2015年5月27日水曜日

東郷元帥と日本海海戦(安保清種)

東郷長官の心算


回顧すれば、二十九年前の昨日から今日に掛けて戦はれたる日本海々戦は、真に我が日本の国運を賭けての一大決戦であつて、聯合艦隊の将兵は全く必死の覚悟を以て奮戦いたしたのであり、当時を追想すればまことに血湧き肉躍るの思ひが致すのであります。実際「皇国の興廃此の一戦に在り」で、艦隊司令長官としての東郷さんに於かれては、固より深く心に期する所があり、随分と思ひ切つた必勝的決戦を企図せられたのであります。時も時、東郷老元帥の重態が伝へられまして、吾々国民として邦家の為に誠に痛心の至りに堪へません。何卒一日も早く元帥の御本復に相成る様皆様と共に衷心より御祈りする次第であります。――(満堂粛然)

さて、その東郷さんの計画と申すのは、五島列島の沖から浦塩ウラジオの沖に掛けて六百かいりに亘る海面を、所謂七段備への戦法で、四日三晩ぶつ通しで敵に息をもつかせず、昼戦夜戦と連続交互に戦ひぬいて、一艦一艇も餘さず、敵の艦隊を全滅してしまはうと云ふのが、東郷長官の心算であり計画であつたのであります。

て愈々敵と相まみえての実戦舞台となりますると、之は又お膳立に一段とよりを掛けての猛烈さで、全く眼の覚めるやうな合戦ぶり、水も漏らさぬ七段構への戦法は悉く壺に嵌まつて、かも第三段、第四段、第五段の三段だけで見事に所期の目的を達成したのであります。即ち戦さは第三段から始まつたのであつて、其の第三段である対馬沖の昼戦は廿七日の午後二時を以て開始せられ、激戦実に五時間餘に亘り、さしも頑強の敵艦隊を散々に撃破して、敵の旗艦スワロフを初め七隻を撃沈し、日のまさに西に没せんとする午後七時半、敵の戦艦ボロヂノが我が砲弾の為に爆沈したのを最後として戦場を夜戦部隊に譲り、戦闘艦と巡洋艦の各戦隊は茲に其の合戦を切上げ、何れも翌朝の豫定戦場たる鬱陵島うつりようたうの南方に向つて急いだのであります。

そこで戦さは第四段の夜の戦に移り、我が駆逐隊及水雷艇隊四十餘隻は北方、東方、南方より三面包囲の姿勢を以て、所謂意気衝天の勢で飽く迄敵に肉薄し、昼の戦ひにきずついて疲労困憊せる敵艦隊を縦横無尽に駈け悩まし、遂に其の四隻を撃沈したのであります。

明くれば第五段の鬱陵島南方二十八日の昼戦である。即ち二十九年前の今日、これは又前日と違つて誠に天気の好い、追撃には以て来いの展望百パーセントの戦さ日和で、日本海の此処彼処こゝかしこには忽ち劇烈なる総追撃戦が開始せられた。戦場の広袤くわうぼう実に二百浬に亘り、大小の合戦無慮八場面に及んだのでありますが、中に就いてその最も目覚しかつたのは、我が主力艦以下各戦隊の二十八隻が八方よりネボカドフ艦隊を包囲し、遂に之を降伏せしめた壮絶無比の第四合戦と、敵の司令長官ロジェストウエンスキー中将が旗艦スウオーロフの沈没前に駆逐艦ベドウイに移乗し、浦塩目指して逃走を急ぎつゝあるとも知らず、我が駆逐艦漣が之を発見追撃して遂にロジェストウエンスキー長官諸共もろとも其の駆逐艦を捕獲した、いとも花々しい第九合戦とであつて、絶大の収獲を以て此の海戦の幕を閉ぢたのであります。――(拍手)

東郷長官の深慮


丁度このネボカドフ艦隊降伏の場面に、三笠の艦橋では一つの記憶すべき……歴史劇的のと幕が演ぜられたのであります。当日は、三笠では七千メートルから戦闘を開始したのであるが、戦闘を開始して未だ幾何いくらも経たぬ午前十時四十五分頃であつたが、秋山中佐参謀は敵の艦隊の檣頭しやうとうに翻つた「我れ降伏す」と云ふ万国信号を逸早く認めて、東郷さんに向つて
『長官! 敵は降伏しました。我が艦隊の砲火を中止いたしませうか?』
と伺つたが、東郷さんは例の通り左手にかと長剣の柄を握り締め、右手に持つた双眼鏡を胸の辺に置き、ジッと敵方を見詰めたまゝ、黙然として一向許さうともされない。秋山参謀は艦橋の甲板を地団太踏まんばかりに声も鋭く、
『長官! 武士の情であります。発砲をやめて下さい。』
と息をはづませて詰め寄つて居るが、東郷さんは愈々冷然として
『本当に降伏するとなら、その艦の進行を止めんけりやならん、現に敵はまだ前進して居るではないか』
と言つて頑として聴き容れられない。これには流石の秋山参謀も一言もなかつた。実際、敵の艦隊は微速力ながら行進を続けて居るのみならず、その艦隊幾十門の大砲はズラッと並んで、発砲こそしないが其の砲口は何れも日本艦隊の方に向いてる。或は我が艦隊に近づいて不意に魚雷攻撃を加へないとも限らない。殊に軽巡洋艦のイズムルードは独り列を離れて脱兎の如く前方に抜け懸けして居る。その行動は魚雷発射に対し頗る疑ふべきものがあるので、我が艦隊は一時之を避けて非敵側の方向に舵を取つた程であつて此の場合東郷さんが軽々しく戦闘中止を許されなかつたのも実は尤もの次第であつたのである。あとから分つたことであるが、降伏したネボカドフ司令官の日誌の一節にも、
『露国の艦隊が降伏の信号を掲げたけれども日本の艦隊は毫も発砲を中止しない。そこで降伏信号のほかに更に日本の国旗を檣頭に掲げ且つ機関を停止せしめたところ初めて日本艦隊の発砲が止まつた』
と記して居るのである。

明治38年5月28日、兵員が整列し日本軍艦旗を掲揚した「アリヨール」号
『日露戰役海軍寫眞帖』第三巻(市岡太次郎等、明治38年、小川一眞出版部)

斯くて東郷さんは、敵の艦隊が愈々停止し、四囲の状況其の降伏が確実となつたので、初めて全軍に戦闘中止を命令せられ、折よく附近に来合せて居つた雉と云ふ水雷艇を呼んで、秋山参謀を敵の旗艦ニコライ一世に差遣し、ネボカドフ司令官と会見せしめ之を三笠に招致し、茲に降伏が成立したのであります。白髪白髯のネボカドフ司令官が、頭に負傷して繃帯した将校も混つて居る六七人の幕僚を伴つて、三笠の外舷を綱梯子から悄然として這ひ登つて来る其の光景には、実際何とも言ひ知れぬ感慨に打たるゝのであつて、如何に戦ひに気の張つて居る我々も覚えず面を蔽ひ眼にはおのづから血涙が滲み出るのであつた。ても戦さは勝つか死ぬるか二つの外ないことが、切実に痛感されるではありませんか。

「朝日」に収容された「アリヨール」号の副長以下将校
『日露戰役海軍寫眞帖』第三巻(市岡太次郎等、明治38年、小川一眞出版部)

何に致せ、前日来の戦闘は確実に我が艦隊の大勝に帰し、今や其の最後のと幕を結ばんとして堂々たる我が艦隊廿八隻を以て敗残の小敵ネボカドフ艦隊五隻を包囲して居ると云ふ実況で、実は鎧袖一触と云ふところであつた。

此の場面に処して東郷さんが事をなほざりにもせぬその慎密周到さ加減は全く別物であつて、之が前日大挙突進して来る敵全艦隊の直前に於て、彼の大角度の正面変換を断行した大胆不敵の司令長官と同一人であらうとは、どうしても思はれない位、此処が即ち、大敵と見ておそれず小敵と見て侮らず、愈々勝つて愈々兜の緒を締め、折角の此の九仭きうじんの功を一簣いつきいてはと云ふ、流石に東郷さんの細心深慮の存する所が見られるのであります。一方に於てはまた智謀神の如き秋山参謀が殺気漲る合戦場裡に示した血あり涙ある大和武士の真に優しき情の一面が窺はれるのであつて、両雄の面目躍如として今も尚ほ眼前に彷彿たるものがあるのであります。

安保清種『東郷元帥と日本海海戰』(昭和9年、軍人會館事業部)より

日本海海戦の回想(秋山眞之)

日本海の大海戦は、之れに参加したる対抗両艦隊の兵力が多大なりしと、其勝敗の差隔さかくが著しく懸絶して、露国艦隊の、殆んど全滅したるに対し我が日本艦隊の損害が過少なりし点より見て、空前の一大海戦であるが、又其の戦場の頗る広大なりしと、戦闘時間の甚だ長かりし点に就いても、古今未曾有と謂ふべきである。実に此海戦は、当年五月二十七日払暁の頃、哨艦信濃丸が二〇三地点に敵艦隊を発見したるに始まり、対馬海峡より鬱陵島うつりようたう(松島)附近に至る約三百マイルの大海里に於て、翌二十八日の黄昏過ぎ迄二日間に亘り、昼夜連続、各方面に戦はれたるもので、こゝに掲げたる海戦全図に示すが如く、其の間彼我艦艇の砲火を交はへたる合戦は、大小十ヶ所に散在して居る。(第一図)今其戦跡を此海戦図に拠り辿りて見ると、大要左の通りである。

日 時合 戦対 勢戦  果
二十七日
午 後
第一合戦彼我主力艦隊の大決戦敵艦七隻撃沈
内仮装巡洋艦三隻
同 日
第二合戦我全駆逐隊水雷艇隊の敵の敗残艦隊に対する強襲敵艦四隻撃沈
我水雷艇三隻沈没
二十八日
第三合戦我軍艦千歳の敵駆逐艦に対する追撃敵駆逐艦一隻撃沈
同 日
午 前
第四合戦我主力艦隊の敵敗残艦隊に対する包囲攻撃敵艦四隻捕獲
同 日
午 前
第五合戦我軍艦「音羽」「新高」の敵艦「スピエトラーチ」に対する追撃敵艦一隻撃沈
同 日
午 前
第六合戦我軍艦「新高」「叢雲」の敵駆逐艦に対する追撃敵駆逐艦一隻撃沈
同 日
午 前
第七合戦我駆逐「不知火」及「第三十六号」艇の敵駆逐艦に対する追撃敵駆逐艦一隻撃沈
同 日
午 前
第八合戦我軍艦「磐手」「八雲」の敵艦「ウレヤコツフ」に対する追撃敵駆逐艦一隻撃沈
同 日
午 後
第九合戦我駆逐艦「漣」「陽炎」の敵駆逐艦に対する追撃敵駆逐艦一隻捕獲
敵将生擒
同 日
第十合戦我第四戦隊及第二駆逐艦隊の敵艦「ドンスコイ」に対する追撃敵一隻撃沈

