2019年1月22日火曜日

国語改革四十年――4 新村出の痛憤

4 新村出の痛憤


新村出博士は「國語問題の根本理念」という講話筆記がある。昭和十四年五月二十八日に京都国文学会で話したものである。明治三十年代の政府国語調査委員会の根本方針、およびその方針をみちびいた西洋言語学まるのみの思想を批判し、その思想と方針とをそのままうけついでいる昭和十年代の国語審議会の改革思想を批判し、言語表記における伝統主義、保守主義を主張し、しかしながら今後の日本語表記はかなを主とし漢字を従とすべきことを説いている。わたくしの深く共鳴するところであるので、以下にややくわしく御紹介申しあげよう。

当時、新村博士は国語審議会の委員であった。このころの国語審議会の委員というのは――その七年後に国語改革を強行した国語審議会もおなじことであるが――その人選がはなはだ当を得ていなかった。主として社会的な有力者――政治家、官僚、新聞社の幹部、あるいは小学校や中学校の校長など、国語問題に見識があるわけではなく、文部省の主張に賛同してくれそうな人が選ばれている。国語学者は一人もはいっていない(新村博士は言語学者である)。新村博士はこのはなはだかたよった国語審議会のなかでただ一人、全体の流れに対する反対者なのであるが、会議で反対意見をのべても孤立無援でだれも賛成してくれない。それで京都の国文学会で、国語審議会の内情を公開して、あわせて自分の考えをのべたのがこの講話である。

