2015年5月16日土曜日

拳匪の乱と北京議定書(石井菊次郎)

明治三十三年早春支那の山東省に義和団の騒動が起つたと聞いた時我輩は北京に在つて別に注意もしなかつたが、爾後拳匪は倍々ますます猖獗となり、而も北京を指して進軍するとの注進が続々来たから、北京外交団では各公使館から故参こさん通訳官を出して会議せしめた。其会議では満場一致で義和団の乱とは名が大に過ぎる、古来支那には祕密結社が幾つもあつて時に蠢動することはあるが固より大事を起し得るものではない、地方宣教師から悲観的報告が来るのは彼等の恐怖心に出でたので歯牙にかくるに足らないと云ふ結論に達した。外交団は此の会議の復命に接してから至極暢気に日を送つて居た。然るに加特力カトリックの牧師から仏国公使館に到達した内報に依ると事態はどうも重大性を帯ぶるの観ありて牧師の恐怖心より出でたる想像としては餘りに実情を穿つて居つたから、今度は公使会議が開かれた。其所で仏国公使ピシヨン氏だけはひとり悲観説を述べたが他の公使はさきの通訳官会議の報告が先入主となつて居るため相変らず重きを置かなかつた。斯くていよいよ事態の重大さを正解した時は、拳匪が業已すでに山東省境を越えて直隷に深く侵入し、其一部は北京の直近まで進むだ頃であつた。支那に長居したものは自然支那化せられて支那の事は却つて分らなくなると謂ふが支那通の訳官等はまさに其新証拠を提供したのであつた。手後れの外交団は今更に狼狽して太沽タークー碇泊の軍艦から陸戦隊を招致する事に決したが、各国軍艦は何れも千トン足らずの警備艦の事とて多数の陸戦隊を送ることあたはず、日英米露独仏墺伊八個国の士官下士以下合せて四百二十名に過ぎなかつた。北京に於ける外交団及在留外国人を数万に上る拳匪の重囲より救ひ出すはかゝる貧弱なる陸戦隊の企及し能はざること勿論であるから、列国は別に救援軍を急派することとなり、就中なかんづく我国は地理上の関係から逸早く有力なる軍隊を派遣した。北京籠城者をさに陥落せんとする間際に救助し得たのは主として我第五師団の活躍に帰すべきであつた。

斯くて聯合軍は在北京外交団及在留外国人救援の目的を首尾よく達したので、舞台は再び外交に戻つた。第一に起つた問題は支那政府の責任であつたが、それには異論がなかつた。北支那に在留したる外国人を攻撃しあまつさへ各国公使館を包囲していはゆる洋鬼を屠らんとしたのは単り義和団迷信の乱民ばかりでなく、董福祥の正兵は公然之に加はり、端郡王までが西太后を擁して采配を振つた証拠は歴然争ふべくもなかつた。然ればこそ西太后は朝廷を率いて西安に蒙塵した訳であれ。次の問題は清国政府に強要すべき各国政府及居留民の賠償であつた。これ亦列国の権利と支那の義務とは論点とはならずして問題は賠償金額であつた。茲に至つて会議は暫く停頓状態に陥つた。列国代表は相互に他の顔を見合はして誰も口を開くものはなかつた。政府の賠償として救援軍派遣の軍費実額、被害在留民の賠償としては直接損害に限るとの原則は立所に決定せられたるものの政府の軍費実額と云ひ、個人の直接損害と云ひ之を検査し取捨するものは各自国政府のみであるから、中に過分の申出を敢てする国があつても誰とて制限する者はなかつた。対手は抵抗力を失ひたる支那政府のみで、つまり賠償金額の餘りに不当なる膨脹を押へるものとては列国政府及代表の良心だけであつた。而も此時代の列国会議の代表に良心の発揮を望むは六ヶ敷むつかしき所であつた。

