃止せよ」には上のやうなくだりもあつたのである。安田敏朗氏によると、この社説は《社会の変化にともなって言語のありかたも変化するという論である。これは、言語は上部構造に属し、下部構造が変化すればそれにともなって上部構造も変化する、という議論とおなじである。ソ連の言語学者ニコライ・ヤコヴレヴィチ・マール(一八六四~一九三四)が中心となって「ヤフェート言語学」(セム・ハム・ヤペテのヤペテからくる)として唱えたこの議論は、日本では一九三〇年代からソビエト言語学として受容されたものであり、社会の発展段階論と国際共通語としてのエスペラントの達成という文脈で論じたプロレタリア・エスペラント論として一時期流行した》(安田敏朗『国語審議会 迷走の60年』、講談社現代新書、平成19年)
のださうだ。その我が国では昭和14年6月、国語ローマ字化を訴へたプロレタリア・エスペランティストや一部ローマ字論者が、治安維持法違反容疑で検挙されたのであつた(左翼ローマ字運動事件)。彼等の目指すところが共産主義社会であるので当然である。エスペラント理論では、社会は「封建社会→資本主義社会→共産主義社会」と進み、これに伴ひ言語も「民族語→民族語+国際補助語→世界語」と発展するといふ。従つて民族語と国際補助語(エスペラント)とが併用されるべき資本主義社会にあつては、ローマ字表記であるエスペラントに合せて民族語もローマ字表記でなければならない、といふのがその主張である。そして当然、前時代の「敬語」も消滅すべきだとするのである。『報告書』にある「新しい方向」と「文書通信の簡單にして效果的な方法」とが何を意味するのか、なにゆゑにローマ字化にここまで固執するのか、これで明らかであらう。しかも報告書は更に「國語は障壁であつてはならない」とも言ひ、「精神を支持する言語的支柱は、できる限り打ちこわす」とも言つてゐる。そして、その絶好の機会が訪れたと言つてゐるのである。GHQ内の赤い勢力は日本の国力を削ぐ為に国語を貧困化しようとしたのみならず、国語こそ日本人一人一人が自らの精神や国柄を護る為の楯であると看做して、きたるべき革命に向けてこれを徹底的に破壊しようとしてゐたのである。
《コミンテルンは、世界各国に共産党を設立するだけでなく、その別動隊を構築することで、大衆の組織化を図ったのだ。…(中略)…もう一つの別動隊が、エドキンテルン(Educational Workers International, 略称EducIntern:教育労働者インターナショナル)であり、こちらは、教職員を対象とした教職員労働組合の世界組織である。…(中略)…日本でも戦前、エドキンテルン日本支部がひそかに結成されており、その中核メンバーが戦後、GHQのニューディーラーと称する社会主義者と組んで設立したのが、日教組(日本教職員組合)である。》(江崎道朗『アメリカ側から見た東京裁判史観の虚妄』、祥伝社新書、平成28年)
教育使節団とは、日本の弱体化と赤化の一貫たる教育改革を権威づけ正当化する為のダシであつたのと同時に、その有力な協力者でもあつたのである。主要なメンバーはその目的を充分に理解した上でこれに協力したのである。その他のメンバーは単なるお飾りとして利用されただけだつたのである。
《私は、一九七八年(昭和五十三)年三月八日、アメリカ教育使節団の団長だったジョージ・ストッダード博士と、彼のニューヨークはマンハッタンの自宅で対談した。
 使節団の来日から、ちょうど三十二年後の三月八日だ。
 「誰が教育使節団の報告書を書いたのですか」
 「殆ど私が書いた。国語改革の部分を書いたのは私ではない」
 その三カ月前、一九七七年十一月二十一日、同使節団の団員であり、スタンフォード大学の教育心理学教授アーネスト・R・ヒルガードに同じ質問をした。
 「報告書の執筆者はジョージ・D・ストッダードと私、それに今、名前を思い出せないがもう一人の三人だった」
 「それでは、教育使節団の他の二十四人の団員は何をしていたのですか」
 「あちこち観光旅行に行ったり、夜の街に遊びに出かけていた。ストッダード氏の団長ぶりは独裁的ともいえた。誹謗の意味で独裁的といっているのではない。彼は、まず自分で物事を決定し、その後で、団員の同意を取り付けるという具合に処理していたからである」》
一九七八年(昭和五十三)、ストッダード元団長は、私と対談中に、「報告書」は自分が執筆したと言ったが、「国語改革の部分を書いたのは、自分ではなく、ジョージ・カウンツだった」と付け加えるのを忘れなかった。(西鋭夫『國敗れてマッカーサー』、中央公論社、平成10年)
アレクサンダー・J・ストッダードの当時の肩書はフィラデルフィア市教育長、ジョージ・S・カウンツはコロンビア大学教育学教授にしてアメリカ教職員連盟副会長であつた。何をか言はんやである。更に西鋭夫氏が同書で挙げてをられるもう一人の国語改革担当は、コロンビア大学比較教育学教授のアイザック・カンデルである。そして「大活躍」したホール大尉は、グゲンハイム奨学研究員として帰国後、昭和24年には「新しい日本のための教育」といふ日本語ローマ字化の利点を論つた書籍をエール大学出版会から刊行し、その後、カウンツとカンデルが教鞭を執つてゐたコロンビア大学教育学部に比較教育学の助教授として迎えられてゐるのである。
戦後の国語改革は、単に日本の改革論者が虎の威を借りて行なつたと言ふだけでは充分ではないのである。占領軍の側にも、積極的に日本人の国語を破壊しようと企んだ者がゐたのである。その最終的な目的は日本国民を丸裸の奴隷にすることだつた、と言つても言ひ過ぎではないだらうと思ふ。引用者はこれを「国語の敗戦革命」と呼びたいと思ふのである。
日本の主要な都市はすべて焼かれて、かつて文部省に反対した知識人たちの多くはそれぞれ地方にのがれて孤立していた。いまや文部省に反対するまとまった勢力はどこにもなかった。
〔引用者註〕謂はゆる火事場泥棒なのである。しかもそれは、上で見たやうに、日本人をその伝統から切り離して魂を奪ひ、言語を単純化して管理し易くすることが期待されてゐたのである。まるで奴隷の作り方のレシピを見るかのやうである。抑も戦争に負けたからといつて、どうして国語を変へなければならないのか、生れた時から「当用漢字」「新仮名遣」を当り前と思つてきた戦後世代は、もつと考へてみる必要があるのである。GHQが憲法典を押しつけた事実は、改憲論議が活撥化するのに伴つて段々と浸透してきてゐるが、国語改革の罪悪については未だ広く認知されてゐるとは言ひ難い。無理矢理に憲法典を改変させられたことと、無理矢理に国語を壊されたこと、一つの民族にとつて一体どちらがより深刻な問題なのだらうか。
以下、漢字にかかわることのみを略述する。