此一大海戦を組成せる十合戦の要領は、先づんなものであるが、尚ほ各合戦を比較して、其の対勢と戦果を計査して見ると、頗る興味あると考へる。此の海戦、大は大なりと雖も、彼我対等のとも認むべき合戦は、唯だ単に二十七日午後ののみで、第二合戦より第十合戦迄の九合戦は、何れも我が優勢を以て、敵の劣勢に当り、大抵其勝敗も、瞬く間に決して居る。而も其戦果に就て見ると、第一合戦では、僅に敵艦七隻(うち仮装巡洋艦三隻を含む)を撃沈し得たのみで、残餘の敵艦十隻撃沈、五隻捕獲の大仕事は、皆第二合戦以後に於ける敗残の敵艦隊に対する追撃戦を以て仕遂げられたのである。之を以て見ると、戦勝の正味の結果は、花々しき決戦の時よりは、決戦終りたる後の追撃戦にて獲得せらるゝことが分ると同時に、矢張り数字上の優勢を以て敵に対すれば、容易たやすく敵を圧倒することが出来るといふことも、証明せらるゝかと思ふ。然しながら、此当初の第一合戦に於ける対等の大決戦に、当日の勝敗を決し得たことが、此海戦の大眼目とも謂ふべきもので、若し此肝腎なる決戦に勝を制することが出来なかつたならば、第二合戦以後の大戦果も挙らぬのみか、却つて苦戦悪闘を続行して、我が損失を増大するの悪果を生じたのである。故に海戦に於ては、初めより優勢を以て敵に対するか、或は当初の決戦に勝を制すると云ふことが至極肝要である。

日本海の大海戦に於ける、我が軍の大捷たいせふは前述の如く、実に其第一合戦の決勝より生み出されたものである。然らば此第一合戦其物そのものは、如何に戦はれて、如何に勝敗が決したかを討究するのも、亦趣味あることゝ思はれる。此第一戦は、五月二十七日午後一時五十五分、我が聯合艦隊司令長官東郷大将が、の紀念すべき『』の訓令信号を掲げ、我が主力たる第一及第二戦隊を率ゐて、敵前に邁進された時に初まり、それより連続攻撃を続行し、日没に至りてみたる約五時間の合戦で、其戦場は対馬海峡沖の島の北方である。去りながら此第一合戦も、亦其過半は追撃戦で、其決戦の決戦たりし正味の部分は、僅かに当初の約に過ぎない。日本海々戦の勝敗が、僅々三十分間で沈着したと云へば、或は驚く人があるかも知れぬが、夫れが真正の事実に相違ないので、東郷大将の海戦々報にも、明白に其事が記載してある。今此戦報を取出して、其の初めの方を見ると、左の一節がある。
敵の先頭部隊は我第一戦隊の圧迫を受けて稍々やゝ其の右舷に転舵てんだし、午後二時八分彼より砲火を開始せしかば、我は暫く之れにこたえて、射距離六千米突メートルるに及び、猛烈に敵の両先頭艦に集弾せり。敵は之れが為め、益々東南に撃圧せらるゝものゝ如く、其の左右両列共に漸次東方に変針し、自然に不規則なる単縦陣を形成して、我と併航へいかうの姿勢を執り、其の左翼列の先頭艦たる『オスラービヤ』の如きは、須臾しゆゆにして撃破せられ、大火災を起して戦列より脱せり。此の時に当り、第二戦隊も既にことごとく第一戦隊の後方に列し、我が全線の掩撃砲火は射距離の短縮と共に益々顕著なる効果を呈し、敵の旗艦『クニヤージ、スウオーロフ』二番艦『アレクサンドル』三世も、大火災にかゝりて戦列を離れ、敵の陣形愈々乱れ、後続の諸艦亦火災に罹れるもの多く、其の騰煙とうえん西風にたなびきて、忽ち海上一面を蔽ひ、濛気もうきと共に全く敵影を包み、第一戦隊の如きは、為めに一時射撃を中止せるの状況なりし。又我軍に於ても各艦多少の損害を被り、『浅間』の如きは後部水線に近く三弾を受けて舵機だきを損じ、且つ浸水甚しく、一時止むを得ず列外に落伍せしが、いくばくもなく応急修理して、再び戦列にれり。之れに於ける彼我主力の戦況にして、
此の戦報の通りに、敵の艦隊が、初めて火蓋を切つて砲撃したのが、午後で、我が第一戦隊が、暫く之にこたえて、応戦したのが三四分おくれて、頃であつたと記憶して居る。此の三四分に飛んで来た敵弾の数は、少くとも三百発以上で、夫れが皆我が先頭の旗艦『三笠』に集中されたから、『三笠』は未だ一弾をも打出さぬ内に、多少の損害も死傷もあつたのだが、幸に距離が遠かつた為め、大怪我はなかつたのである。是より後の戦況は、口筆こうひつを弄するよりも、左に掲げたる第一合戦の二対勢図を見るのが、最も早く分かる。即ち一は午後二時十二分、戦艦隊が砲撃を開始して、敵の先頭二艦に集弾したる刹那で、又他の一つは午後二時四十五分、敵の戦列全く乱れて、勝敗の分れた時の対勢である。其の間実にで、正味のところに過ぎない。然し未だ此の時には、敵艦隊一隻も沈没して居らぬのだ。(第二図、第三図参照)此の対戦に於ける彼我主力の艦数は、双方共に十二隻であつて、我は戦艦四隻、装甲巡洋艦八隻。彼は戦艦八隻、装甲巡洋艦一隻と、装甲海防艦三より成り、其勢力は、ぼ対等であつたが、唯や我軍の戦術と砲術が優れて居つた為めに、此決勝をち得たので、は、実に此三十分間の決戦に由つて定まつたのである。然し、戦術とか、砲術とか、或は勇気とか、胆力とか云ふものゝ、矢張り形而下の数字的勢力は争はれぬもので、若し此対戦に於て、我海軍が十二隻の主力戦隊を戦線に出すことが出来なかつたなれば、此の勝敗は未だいづれとも云へないのである。実に此戦線に参加したる我が装甲巡洋艦『日進』『春日』の如きは、海戦間際に伊太利より購入せられ、開戦後に我が国に到着したのであるが、若し此二艦が無かつたなればと想ふと、吾人は今日も尚ほ戦慄せざるを得ない。独り『日進』『春日』のみならず、『三笠』にあれ、『敷島』『朝日』『富士』にあれ、我は『出雲』『磐手』『浅間』『常磐』の如き、何れも我海軍の当局が、多年の惨憺たる経営に依りて製艦せいかんされたもので、而も之を用ふるは、主として僅々三十分の決戦であつた。吾人が十年一日の如く、武術を攻究練磨しつゝあるものは、亦此三十分間の御用に立つ為めである。さればこそ、決戦は僅かに三十分であるが、之に至らしむるには、十年の戦備を要するので、即ち取りも直さず、連綿十年の戦争である。吾人は素より至尊しそんの御威徳が、直接間接に戦勝の大主因を成し、皇軍には常に天祐神助あるを確信するものであるが、さりとて、吾々臣民が、人事を尽さずして、神霊の加護を仰ぎ得らるべきではないと考へる。

過去の大海戦は、斯くして皇軍の大捷に帰したが、未来の海戦は、如何なる結果を呈するであらうか。今や『三笠』『敷島』の如き当時の戦艦は、既に全盛を過ぎて、旧式と化し去り、所謂『ドレツドノート』級、若しくは超弩級ならざれば、軍艦にあらずと謂ふ時代となり、我が海軍には、現在『ド』型として、『河内』『摂津』の二隻、準『ド』型ともかぞふべき『安藝』『薩摩』の二艦あるのみである。之に在来の旧式戦艦を加へて、兎に角にも、戦列の第一戦を作りたいのだが、却つて速力などに差異があつて不利益である。吾人は勿論火縄銃でも、竹槍でも、与へられたる武器を以て極力奮闘し、唯たふれてのち已むのが本分であるから、敢て彼れ是れと道具えらみをする訳ではないが、過去の経験より将来を忖度すると、如何にしても、が気にかゝつて、やすんぜざる処がある。日本海々戦の決戦は、で片が付いたが、武器の進歩したる未来の海戦は、で勝敗が決するであらう。

(大正二年五月)





秋山眞之『軍談』(大正6年、実業之日本社)より

2015年5月25日月曜日

日本海海戦――(6)平和克復

6 平和克復


平和克復に関する経緯は外交史に譲るとして、日露の媾和条約は、明治三十八年九月五日、米国ポーツマスに於て両国全権委員により調印され、十月十五日露国政府と批准交換ををはり、両国間の平和は回復した。これによつて帝国は露国をして韓国における我が優位を認めしめ、旅順、大連の租借権及び南満洲鉄道を取得し、また北緯五十度以南の樺太島を割譲せしめ、尚日本海、オホーツク海、ベーリング海に臨む、露領沿岸の漁業権を獲得した。

東郷司令長官の東京凱旋を迎へる国民(新橋凱旋門附近)
『日露戰役海軍寫眞帖』第四巻(市岡太次郎等、明治38年、小川一眞出版部)
十月二十三日、凱旋観艦式を横濱沖に挙行せられ、 明治天皇の行幸あり、式後勅語を賜ひ、東郷司令長官は聯合艦隊を代表して奉答した。この日の観艦式に、戦利艦相模(旧ペレスウェート)、丹後(旧ポルタワ)、壱岐(旧ニコライ一世)、見島(旧セニヤーウヰン)、沖島(旧アプラクシン)、駆逐艦皋月(旧ベドウイ)、同山彦(旧レシテリヌイ)その他合計十一隻が参列して異彩を放つた。

観艦式にて御召艦・浅間
『日露戰役海軍寫眞帖』第四巻(市岡太次郎等、明治38年、小川一眞出版部)

ついで十二月二十日をもつて聯合艦隊の編成を解かれたが、解散に際し東郷司令長官より麾下一般に与へられた訓示は、海軍軍人のみならず、帝国国民の熟読玩味すべき海国国防の要諦である。左にその全文を掲げる。
二十閲月の征戦すでに往事と過ぎ、我が聯合艦隊は今や其の隊務を結了して茲に解散することとなれり。然れども我等海軍軍人の責務は決して之が為めに軽減せるものにあらず。此の戦役の収果を永遠に全くし、尚益〻国運の隆昌を扶持せんには、時の平戦を問はず、先づ外衝に立つべき海軍が常に其の武力を海洋に保全し、一朝緩急に応ずるの覚悟あるを要す。而して武力なるものは艦船兵器等のみにあらずして、之を活用する無形の実力に在り。百発百中の一砲く百発一中の敵砲百門に対抗し得るを覚らば、我等軍人は主として武力を形而上に求めざる可からず。近く我が海軍の勝利を得たる所以も 至尊の霊徳にる所多しと雖も、そもそも亦平素の練磨其の因を成し果を戦役に結びたるものにして、若し既往を以て将来を推すときは、征戦むと雖も安じて休憩す可らざるものあるを覚ゆ。おもふに武人の一生は連綿不断の戦争にして、時の平戦により其の責務に軽重あるの理無し、事あれば武力を発揮し、事無ければ之を修養し、終始一貫其の本分を尽さんのみ。過去の一年有半、彼の風濤と戦ひ寒暑に抗し、しばしば頑敵と対して死生の間に出入せしこと固より容易の業ならざりしも、観ずれば是れ亦長期の一大演習にして、之に参加し幾多啓発するを得たる武人の幸福比する物無し、あに之を征戦の労苦とするに足らんや。いやしくも武人にして治平に偸安とうあんせんか、兵備の外観巍然ぎぜんたるもあたかも砂上の楼閣の如く、暴風一過忽ち崩倒するに至らん、まことに戒むべきなり。
昔者むかし神功皇后三韓を征服し給ひし以来、韓国は四百餘年間我が統理の下にありしも、一たび海軍の廃頽するや忽ち之を失ひ、又近世に入り徳川幕府治平にれて兵備をおこたれば、挙国米艦数隻の応対に苦み、露艦亦千島樺太を覬覦きゆするも之と抗争することあたはざるに至れり。翻て之を西史に見るに、十九世紀の初めに当り「ナイル」及び「トラフアルガー」等に勝ちたる英国海軍は、祖国を泰山の安きに置きたるのみならず、爾来後進相襲て能く其の武力を保有し、世運の進歩におくれざりしかば、今に至る迄永く其の国利を擁護し国権を伸張するを得たり。けだし此の如き古今東西の殷鑑いんかんは、為政の然らしむるものありしと雖も、主として武人が治に居て乱を忘れざると否とに基ける自然の結果たらざるは無し。我等戦後の軍人は深く此等の実例に鑑み、既有の練磨に加ふるに戦役の実験を以てし、更に将来の進歩を図りて時勢の発展に後れざるを期せざる可らず。若しれ常に 聖諭を奉体して孜々しし奮励し、実力の満を持して放つべき時節を待たば、庶幾ねがはくは以て永遠に護国の大任を全うすることを得ん。神明は唯平素の鍛錬につとめ、戦はずして既に勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に、一勝に満足して治平に安ずる者より直ちに之をうばふ。古人曰く勝て兜の緒を締めよと。
戦勝の夢に酔ふことを戒め、皇国国防の本義を説き、海軍軍人の本分を指示し、言々句々、至誠憂国の一念に徹したる聖将の面目、まことに躍如たるを覚えるではないか。

