2019年1月10日木曜日

国語改革四十年――1 漢字をやめようという運動⑤上田萬年と国語政策

上田萬年と国語政策


国語改革論議が最もさかんであったのは、上述のごとく、明治の最初の二十年間であった。

では音標文字化は進んだかと言えば、すこしも進まなかった。それどころか、さきに言ったように、似たりよったりの音を持った数千数万の漢字語がつくられた。それらは、確実に西洋化しつつある日本人の生活の全局面において、それなしにはすまないものになった。それらの新語はどれをとってみても、漢字のうらづけなしには用をなさない。漢字の使用は江戸時代にくらべて飛躍的に増加した。

政治も産業も学術も教育も、何もかもが、漢字がなければ――正確に言えば漢字に訳された西洋語や西洋の概念がなければ――動かなかった。漢字の廃止は、江戸時代のうちならば、よほどの無理をすればあるいはできたかもしれぬが、もはや不可能であることはあきらかであった。しかしそのことが、当時の人たちには見えなかったらしい。日本は音標文字化をめざしていた。
〔引用者註〕近代教育で育つたエリートには、現実が見えない、現実に即して方針を臨機応変に改めることができない、といふ缺点があるのである。繰り返すが、さういふカチカチ頭は「当時の人たち」ではなくて「当時のエリートたち」なのであり、「今のエリートたち」も全くこれと同じなのである。庶民がいくら「そんなバカな事はするな」と言つても、「俺はエリートなんだ、俺が間違ふ筈はないのだ」と内心思つてゐるのかゐないのか、どつちみち聴く耳を持たないのである。
明治の国語政策(音標文字化)を指導したのが上田萬年である。慶応三年生れ、帝国大学和文学科卒、明治二十三年博言学研究のためドイツに留学、同二十七年帰朝、帝国大学博言学科教授。三十一年国語学研究室創設とともに教授。三十三年文部省国語調査委員。三十五年同国語調査委員会委員、同主事。昭和十二年歿、七十一歳。
名の萬年はカズトシとよむらしいが一般にマンネンと言う。こういう名乗系の名にしいてふりがなをつけるのはおろかしいことである。
こんにちの言語学のことを明治の二十年代には博言学と言った。明治三十三年言語学と改称。
上田萬年は、日本語をどうするか、という問題を研究するため、日本政府よりヨーロッパに派遣されたのである。これはかなりばかばかしいことであった。日本語をどうするかの答がヨーロッパにあるはずがない。

ヨーロッパの言語学は――と言っても言語学という学問はヨーロッパの学問なのだからつまり言語学という学問は――現に存在する、もしくはかつて存在した諸言語について、そのしくみやはたらきを、あるいはその類縁関係や系統、変遷の道筋を研究する学問である。特に当時は、印欧語族(インドヨーロッパ語族)という、東はインドから西はイギリスにいたる広大な範囲で話されているあまたの言語がみな共通の祖語から出発した一大家族であるらしいことがわかって、その系統関係の研究がさかんにおこなわれている時であった。

ところが上田萬年の任務は言語学の研究ではなくて国語政策である。国語政策というのは一つの国の政府がこれからの国語をどうするかという政治の問題であって、言語学の研究とはまったく別のことである。国語政策の指針を言語学にもとめたのは、「解剖學者や細菌學者を招いて病氣の診斷を乞うたやうなものであつた」と時枝誠記博士は皮肉っていらっしゃる。