まず委員の人選についてはこう語っている(以下引用のなかのカッコつきふりがなは原文にはなく、いまの読者のためにわたくしがつけたもの)。
實は國語審議會の人的組織がどうも(かたよ)つて居つて當を得てないやうに思ふ。(…)ところが段々國語問題の處理につきましても政治的工作が巧妙になつて參りまして、まあ三十五人ばかりの委員の顏觸れを見渡しますると、過半は今日の社會を動かす最も强い勢力たる人々が多數を占めて居る。(…)斯の如く今日國語調査の事業と云ふものは、よく組織だつて參つたか如何(どう)かと云ふと、私はよく組織だつて參つたとは決して云ひ(き)れない。段々巧妙に政治的巧妙さを以つてよく組織されて來たと云ふだけに過ぎないのであります。
そして、その国語審議会がやろうとしていることは、その出発点からして、根本的にまちがっている。すなわち明治三十五年に国語調査委員会が、音標文字を採用する、という根本方針をきめて出発した、その根本がまちがっている。ことばを道具と考え、道具は簡単で便利なものであればよい、という考えで出発したのであるが、そうではない。新村博士はくりかえし「伝統」と言う。たとえば、
……吾々の衣服とか飮食物とか云ふやうな物質的なものと同じやうに國語や國字を考へてはならないのであつて、どこまでもその傳統を一貫尊重し、千古の上から萬世の後までも此の傳統の根幹を傷つけてはならないものだと私は信じて疑はないのであります。多少の不便、――多少所でない、少からざる不便もありませうが此の不便は此の傳統を保存すると云ふ上に於て忍んで行かなければならぬと思ひます。傳統主義と合理主義との對立對峙ママがあります場合、どちらを取らむと云ふことに迷つた時に於ては精神的である場合には決然として傳統の一路に向つて進まなければならないものではないかと考へるのであります。
この「伝統」ということばは誤解されやすいことばだが、このばあいは、「過去と将来を一貫する」「過去の日本人と将来の日本人とを切断しない」という意味である。それは決して、過去の日本が偉大だからではない。偉大であろうと卑小であろうと、われわれが立つところはそこしかないからである。われわれは空虚の上に立つことはできないのである。
一言すれば、(そもそ)も其の出發點が間違つて居る。この假名遣の問題にしても國語の問題にしても之を一つの敎育上の便宜問題、印刷上の便宜問題と云ふ風にのみ考へて出發したのであります。(…)倂しながら日本の國民の將來の敎養の爲に唯この簡易、簡便と云ふ主義で國語問題を處理すると云ふことは、國家百年の、否千年の大計を誤ることになりはしないかと云ふことが憂慮されるのであります。
これら國語問題の根本方針は、明治初期に於きまして舊物破壞、傳統破壞といふやうな主義の餘弊から出て居るものであつて、明治の初年、卽ち十年代、二十年代の初め位までは相當其の必要もありましたでせうし、一應はさう云ふ態度に出ることも文化の歷史上の意味から諒としてもよいだらうと思はれます。卽ち種々の國語問題の根本精神の誤は明治三十年頃までに至る歐化主義全盛時代に育まれた思想の名殘であつて、それに捉はれてそれを脫却することの出來ない先進者或は吾々の後輩者が皆同一思想の餘弊を持つて居るものであります。
明治前半に、過去の日本をすべて否定し、全面的に西洋化しようとしたこと、そこから国語問題の根本的なまちがいがはじまっている。しかも当時の人たちは、文字というものを非常に安易に考えていた。この点につき、新村博士は、早く大正二年、すなわち明治を終ったつぎの年に左のようにのべていた(「國字の將來」)。
一般の言語乃至は日本の國語を取扱ふ人々でも、言語と思想との關係の密なるを知り、國語と國民性との因緣の深きを悟りながら、時には言語と文字との連結は極々疎な者であり、國語と國字との緣故は至つて淺い者だと思ひ過ごした事もあつたやうである。
ちょっと途中で切って説明をくわえます。西洋の科学を学んだ科学者や、工学を学んだ工学家が、文字というものを安易に考えただけではない。言語一般をとりあつかう人たちすなわち言語学者、日本語をとりあつかう人たちすなわち国語学者、これらはもとより西洋の学問を学んだ人たちであるのだが、この人々もまたしばしばそうであった。この人たちは、西洋の言語学を学んだのであるから、言語と思想とが切りはなすことのできない深い関係にあることは十分に知っている。――この「思想」というのは、「カントの思想」とか「ヘーゲルの思想」とかの特殊かつ高度の「思想」の意ではない。ふつうの人のものの考えかた、世界観、の意である。すなわち、一般に、地球上のある種族(たとえば日本人)の話す言語と、その種族に属する人々のものの見かた考えかたとは深い関係がある、ということである。フランス人のものの考えかたとフランス語とは深いかかわりがある、ドイツ人のものの考えかたとドイツ語とは切り離せない。これは言うまでもない当然のことだから、西洋の言語を学んだ者ならだれでもわかっている。国語と国民性の因縁の深きは当然である。それはわかっていながら、言語と文字とのかかわりについては、なんら必然的なものではなく、ごくごく疎なものであると考える傾向があった。これもまた当然であった。西洋の言語学は(特に明治の日本人が学んだロマン主義的言語学は)人類が話す言語はこれをきわめて重大視するが、文字については、これをただ言語のかげとみなしてすこしも問題にしなかった。
一方の關係をば言語學上の所說に據りて非常に深密だと考へた餘りに、他方の關係をママ外に淺疎だと過信して、人身の衣服冠履の如く直に文字を言語から引離して、存外容易に脫ぎ更へさせる事が出來ると輕ママに考へたらしい。(…)文字を單純な機械の樣に考へ、或は國字問題を其根柢たる他の重要なる問題から引離して定めようとした明治時代の舊夢は繰返したくないものである。
西洋の言語学は、言語を、種族の精神と深くかかわるものとして、きわめて重視する。反して、文字を軽視、あるいはほとんど無視する。実際西洋の言語において文字のしめる位置はごく軽いものである。西洋の言語学は西洋の言語を研究対象としてうまれかつ発達したものであるから、西洋諸言語を標準として「言語における文字とはかかるものなり」と観念するのは当然である。明治の言語学は「日本語における文字もまたかかるものなり」と考えたのであった。しかしたびたび言うごとく、日本語においては、その語彙の過半をしめる字音語では、文字が語の本体であり裏づけである。そして日本語は、それら字音語を排除しては、現水準を維持し得ないのである
〔引用者註〕その字音語の本体たる漢字を実際に排除してしまつた国が隣にあるのである。南北朝鮮である。両国の近代言語事情は、我が国が嘗て統治して近代化させた関係上、我が国と同じであつた筈なのであるが、その近代朝鮮語から漢字を排除し、我が国の仮名文字論者が夢想した如く全て諺文書きにした結果、日本統治時代と同じ水準を維持し得てゐないのである。図らずも、仮名文字論者の主張は隣国で実験され、その缺陥が見事に実証されたのである。
西洋直輸入の明治の言語学にはそれがわからなかった。ゆえに文字を、かんたんに廃止ないしとりかえできるものと考えた。新村博士はそれを「明治時代の旧夢」と呼んでいるのである(さきにも言ったごとく新村がこう書いたのは大正二年の一月であって、「明治時代」と言っても、つい半年前までのことなのである)。