聯合艦隊各司令長官以下及大本営海軍将官以下幕僚
『日露戰役海軍寫眞帖』第四巻(市岡太次郎等、明治38年、小川一眞出版部)

爾来幾星霜、この聖将の遺訓は、わが海軍精神の伝統の中に、血となり肉となつて生きて来た。わが海軍は、ひたすらにこの遺訓を守り、孜々奮励、実力の満を持して放つべき時節に備へてゐたのである。

佐藤市郎『海軍五十年史』(昭和18年、鱒書房)より

日本海海戦――(5)二十八日の戦闘

5 二十八日の戦闘


夜闇の戦闘を駆逐隊艇隊に譲つて戦場を離れた東郷司令長官は、敵の残存艦隊が浦塩ウラジオに向ふことを豫想し、敵に先んじて北航し、天明を待つて再びこれを邀撃せんものと、鉄桶の陣を張つて待ちうけてゐた。

昼間は聯合艦隊の主力に猛撃をうけ、夜は夜で鮫のやうな水雷戦隊に喰ひさがられて支離滅裂となつたネボガトフ艦隊は、二十八日の黎明を迎へ、行手に東郷艦隊が昨日といささかも変らぬ姿で待ち構へてゐようとは知らず、漸く安堵の息をつき、浦塩に向つた。午前五時、第五戦隊は遥か東方にあたつてこの敵艦隊を発見、直ちに主力艦隊に報告した。第四、第六戦隊も亦敵を発見し、三隊協力して触接を保つた。第一、第二戦隊は直ちに敵の所在に向ひ、午前九時半頃これを発見した。敵は旗艦ニコライ一世を先頭に、アリヨール、アプラクシン、セニヤーウンが続航し、巡洋艦イズムルードも続いてゐた。十時三十四分、八千米の距離から、わが主力は砲撃を開始したが敵は応戦しない。間もなく各艦万国信号で降伏信号を掲げ、航進を停止した。そこで東郷司令長官は降伏を容れ、砲撃を中止し、ネボガトフ司令官を旗艦三笠に招致して捕獲処分に着手した。即ち、軍艦は現状のままわが軍に引渡すべきこと、乗員はすべて俘虜となすべきこと、士官以上は帯剣を許すべきこと等を指定した。

降伏し停船した「ニコライ一世」号
『日露戰役海軍寫眞帖』第三巻(市岡太次郎等、明治38年、小川一眞出版部)

捕虜として「朝日」に収容された「アリヨール」号乗員
『日露戰役海軍寫眞集』第二緝(坪谷善四郎、明治38年、博文館)

敗残敵主力はこれで始末がついたが、他の諸艦はいまだに別れ別れになつて遁走を企ててゐるに違ひないので、これらの処分もしなければならぬ。そこで東郷司令長官は第一戦隊以外の各戦隊に索敵撃滅を命じた。二十八日に処分した他の敵艦は海防艦ウシヤコーフ(午後、磐手、八雲にて撃沈)、巡洋艦スウェトラーナ(午前、音羽、新高にて撃沈)、駆逐艦ベヅウブリョーチヌイ(午前、千歳、駆逐艦有明にて撃沈)、同ブイスツルイ(正午、新高、駆逐艦叢雲の攻撃に遭ひ、竹辺湾附近に擱坐破壊)、同グロムキー(午後、駆逐艦不知火、第二十三号水雷艇にて撃沈)、同ベドウイ(駆逐艦漣により捕獲、司令長官ロジェストウェンスキー中将を俘虜とす)等があつた。その他沈没したものは、戦艦シソイ・ウェリキー(二十八日午前沈没)、装甲巡洋艦アドミラル・ナヒーモフ(二十八日午前、対馬東岸沖合にて沈没)、同ドミトリー・ドンスコイ(二十九日払暁、鬱陵島沿岸にて沈没)、同アドミラル・モノマフ(二十八日午前、対馬東岸沖合にて沈没)、駆逐艦ブイヌイ(二十八日午前、自沈)等であり、ネボガトフ提督降伏の際、快速を利用して逃走した巡洋艦イズムルードは、のち沿海州セント・ウラヂミル湾で擱坐破壊した。

擱坐した「イズムルード」号
『日露戰役海軍寫眞集』第一緝(坪谷善四郎、明治38年、博文館)

かくて、威風堂々対馬海峡に現はれた露国第二太平洋艦隊三十八隻(戦艦八隻、巡洋艦九隻、海防艦三隻、駆逐艦九隻、仮装巡洋艦一隻、特務艦六隻、病院船二隻)のうち、撃沈十九隻(戦艦六隻、巡洋艦四隻、海防艦一隻、駆逐艦四隻、仮装巡洋艦一隻、特務艦三隻)、捕獲五隻(戦艦二隻、海防艦二隻、駆逐艦一隻)といふ大戦果で、抑留病院船を除けば、戦場から逃れたものは、巡洋艦五隻、駆逐艦四隻、特務船三隻に過ぎない。このうち、巡洋艦イズムルードは前述のごとく擱坐破壊し、駆逐艦ブレスチャーシチーは上海へ遁走途中浸水沈没した。エンクウスト司令官の率ゐた巡洋艦三隻はマニラ湾に遁入して米国政府に抑留せられ、または上海に逃れて武装解除された。かくてバルチック艦隊の最後目的地であつた浦塩斯徳ウラジウォストクに到達し得たものは、僅かに巡洋艦アルマーズ、駆逐艦二隻の合計三隻に過ぎないといふ惨憺たるものであつた。しかも、敵司令長官以下約六千名を俘虜とし、わが艦艇の犠牲は僅かに水雷艇三隻といふ、空前にしておそらくは絶後の一方的大勝利であつた。

五月三十日、東郷聯合艦隊司令長官は左の優渥なる勅語を拝した。
聯合艦隊ハ敵艦隊ヲ朝鮮海峡ニ邀撃シ奮戦数日遂ニ之ヲ殲滅シテ空前ノ偉功ヲ奏シタリ
朕ハ汝等ノ忠烈ニ依リ祖宗ノ神霊ニコタフルヲ得ルヲヨロコオモフニ前途ハ尚遼遠ナリ汝等イヨイヨ奮励シテ以テ戦果ヲ全フセヨ
東郷司令長官は同日左の奉答文を上つた。
日本海ノ戦捷ニ対シ特ニ優渥ナル
勅語ヲ賜ハリ等感激ノ至リニ堪ヘス此ノ海戦豫期以上ノ成果ヲ見ルニ至リタルハ一ニ
陛下御稜威ノ普及及ヒ歴代
神霊ノ加護ニ依ルモノニシテ固ヨリ人為ノ能クスヘキ所ニアラス等唯〻益〻奮励シテ犬馬ノ労ヲ尽シ以テ皇謨クワウボヲ翼成センコトヲ期ス
同日聯合艦隊に勅語を賜ると同時に海軍に勅語を下し賜うた。海軍大臣山本権兵衛、海軍軍令部長伊藤祐亨は、勅語に対し夫々奉答文を上つた。

佐藤市郎『海軍五十年史』(昭和18年、鱒書房)より

2015年5月24日日曜日

日本海海戦――(4)二十七日夜の戦闘

4 二十七日夜の戦闘


昼間の戦闘により、敵艦隊司令長官ロジェストウェンスキー中将は、開戦後三十分にしてきずつき、沈没に瀕した旗艦スウォーロフから、駆逐艦ブイヌイに移されたが、ほとんど人事不省に陥つたので、艦隊の指揮をニコライ一世に坐乗せるネボガトフ司令官に譲つた。ネボガトフ司令官は敗残のニコライ一世、アリヨール、アプラクシン、シニヤーウン、ウシャーコフ、ナワリン、シソイ・ウェリキー、ナヒーモフ、モノマフ、イズムルードを率ゐ、ロジェストウェンスキーの最後の命令を奉じて、一意浦塩斯徳ウラジウォストクへと急いだ。

二十七日午後七時三十分頃、第一、第二駆逐隊は北方より、第三、第四、第五駆逐隊は東方より、第一、第十、第十五、第十七、第十八、第二十艇隊は南方より、ほとんど同時に敵の主力に襲ひかかり、三面より包囲攻撃の態勢をとつた。ネボガトフ司令官は、八時過ぎ、あたりをめた夜闇に乗じて遁走を企てたが、午後九時前後におけるわが魚雷襲撃は実に凄絶を極め、約四十隻の駆逐艦、水雷艇が八方より敵に肉薄したので、敵は全く混乱の極に達し各艦勝手に遁路を求めて逃走した。そのため、旗艦ニコライ一世に続航し得たものは僅かにアリヨール、セニヤーウン、アプラクシン、イズムルードの四隻のみ、戦艦ナワリンは沈没し、同シソイ・ウェリキー、巡洋艦ナヒーモフ、モノマフは大損傷を被つて、いづれも翌二十八日に沈没した。なほオレーグ、ジェムチウグ、アウロラは、エンクウィスト司令官に率ゐられて、二十八日未明西方に逃走した。

「アリヨール」号被弾の跡
『日露戰役海軍寫眞帖』第三巻(市岡太次郎等、明治38年、小川一眞出版部)

