2015年5月16日土曜日

北清事変――(2)列国陸軍の出動

其二 列国陸軍の出動


一、天津作戦

述べ来つた如く、六月中旬に於て、天津城外に清国軍は、聶士成の約八千、馬玉崑の約六千、羅栄光の約三千、何永盛の約千六百、計一万八千六百の官兵と、団匪約三万を集めてこれを包囲し、然も清国政府は六月二十一日宣戦的な布告を出し、義和団を賞揚し、四億の民すべて外敵と干戈を交へて仇陣を陥れ、との上諭を発するあり、清国側の軍おほいに気勢を添へて、愈〻その攻撃は猛烈となり、列国軍は辛うじて僅少なる兵力を擁して、専ら防守に努むるの状態であつた。

かかる情勢に当面して、我が国は六月十五日の閣議に於て混成約一聯隊の臨時派遣隊を編成して派遣するに決し、第五、第十一師団の各一部を以て編成した部隊を、福島安正少将の指揮を以て現地に急派した。

これより先き六月十日天津を発した第二次分遣隊が、北京に赴く途中、三万に餘る匪徒に包囲され進退両難に陥つた時、それとは知らず我が日本公使館員杉山書記生が、分遣隊出迎の為め、十一日公使館を出た、然るに途中清国官兵董福祥部下の騎兵に捕へられて殺され、更に同二十日独逸公使ケットレル男爵が、清国政府と単独交渉に赴いた途中、同じく董部下の官兵の為に殺され、十五日以後は北京、天津間の通信は杜絶し、墺、米、伊、蘭諸国の公使館は焼払はれ、露国公使館も亦その一部は焼かれ、二十日以後、端郡王、荘親王、董福祥等の王族を始め諸将自ら団匪と合して各国の公使館を攻撃し、一方聶、馬等の諸将をして天津攻略、太沽奪還に向はしめたのであつた。

『北淸事變寫眞帖』柴田常吉/深谷駒吉、吉澤商店、明治34年)より

六月十八日我が国は、臨時派遣隊全部を急遽現地に向はしめ、その第一次輸送部隊は六月二十三日、第二次のものは同二十五日太沽に到着し、七月四日その上陸を完了した。

この派遣隊の出動後も、現地の情勢は悪化の一路を辿るのみであつたので、更にその兵力増派の要を認め、列国よりの要請、殊に英国は、南清方面の防護に兵力を要する関係上、地理的関係よりも北清方面に我が国より相当の兵力増派を要望し、財政的援助もなさんとの申入れがあつたが、その前既に六月二十六日、第五師団の動員を命じ、七月七日その出動は命ぜられた。(長山口素臣中将)同師団は九日以降逐次宇品を出帆して七月十四日より八月十六日の間に太沽に到着した。

『北淸事變寫眞帖』柴田常吉/深谷駒吉、吉澤商店、明治34年)より

敵の重囲にある天津居留地は、六月十七日、二十九日の両度清国軍の攻撃を受けた。然るにこの時には二十三日、英、独、露の陸軍約二千二百が到着し、二十六日には第二次派遣隊の天津に復帰するあり、その兵員総数約七千三百に達し、更に二十九日我が臨時派遣隊の一部約九百の到着するあつて、清国軍の攻撃を撃退するを得たが、七月四日頃より更に第二回の猛攻を蒙つた。然し列国軍は単に専守防禦に専念し敢て攻勢的な企図には出でなかつた。

この頃天津に集まつた列国陸軍は、日本の約三千八百、英国の約二千二百、米国の約千六百、露国の約六千九百、仏国の約千九百、独逸の約五百、墺、伊の約二百五十、総計一万七千餘であつた。茲に於て我が福島少将は、徒らに専守防禦をなすの不利を説き、攻勢的作戦に出づべき旨を述べ、列国軍の同意を得て、七月十三日より天津城攻撃を実施し、白河右岸より日、英、米、仏、伊の軍を以て天津城に向ふ事とし、露、独、墺軍は白河左岸より天津東北地区を攻撃し、翌十四日払暁、我が軍の天津城南門の爆破が動機となり列国軍も亦城内に進み、午前九時天津城は列国軍の占領する所となつた。

