2019年1月28日月曜日

〔字統〕から〔字訓〕へ ③〔字訓〕から〔字統〕へ

〔字訓〕から〔字統〕へ


敗戦後の惨憺たる生活のなかで、私はまた作業をはじめた。甲骨文・金文をノートに写しとって、資料の整理をする。慣れるにつれて自然に手が動き、ときにはその字が話しかけてくれるようになる。文字の間の親類、縁者の関係も見当がつき、素性もはっきりしてきて、文字の系列的な関係がわかるようになった。〔段注本〕でよんでいた〔説文解字〕に相ついで疑問が生まれ、文字学の体系を考え直そうと思うようになった。許慎や段玉裁も、甲骨文や金文を知らないのである。章炳麟や馬叙倫は、この新しい資料を用いようともしない。清代の文字学の伝統に立ちながら、この新資料をもとり入れた孫詒譲や楊樹達は、さすがにすぐれた文字研究を残したが、王念孫らの文字学の方法を踏襲するだけでは、古代文字への十分な通路を開くことはできない。そこには現代の文字学の方法として、古代学的な、文化諸科学の方法を導入することが必要であった。清代の文字学の方法では、もはやこの新資料に適応する条件を欠くのである。

漢字は語を形で示す文字である。それでまず字の形を正すことが基本である。しかし字形は、時代とともに変化している。(てん)(れい)(かい)・草は、すでに字の初形を伝えるものではない。甲骨文・金文にまで遡って、はじめてその初形がえられるのである。篆文をよりどころとした〔説文〕の字説が、甚だしく誤りにみちたものであったとしても、少しもふしぎではない。

私が漢字を文字学的に、体系として把握しえたと思うようになったのは、たぶん昭和二十年代の終り頃のことであろうと思う。昭和三十年三月から三十三年十二月までに〔甲骨金文学論叢〕九集を出して、「釈史」「釈文」「釈師」などを書き、また「釈南」や「蔑暦解」を書いた。いずれも字を孤立的にでなく、その関連字を系列的な字群としてとらえ、そこから動かしがたい解釈を帰納するという方法をとった。

そのころからまた〔説文〕の再検討をはじめ、その講本は〔説文新義〕十六巻として、昭和四十四年七月から約五年を要して刊行した。その途中の四十五年四月、岩波新書の一冊として〔漢字〕を出した。「当用漢字表」の施行によって、漢字はその字形や用義法の上に著しい制約が加えられ、国語が危機的な状況にあるなかで、とりあえず所見を述べておく必要を感じたからである。さきに刊行した〔字統〕は、そのような作業の一つの収束をなすものであった。

〔字統〕は、漢字民族である中国の文化に奉仕するために書いたものではない。漢字を国字として用いるわが国の国字政策に寄与することを念頭において、その研究を進めたものであった。すでに〔字統〕においてその字形構造が明らかとなるならば、次には国字として、字の訓義的用法に及ぶのでなければならない。これによって〔字統〕において試みたところが、はじめて意味をもちうることになろう。

学問にはすべて、ある価値体系のなかで、自己完結的なものを追究するという性格がある。それで私の〔字統〕や〔字訓〕が、現実の問題を考慮においてそれへの対処を用意したものであるとしても、学術としての目的をその根柢におくものであることはいうまでもない。〔字統〕は、いま存する唯一の象形文字の体系としての文字文化の研究に、基礎的な方法を与えるものとしての意味をもつはずである。甲骨文・金文として、祭祀儀礼的な世界で成立したその文字体系は、その共時性において、その世界をそのまま反映している。また三千数百年にも及ぶその比類のない通時性において、語彙の歴史、その精神史を展開する。その史的な出発点を与えるという意味で、字源の研究は欠くことのできないものである。

(白川静『文字遊心』、平凡社ライブラリー、平成8年)

0 件のコメント:

コメントを投稿