もとの「國語問題の根本理念」にもどる。

日本人が漢字をもちいて日本語を書きあらわしていることは、支那人が漢字をもちいているごとく理想的な状態ではない。しかしこれまでずっとこれでやってきた以上、しかたがないのである。
倂しながらかう云ふ風に運命づけられて今日に至り、或る點に於ては我々はその辯護にも躊躇しませぬが、一般的に云ひますと決して是が最優良とは云へませぬ。倂しながらかう云ふものが實際行はれて居る以上は我々は之を運命として甘受して、その範圍內に於て最もよい方法を考へなければならないと私は思ふのであります。
決して最優良のものではない。けれどもこれまでそれでやってきたのだからしかたがない。今後もそれでやってゆくほかない。その「運命の甘受」が、「伝統を守る」ということなのである。伝統はよいものだから伝統を守る、という、過去の賛美ではないのである。

とは言え、過去の日本人は、聖人を崇拝し聖人の教えをのべた(と称する)支那思想を崇拝し、したがって漢籍を崇拝し漢字を崇拝した。純然たる日本語もみな漢字で書くをよしとした。これはあらためなければならない。
倂しながら漢字、假名と云ふ二元的のもので主從とか、本副とか、或は主客の或は本末ともいふべきけぢめを置いて、假名を本位にして、漢字も相當に交ぜて使ふ所の假名本位の文體にして、假名交り若しくは漢字交りの文體といふものを本格的のものとして之を永久に守つてゆきたい。
漢字を主とする文体から、かなを本位とする文体にかえてゆくのがよい、というのが新村博士の考えである。かなこそ、日本人がつくり出した日本の文字であり、当然日本語に最もよくあうものだからである(したがってまた当然、漢語にはあわないのであるが)。ついては「假名」というこの名称を何か別のよびかたにしたい、と「國語運動と國語敎育」ではのべている。
以前には、今も尙殘るが、漢字を本字●●と呼び、假名を假字●●とも書いたやうな始末である。發生史的にいふと仕方がないが、今日は假名を國字●●と稱し――古くさう呼び、さう書いた學者もあつた――少くとも「假名」といふ文字を廢止し、又その稱呼をも改めたいと思つてゐる。有效な改字または改稱の方法がないものかと、常住思つてゐるが、名案がない。「國字こくじ」を從來の假名の稱にすべて代へてしまつても不都合であり、又コクジと音讀しないでカナと訓讀するやうにさせることも不可能であらう。名稱や文字が禍することもあらうが、精神は普通の文章では假名を主位本位にするやうにしたいと思ふ。又實際にも、成るべく假名を多く使ふ、宛字は成るべく避ける方針にする、といふ樣にして進みたい。
わたしも、「假名」はよくないと思う。本来はまさしく「假名」(ほんとうでない字)の意で命名されたのであり、また実際一段価値のひくい文字とされたのであるから「假名」でいたしかたなかったのであるが、これこそが日本の字なのであるから、「假名」(「仮名」と書いてもおなじこと)ではまずい。さりとて新村の言うごとく新名称をつけるのもむずかしいから、わたくしはかならずかなで「かな」と書くことにしている。
〔引用者註〕学者即ちエリートといふのは、やはりどうでもいいことが気になる人なのである。何百年間も「かな(假名)」と呼んできたのだから、それでいいのである。また「かな」は別に一段価値の低い字とは考へられてゐなかったといふのが真相なのである。さうでなければ「源氏物語」や「枕草子」等が平安時代に大ヒットする訳がないのである。因みに朝鮮では、確かに「漢字=上等、諺文=下等」の区別があつたのである。さういふ歴史の反動で、愚かにも南北朝鮮では頑なに漢字を廃止してしまつたのである。ああいふのこそ本当の劣等感の現れなのである。
あて字をやめるべきであることは言うまでもない。本来、和語に漢字をあてること、すなわち「訓よみ」はすべてあて字なのであるが、「山」「水」「人」「家」のごとく、字もやさしく、またその意によってあてているものは、ながく習慣にもなっていることだからやむを得ない。特に「手」「目」「戸」「田」「根」「木」など一音のものはかながきするとまきれやすいのでしかたがない。それ以外は極力、和語に漢字をあてるのはやめたほうがよい。右の新村の文で言えば「今も尙殘る」は「いまもなおのこる」でよく、「仕方がない」は「しかたがない」でよく、「宛字は成るべく避ける」は「あて字はなるべくさける」でよいはずである。
〔引用者註〕宛字も立派な伝統なのである。我が先人達は、さういふ表記を互ひに面白がる文字文化を発達させてきたのである。因みに漢字の母国たる支那においても、わざと宛字を用ゐて楽しむ文化はあるのである。特に共産党の言論弾圧の下では、それは当局の監視を掻い潜つて情報を伝へる手段としても利用されてゐるのである。
新村博士の言う「假名を主体本位にする」とはどういうことか。

