2019年1月23日水曜日

国語雑感①未来のことば

未来のことば


昭和のはじめころのことであったと思う。ある夕刊紙上に、「緑の札グリーン・カード」という、五十年後の社会をかいた未来小説が連載されたことがある。古いことで話の筋などは大かた忘れてしまったが、主人公は太平洋航空の会社を経営する女社長と、その子の若い科学者で、この若い科学者は人間の生命の神秘に挑戦している。女社長は企業の鬼であり、金権主義者であるが、太平洋上でその巨人機が雷撃を受けて墜落し、会社が破産して、はじめて人間性を回復する。また若い科学者は、恋人を実験台にして、電流による生命の与奪の可能性を試みて、恋人を仮死に陥らせてしまう。重厚な研究者であるその恩師が、恋人の命を救う。生命の神秘は、なお克服しがたい問題として残されている。――そのような話であったと思う。それからすでに、四十数年になる。いまでは、現実のどこかに、このような話がありそうな気がする時代となった。

このような古い話をもち出すのは、この小説が、五十年後のことばの生活を扱っていたことを、思い出したからである。この小説では、五十年後の人物の会話は、すべてカタカナでかかれていた。そのことばは、幼児語のようにたどたどしく、舌たらずで、ときには電報のように味気ないものであった。五十年ののちに、わが国では漢字は滅びているのであろう。ことばは極度に簡略化され、人間と同じように、ほとんど記号化しているであろう。おそらく作者は、そのような設定のもとに、その時代のことばの表現を試みたものと思われる。ことばが、甚だしい退化現象を起こすであろうというこの想定が、特に私の関心をさそった。そのころ、私は中国の古典に心を寄せはじめており、その研究に志していたときであった。漢字が滅びるとすると、これは私にとっても容易ならぬ問題であると思われたからである。

ことばを簡略化し、制限することは、人間の精神の営みを均質化し、支配を容易にする最も深刻な方法なのである。「緑の札」の作者が、あのように極度に貧困な退化語を用いたのは、おそらく資本主義的な体制の極限にある人間性の解体を、その言語的表現を通してするどく指摘していたのかも知れない。そしてその小説をよむ私のおそれも、ただ漢字が滅ぼされてゆくということだけでなく、それがやがて歴史の忘失に連なり、有機的な人間機能の解体に連なるものではないか、そういう運命の予感にも似たおそれであったのかも知れない。もっとも私は、当時まだ二十歳前後の年齢であったから、それがどんなにおそろしい問題提起を含むものであったかについては、深く考えてみることもなかった。ただふしぎに、未来のことばに対するおそれを、そのときひそかに抱いたであろうことはまちがいない。それでいまも、その小説のことを記憶しているのである。
〔引用者註〕人間性を解体するのは、資本主義とか統制主義とかの経済体制の別とは関係なくて、全体主義なのである。
幸いにして、その小説にかかれた五十年後の世界を数年後にひかえた現在、漢字はなお生きのびている。もっともその数は著しく制限され、使用法も限られ、そのうちの若干の同族者は、無慙に目や鼻をけずりとられ、いたましい姿となったが、それによって生きることを許されているのは、やはり幸いというべきであろう。しかし原状への復帰は、もはや困難となっている。歴史は、復帰を許さないのである。人は歴史の上で誤りをおかした場合、永劫の呵責を負うべきであるが、わが常用漢字表には、永劫と呵責という文字は、つとにけずられている。

国語政策が決定されたのは、生きることのほか考えようもないという戦後の混乱のただなかであった。そして新聞や雑誌が、まず無条件にこれを歓迎し、いまでは辞書はもとより、戦前の出版物さえ改版されている状態である。おそらく、どのようなわが国の法律でも、これほど完全に施行され、関係者の精神の世界をまで規制したという例を、私は知らない。その意味で、それはすばらしい成功であった。しかしその成功は、同時にさきに述べたような、私のおそれに連なる。歴史のなかで、昭和は孤立するのではないかというおそれである。

ともかく、表現の平易化は進んでいる。漢字の使用度は、年々著しい減少を示している。ある調査者の報告によると、この傾向がつづけば、「あと二二〇年後には、漢字は滅亡してしまうほどの勢である」(安本氏、本誌〔言語生活〕七月号)という。私のしているようなしごとは、いまでも困難の多いものであるが、今後いっそう困難になるのではないかと、心配である。漢字が通用しなくては、私のしごとはその基盤を失うからである。そのことをある友人に話したところ、科学者であるかれは、たちどころに明快な答えを与えてくれた。「君は、少なくとも百七十五年以後のことは、考えなくてよろしい。いまの地球汚染がこの勢いで進めば、そのころ酸素の絶対量が欠乏して、人類はみな死滅するはずである」。歴史はもはや永遠ではない。遠い過去をも、また未来を考えることもない。ましてやイデオロギーなどは、もはや問題ではないというのである。なるほど、古人を相手にすることは、いまでは愚かしいことのようである。そして未来も、少しもあてにならない。その立場に立つかぎり、現在を支配する内閣告示は絶対である。

しかし人類が百七十五年後に滅亡し、漢字が二百二十年後に消滅するとしても、それにしてもことばはやはり重大である。あの未来小説にあらわれたような貧困なノモス的言語を、最後の文化として現前せしめてはならない。ことばはやはり、過去と未来とをつなぐものでなければならない。ことばの上でも、歴史を回復しなければならない。現在の振幅が、過去の共鳴をよび起こす。そしてまた、未来を導き出すのである。現在の振幅をゆたかにすることは決してむつかしいことではない。ことば自身の自律性を信じてよいのである。それはまた、人間の自由な精神を回復し、未来のことばに対する責任を回復することになるのではないかと思う。

(白川静『文字逍遥』、平凡社ライブラリー、平成6年)

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