この戦闘は本事変中に於ける最大なるものであつたと共に我が国軍の行動は列強軍の斉しく賞讃措かざる所であつた。

『北淸事變寫眞帖』柴田常吉/深谷駒吉、吉澤商店、明治34年)より

二、北京の救援

天津城の攻略なるや、その敗報を得た清国政府に於ては、温和派が再びその勢力を恢復し、七月上旬特に猛烈を極めた公使館攻撃も十七日以来は一時休戦の状態となり、爾後主として外交期に入つた。

『北淸事變寫眞帖』(第五師團司令部、小川一眞、明治35年)より

一方天津に於ける敗兵は、近く北倉附近に陣地を占領し、直隷総督裕禄之、これを指揮してその兵力二万に達し、天津西南に蟠居する団匪亦これに呼応し、加之のみならず北京の状勢はその救援一日の遅延を許さぬ情況にあつた。

即ち北京に在つては、六月十三日清国兵及び団匪の北京包囲よりこのかた、七月十七日の休戦状態に入る迄、全く孤立無援、漸く第一次派遣隊四百四十二名と、各国義勇兵とに依つて辛うじて守備して居り、多大の苦難を嘗めて救援の一日もはやからんをねがひ、弾薬は缺乏し、食糧又尽き、遂に馬を屠つて食するといふ惨憺たる情況であつた。七月十八日に福島少将の密使が日本公使館に到り、漸く天津の落城を知り、列国軍は程なく北京救援に向ふ旨を承知し、唯その日の速かに来らんことを鶴首してゐた。

情況此の如きにも拘はらず、最も大なる兵力を有する露軍は、敢て北京救援の前進を喜ばず、寧ろ却つて事変の拡大を望むの傾向があつた。茲に於て我が第五師団長山口中将は師団主力の逐次天津に到着しつつあるを以て、列国軍指揮官会議を慫慂しようようして、八月三日これを天津に開催し、急速前進を開始して北京を救援すべきを主張し、列国軍をして遂にこれを決せしめた。我が第五師団主力の来着により、列国軍の兵力は、日本一万三千、英国五千八百、米国四千、露国八千、仏国二千、独逸四百五十(海兵のみ)、伊国百、墺国百五十、合計三万三千五百となり、八月五日列国軍は行動を開始するに決し、日、英、米軍は白河右岸の地区より、露、仏、独、墺、伊の軍は同河左岸の地区より前進して、先づ北倉の敵を攻撃してこれを撃破し、六日楊村、七日南蔡村、十二日通州、十三日北京城外近くに達し、十四日を期して列国軍は北京城に拠る敵を攻撃し、同日午後始めて公使館と連絡するを得、列国公使館は籠城以来七十日にして重囲を脱するを得、北京の救援はここになつたのである。

『北淸事變寫眞帖』(第五師團司令部、小川一眞、明治35年)より

清国皇帝は十五日倉皇さうくわうとして北京を脱し、陝西省の西安府に蒙塵した。

北京占領後列国軍は、北京の秩序恢復、並に附近の敗兵や団匪の討伐に従事したが、その後増派さるる列国軍の新鋭を加ふるに従ひ、その占領地区を拡張し、九月二十日、露、独、仏、墺の軍は北塘砲台を占領し、露軍は更に蘆台をも占領した。又列国艦隊及び陸兵は十月二日山海関を占領した。

『北淸事變寫眞帖』(第五師團司令部、小川一眞、明治35年)より

次で独逸元帥ワルデルゼーが聯合軍指揮官として約一旅団の兵を以て十月十七日北京に入り、爾後直隷省各地に討伐を行ひ、敗兵及び団匪を一掃した。

『陸軍五十年史』(桑木崇明、昭和18年、鱒書房)より

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