佐藤市郎『海軍五十年史』(昭和18年、鱒書房)より

日本海海戦――(3)二十七日の戦闘

3 二十七日の戦闘


明治三十八年五月二十七日午前二時四十五分、わが哨艦信濃丸は、五島白瀬の西方約四十かいりの地点で、東航する一汽船の燈火を発見した。これは敵の病院船アリヨールで、どうしたものか消燈してゐなかつたのである。これが敵艦隊発見の端緒であつた。この燈火を発見した信濃丸は、必ず他にも艦船がゐる筈だと、引続き厳重な見張りをしてゐたが、濃霧のため何ものも見えず、艦長はこの汽船を臨検するつもりで近寄らうとした瞬間、前方眼前に堂々たる大艦隊を発見し、しかも我はその艦列中にはいりこんでゐたのであつた。そこで直ちに「敵艦見ユ」の無電を発した。時に午前四時四十五分であつた。この無電に接した巡洋艦和泉は、勇敢に敵と接触しつつ刻々その陣形や速力方向を東郷司令長官に無電で報告した。この際和泉が触接を保ちつつ無電を発してゐるのを知りながら、敵艦隊が妨害しなかつたことは不思議といふ他はない。この日、東郷司令長官は旗艦三笠に坐乗して鎮海湾にあり、敵艦隊出現の報に接したのは午前五時五分頃であつた。直ちに全軍に出動を命じ、同時に大本営に向つて「敵艦見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直ニ出動之ヲ撃滅セントス、本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」といふ有名な第一報を打電した。普通ならば「邀撃」とでもいふところを「撃滅」といつたところに、東郷司令長官の並々ならぬ決意と自信とがうかがはれる。

5月27日早朝、日本海戦場へ向ふ聯合艦隊
『日露戰役海軍寫眞朝日の光』(關重忠、明治38年、博文館)

わが主力艦隊は、正午、沖ノ島北方十二浬に達し、片岡第三艦隊司令長官の報告により、敵は壱岐国若宮島の北方十二浬にあつて北東微東に航行しつつあるのを知り、適宜針路を向け、午後一時十三分、先づわが第三戦隊を見、つづいて第五第六戦隊を望み、つひに同三十九分はるかに敵艦隊の姿を認めた。この時敵の陣形は二列縦陣で、右翼列の先頭にボロヂノ級戦艦四隻よりなる一隊を置き、オスラビヤ、シソイ・ウェリキー、ナワリン、アドミラル・ナヒーモフの四隻よりなる一隊を左翼列の先頭に位せしめ、イムペラートル・ニコライ一世及び海防艦三隻よりなる一隊これに続き、ジェムチウグ、イズムルードの二巡洋艦前路を警戒し、なほ後方に巡洋艦、特務艦が続航してゐた。東郷司令長官は直ちに戦闘開始を命じた。旗艦三笠の檣頭には、あの歴史的な「皇国ノ興廃此ノ一戦ニアリ各員一層奮励努力セヨ」との信号旗が掲げられた。時まさに午後一時五十五分、わが砲火を開く十五分前であつた。

旗艦「三笠」艦橋上の東郷平八郎聯合艦隊司令長官
左上に信号旗(Z旗)が翻る

この時、彼我の針路は反航の姿勢にあつた。このまま進めば、砲戦の時間が短く、再び反転して敵を追ふには時間を要し、八月十日の黄海海戦の轍を踏むであらう。東郷司令長官の戦法や如何にと全軍固唾をのむうち、二時五分、果然三笠は、世界海戦史上有名な敵前十六点転針の大冒険を敢行したのであつた。まさに大英断である。転針中は、われより精確なる照準が出来ないばかりでなく、後続各艦は同一点で転針するから、その地点を照準されれば、敵から正確な砲火を浴びせられる危険があるわけである。

これを見た敵艦隊は好機乗ずべしとばかり、まづ旗艦スウォーロフ火蓋を切り、つづいて各艦砲火を開いた。距離八千米。しかし、われは未だこれに応ぜず、二時十分、射距離六千米となるや、旗艦三笠はじめて応戦し、後続の諸艦これにならひ、まづ敵の左右両列の先頭艦スウォーロフ、オスラビアに猛砲火をあびせた。しかもなほ距離四千六百米にまで肉迫猛撃したので、オスラビア、スウォーロフ、アレクサンドル三世等、相ついで火災を起し、黒煙あたりを覆うて屢〻照準に困難を感ずるほどであつた。この間、わが方も多少の損害をうけ、第二艦隊の浅間は敵弾を受けて舵機に故障を起し、一時列外に出るのやむなきに至つた。やがて敵の旗艦スウォーロフは大損害を被つて列外に出で、オスラビヤは午後三時過ぎ沈没し、敵陣やうやく混乱の色が深くなつた。かくて戦闘の大勢は最初の一時間で決した。以後わが主力艦隊は、敵主力の運動に応じ、集合離散戦術の妙を尽し、敗残の敵を攻撃しつつ遂に日没に及んだ。この戦闘で、旗艦スウォーロフ、オスラビヤ、ボロヂノ、アレクサンドル三世等は、悉く撃沈された。

この間、第三、第四、第五、第六戦隊は敵の後尾を襲ひ、主として巡洋艦、運送船を攻撃し、敵を非常な混乱に陥らしめた。かくて東郷司令長官は、午後七時半、戦闘を中止し、鬱陵島うつりようとうに全艦の集結を命じ、明日の戦闘に備へた。

佐藤市郎『海軍五十年史』(昭和18年、鱒書房)より

2015年5月23日土曜日

日本海海戦――(2)わが聯合艦隊の準備

2 わが聯合艦隊の準備


明治三十七年四月バルチック艦隊東洋派遣が決定し、十月十五日にはリバウ軍港を進発したとの情報は、いちはやくわが大本営にはいつた。その勢力は戦艦七隻、巡洋艦六隻、駆逐艦若干といふのであるから、これのみならば、敢て恐るるに足らない。しかし、これがもし旅順にある第一太平洋艦隊と合同することになると敵兵力はわれに倍する優勢となる。要するに、バルチック艦隊の来航が早いか、旅順艦隊全滅が早いかといふことが重大問題であつた。幸ひにして第三軍の猛攻により、三十八年一月、敵遠征艦隊の来航に先立つて旅順口が陥落したので、わが聯合艦隊の作戦は一段落を告げた。そこで諸艦は損傷箇所を急遽修理し、完成次第逐次朝鮮海峡方面に集合し、艦隊運動、艦砲射撃の猛訓練を励行した。ことに艦砲射撃訓練は猛烈を極めた。開戦以来これまでの海戦は常に欧露にあるバルチック艦隊の来航を考慮にいれておかなければならなかつたので、東郷司令長官の苦心は一通りでなかつたが、今度こそは互ひに後詰めなしの国運を賭した決戦である。要するに勝てばいいのである。乾坤一擲、敵艦隊を全滅させ得れば、味方の半分、いな三分の二を失ふことも許されるのである。ただ敵艦隊撃滅の一途をのみ念ずる将兵の技術は、つひに百発百中の域にまで達した。

相次いで大本営に入る情報により、敵は第三艦隊と合して、五月十四日カムラン湾を出発したことまではわかつたが、その後の消息はえうとして知るべくもない。旅順陥落の後であるから、敵がめざすは浦塩斯徳ウラジウォストクに違ひないが、それには対馬海峡を通るか、津軽海峡を通るか、問題は各人の観点が違へば判断も違ふ。わが参謀の間にも意見がわかれ、主力艦隊は能登半島沖に集結、両海峡いづれを敵が通過するも応じ得べき準備をなすべし、といふ意見が、一時は有力であつたほどであつた。東郷司令長官は、これらの意見を聞きながら、黙々として語らず、胸中ひそかに期するものがあるやうであつた。果然、五月二十六日朝、敵の運送船が上海に入つたといふ情報に接するや、司令長官は意を決し、主力を鎮海湾に集結し、一両日に迫つた決戦の海面を沖ノ島附近に想定したのであつた。露国艦隊司令長官も、駆逐艦、水雷艇による襲撃のおそれある日本沿岸は、日中に航過せんと欲し、五月二十七日正午の位置を対馬海峡東水道、即ち沖ノ島附近と定めて速力を調節しながら、二十七日の戦闘を期してゐたのであつた。

これをむかへ撃つ、わが聯合艦隊の陣容は左の通りであつた。


以上、戦艦四隻、装甲巡洋艦八隻、巡洋艦十二隻、装甲海防艦二隻、海防艦三隻、通報艦三隻、砲艦五隻、駆逐艦二十一隻、水雷艇四十一隻、合計九十九隻(戦闘に不参加の仮装巡洋艦を除く)、総排水量二十一万七千八百餘トン、これは文字通り当時の帝国海軍の全勢力であつた。

聯合艦隊旗艦・三笠
『日露戰役紀念帝國海軍寫眞帖』(市岡太次郎等、明治38年、富山房)

佐藤市郎『海軍五十年史』(昭和18年、鱒書房)より

日本海海戦――(1)バルチック艦隊の遠征

1 バルチック艦隊の遠征


バルチック海より浦塩斯徳ウラジウォストクまで航程にして一万数千かいり、その間一箇の根拠地すらない。戦時国際法によれば中立国の港で燃料を補給することも出来ない。一旦故障が起きた艦は修理することも出来ない。四十隻一万人の乗員の糧食被服その他はどうするか。大洋中で暴風に遭つた場合、駆逐艦のごとき小艦は航海に耐へ得るか。以上のやうな難関を覚悟の上で決行されたのが、露国第二太平洋艦隊(俗称バルチック艦隊)東洋派遣の壮挙なのである。敵ながら天晴れとめていい。もし、この壮挙が露国の計画通り成功すれば、日露両国の海軍兵力は、ここに主客顚倒し、彼が絶対優勢の地位を占めることは疑ひない。満洲の野において連戦連敗してゐるクロパトキン軍を救ふには、実にこの一途あるのみである。かうした考へが露国朝野を圧倒し、つひに明治三十七年四月三十日、露国海軍省は増遣艦隊の編制を発表し、これに「第二太平洋艦隊」と命名し、ついで五月、海軍軍令部長心得侍従将官ロジェストウェンスキー少将を司令長官に補した。出発の時期は、はじめ七月と称したが、いろいろと遷延を重ね、つひに十月十五日、リバウ軍港を進発することになつた。

ロジェストウェンスキー少将

出発前より、日本軍は丁抹デンマーク海峡に機雷を敷設したとか、北海には日本水雷艇隊が潜んでゐるとかと、いろいろ噂がとんでゐたので、悲愴な決意をもつて壮途には就いたものの、水鳥の音にも肝をつぶし、薄氷を踏む思ひであつた。果して北海航過の際には、英国漁船の燈火を見て、すはこそ日本水雷艇隊の襲撃と、盲滅法めくらめつぽふに砲撃して漁船を沈めた上に、巡洋艦アウロラは同志討ちにあひ、水線上に四弾をうけるといふ悲喜劇を演じ、英国の憤激と世界の嘲笑とを招いた。

十一月初旬、艦隊はモロッコのタンジールに達し、喜望峰迂回部隊とスエズ運河通過部隊とにわかれた。これは吃水の深い艦がスエズ運河を通過するためには、弾薬石炭等をおろさなければならぬので、それを避けるためであつて両隊はマダガスカル島で会合することに定められ、スエズ通過枝隊は十二月末、喜望峰迂回の本隊は翌年一月九日、豫定の地点に達して両隊合同した。また艦隊が本国出発当時残留した巡洋艦二隻及び仮装巡洋艦、駆逐艦数隻も二月十八日に本隊に合した。これより先、本国では戦艦一隻、装甲巡洋艦一隻、海防艦三隻より成る第三艦隊が編成せられ、第二艦隊の後を追つて二月十五日リバウを出発したが、満洲における情勢が逼迫して来たので、本隊は第三艦隊を待たず、三月十六日マダガスカル発、四月五日マラッカ海峡を通過、十四日仏領カムラン湾に到着し、以後、五月九日に第三艦隊と合同するまで、二十餘日をこの附近で過した。第三艦隊の合同により、いよいよ最後の航程に上つたが、その編成は左表の通りであつた。