漢字は、支那語を書きあらわすためにできた支那字なのであるから、なるべく使わぬようにする。これが基本である。しかし漢字で書かねば意味の通じないことば――すなわち字音語――は漢字で書かねばならぬ。これも当然である。「こうえん」では意味をなさない。「公園」「公演」「後援」「講演」「高遠」等とかならず漢字で書かなければいけない。これをかながきしたり、あるいは「こう演」「後えん」などと半分かなにする(これを「まぜがき」と言う)のはバカげている――ただし、コーエンという音を持つ多くの語のうち、最もポピュラーな語である「公園」は「こうえん」と書くもよしとする。すなわち「こうえん」とかながきしてあればこれは「公園」のこととして、それ以外のコーエンは「公演」「後援」等と漢字で書くこととするようなやりかたはあり得るだろう。しかし漢字を制限して「講筵に列する」を「講えんに列する」と書くがごときはおろかなことである。
〔引用者註〕そんなややこしいことをすれば、益々混乱するだけなのである。
したがって、漢字を制限してはならない。字を制限するのは事実上語を制限することになり、日本語をまずしいものにするから――。制限するのではなく、なるべく使わないようにすべきなのである。たとえば、「止める」というような書きかたはしないほうがよい。これでは「やめる」なのか「とめる」なのかわからない。やめるは「やめる」と、とめるは「とめる」と書くべきである。あるいは、「その方がよい」では「そのほうがよい」のか「そのかたがよい」のかわからない。しかし「中止する」とか「方向」とかの語には「止」「方」の漢字がぜひとも必要なのであるから、これを制限してはならないのである。あるいは「気が付く」とか「友達」とかの書きかたをやめるべきなのである。ここに「付」の字をもちい「達」の字をもちいることに何の意味もない。こうした和語に漢字をもちいる必要はないのである。しかし「交付する」とか「達成する」とかの字音語は漢字で書かねばならない。すなわち「あて字はなるべくさける」というのは、和語にはなるべく漢字をもちいぬようにする、ということである。漢字はなるべく使わぬようにすべきであるが、それは、漢字を制限したり、字音語をかながきしたりすることであってはならぬのである。
〔引用者註〕「制限するのではなく、なるべく使わないようにすべきなのである」? やはりこの著者は隠れ制限論者だつたのである。「なるべく使はないやうにする」とは「制限する」といふ意味なのである。人それぞれ書きたいやうに書けば済む話なのである。通じない書き方は自然淘汰されてゆくから、一個人がいちいち心配する問題ではないのである。

(高島俊男『漢字と日本人』、文春新書、平成13年)

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