2015年5月23日土曜日

日本海海戦――(1)バルチック艦隊の遠征

1 バルチック艦隊の遠征


バルチック海より浦塩斯徳ウラジウォストクまで航程にして一万数千かいり、その間一箇の根拠地すらない。戦時国際法によれば中立国の港で燃料を補給することも出来ない。一旦故障が起きた艦は修理することも出来ない。四十隻一万人の乗員の糧食被服その他はどうするか。大洋中で暴風に遭つた場合、駆逐艦のごとき小艦は航海に耐へ得るか。以上のやうな難関を覚悟の上で決行されたのが、露国第二太平洋艦隊(俗称バルチック艦隊)東洋派遣の壮挙なのである。敵ながら天晴れとめていい。もし、この壮挙が露国の計画通り成功すれば、日露両国の海軍兵力は、ここに主客顚倒し、彼が絶対優勢の地位を占めることは疑ひない。満洲の野において連戦連敗してゐるクロパトキン軍を救ふには、実にこの一途あるのみである。かうした考へが露国朝野を圧倒し、つひに明治三十七年四月三十日、露国海軍省は増遣艦隊の編制を発表し、これに「第二太平洋艦隊」と命名し、ついで五月、海軍軍令部長心得侍従将官ロジェストウェンスキー少将を司令長官に補した。出発の時期は、はじめ七月と称したが、いろいろと遷延を重ね、つひに十月十五日、リバウ軍港を進発することになつた。

ロジェストウェンスキー少将

出発前より、日本軍は丁抹デンマーク海峡に機雷を敷設したとか、北海には日本水雷艇隊が潜んでゐるとかと、いろいろ噂がとんでゐたので、悲愴な決意をもつて壮途には就いたものの、水鳥の音にも肝をつぶし、薄氷を踏む思ひであつた。果して北海航過の際には、英国漁船の燈火を見て、すはこそ日本水雷艇隊の襲撃と、盲滅法めくらめつぽふに砲撃して漁船を沈めた上に、巡洋艦アウロラは同志討ちにあひ、水線上に四弾をうけるといふ悲喜劇を演じ、英国の憤激と世界の嘲笑とを招いた。

十一月初旬、艦隊はモロッコのタンジールに達し、喜望峰迂回部隊とスエズ運河通過部隊とにわかれた。これは吃水の深い艦がスエズ運河を通過するためには、弾薬石炭等をおろさなければならぬので、それを避けるためであつて両隊はマダガスカル島で会合することに定められ、スエズ通過枝隊は十二月末、喜望峰迂回の本隊は翌年一月九日、豫定の地点に達して両隊合同した。また艦隊が本国出発当時残留した巡洋艦二隻及び仮装巡洋艦、駆逐艦数隻も二月十八日に本隊に合した。これより先、本国では戦艦一隻、装甲巡洋艦一隻、海防艦三隻より成る第三艦隊が編成せられ、第二艦隊の後を追つて二月十五日リバウを出発したが、満洲における情勢が逼迫して来たので、本隊は第三艦隊を待たず、三月十六日マダガスカル発、四月五日マラッカ海峡を通過、十四日仏領カムラン湾に到着し、以後、五月九日に第三艦隊と合同するまで、二十餘日をこの附近で過した。第三艦隊の合同により、いよいよ最後の航程に上つたが、その編成は左表の通りであつた。

第一戦艦隊
(戦艦 四隻)
クニヤージ・スウォーロフ(司令長官旗艦)、イムペラートル・アレクサンドル三世、ボロヂノ、アリヨール
第二戦艦隊
(戦艦 三隻/装甲巡洋艦 一隻)
オスラビヤ(司令官旗艦)、シソイ・ウェリキー、ナワリン、アドミラル・ナヒーモフ(装巡)
第三戦艦隊
(戦艦 一隻/装甲海防艦 三隻)
イムペラートル・ニコライ一世(戦艦)、ゲネラル・アドミラル・アプラクシン、アドミラル・セニャーウヰン、アドミラル・ウシヤーコフ(以上第三艦隊の四隻)
第一巡洋艦隊
(装甲巡洋艦 二隻/巡洋艦 二隻)
オレーグ(後発隊、巡)、アウロラ(巡)、ドミトリー・ドンスコイ(装巡)、ウラヂーミル・モノマーフ(第三艦隊、装巡)
第二巡洋艦隊
(巡洋艦 四隻)
ウェストラーナ、アルマーズ、ジェムチウグ、イズムルード(後発隊)
駆逐隊駆逐艦九隻(内、後発隊二隻)
運送船隊仮装巡洋艦五隻、工作船二隻、病院船二隻、運送船十数隻

以上の勢力を要約すれば、戦艦八隻、装甲巡洋艦三隻、巡洋艦六隻、装甲海防艦三隻、駆逐艦九隻、合計二十九隻、総排水量十六万二百餘トン(運送船隊を除く)であつた。

第三艦隊と合同した露国艦隊は総数五十隻、朝鮮海峡に向つて北上した。途中運送船数隻を上海に放つたが、これは露艦隊としては大失敗であつた。それはカムラン湾出航後えうとして知れなかつた露国艦隊の所在を判断する絶好の資料をわが軍に与へたからであつた。

佐藤市郎『海軍五十年史』(昭和18年、鱒書房)より

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