第一戦艦隊
(戦艦 四隻)
クニヤージ・スウォーロフ(司令長官旗艦)、イムペラートル・アレクサンドル三世、ボロヂノ、アリヨール
第二戦艦隊
(戦艦 三隻/装甲巡洋艦 一隻)
オスラビヤ(司令官旗艦)、シソイ・ウェリキー、ナワリン、アドミラル・ナヒーモフ(装巡)
第三戦艦隊
(戦艦 一隻/装甲海防艦 三隻)
イムペラートル・ニコライ一世(戦艦)、ゲネラル・アドミラル・アプラクシン、アドミラル・セニャーウヰン、アドミラル・ウシヤーコフ(以上第三艦隊の四隻)
第一巡洋艦隊
(装甲巡洋艦 二隻/巡洋艦 二隻)
オレーグ(後発隊、巡)、アウロラ(巡)、ドミトリー・ドンスコイ(装巡)、ウラヂーミル・モノマーフ(第三艦隊、装巡)
第二巡洋艦隊
(巡洋艦 四隻)
ウェストラーナ、アルマーズ、ジェムチウグ、イズムルード(後発隊)
駆逐隊駆逐艦九隻(内、後発隊二隻)
運送船隊仮装巡洋艦五隻、工作船二隻、病院船二隻、運送船十数隻

以上の勢力を要約すれば、戦艦八隻、装甲巡洋艦三隻、巡洋艦六隻、装甲海防艦三隻、駆逐艦九隻、合計二十九隻、総排水量十六万二百餘トン(運送船隊を除く)であつた。

第三艦隊と合同した露国艦隊は総数五十隻、朝鮮海峡に向つて北上した。途中運送船数隻を上海に放つたが、これは露艦隊としては大失敗であつた。それはカムラン湾出航後えうとして知れなかつた露国艦隊の所在を判断する絶好の資料をわが軍に与へたからであつた。

佐藤市郎『海軍五十年史』(昭和18年、鱒書房)より

2015年5月17日日曜日

日英同盟――(3)日英同盟の締結

日英同盟の締結


日清戦争頃陸奥外務大臣は、今にして欧洲の一勢力と充分結ぶ所なければ、将来東洋の平和を保持し、我が権益を維持し難しと唱へてゐた。其の一勢力とは英国か露国の外はないが、陸奥は『英国は人の憂ひを憂へて之を援けんとするドン・キホーテではない。日英同盟論の如きは夢想である。虚栄である。画餅である』と排斥してゐたが、之に反して林次官は日英同盟論者で、其の意見を時事新報に載せ、また福沢諭吉も共鳴して社説を書いた程であつた。日清戦後伊藤、山県、井上など元老大官の多くは日露協約論者であつた。

一九〇〇年(明治三十三年)支那に於ける保守的排外思想の権化、義和団事件に於ける列国会議で、日英両国の感情は互に相融和して膠漆の如く、列国をして日英密約を思はしむる程になつてゐた。事変後露国は三国干渉により、日本に還附せしめた旅大を租借し、満洲に駐兵して攘奪の形勢を現はして来たので、日本たるもの無関心たるを得ない。臥薪嘗胆一戦を覚悟せしむるに至つた。

英国の宝庫印度に於ける一八五七年の叛乱は漸く鎮定したが、北方の白熊が爛々と目を光らしてうかゞつてゐた。露国の南下はピーター帝以来の大策で、印度へ密使を送り、またカタリナ女帝、パウロ帝も侵略計略を立てゝゐた。参謀本部ソボレフ将軍の印度侵入計画は、三十万の露軍を以てアフガニスタンの嶮道を乗越え、一挙して印度を衝かんとするものであつた。更に露国は波斯ペルシヤ湾に出口を求めてゐたのであるが、英国の為め成功し難しと見るや、防禦力薄弱なる極東に大転回した。

併し極東に於ても英露両国は衝突すべき宿縁を持つてゐた。露国は満洲より朝鮮半島へかけて、着々と魔手を伸ばして来たのみならず、更に支那本土までも入道雲の如く這ひかゝつて来たのである。英国は多年の精力を傾けて孜々しゝ営々と築いた権益を脅かされ、安閑としてはゐられない。臥榻ぐわたふの下既に露国の鼾声がかまびすしくなつたのだ。

英国はつとに露国の極東に於ける大望を看破してゐた。最初支那と提携して露国に当らんと思つてゐたが、日清戦争に於て支那の弱体が暴露せらるゝや、支那を見棄てゝ日本と握手せんとした。三国干渉の際英国が誘ひの手を払ひ除けたのも之が為めである。

英国に於て日英同盟論のやゝ表面化したのは、一八九八年(明治三十一年)植民大臣ジョセフ・チェンバレンが、我が駐英加藤公使に打明けた時である。英国は此時南阿に戦争の危険をひかへ、露国とは素より、仏国とはスーダンのファショダ事件でいがみ合ひ、独逸とは南阿クリューゲル電報事件の悪感情が残つて居り、米国とはヴェネズエラ国境事件で争つた後口あり、何れを向いても八方塞りであつた。然るに英国には『光栄ある孤立』なる伝統政策があつて、これを抛棄することには悩まぬでもなかつたが、大策の前には虚名を株守して居られぬまで事態は切迫してゐたのだ。

然るに一方日本には日露協約論を唱ふる者あり、こゝに対立状態を呈するに至つた。日英同盟論者は山県、桂の一派で、英国を背景とする日露戦争主義である。日露協約論者は伊藤、井上の一派で、露国の満洲における既成勢力を認め、朝鮮を保全すると云ふ協調主義である。既にして日英同盟は具体的に議熟し談判進行中、伊藤は正式委任状を携へて出発、米国を経て態と英国を敬遠し直路露都に入り、日露協約を締結せんとしたが、露国は伊藤を大に歓迎したが協約には乗つて来なかつたので、引返して伯林ベルリン淹留えんりう中、一方日英同盟談判は伊藤の入露に依つて推進せられ、ほゞ終結を告ぐる迄になつてゐた。伊藤は之を知るや同盟反対の意見を政府に発電した程だつたが、遂に日英同盟は成立し、一九〇二年(明治三十五年)一月三十日、我が林公使とランスダウンとの間に調印が了せられた。

同盟条約は清、韓の独立を保全すると共に、其の権益を尊重し、同盟国と他の別国と戦争の場合は厳正中立を守り、若し交戦別国に他の一国又は数国が加はる時は、同盟国は直ちに来つて戦争に参加すると云ふ規約である。此同盟成立後二年、明治三十七年(一九〇四年)日露開戦し、其の終期三十八年(一九〇五年)八月改訂して攻守同盟となり、更に鞏固なるものとなつた。

然るに日英同盟に一抹の陰翳が漂ふに至つた。それは米国加州カリフォルニアに於て日本人排斥問題が起つて形勢不穏となり、若し日米戦争が起つた場合、英国は米国と戦ふのは情に於て忍びない、また米国も日英同盟を目の敵として叫喚し、更に英領加奈陀カナダを説いて反対せしめたので、英国も遂に局面打開策を講ぜねばならなかつた。折柄英米仲裁々判条約につき談判中だつたので、英国は此条約を結び附け、万一の際日米戦争に参加を回避すると云ふ案を立て、駐英加藤大使との間に談判終結し、一九一一年(明治四十四年)七月十三日彼我全権調印を了した。

然るに英米仲裁々判条約は、皮肉にも米国上院で否決され、改訂条約第四条仲裁々判条約の文字を無効に帰せしめてしまつた。

この日英同盟は最初露国の南侵防禦の為めであつたが、日露戦争により、東洋に於ける露国の勢力が一掃されて、露国の脅威は殆んど消滅に帰したるを以て、第二次に於て印度の保全に及んで来た。是に於て英国は欧洲に事ある時、印度の保全を日本に托し、後顧の憂ひなくして戦争に従事し得るのだ。英国は近年独逸の擡頭、海軍拡張に鑑み、他日此事あるを豫期してゐたのである。

柴田俊三『日英外交裏面史』(昭和16年、 秀文閣)より

日英同盟――(2)三国干渉と英国

三国干渉と英国


日本全国民は有利な講和条件に歓喜抃舞べんぶして、万歳の声はとゞろきて山河にこだますると云ふ真つ只中へ、青天霹靂的に三国干渉の巨弾に見舞はれ、歓楽の天国から悲観の奈落へ突落された如く、暗然涙を吞む非運に沈んでしまつた。抑も日本が遼東半島を領有することは、露国に宿昔しゆくせき懐抱する南進策を封鎖するもので、到底彼の承認し得る所でない。同盟国たる仏国を誘ひ、豫て山東省に野心を持つ独逸を引入れ、三国干渉と出掛けたわけである。露国は英国も誘つたが、英国は此手に乗らなかつた。

露国が南岸に不凍港を獲得せんとするのは、ピーター帝以来の大策であつた。露国が先づ手を伸べたのは手近の土耳其トルコで、黒海よりダーダネルス海峡を経、地中海へ出づる線の領有である。ニコラス一世は土耳其に対し、其の領内の希臘教徒保護権を要求し、土耳其の拒絶するや直ちに砲火を以て向つた。英仏聯合軍は土耳其を援けて、クリミヤ半島セバストポールの要塞を抜くに及び、露国遂に屈して和を請ひ、一八五六年(安政三年)巴里パリ条約を締結して講和した。是れ有名なクリミヤ戦争である。

クリミヤ戦後土耳其は国政乱れ、耶蘇教徒が迫害を受けたので、一八七七年(明治十年)露国は土耳其国内の教徒保護を名として兵を進め開戦するに至つた。露軍は次第に土軍を圧し、アドリヤノープルを占領して、まさに首都コンスタンチノープルに迫る勢を示したので、土耳其は遂に屈服し、一八七八年(明治十一年)講和成立した。之より先、露軍のコンスタンチノープルに迫らんとするや、英国は大に驚き艦隊を黒海に入れて示威した。墺国も亦露国の南下を怖るゝものである。独逸の宰相ビスマークの調停により、伯林ベルリンで列国会議を開き、露国の土耳其から得た利益を削減してしまつた。

露国は当年の恨みを忘るゝことは出来ない。此手を其のまゝ持つて来て三国干渉を試みたのである。江戸の仇を長崎を伐つどころでない。欧洲の仇を極東で伐つたのだ。

露国は南の出口を二度とも英国の為めに抑へられた。更に東に廻つて小亜細亜のバグダッドから波斯ペルシヤ湾へ出ようとすると、此処でも英国が大手を挙げて押出さうとする。其東は印度、安南の鉄壁である。遂に大転回して極東に向はんと機会を狙つてゐる矢先、日本が遼東半島を領有するに於ては、露国積年の希望はもう絶望だ。

