2019年1月24日木曜日

国語雑感②ノモス的言語

ノモス的言語


人為的に設定された規範を、ノモスとよぶことにしよう。ノモス的に制限されたことばは、歴史と断絶されたことばである。ことばの全体系が制限され、そこから一部が抽出されたようなものは、厳密な意味ではすでに歴史的なものではない。ことばは本来ロゴスであったが、人為的なものはもはやロゴスではない。ノモスは巨大な社会、類型化された人間の世界である。この社会的超越者は歴史を拒否し、理性を拒否する。過去からの深い流れをもたず、新しい流れの源泉となることもない。すべてが現象的なものに左右される。慣習と原則とが混在していて、そのいずれをも貫くことを知らない。八百長が社会の問題になると、いそいで八百長ということばが追加される。ついでに八百屋も加えておこうといった具合である。音訓表は、いくたびか改訂された。そういう進運にこたえて、教科書は年ごとに改訂される。人はその都度に、頭脳のコンピュータの設定をかえなければならない。簡略を目的としながら、かえって複雑となる。文化的なものを簡略化しうると思うのが、そもそもおごりの甚だしいものである。それには、原則化が唯一の方法である。特定のものだけが対象になるというのは、無原則というにひとしい

ノモスは社会的超越者である。それは「甚だしくおごれるもの」であるにとどまらず、ときに残酷な破壊者となる。法は遡及力をもつものではない。告示以前の文章や作品にまで、その破壊を及ぼすべきではないと思う。美しい漢詩が、傷つき果てた字形と、現代仮名づかいで読み下されているのをみるのは、かなしいことである。漢詩の場合、一つ一つの字が、作品を構成する素材である。その素材をはなれた作品というものがありえようか。ノモスの非歴史性は、自らの非歴史性のみに満足することなく、歴史の破壊を企てて恥じないのである。しかし現代の課題は、われわれの責任においてなすべきであり、それ以外に及ぼすべきでない。

現代の課題として、文字を簡略にし、表現を平易にすることは、もちろん必要であり、略字体などはもっと積極的に検討してよい。文字はそのようにして展開し、カナはそのうえに成立した。略字にはなお歴史があり、約束もある。以前にも、教科書で扱われたことがある。しかし字形の変改というのは、話がちがう。それは略体ではなく、奇形である。恣意的な変改である。字に外科手術を施して、みえをよくしようとしたのであろうが、目鼻をけずって奇形化したにすぎない。字が泣いているようで、いたましい。それはささいなことのようであるが、こういう問題に対するそのような意識のうちに、何か重大なものが欠けているように思う。

読者は試みに、字体の変改された有()・亡()・及( )・急()・臭(臭)・器(器)・教(敎)・直()・巨()・契()・舎(舍)・害()・尋()などの諸字について、どこがどう改められているかを、しらべてほしい。ルーペで拡大でもしないかぎり、その相違点は発見されないほどである。次に何のために変改が加えられているのか、その理由を考えてほしい。私には全く見当もつかぬことである。文字構造の上からも、これでは説明のしようがない。文字は構造的に理解するのが、最も記憶しやすい。有は肉を持ってすすめる意、亡は屍体の骨の屈折している形。及は後から人に追いつく形、急はその心情をいう。器は祝詞の器である さいを列して犬牲をそえ、明器であることを示す。従って大は犬でなければならぬ。舎、害はのりとの器である を針で突き通す形であるから、針は の上に達していなければならぬ。変改を加えた字では、てることにも害することにもならぬのである。尋は左右を組み合わせた字である。左右は神に接することをいう字で尋とは神をたずねる意である。どこを改めたのか判らぬほどのなおし方であるが、全くつまらぬことをしたものである。昭和の同時代人として、恥じ入るほかない。

私の教え子が、よく正しい板書をして生徒が納得せず、私に相談にくる。私は決して「かのノモスに従え」とはいわない。真実を教えるべきであり、それをためらってはならぬと思うが、そういう態度はしばしば反動扱いされるという。ノモスに従うのが民主的であるという程度のイデオロギーは、無視してよろしいと、私は教えるのである
〔引用者註〕内閣告示には強制性はないのである。これに従ふことが「正しい」と、お節介にも他人の書いた文章に手を加へる人をしばしば見かけるが、もつと柔軟な頭を持つてほしいと思ふのである。
内閣告示が出てすでに四半世紀になり、それで教えられた人は四千五百万にも達しているという。今後十年、十五年もすれば、すべて完了することになろう。しかしそれで問題が解決されるわけではない。国民教育として扱われる言語生活と、サブ言語、メタ言語までを含む言語生活とはちがう。その表記法においても幅がちがうのである。書物をよむほどの人は、告示圏外の多くの知識をもっている。しかしその人たちは、筆を執るときにはその知れる権利を放棄し、表現することを許されざる義務に従わなければならない。矛盾はつねに再生産され、拡大再生産されている。そしてそれは、未来永劫解決されることはない。

ことばは整理しうるものであり、おきかえうるものであるという発想が、その政策の根本にあるように思う。私の考えでは、無用なことばというものはなく、また無用なものは滅びてゆく。ことばにはそういう自己浄化の作用があると思う。ことばは歴史のなかで、また社会のなかで生きていて、数字の一のように、時間と空間とを超えてつねに一であるというようなものではない。ことばの一は、他の一によって容易にとりかえうるものではない。おきかえというのは、最も横着な思想である。「暗誦」は「暗唱」とかかねばならぬという。両者は同じであってよいのだろうか。「衣裳」は「衣装」とかかねばならぬという。それはものがちがうのである。誦や裳は音訓表にはない。それで唱や装で間に合わせようというのである。ただ二字だけのことにすぎないが、そのために誤りを規範とする必要があるのであろうか。

さきの字形の変改といい、おきかえの文字といい、そこにはことばと文字との厳密な一致を求めるという態度がない。内閣告示で教育を受けた人たちも、やがて社会に出て、一向に規範らしくないその実態に気づくであろう。あるいは、それが本来何の規範でもなかったことに気づくであろう。ノモスは空洞化しやすいものである。それを救うものは、自律の自由を回復するほかにないと、私は思う。そしてわが国のことばは、いつの時代においても、そのすぐれた能力を示していたと考える。
〔引用者註〕学校教育では、内閣告示から外れた表記を「×」にして減点する。入学試験でこれに従はない者は、教育の機会まで奪はれてしまふのである。内閣告示は本来なんの規範でもない上に、これに従ふ法的義務もないことを、文字を扱ふ言論人こそ自覚して、大衆に由緒正しい国語表記といふものを示し続ける使命を負つてゐることを忘れないでほしいのである。

(白川静『文字逍遥』、平凡社ライブラリー、平成6年)

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