敗戦直後の昭和二十年十一月、文部大臣が国語審議会に対して「標準漢字表」の再検討に関し諮問し、漢字主査委員会が設置された。

昭和十七年に国語審議会が文部大臣に答申した「標準漢字表」というものがある「常用漢字」千百三十四字、「準常用漢字」千三百二十字、「特別漢字」七十四字、計二千五百二十八字よりなる(「特別漢字」というのは、「朕惟フニ」の朕、「天佑ヲ保有シ」の佑、綏靖天皇の綏、嵯峨天皇の嵯と峨など、天皇、皇室にかかわる字で「常用漢字」「準常用漢字」にはいってないもの)。この「常用漢字」をもとにして、公文書、教科書等で使用してよい漢字の範囲を定めようというのである。

いったい敗戦直後の大混乱の時期、何十万何百万の国民が家を焼かれて住むところなく、そこへまた戦地や外地から何十万何百万の人たちが引きあげてくる、食糧が決定的に不足して来年は百万をこえる餓死者が出るのではないかと言われている時に、なんでまた漢字を制限しようかなづかいを変えようというような、文化の根幹にかかわる、本来慎重の上にも慎重を期せねばならぬ問題を大あわてでとりあげねばならぬのか、と思うところだが、それが当時の風潮であった。上にも言ったように、とにかくいままでの日本は何もかも全部わるかった、まちがっていた、いっさいを変えて新しくして再出発だ、という気分がおおっていたから、ことばや文字だけでなく、学校制度などもただちに手がつけられたのであった。
〔引用者註〕シツコイやうだが繰り返す。「それが当時の風潮であった」「…という気分がおおっていた」といふのはウソである。日々の食糧に事缺いてゐる庶民に、「いままでの日本は何もかも全部わるかった、まちがっていた、いっさいを変えて新しくして再出発だ」などと感傷に浸つてゐる暇はないのである。
占領軍もそれを支持した。アメリカは、日本人の毅力、精神的な底力やねばりづよさをまったく見あやまっていた。実際には日本人は、敗戦の一週間後には、廃墟となった銀座でガリ版ずりの粗末な英会話テキストが飛ぶように売れていた(これから日本に大挙上陸してくる米軍兵士と仲良くしようというのである)という、いたって尻の軽い国民なのだが、戦争の時に日本の兵士たちが頑強に戦ったものだから、これをおそろしくしぶとい人種と誤認し、二度と欧米列強に対して刃向わぬよう、その経済力も知力も伝統の力も、極力削いでおとなしい無力な国にしてしまおうとした。つまり、第一次大戦でボロボロにまけて、その二十年後にははやくも欧州第一の強国として復活し、またまた周辺の諸国に戦争をしかけたドイツみたいなことになっては困る、と考えたわけだ。何もそんなに力を削がないでも、ドイツ人とちがって日本人は、臥薪嘗胆力をたくわえてもう一ぺんアメリカにしかえしの戦争をふっかけるような、そんな根性のある国民ではないのに――。
〔引用者註〕申し訳ないが繰り返す。さういふ尻軽の根性無しは、エリートたちのことなのである。また、あれだけ物理的に破壊された挙句に、占領期には日本国民の精神まで破壊しようと工作員たちが色々頑張つたといふのに、その後の我が国の復興と繁栄は文字通り驚異的なものであつた。やはり日本人は聯合国が当初恐れた通り「おそろしくしぶとい人種」だつたのである。
そういう日本全体の気分、占領軍の支持、それに、従来答申を出してはそのたびにつぶされるという屈辱をなめてきた文部省国語官僚と、保科、松坂ら国語審議会の急進実力者たちの執念、それらがあいまって、敗戦直後のドサクサのなかで「こんどこそ」という国語改革のうごきがはじまったわけだ。
〔引用者註〕やはり繰り返す。「そういう日本全体の気分」とは新聞紙面上の話であり、庶民とは何の関係もないのである。

(高島俊男『漢字と日本人』、文春新書、平成13年)