日本が折角取つた遼東半島を清国へ還附するのは、大陸へ伸びんとする意慾を粉砕され、戦勝の威厳を損する屈辱であるが、今我が艦隊は台湾占領の為め南遣中であり、且つ既に戦に疲れて、欧洲の三強国を向ふに廻し戦ふ気力はない。芝罘に三国艦隊が集中し、スワといはば何時でも発動する用意は整つてゐる。こゝに至つて血涙を吞んで干渉に応ずる外策なきも、一応英、米、伊諸国の後援を求めることにした。加藤駐英公使は我が政府の訓令により、英国外相を訪問して縷々苦境に立つ現状を説き、英国を動かさんとした。外相即ち曰く、
『此事件につき英国政府は一切干渉せざることに決定してゐる。日本に協力することは、是れ亦一種の干渉に外ならない。英国に取つては露、独、仏も、日本同様友国のことなれば、英国は此際彼是かれこれ酌量して、其の威厳上自己の決断と責任を以て行動すべきである。但し露、独、仏は果して何処まで其の主張を固持するか明かでないが、形勢頗る容易ならざるものあるに依り、日本は之に対して十二分の覚悟を要す』
と、英国の立場よりすれば公平な態度であらう。日本は英国の援助を得ることは出来なかつたが、英国の干渉に加はらざりしを寧ろ徳とした。三国干渉に先立ち駐支英国公使オコンナーは、露国公使の賛成を得て日本の大陸進出を阻む為め海軍威嚇政策を進言したが、英国政府は之を許さなかつた。蓋し英国は東洋の権益確守の為め、日本を利用せんと考へたのであらう。米国亦動かず、一旦伊太利は乗出さんとしたが、英米の静観せるを見て手を引き、日本は孤立無援の窮地に陥つた。

清国全権李鴻章は講和成立するや即日帰途に就き、船上から日本に向ひ赤い舌をペロリと吐き出し、皮肉な微少を面上に浮べたといふ伝説がある。真偽の程は保証の限りでないが、芝罘に於ける批准交換に先んじ、三国干渉の虎威を借り、其の延期を提言した事実がある。

日本は遼東半島還附の条件として、第三国に不割譲不租借を交渉したが、清国は之を拒絶して日本をへこました積りでゐたが、後日、露国に占領せられた。のみならず独、仏は素より、英国までが便乗して土地を租借し、尚ほ且つ鉄道敷設権、土地不割譲などの形式を以て、列国瓜分の形成を成し、其の桎梏に苦しまねばならなかつたのは、自業自得といふべきである。

柴田俊三『日英外交裏面史』(昭和16年、 秀文閣)より

2015年5月16日土曜日

日英同盟――(1)日清戦争と英国

日清戦争と英国


日英条約改正談判中であつた。日清間に於ける朝鮮問題は益々緊迫して風雲たゞならず、何時火蓋は切つて放たるゝか計り知るべからざるに至り、談判は此問題に推進せられ、俄かに活気を加へて来た。而して日清問題の本体につき、冷然と白眼を以て視てゐたのは英国と露国であつた。

日清戦争の結果若し日本が勝利を得たならば、多年南下政策を行ひ、不凍港を獲得せんとの機会を失ふであらう、是れ露国の憂ふる所である。南京条約以来孜々しゝ汲々支那に扶植した優越権に、何等かの脅威を与へらるゝであらう、是れ英国のおそれる所である。日清国交の危機を告ぐるや、露国から三回、英国から二回の干渉あり、米、仏、独からも微弱な干渉があつた。最初英国の仲裁案を持出した時、支那側の不誠意により画餅に帰し、第二回目に至つては、最早時局が切迫して、外国の仲裁を容るゝ餘地なき迄になつてゐた。何れにしても露国と英国とは、日本の勢力が大陸に拡延せんことを怖れたのは同一で、日本の進出を阻止しようと試みたのだが、共に能く最後の目的を達成することは出来なかつた。そこで英国は経済的本拠たる上海けなりとも、戦争の惨禍より免れしめんと、上海の中立案を提議して来た。陸奥外相は再三英国の仲裁案を退け、尚ほ此上にも英国の感情を害せんことを慮り同意した。所が戦時に入ると支那は中立地帯を利用して策源地としたのである。何の事はない。支那の為め不可侵の安全地帯を提供した様な結果となつたので、英国へ抗議を申込むと、中立地帯を承諾しながらと反撃し来るので、日本も断乎たる決意を示すに至つたが、其のうちに戦争は日本の有利に発展したので、英国も大に覚醒する所があつた。

宣戦布告前即ち七月二十五日朝鮮豊島沖で、日清軍艦始て砲火相見えた。我が軍艦は英国旗を掲げた運送船高陞号を撃沈したので、日英間の国際問題となつたが、清国の将兵は英国人船長の自由を拘束し、且つ日清開戦に至らば直ちに清国に帰属すと云ふ条件になつてゐたので、幸ひ無事解決したが、一時英国に於ける輿論は日本に対し非常に激烈なるものであつた。

二名の米国人が桑港サンフランシスコから英船ゲーリック号に搭乗して出帆した。此二米人は清国の軍事幇助の嫌疑者たりとの報告があつたので、十一月五日同号が横濱入港の際、我が海軍武官が臨検すると、既に彼等は其の前日仏船シドニー号に転乗して神戸に向ひ出帆してゐた。然るに此臨検が問題になり、英国公使から臨検した理由の辯明を求めて来た。日本政府は彼等は日本に敵対する行為を目的として清国に赴くもので、交戦国の権利なりと主張したが、英国公使は容易に認諾せず、尚ほ数回交渉を続けられ、結局有耶無耶のうちに立消えになつてしまつた。是れ治外法権と戦時国際法との相剋である。然るに仏船の神戸へ入港するやまた臨検を受け、一転して日仏間の問題となつたが、之も戦時国際法を破ることは出来なかつた。兎角彼等は治外法権に重きを置き、何事でも之により処理せんと云ふ錯覚に出でたのである。

英国東洋艦隊司令長官フリーマントルの率ゆる艦隊が洋上に於て我が艦隊に邂逅した時、彼はわざと轟々祝砲を放つて、清国側に我が艦隊の所在を知らしめたり、また我が伊東司令長官に書を送つて、英国の商船は我が保護の下にあるを以て、若し日本軍艦の臨検捜査ある時は、不測の変を招くことあるべしなどと、日本の交戦権に拘束を加へんと謀るなど、其の言動不穏なるを以て、我が国は英国政府に交渉すると、是はフリーマントルの誤解なりと、彼に訓戒する所あり、日清戦争の初期に於て、英人の対日感情は面白くなかつた。

戦局が進むと清国は漸々悲観に陥り、列国に愁訴して干渉を求むるのだ。英国政府は動かされたのか、十月八日駐日公使トレンチは、本国政府の訓令なりと称し、戦争終熄に関する調停案を持出したが、政府は未だ其の時期にあらずと拒絶した。

斯くて清国の敗北は愈々確実となり、首都北京のまもりも危くなつて来たので、清国は遂に屈して講和を求め、明治二十八年三月二十日我が全権伊藤博文、陸奥宗光、清国全権李鴻章との間に初会見となり、四月十七日に至り講和条約成立調印ををはつて、日清間はこゝに全く平和克復した。

元来欧米諸国は日本が欧洲流の軍事施設を模倣し得るも、文明的規律節制の下に運用し得るか否かを危ぶんでゐた。然るに日本軍隊の規律厳粛なること、戦争に関する総ての行動が敏活整備せること、衛生救護の行届けること、公法を厳守して中立国の権益を尊重すること等、欧米文明国と伍して少しも遜色なきを知るに及び、日清開戦の当初日本の態度を疑懼ぎくし、冷眼視してゐた英国も、平壌及び黄海に於て我が軍の大勝するや、漸次認識を改めて来た。倫敦ロンドン駐剳内田臨時公使の報告に曰く、『本官は英国上流社会の人々より、我が国の戦勝に対し祝辞を受けたり、当国の各新聞は大概日本の戦勝を祝し、又之に満足の意を表してゐる』と、其の論調を引用してゐる。
日本の軍功は勝者たるの賞誉を受くるに足る、吾曹ごさうは爾後日本国を以て東方一個の活勢力と認めざるを得ず、苟も英国人にあつては彼此の利害大に同じく、且つ早晩相密接すべき此新に勃興せる島国人民に対し、毫も嫉妬の心を挟むべからず。(タイムス) 
甞て英国人は日本を教導したが、今は日本は英国を教導すべき時期到来せり。(ガゼット)
由来西人は日本を支那の属国くらゐに考へ、日清戦争も内乱程度に思つてゐたのだが、こゝに至つて日本なるものゝ実体を見直したのである。

柴田俊三『日英外交裏面史』(昭和16年、 秀文閣)より

拳匪の乱と北京議定書(石井菊次郎)

明治三十三年早春支那の山東省に義和団の騒動が起つたと聞いた時我輩は北京に在つて別に注意もしなかつたが、爾後拳匪は倍々ますます猖獗となり、而も北京を指して進軍するとの注進が続々来たから、北京外交団では各公使館から故参こさん通訳官を出して会議せしめた。其会議では満場一致で義和団の乱とは名が大に過ぎる、古来支那には祕密結社が幾つもあつて時に蠢動することはあるが固より大事を起し得るものではない、地方宣教師から悲観的報告が来るのは彼等の恐怖心に出でたので歯牙にかくるに足らないと云ふ結論に達した。外交団は此の会議の復命に接してから至極暢気に日を送つて居た。然るに加特力カトリックの牧師から仏国公使館に到達した内報に依ると事態はどうも重大性を帯ぶるの観ありて牧師の恐怖心より出でたる想像としては餘りに実情を穿つて居つたから、今度は公使会議が開かれた。其所で仏国公使ピシヨン氏だけはひとり悲観説を述べたが他の公使はさきの通訳官会議の報告が先入主となつて居るため相変らず重きを置かなかつた。斯くていよいよ事態の重大さを正解した時は、拳匪が業已すでに山東省境を越えて直隷に深く侵入し、其一部は北京の直近まで進むだ頃であつた。支那に長居したものは自然支那化せられて支那の事は却つて分らなくなると謂ふが支那通の訳官等はまさに其新証拠を提供したのであつた。手後れの外交団は今更に狼狽して太沽タークー碇泊の軍艦から陸戦隊を招致する事に決したが、各国軍艦は何れも千トン足らずの警備艦の事とて多数の陸戦隊を送ることあたはず、日英米露独仏墺伊八個国の士官下士以下合せて四百二十名に過ぎなかつた。北京に於ける外交団及在留外国人を数万に上る拳匪の重囲より救ひ出すはかゝる貧弱なる陸戦隊の企及し能はざること勿論であるから、列国は別に救援軍を急派することとなり、就中なかんづく我国は地理上の関係から逸早く有力なる軍隊を派遣した。北京籠城者をさに陥落せんとする間際に救助し得たのは主として我第五師団の活躍に帰すべきであつた。

斯くて聯合軍は在北京外交団及在留外国人救援の目的を首尾よく達したので、舞台は再び外交に戻つた。第一に起つた問題は支那政府の責任であつたが、それには異論がなかつた。北支那に在留したる外国人を攻撃しあまつさへ各国公使館を包囲していはゆる洋鬼を屠らんとしたのは単り義和団迷信の乱民ばかりでなく、董福祥の正兵は公然之に加はり、端郡王までが西太后を擁して采配を振つた証拠は歴然争ふべくもなかつた。然ればこそ西太后は朝廷を率いて西安に蒙塵した訳であれ。次の問題は清国政府に強要すべき各国政府及居留民の賠償であつた。これ亦列国の権利と支那の義務とは論点とはならずして問題は賠償金額であつた。茲に至つて会議は暫く停頓状態に陥つた。列国代表は相互に他の顔を見合はして誰も口を開くものはなかつた。政府の賠償として救援軍派遣の軍費実額、被害在留民の賠償としては直接損害に限るとの原則は立所に決定せられたるものの政府の軍費実額と云ひ、個人の直接損害と云ひ之を検査し取捨するものは各自国政府のみであるから、中に過分の申出を敢てする国があつても誰とて制限する者はなかつた。対手は抵抗力を失ひたる支那政府のみで、つまり賠償金額の餘りに不当なる膨脹を押へるものとては列国政府及代表の良心だけであつた。而も此時代の列国会議の代表に良心の発揮を望むは六ヶ敷むつかしき所であつた。