此時進むで良心を発揮したものは日本代表小村寿太郎氏であつた。彼は本国政府より受領せる調書に依つて日本の要求額を五千万円と切り出した。是より米英仏露独以下の諸国相次で掌中の骨牌こつぱいを示した。斯くて列国の対清要求額は
露国(日本貨換算)一八〇、〇〇〇、〇〇〇
独逸   〃 一三〇、〇〇〇、〇〇〇
仏国   〃 一〇〇、〇〇〇、〇〇〇
英国   〃 七〇、〇〇〇、〇〇〇
日本   〃 五〇、〇〇〇、〇〇〇
米国   〃 四五、〇〇〇、〇〇〇
伊国   〃 三八、〇〇〇、〇〇〇
白国   〃 一二、〇〇〇、〇〇〇
以下墺、蘭、西、瑞典スウェーデンポルトガル等合せて四億五千万両即ち六億三千万餘円の額に上つた。前述の始末だから此額は其まま清国政府に提出し、先方の承諾を取り付けたのであつた。転じて救援聯合軍の組織如何と言ふに我輩の記憶に依れば
日本一〇、〇〇〇五十四門
露国四、〇〇〇十六門
英国三、〇〇〇十二門
米国二、〇〇〇六門
仏国八〇〇十二門
独国二〇〇
墺国
伊国一〇〇
総計二万一百一百門
以上列国の対清賠償要求額と列国が提供したる救援軍隊の人数砲数とを対照すれば其所に顕著なる矛盾が見える。日本に次で比較的穏当に見ゆるは米英両国の要求額である。英米両国は其軍人に対する実際支給額が他国に比し遥かに多額なるがためヴェルサイユ条約に因る萊因ライン占領軍費に於ても独逸は少数の英米軍隊に対し、多数の仏白軍よりも却つて多額の支払を為さしめられたる位である。其事情を斟酌すれば上掲英米両国の要求額は無謀に多過ぎるとは思はれない。其他は日本に比し不当に多額であつたことは一見して分る。露国は満洲各要所に多数の軍隊を配置したが救援隊としては我国の半数にも達しない。而して満洲の配兵は露国の野心に基く行動に属すべきものだから其軍費は清国に要求すべからざるは勿論であつた。独逸は北京救援の目的が達せられたる後に至り無用の軍隊にヴァルデルズィイ元帥までも附けて送派し、北京着後餘りの無事に苦むで保定遠征と称して軍隊の遠足旅行を敢てしたる外、真に正当防衛の行動としては籠城前に送つた三四十名の陸戦隊と青島よりの追送を併せて二百人であつた。仏国は印度支那より千人足らずの安南兵を派遣したに過ぎない。斯る連中が救援事業の五割以上を負担したる日本に数倍するの賠償金額を受くることとなりたる結果は獅子の分け前と謂はん奇怪千万であつた。要するに無抵抗に陥つた支那を相手とする此賠償要求問題に於て支那に対し十二分の好意を表し謙抑心を発揮したのは日本一国で、米英之にぎ、其他は全然論外であつた。但し我輩は一概に如上他国要求額を不当過多と謂ふのではない。支那政府を懲罰する意味に於てならば其の要求額は不当に非ずとも謂へよう。而も北京公使会議が対清国政府要求を支那の支払能力を斟酌して軍費及損害の実際額に止むべきことを自制的に決定したる以上他国の要求は支那に対しては兎も角右決定に対して過多なりと謂はざるを得ない。

はじめ帝国政府は我要求最少限を五千万円と概算して之を小村公使の参考までに電示したのであつたが、北京会議は前述の如く誰とて口を開く者がなかつたから、小村公使は其裁量を以て正義及対支友情の模範を示したのであつた。然るに事は志と違ひ、他国の代表中米英の外には我誠実を感賞するものもなくて遠慮なく膨大なる巨額を申出でた。支那人は乞ふくわいより始めよと謂ふが斯る場合に列強に先んじて口を開くは考へ物である。日本には「物言へば唇寒し秋の風」といふ誡がある、外交には此誡の方が大事である様だ。欧洲列強は弱国に対する強要事件に幾度か経験をつて居たからんな始末となつたのである。若し一九一九年の仏蘭西が明治三十三年の日本であつたとすれば彼はヴェルサイユ条約に於けるが如くに対支要求全額の五割強即ち四億円位を申立てたでもあらう。何と言つても列国は古狸で単り当時の日本は未だ経験に乏かつた。政治問題に関し列国会議に加はつたのは之が初回であつた。此初舞台に於て日本の代表が五千万円の実費賠償を受けた上に我外交の正義一点張を発揮したことは満足と視られないこともない。

石井菊次郎『外交餘録』(昭和5年、岩波書店)より

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