ところが明治政府は、学問という以上はかならず政治に指針をあたえてくれるものと思って若き秀才上田萬年をヨーロッパへ送り出したわけだ。

帰ってきた上田萬年はこう言っている(明治二十八年五月大学通俗講話における講話)。
今日の私はどこまでも支那文字の樣な意字に反對であるのみか、日本の假名の樣な(ひとつ)の綴音を本とする「シラビック、システム」の文字にも大不贊成なのであります。それで敢て羅馬字とは申しませぬが、その羅馬字的の母音子音を充分に精しく書きわけることのできる「フォネチック、システム」の文字といふものを、最も珍重するものであります。
まあこれくらいのことなら、何も四年間もヨーロッパへ行かなくたって、二万人もいる日本のローマ字論者がはじめから言っている。
〔引用者註〕上田の存在意義は、その学識にあるのではなくて、公権力主導の国語改革の体制を整へたことにあるのである。
《言語学(当時は博言学といった)研究のためにドイツに留学した上田万年が学んできたのは、アルファベットという表音文字の上に築かれた言語学であった。上田は、文字が「言語を写す手段にすぎない」とする観念をそのまま日本へ導入し、表意文字である漢字は理に合わない。従って廃止しなければならないと考え、弟子を養成し、後に行政府に働きかけて多くの委員会を作り、日本の文字改革の基本方針を確立し、それを断行するために、政府の力を使うことを考え(民間の力で改革を進めようとせず)、実際に活動した。西欧言語学を後楯に、行政府に強く働きかけた上田万年の仕事は、その後の国字問題の方向に大きな影響を与え、以後、国語改革の主導権を政府がとるという道をつけた。》(丸谷才一編著『国語改革を批判する』、大野晋「国語改革の歴史(戦前)」、中公文庫、平成11年)
ちょっと説明をくわえるなら、「支那文字」というのは漢字のことである。戦前の学者には支那文字と言う人が多くあった。この呼びかたのほうがよい。漢字と呼んでもおなじことなのだが、どうも「漢字」と言うと、日本語をあらわす文字であるように思う人が多い。「支那文字」と言うと、支那でできた支那語のための文字であることがだれにもあきらかであり、性格のことなる日本語を書きあらわすには不適当かつ不便な文字であることがわかりやすい。
〔引用者註〕著者は、漢字は外来の文字であり、日本語を書き表すのに不向きであるので、成るべくこれを使はないやうにすべきとの立場である。しかし、国語に漢字が採り込まれた時点で、既に国字となつたのである。
《文字をもたなかったわが国では、国語を表記するのに漢字を用いた。漢字を国語の語義に合せてよむことを和訓といい、その訓を字訓という。「やま」「かは」「たかし」「きよし」などがその例である。字訓は漢字を国語としてよむ方法であるのみでなく、また国語を漢字で表記する方法であった。字訓が国語表記の方法として一般に認められ、定着するとき、その字を常訓の字という。常訓の字は、いわば国語化された漢字である。そして、このような訓義の定着によって、さらに字音の使用が可能となる。「山川さんせん」「山河さんが」のようにいい、また「高大こうだい」「淸明せいめい」という語が、字音のままで国語化され、語彙化される。漢字を国字として使用するのには、まずその訓義によって字義を理解すること、すなわち字訓の成立が不可欠の条件であった。》(白川静『字訓』、「字訓の編集について」、平凡社、平成19年)
要するに、音読みだけの熟語(=字音語)が国語の語彙として成立する為には、先づそれらの漢字と大和言葉との結びつき(=常訓)が確立されてゐなければならないといふ意味である。即ち、国語で字音語が用ゐられてゐるといふ事実そのものが、漢字が既に国字であることの何よりの証拠なのである。従つて敢てこれを「支那文字」などと呼んで国語から排斥しようとするのは、国語そのものを破壊する行為にほかならないのである。
「意字」は表語文字。

「綴音」。テイオンまたはテツオン。通俗講話(一般の人むけの学術講話)だから多分テツオンと言ったのだろう。スペリングのことだがここでは音標字の意でもちいている。

「シラビック、システム」。音節すなわち人の口から出る最小単位の音を一字に書く方式。日本語のばあいかながそうである。漢語のばあいは漢字がそうである。

「フォネチック、システム」。音節をさらにその音を構成している要素に分解して書きあらわす方式。日本語のばあいローマ字がそうである。漢語のばあいは注音字母および拼音ローマ字がそうである。

たとえば日本語の「カキクケコ」(「かきくけこ」と書いてももちろんおなじ。以下カタカナで書く)の五音は共通の子音を持っている。そのことはむかしの日本人にもわかっていたからカキクケコを一行にならべたのである。しかし文字の上ではその共通子音はすこしもあらわれていない。これを子音と母音に分解してka ki ku ke koと書くとkという共通子音を持つことが一目瞭然である。同様に日本語のアカサタナハマヤラワは共通の母音を持つがそれは文字の上にはあらわれていない。これをa ka sa ta na ha ma ya ra waと書けば共通母音を持つことがだれでもわかる。上田萬年はこの分解方式のほうがよいと言っているのである。

漢語のばあい漢字はすべて一音節一字で、日本語のかなとおなじく、その字を見ただけではその音節の構成要素はわからない。詩、殺、社、誰、手、山……とならべてもこれが共通の子音を持つことはわからないが、ㄕ、ㄕㄚ、ㄕㄜ、ㄕㄟ、ㄕㄡ、ㄕㄢ……(声調符号は略す)もしくはshi, sha, she, shei, shou, shan……と書けば共通子音を持つことが一目でわかるわけだ。漢字は「シラビック、システム」、注音字母および拼音ローマ字は「フォネチック、システム」にあたるわけである。

(高島俊男『漢字と日本人』、文春新書、平成13年)

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