此時進むで良心を発揮したものは日本代表小村寿太郎氏であつた。彼は本国政府より受領せる調書に依つて日本の要求額を五千万円と切り出した。是より米英仏露独以下の諸国相次で掌中の骨牌こつぱいを示した。斯くて列国の対清要求額は
露国(日本貨換算)一八〇、〇〇〇、〇〇〇
独逸   〃 一三〇、〇〇〇、〇〇〇
仏国   〃 一〇〇、〇〇〇、〇〇〇
英国   〃 七〇、〇〇〇、〇〇〇
日本   〃 五〇、〇〇〇、〇〇〇
米国   〃 四五、〇〇〇、〇〇〇
伊国   〃 三八、〇〇〇、〇〇〇
白国   〃 一二、〇〇〇、〇〇〇
以下墺、蘭、西、瑞典スウェーデンポルトガル等合せて四億五千万両即ち六億三千万餘円の額に上つた。前述の始末だから此額は其まま清国政府に提出し、先方の承諾を取り付けたのであつた。転じて救援聯合軍の組織如何と言ふに我輩の記憶に依れば
日本一〇、〇〇〇五十四門
露国四、〇〇〇十六門
英国三、〇〇〇十二門
米国二、〇〇〇六門
仏国八〇〇十二門
独国二〇〇
墺国
伊国一〇〇
総計二万一百一百門
以上列国の対清賠償要求額と列国が提供したる救援軍隊の人数砲数とを対照すれば其所に顕著なる矛盾が見える。日本に次で比較的穏当に見ゆるは米英両国の要求額である。英米両国は其軍人に対する実際支給額が他国に比し遥かに多額なるがためヴェルサイユ条約に因る萊因ライン占領軍費に於ても独逸は少数の英米軍隊に対し、多数の仏白軍よりも却つて多額の支払を為さしめられたる位である。其事情を斟酌すれば上掲英米両国の要求額は無謀に多過ぎるとは思はれない。其他は日本に比し不当に多額であつたことは一見して分る。露国は満洲各要所に多数の軍隊を配置したが救援隊としては我国の半数にも達しない。而して満洲の配兵は露国の野心に基く行動に属すべきものだから其軍費は清国に要求すべからざるは勿論であつた。独逸は北京救援の目的が達せられたる後に至り無用の軍隊にヴァルデルズィイ元帥までも附けて送派し、北京着後餘りの無事に苦むで保定遠征と称して軍隊の遠足旅行を敢てしたる外、真に正当防衛の行動としては籠城前に送つた三四十名の陸戦隊と青島よりの追送を併せて二百人であつた。仏国は印度支那より千人足らずの安南兵を派遣したに過ぎない。斯る連中が救援事業の五割以上を負担したる日本に数倍するの賠償金額を受くることとなりたる結果は獅子の分け前と謂はん奇怪千万であつた。要するに無抵抗に陥つた支那を相手とする此賠償要求問題に於て支那に対し十二分の好意を表し謙抑心を発揮したのは日本一国で、米英之にぎ、其他は全然論外であつた。但し我輩は一概に如上他国要求額を不当過多と謂ふのではない。支那政府を懲罰する意味に於てならば其の要求額は不当に非ずとも謂へよう。而も北京公使会議が対清国政府要求を支那の支払能力を斟酌して軍費及損害の実際額に止むべきことを自制的に決定したる以上他国の要求は支那に対しては兎も角右決定に対して過多なりと謂はざるを得ない。

はじめ帝国政府は我要求最少限を五千万円と概算して之を小村公使の参考までに電示したのであつたが、北京会議は前述の如く誰とて口を開く者がなかつたから、小村公使は其裁量を以て正義及対支友情の模範を示したのであつた。然るに事は志と違ひ、他国の代表中米英の外には我誠実を感賞するものもなくて遠慮なく膨大なる巨額を申出でた。支那人は乞ふくわいより始めよと謂ふが斯る場合に列強に先んじて口を開くは考へ物である。日本には「物言へば唇寒し秋の風」といふ誡がある、外交には此誡の方が大事である様だ。欧洲列強は弱国に対する強要事件に幾度か経験をつて居たからんな始末となつたのである。若し一九一九年の仏蘭西が明治三十三年の日本であつたとすれば彼はヴェルサイユ条約に於けるが如くに対支要求全額の五割強即ち四億円位を申立てたでもあらう。何と言つても列国は古狸で単り当時の日本は未だ経験に乏かつた。政治問題に関し列国会議に加はつたのは之が初回であつた。此初舞台に於て日本の代表が五千万円の実費賠償を受けた上に我外交の正義一点張を発揮したことは満足と視られないこともない。

石井菊次郎『外交餘録』(昭和5年、岩波書店)より

北清事変――(3)媾和と列国の態度

其三 媾和と列国の態度


北京の陥落後列国軍は討匪して治安の恢復を図ると共に政情の安定を待つたが、十月十一日漸く李鴻章の北京帰着を待ちて媾和の交渉に入つた。十月十五日始めて正式の交渉が開かれたが、元兇の処分問題、償金問題等で交渉容易に進展せず、加ふるにこの間露清密約問題の起るあり、その交渉は遂にその年中に纏らず、翌三十四年に持ち越された。

『北淸事變寫眞帖』(第五師團司令部、小川一眞、明治35年)より

抑〻露国の企図する所は満洲の完全占領であり、日清戦役の後我が国に干渉して遼東半島を還附せしめて程なく、明治三十一年三月、旅順、大連を租借し、且つこの二港に通ずる鉄道敷設の権利を獲得して鋭意その野望達成に努めつつあつた時、本事変勃発し、好機逸すべからずとして本事変への出兵を名として全満洲に兵備し、殊に三十三年七月、北清の騒乱が満洲にも波及し、露国の経営する鉄道の一部破壊せらるるや、これを機として数十万の大兵を満洲に入れ、その要地を占領せしめ、又媾和交渉に移つては上海より北上の途にある李鴻章を天津に抑留して交渉開始の遷延を策し、この間清朝を威嚇して満洲独占の密約、即ち露清密約に調印を迫るの行為に出たことが判り我が国を始め列国の酷しい抗議を受け、その密約も有耶無耶とはなつたが、かかる露国の陰謀で、交渉は遷延に遷延を重ね、漸く明治三十四年九月七日に至り、年餘に亘るこの事変も、清国と列国との間に、要旨次の如き媾和条約に調印を了した。

『北淸事變寫眞帖』(第五師團司令部、小川一眞、明治35年)より

条約の要旨は、清国に兵器弾薬の輸入を禁止すること。清国は償金として四億五千万海関両を支払ふこと。各国公使館所在の区域を各国公使館警察権の下に置き、尚各国公使館護衛の為め常に護衛兵を置くの権を認むること。太沽並びに北京、太沽間の諸砲台を廃棄すること。各国の黄村、郎房、楊村、天津、軍糧城、塘沽、蘆台、唐山、濼州、昌黎、秦皇島及び山海関を占領する権利を認むる事。列国は九月二十二日を以て占領地及び公使館に置くべきものの外全部の軍隊を直隷省より撤退すべきこと。といふのであつた。

『北淸事變寫眞帖』(第五師團司令部、小川一眞、明治35年)より


右条約に基き我が国は明治三十四年五月下旬、歩兵四大隊を基幹とする混成部隊を以て北清駐屯軍を編成して出征軍と交代せしめたので、出征軍は六月下旬以降逐次撤兵帰還した。

かくして亜欧米の三洲八個国の陸海軍が、確乎たる統一した指揮もなく、然も外交関係の機微複雑を極めた作戦を遂行して明治三十三年事変は終了したが、本作戦に於て我が国軍がその真価を列強軍の眼前に展開して日清戦役に於ける名声を挙証し、以て帝国の国際的地位を向上すると共に、軍紀厳正、態度公明、秋毫も犯す所なく、常に能く列国の野望を抑制して東亜平和の確立と、支那の領土保全に努め、皇軍雄飛の姿を列国軍の前に顕現したのである。

『北淸事變寫眞帖』(第五師團司令部、小川一眞、明治35年)より

本事変を通じて見る列国の態度は、専ら政策上の打算に依つて動き、其の出兵目的の真意には支那に対する独自の野望を持して居り、従つてその行動も亦区々であり、殊に露国に至つては最も露骨に然も大胆にもその爪牙を露はし、露清密約の一件によつてもその大体を窺知し得らるるのである。独逸も亦膠州湾占領以来、支那侵略の歩を進めんとする機をうかがつてゐた際とて、北京救援成つた後、ワルデルゼー元帥は東亜軍司令部と約一旅団を率ゐて来り、列国会議の結果、列国軍総指揮官と決定したが、元帥自身は北京に落着かず、地方土匪の討伐を名として北部支那の各地に独軍を派し、以て政略出兵の目的遂行に遺憾なきを期し、仏国も亦機あらば広東、広西の利権拡大を冀ひ、比較的英、米、伊、墺はその野心を露骨ならしめず、事変の速かなる落着を希望してゐたやうであつた。

『北淸事變寫眞帖』(第五師團司令部、小川一眞、明治35年)より


『陸軍五十年史』(桑木崇明、昭和18年、鱒書房)より


ところで、下の写真も北清事変で派遣された日本軍を撮影したものです。

さて、これは何をしてゐる場面でせう?


さうです、日本軍工兵が現地で道路を修築してゐるのです。

よく見ると、道端には現地人も一緒に何やら作業をしてをり、側溝も綺麗に造られつゝあります。

かういふ光景、最近も何処かで見たことがあるやうな……。

PKO(平和維持活動)なんてごく現代的な事のやうですが、実は我が日本軍は昔からやつて来たんですね。

これが115年経つても変らぬ“我が軍”の姿なのです。

南スーダンPKO派遣自衛隊
(防衛省HPより拝借)

北清事変――(2)列国陸軍の出動

其二 列国陸軍の出動


一、天津作戦

述べ来つた如く、六月中旬に於て、天津城外に清国軍は、聶士成の約八千、馬玉崑の約六千、羅栄光の約三千、何永盛の約千六百、計一万八千六百の官兵と、団匪約三万を集めてこれを包囲し、然も清国政府は六月二十一日宣戦的な布告を出し、義和団を賞揚し、四億の民すべて外敵と干戈を交へて仇陣を陥れ、との上諭を発するあり、清国側の軍おほいに気勢を添へて、愈〻その攻撃は猛烈となり、列国軍は辛うじて僅少なる兵力を擁して、専ら防守に努むるの状態であつた。

かかる情勢に当面して、我が国は六月十五日の閣議に於て混成約一聯隊の臨時派遣隊を編成して派遣するに決し、第五、第十一師団の各一部を以て編成した部隊を、福島安正少将の指揮を以て現地に急派した。

これより先き六月十日天津を発した第二次分遣隊が、北京に赴く途中、三万に餘る匪徒に包囲され進退両難に陥つた時、それとは知らず我が日本公使館員杉山書記生が、分遣隊出迎の為め、十一日公使館を出た、然るに途中清国官兵董福祥部下の騎兵に捕へられて殺され、更に同二十日独逸公使ケットレル男爵が、清国政府と単独交渉に赴いた途中、同じく董部下の官兵の為に殺され、十五日以後は北京、天津間の通信は杜絶し、墺、米、伊、蘭諸国の公使館は焼払はれ、露国公使館も亦その一部は焼かれ、二十日以後、端郡王、荘親王、董福祥等の王族を始め諸将自ら団匪と合して各国の公使館を攻撃し、一方聶、馬等の諸将をして天津攻略、太沽奪還に向はしめたのであつた。

『北淸事變寫眞帖』柴田常吉/深谷駒吉、吉澤商店、明治34年)より

六月十八日我が国は、臨時派遣隊全部を急遽現地に向はしめ、その第一次輸送部隊は六月二十三日、第二次のものは同二十五日太沽に到着し、七月四日その上陸を完了した。

この派遣隊の出動後も、現地の情勢は悪化の一路を辿るのみであつたので、更にその兵力増派の要を認め、列国よりの要請、殊に英国は、南清方面の防護に兵力を要する関係上、地理的関係よりも北清方面に我が国より相当の兵力増派を要望し、財政的援助もなさんとの申入れがあつたが、その前既に六月二十六日、第五師団の動員を命じ、七月七日その出動は命ぜられた。(長山口素臣中将)同師団は九日以降逐次宇品を出帆して七月十四日より八月十六日の間に太沽に到着した。

『北淸事變寫眞帖』柴田常吉/深谷駒吉、吉澤商店、明治34年)より

敵の重囲にある天津居留地は、六月十七日、二十九日の両度清国軍の攻撃を受けた。然るにこの時には二十三日、英、独、露の陸軍約二千二百が到着し、二十六日には第二次派遣隊の天津に復帰するあり、その兵員総数約七千三百に達し、更に二十九日我が臨時派遣隊の一部約九百の到着するあつて、清国軍の攻撃を撃退するを得たが、七月四日頃より更に第二回の猛攻を蒙つた。然し列国軍は単に専守防禦に専念し敢て攻勢的な企図には出でなかつた。

この頃天津に集まつた列国陸軍は、日本の約三千八百、英国の約二千二百、米国の約千六百、露国の約六千九百、仏国の約千九百、独逸の約五百、墺、伊の約二百五十、総計一万七千餘であつた。茲に於て我が福島少将は、徒らに専守防禦をなすの不利を説き、攻勢的作戦に出づべき旨を述べ、列国軍の同意を得て、七月十三日より天津城攻撃を実施し、白河右岸より日、英、米、仏、伊の軍を以て天津城に向ふ事とし、露、独、墺軍は白河左岸より天津東北地区を攻撃し、翌十四日払暁、我が軍の天津城南門の爆破が動機となり列国軍も亦城内に進み、午前九時天津城は列国軍の占領する所となつた。

この戦闘は本事変中に於ける最大なるものであつたと共に我が国軍の行動は列強軍の斉しく賞讃措かざる所であつた。

『北淸事變寫眞帖』柴田常吉/深谷駒吉、吉澤商店、明治34年)より

二、北京の救援

天津城の攻略なるや、その敗報を得た清国政府に於ては、温和派が再びその勢力を恢復し、七月上旬特に猛烈を極めた公使館攻撃も十七日以来は一時休戦の状態となり、爾後主として外交期に入つた。

『北淸事變寫眞帖』(第五師團司令部、小川一眞、明治35年)より

一方天津に於ける敗兵は、近く北倉附近に陣地を占領し、直隷総督裕禄之、これを指揮してその兵力二万に達し、天津西南に蟠居する団匪亦これに呼応し、加之のみならず北京の状勢はその救援一日の遅延を許さぬ情況にあつた。

即ち北京に在つては、六月十三日清国兵及び団匪の北京包囲よりこのかた、七月十七日の休戦状態に入る迄、全く孤立無援、漸く第一次派遣隊四百四十二名と、各国義勇兵とに依つて辛うじて守備して居り、多大の苦難を嘗めて救援の一日もはやからんをねがひ、弾薬は缺乏し、食糧又尽き、遂に馬を屠つて食するといふ惨憺たる情況であつた。七月十八日に福島少将の密使が日本公使館に到り、漸く天津の落城を知り、列国軍は程なく北京救援に向ふ旨を承知し、唯その日の速かに来らんことを鶴首してゐた。

情況此の如きにも拘はらず、最も大なる兵力を有する露軍は、敢て北京救援の前進を喜ばず、寧ろ却つて事変の拡大を望むの傾向があつた。茲に於て我が第五師団長山口中将は師団主力の逐次天津に到着しつつあるを以て、列国軍指揮官会議を慫慂しようようして、八月三日これを天津に開催し、急速前進を開始して北京を救援すべきを主張し、列国軍をして遂にこれを決せしめた。我が第五師団主力の来着により、列国軍の兵力は、日本一万三千、英国五千八百、米国四千、露国八千、仏国二千、独逸四百五十(海兵のみ)、伊国百、墺国百五十、合計三万三千五百となり、八月五日列国軍は行動を開始するに決し、日、英、米軍は白河右岸の地区より、露、仏、独、墺、伊の軍は同河左岸の地区より前進して、先づ北倉の敵を攻撃してこれを撃破し、六日楊村、七日南蔡村、十二日通州、十三日北京城外近くに達し、十四日を期して列国軍は北京城に拠る敵を攻撃し、同日午後始めて公使館と連絡するを得、列国公使館は籠城以来七十日にして重囲を脱するを得、北京の救援はここになつたのである。

『北淸事變寫眞帖』(第五師團司令部、小川一眞、明治35年)より

清国皇帝は十五日倉皇さうくわうとして北京を脱し、陝西省の西安府に蒙塵した。

北京占領後列国軍は、北京の秩序恢復、並に附近の敗兵や団匪の討伐に従事したが、その後増派さるる列国軍の新鋭を加ふるに従ひ、その占領地区を拡張し、九月二十日、露、独、仏、墺の軍は北塘砲台を占領し、露軍は更に蘆台をも占領した。又列国艦隊及び陸兵は十月二日山海関を占領した。

『北淸事變寫眞帖』(第五師團司令部、小川一眞、明治35年)より

次で独逸元帥ワルデルゼーが聯合軍指揮官として約一旅団の兵を以て十月十七日北京に入り、爾後直隷省各地に討伐を行ひ、敗兵及び団匪を一掃した。

『陸軍五十年史』(桑木崇明、昭和18年、鱒書房)より

2015年5月15日金曜日

北清事変――(1)義和団と北清の情勢

其一 義和団と北清の情勢


支那に古くから存在した義和団なるものは、宗教的政治的の祕密結社で、義和拳といふ拳闘のやうな術を行ふ所から、一名拳匪けんぴともいひ、団匪だんぴともいはれた。元朝以来数百年の存在で、もともと白蓮教と称したものだが、元、明時代を経て清朝となり、これ等教徒の団体が清朝覆滅の政治的陰謀を企てた事が暴露し、清朝のこの教徒に対する圧迫が酷烈であつた為め、教名を改めると共に、天理、八卦の二派に分れ、それが更に分れて多くの部門をもち、専ら山東、直隷の地に広く散在してをつたのである。

所が清朝が十九世紀の後半以来、欧洲勢力の東漸に依つてその威信を失し、国内は守旧、進歩の二派に分れてその軋轢が甚だしかつた時、日清戦争の結果殊更にその弱点を中外に暴露し、列強侵略の魔手は時を逐うて甚だしくなるや、排外思想はとみに激発し、進歩党である康有為一派が、変法自彊じきやう策を立案したが、実権は西太后一派の守旧派の壟断する所であり、加ふるに内に清廷継嗣問題で紛糾するあり、結局守旧派が政権を弄することとなつた。その結果、清廷内の大小策士はその間に策動して或は愚民を煽動し、果ては仇教滅洋を標識とする義和団と一脈相通じ、遂に排外暴動の勃発を見るに至つた。

明治三十三年四月二十七日、直隷省保定に先づ烽火を挙げた義和団は、外国の教会堂を焼き、宣教師を殺す等の暴行を敢てした。この情報を伝へ聞いた各地の団匪は、一斉に蜂起し、北京、天津は更なり直隷省一帯に亘つて暴虐を逞うした。

この情況に直面した各国公使は、排外暴動の容易ならざるを慮り、五月二十日列国公使会議を開いて、これが鎮定を清国政府に申入れた。然るに清国政府は更に要領を得ず、第二回の勧告を行ふと同時に、自衛上公使館護衛兵を、各国より招致することとした。

我が国は公使のこの請求により、即日塘沽碇泊中の軍艦愛宕より士官二名、水兵二十二名を派遣し、五月二十九日天津に到着し、当時列国兵の派遣されたる兵と合した三百四十一人を同日午後北京に派遣した。

次で六月十日、北京天津間の電信不通となつたので、その日更に列強八ヶ国の水兵約二千餘(我が国は五十二名)を第二次分遣隊とし、鉄道電信の工事材料及び工夫を伴ひ、北京公使館護衛の補充とし、英国東洋艦隊司令官セーモアー総指揮の下に天津を出発した。

先きに派遣した第一次分遣隊は、五月三十一日天津を発し、六月三日北京に着して公使館区域の防備に就いたが、第二次分遣隊は、天津を発し六月十二日郎房に達するや、北京方面より来た支那官兵及び団匪の為め、鉄道は破壊せられ、その前進を続行することが出来ず、然も補給の途は絶えて如何ともなし能はず、十八日後退して二十六日天津に帰還し、北京は茲に孤立の状態に陥つた。

この間、六月十七日午前零時半頃、太沽の砲台備砲大小百七十七門が、一斉に砲門を開いて列国艦隊を砲撃したので、列国軍艦これに応戦すること約四時間、太沽砲台をして沈黙せしむるに至つた。この攻撃に当り我が軍艦は吃水の関係上、これに参加しなかつた。一方塘沽にあつた列国の陸戦隊は、砲台占領に向ひ、列国軍合計八百五十名(我が陸戦隊三百名)が進撃に移つたが、敵前五百米の地点で列国軍は頓挫を来した。我が陸戦隊は勇躍して攻撃を敢行し一気に西北砲台を占領して列国軍を驚かしめ、次で他の三砲台も逐次占領し、交戦僅か五時間以内にて太沽砲台を完全に占領した。

『北淸事變寫眞帖』(第五師團司令部、小川一眞、明治35年)より


六月十七日早暁、太沽が列国軍に占領せられたとの報に、清国官兵は団匪と合し、十七日午後天津城外水師営砲台より各国居留地の砲撃を始めた。この時天津には露国の陸兵及び列国の海兵若干あるに過ぎずして、その兵力合して僅か三千なるに対し、これを囲む清国側は実に一万八千六百の官兵と、匪徒約三万の多数であり、情況は刻一刻と不安の度を増して来た。

『陸軍五十年史』(桑木崇明、昭和18年、鱒書房)より

『北淸事變寫眞帖』柴田常吉/深谷駒吉、吉澤商店、明治34年)より